晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

国家、家族の崩壊

2007-02-03 20:13:47 | Weblog
 札幌地下鉄大通駅 菓子類の消えた不二家レストラン

 片桐幸雄著「グローバル市場と国家の現在」(「市場経済と共同体」降旗節雄編著 社会評論社 2006年刊所収)には、

 「人類の歴史は共同体を市場が蚕食していく歴史であり、現代はその蚕食が最終段階であって、グローバル化した市場は、二つの最後の共同体である国家と家族ーそれは資本主義が拠って立つ共同体でもあるーをも崩壊させ、そのことによって資本主義そのものを変質させている」

 との、降旗教授の歴史観が紹介されている。



 国家の崩壊は、この論文の中でも触れられているが、多国籍企業や国際金融資本の国家の枠組みを越えた行動様式から、容易にイメージできる。

 さて、「家族の崩壊」についての私なりの解釈ですが、利潤を追求しなければならない資本は、常に需要を創出し続けなければ行き詰ってしまう。

 一昔前までは、一家には、一台のテレビ、一台の電話、一台の自家用車・・であり、家族が全員でテレビを見たり、食事をしたり、移動していた。また、ひとつしかないものは、交代で使わざるを得ず、そこには、コミュニケーションが必要であった。

 近年は、核家族のうえに、テレビも、携帯も、車も一人一人が所有できるようになった。物を売る需要としては、何倍にもなったことになる。その結果、行動は、家族単位から、個人単位へと変化した。

 社会現象として、今までありえなかったような様々な家族を舞台とした事件が起こっている。その、基底をなすところに、このような資本の本質的な動きがある。

 某保守政党の「家庭の復権」のような主張は、今さらありえないことであるし、本気で家族を再構築するためには、資本主義を否定しなければならないということになるのではないか。



 吉田拓郎の歌詞にも、
「マイファーミリー、マイファーミリー、愛を残して旅に出ようよ♪」
「家族を乗り越えたけれど、心が痛むよう、心が痛いよう♪」
 とある。

 
 



 

 
 
コメント (4)
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