スガスガしいスタートの日だ。スッカスカ内閣の誕生である。彼は、ボキャ貧のためかビジョンを語らない。電話料金など2,3の個別政策はあるようだ。「暗い時代」を生きてきたわけではないだろうが笑顔が下手だ。陽の射さぬ沼の底で死んだ両生類が放つような臭いがしてくる。
『暗い時代の人々』(森まゆみ著 亜紀書房 2017年刊)
友人が貸してくれた。森作品は初めて。森氏は僕と同じ1954年生まれ。
「書名はハンナ・アレントの作品『暗い時代の人々』から取られて」いて、著者は「満州事変(昭和6年)から太平洋戦争終結(敗戦だろ!)(昭和20年)にいたるまで」を「暗い時代」と捉える。本書には、「大正から戦前・戦中にかけて、暗い谷間の時代に流されず、小さな灯火を点した人々」、「最も精神の抑圧された、1930年から45年の「暗い時代」に、「精神の自由」を掲げて戦った人々のこと」が記されている。そして、その「暗い時代」にあっても「精神の自由」のために闘った人々として、斎藤隆夫、山川菊枝、山本宣治、竹久夢二、九津見房子、斉藤雷太郎と立野正一、古在吉重、西村伊作の人生を取り上げる。
アマゾンのレビューでは、「勇気づけられた」、「見習いたい」、「私もかくありたい」・・と評価が高い。しかし、僕は本書に対して既読感を持った。この国が戦争へと突き進んだ「暗い時代」にあっても、反戦、反軍、反ファシズム、反差別(母性保護)、反天皇制・・を掲げて闘った社会主義者、無政府主義者(アナーキスト)、自由主義者、左翼文化人らの生き方は正しくそして尊く、私たちも学ぶべきだというこのパターン化されたストーリーには食傷気味だ。類書を随分と読んできたが価値観が共通している。
僕は、以下のような問いを持ちながら、別の読み方が可能ではないかと考えた。なぜ、彼らは信念を持って「自分たちは正しい」と言っているのに大衆に影響力を拡げることができずに孤立して行き詰ったのか。そこには「闘った人々」の意識が高くて、疑問を持たずに時流に流されていった大衆は劣るという思想がないか。果たしてその当時の大衆は本当に「暗い時代」だと感じていたのだろうか。「暗い時代」と捉え「闘った人々」と大衆の感覚の間に乖離があったのではないか。あったとすれば、なぜ離れたのだろうか。
著者が本書を書いた理由は、現在に対する危機感、今生起している様々な事象に対して警鐘を鳴らすべきと考えているからなのだろう。僕も概ねその考え方に同意したい。だが、問題は「暗い時代の人々」を称賛するだけでは、再び「暗い時代」と同じような結末になってしまうのではないかと思われる。僕ら大衆は、会社や組織、地域という現実社会の中で長い時間生きてきた。よりましな選択があるのにどうしてと感じたこともあるだろう。自分の考え方が受け入れられたこと、我慢したこと、自分の内にだけ収めたこともあるだろう。大衆はそうやって生きている。大衆のひとりとして、世間という空間の中で、常識という仕切りの中で生きている。理想を語るだけでは影響力を持てないということを大衆は知っている。
政治家、評論家、学者、思想家、作家、芸術家など危機感を深める人たちは、大衆が何を抱えて生きているのか、大衆に学んでほしい。もはや啓蒙・啓発スタイルは通用しない。