晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『滝山コミューン一九七四』

2013-03-31 20:58:42 | Weblog

 年度末、会社内外の飲み会が続いた。先週4回、今週4回、明日から新しい年度、歓迎会などまた飲み会があるのだろう。

 今日は、午前中に時間がとれたので、久しぶりに屋外を走る。気温は、2℃くらいで寒かったが、太陽が出ると日差しが強くなってきたのを実感できた。自転車道で併走する人もいて、10km余りをかなり追い込んで走ることができた。もっともっと距離を走りたいと思う。

 とりあえずの目標は、GWの豊平川ハーフ、6月のJAL千歳ハーフで昨年よりタイムを良くしたいと思っている。

 

 『滝山コミューン一九七四』(原武史著 講談社 2007年刊) 

 本書は、福井紳一著『戦後史をよみなおす』(講談社 2011年刊)で引用されていたことが購読のきっかけである。

 著者は、自身が通った首都圏近郊滝山団地の小学校での体験をもとに、集団主義的な教育方法を批判する。

 原氏は、『自らの教育行為そのものが、実はその理想に反して、近代天皇制やナチス・ドイツにも通じる権威主義をはらんでいることに対して、何らの自覚ももたないまま、「民主主義」の名のもとに、「異質なものは排除ないし絶滅」がなぜ公然と行なわれたのかである。』と問う。(P212引用)

 原氏は、ある若手の教師が導入した全国生活指導研究協議会(全生研)なる団体が提唱する学級集団づくり、個人の自由を認めず集団の力を競わせ、規律違反(者)は、全体から排除される相互監視制度を批判する。1970年代は、今だ社会主義的な思想の全盛期、その中で、1974年当時その小学校に在籍していた原氏は、そこで実践された教育に違和感を抱く。

 しかし、本書の意図は、必ずしも明解ではない。未だに民主集中制を組織原理としている日共を批判するわけでもなく、1970年代には実際にこのような教育が行なわれていたという事実を描写したかっただけなのだろうか。今さら、社会主義原理を批判してもしょうがないのに。

 私が興味をもったのは、本書の中で全生研がもたらした集団づくりと同様に批判されている「水道方式」という算数の指導方法を編み出した遠山啓(東工大)教授である。遠山氏については、吉本隆明氏が、『遠山啓さんのこと』(「海」昭和54年11月号、『初源への言葉』1979年に所収)で、戦後まもなく茫然自失状態にあった吉本氏が、東工大で「量子論の数学的基礎」という遠山氏の講義を聞き、学問に目覚めさせてくれた恩師として感謝の言葉を書いている。

 吉本を評価する福井氏の著作で紹介された原氏が批判した遠山氏が、吉本の恩師だったという関係に何かしらの因果があることに驚いている。また、初めて聞いた「水道方式」という指導とはどのような方法なのだろうか。こちらにも興味が湧いてきた。

 

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吉本隆明 幻想忌

2013-03-24 20:18:45 | Weblog

 三島由紀夫と吉本隆明が並び評されることがある。「三島由紀夫と吉本隆明」(三上治著 雑誌「流砂」2013年第6号[追悼特集]吉本隆明その重層的可能性   所収論文 批評社刊)など

 三島由紀夫は、1925(大正14)年1月14日生まれ、吉本は1924(大正13)年11月25日生まれで同学年である。三島が自死したのは、1970(昭和45)年11月25日、奇しくも丁度吉本46歳の誕生日であった。

 亡くなった三島の命日、11月25日を、彼に心情を寄せる者達が「憂国忌」として毎年偲んでいる。

 私は、吉本の亡くなった3月16日を「幻想忌」と名付けたい。吉本の思想のひとつの核である、自己幻想、対幻想、共同幻想から発想した。今のところ、この国で、このような提案をしているのは私ひとりであろう。

 

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吉本隆明一周忌

2013-03-17 20:04:15 | Weblog

 2012年3月16日に吉本隆明が亡くなってから1年が経つ。今までに無くこの1年間は吉本を追いかけている。亡くなるということは、もう会えないこととはわかっていたが、もっと話しをしておけばよかった、もっといろんな事を聞けばよかったなどと今になって思う。

 忘れかけていて、忘れてはいけないこと。遠隔操作ウィルス事件の片山容疑者、一度拘留期限が切れて釈放、直後に別件で逮捕、拘留が続いている。監視カメラに猫を追う映像が映っていたとか、米国FBI情報からの情報によって逮捕したと言われているが、冤罪の臭いがプンプンである。そもそもこの事件、最初に誤認逮捕から始まっている。マスコミも無視を決め込んでいる。

 

『<初期>ということと<歌謡>ということ』           

 『初源への言葉』(吉本隆明著 青土社 1979年刊)に所収されている『<初期>ということと<歌謡>ということ』(初出誌「週刊読書人」昭和52年(1977年)8月1日号)を読み、『初期歌謡論』(吉本隆明著 河出書房新社 1977年刊)で吉本が述べたかった意図がわかったような気がする。

 吉本は言う、「『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)の物語はどこまでが歴史時代の事実と対応するか、どこまでが神話作用の所産であるのか?」と問い、「『記紀』に書かれている日本語は、本居宣長に典型をもとめられる近世の国学者が考えたよりも、遙かに新しいものではないか。もっと以前に存在し話され流布されていた日本語は、途方もなく異なっていたのに、無理に漢字で表音、表意したとき変わってしまったのではないか。その名残だけが『記紀』のなかで、まるで何のことか解釈つかない言葉として留められているのではないか。近世以降強いて解釈しようとした古語、古文の理解には、こじつけとでたらめが多いのではないか。」と疑う。

 そして、「私の使った方法は、ただ削り落とすこと、いっさい再構成せずに解体することであった。」「こうして姿をあらわす古歌謡の姿が、ひとびとがいままで考えたり、解釈したりしてきたものと異なっていても致し方ない。」という。

 結論は、私が、以前にこのブログ(2012.12.31)で書いたことと同じになるが、これは、吉本が言っているグラフト(接ぎ木)国家論、横合いから来て権力をかっさらう、その際に後者が前者の歴史をあたかも連続的に存在したかのように書き換える、これが詩歌の歴史に現れていること。記紀において、それ以前の歴史をあたかも天皇制が連続していたかのように書き換えたのである。

 

 

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早期退職する同期の二人に贈る言葉

2013-03-16 10:08:00 | Weblog

 昭和55年(1980年)入社の同期30人ほどのうち、結婚などで女性が数人退社しているが、男性では近年無かったので、皆が定年までいくのかなと思っていた。送別会では同期で最年長の私が始めの挨拶と乾杯の役割を担うことになった。昨年も先輩の送別会で挨拶をして、後で自己嫌悪に陥ったことを思い出す。(当ブログ2012.2.25と3.17)でも、またやってしまうのだ。

 『O山君、M野君の送別会に当たりまして、ご挨拶を申し上げます。僕らは、昭和55年に入社以来33年が経ち、皆がそろそろそんな時期を迎えているのだと思います。私もあと2年で定年退職になります。少し早いのか、遅いのかの差なのかなと思いましたが、少し違うようであります。

 とりあえず、この会社に籍を置いていれば、自分の頭で考えなくても何とかやっていける、否、考えていないというのは自分も含めて残念なので、今まで先輩たちがやってきたことをなぞる様にやっていればそれなりにやっていける。発する言葉も、社内に流通している慣用句を使っていれば結構通じている。

 そんな私たちとこのお二人が違うところは、この決断に当たっておそらく自分の言葉で、自分の頭で、私たちの日常を超えたところで考えたことだろうと思う。なぜって、それは、この決断を聞いて、多くの人が驚いたからである。私たちの考えていたことを超えていたからだと思う。

 だからといって、二人からそれに至った経緯とか、理由を述べてもらって、私たちを納得させてほしいということではない。全然、何も語る必要は無いのではないかと思う。そういうことで、乾杯!』

 本番は、来週の火曜日(19日)の夜、30数年間付き合ってきた二人の性格に合わせたつもりだがどうだろうか。会の途中に二人から「今後についての一言を」なんて段取りだったら、その思惑は壊れるだろうな。なぜって、私の挨拶で「語る必要は無い」って言い切るのだから。これが許されるのが同期の仲間、私の偏屈を理解している人たちだから。

 

 

 

 

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『擬制の終焉』

2013-03-09 17:10:50 | Weblog

 今年もまた3.11がやってきた。多くの命が失われ、今だ多くの命が漏出続ける放射能に晒されている。それらに対しては、私たちひとりひとりの心の中で、それぞれのやり方で思うべきことがらと考える。

 マスコミ報道が洪水のように垂れ流され、特に今年は、半旗、黙祷をせよという強制力が目に付く。昭和天皇が亡くなった時のように。人の内面への侵食はこれだけでは無い。

 

 『擬制の終焉』(吉本隆明著 現代思潮社 1962年刊)   

 本書も古本市のワゴンの中から数百円で購入。1972年第20刷の定価は1,000円、懐かしい装丁である。40年近く前に読んでいるので、家のどこかにあるはずだが、探すのが面倒なので買ってしまった。1970年代前半、吉本が学生の間で圧倒的人気があった頃の代表的な情況論。

 刊行時期は‘60年安保直後の1962年。戦中非転向を誇っていた日共は、闘争を主導する展望を示しえず、また、前衛党の看板も降ろせず、戦えないことが暴露された。前にも後ろにも進むことのできないのは、現在も同じ。

 ‘60年安保闘争の中で、吉本は、このように前衛党の擬制を明らかにした。ここで言う前衛党は、日共のみならず、日共批判を党是とする前衛党(セクト)も同列ということを示唆する。私の後知恵だが、ここからは、この国では革命は幻想だったと言うことに繫がる。

 この吉本の認識は、この先、中国での文革、全共闘運動、’70安保などを初めから冷ややかに見ていた吉本に通じる。また、吉本は、マルクスに学ぶも、マルクス主義者を批判する。親鸞が宗教を否定寸前まで追い込んで考え抜いたように、吉本もマルクスを否定寸前まで追い込み考え抜いた。これが自立の思想に繫がる。それも半世紀も前に、そして最後までその思想はぶれなかった。

 私は、そこまで考える能力はないが、吉本を100%は理解できないなりにその軌跡を辿ることはできる。そこから、少しでも自分の考えが成長できるのではないかと考えている。

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『戦後史をよみなおす』ノオト② その4

2013-03-03 16:11:29 | Weblog

 気が付けば早いものでもう3月、今日はひな祭り。雛人形を飾るというよりも、年に一度虫干しをするといった感じに。今年は、段数を減らして階級社会を少し平等社会に近づけてみました。

 昨日の午後から一冬に2,3回はある猛吹雪、3月の除雪は雪が湿って重たく、重労働。ママさんダンプを使って全身運動。汗をかきついでに、その後久しぶりの屋外ランニング、-2℃位だったが、真冬よりは随分と暖かく、日差しも強く感じた。

 

 私がこの著者で、「初めて知った事実」を以下に要約引用する。こういう事実の積み重ねが歴史観を作るのだろう。重要なことに対して無知を恥じる。

 焼夷弾を開発し、この国の小さな地方都市まで無差別に焼き払い、一般民衆を大量殺戮した米軍司令官カーチス=ルメイ(1906~1990)に対し、航空自衛隊を指導した功績を讃えて、1964年勲一等旭日大綬章を与えている。推薦したのは、小泉純一郎の父小泉純也といわれている。(P23)

 戦前の科目「修身」「歴史」「地理」「公民」に代わり、「社会科」が置かれた。社会科は、民主的な社会を担う公民の育成を目的とした戦後民主主義教育を象徴する教科であった。ところが1993年、高等学校における社会科が廃止され、「地理・歴史」と「公民」に分けられた。影響が出たのは、教員免許で、地歴科の教員は、「歴史」と「地理」は一緒に教えられるが、「政治経済」や「倫理社会」を教えることができなくなった。(P71)

 1947年旧民法が全面改正されたが戸籍制度は残った。戸籍は、戸と呼ばれる「家族」という集団単位によって国民を登録する目的で作成される公文書である。人民支配の根幹であり、これに基づいて徴税と徴兵が可能になる。現在、「家族」を単位とする戸籍制度を維持しているのは、日本、台湾、香港だけである。日本では大化の改新のあと、7世紀後半に戸籍が始まるが、平安初期の10世紀に律令国家が衰退し、戸籍の作成はできなくなった。再び作成したのは、明治政府で、1872年の壬申戸籍である。中世(鎌倉・室町)は、戸籍もなく「国家」としての人民掌握は不可能だった。また、統一貨幣も鋳造できず(中国銭を使用)「国家」の体をなしていなかった。(P97)

 平安初期、9世紀前半の嵯峨天皇の後から、江戸後期の18世紀末に儀式・神事の多くを復活させ朝廷権威の強化を図った光格天皇までの1000年近くの間、「天皇」の呼称が使われていない。「主上」「みかど」「内裏」「院」などと様々な呼び方がされていた。(P97)

 2010年に公開されたCIAの文書で、朝鮮戦争休戦後に北朝鮮が韓国に侵攻した場合、米国は北朝鮮の軍事施設に加え、中国の5都市(吉林、青島、瀋陽、天津、西安)に核攻撃をすることを検討していたことが明らかになった。一方、ソ連の核による報復は、当時はまだ大陸間弾道ミサイルの技術がなかったので、米軍のいるソウル、釜山、朝鮮半島への攻撃拠点で米軍基地のある日本や沖縄の諸都市だったかもしれない。(P149)

 1948年12月23日、東条英機らA級戦犯7名が巣鴨プリズン(現在の池袋サンシャインシティ)で処刑された。この日は、当時の皇太子(現在の天皇)の誕生日であった。(P151)

 1966年に小笠原諸島が米国から日本(東京都)に返還された。小笠原諸島は、無人島だったところに欧米系の人たちが住み着いて開発を始めたところである。ポリネシアン系の血も入っている。明治初期に日本が領有したが、当時の英米はほとんど興味がなかったようだ。明治以降は、日本人が多く移住して住んでいたが、敗戦後、米国は欧米系の人間だけを小笠原に残し、他の日本人はすべて追放した。(P232)

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