晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

帚木蓬生 『悲素』

2015-12-31 16:51:08 | Weblog

 大みそかになってようやく寒さが和らいだので、午後から雪上ランニング。気温0℃、弱いが太陽が出ると温かみを感じる。10日ほど外で走っていなかったので、身体が重いのと、息が苦しい。この時期で積雪が10cm程度というのはかなり少ない。除雪の出動はこれまで1,2回くらいだと思うが、業者さんは年を越すのが大変ではないかと推察する。

 このブログに訪れていただきありがとうございます。皆様にとって2015年はどんな年だったでしょうか。僕は、職場が変わり、体調を崩し、しかしボチボチ何とかの年だったと思います。良いお年をお迎え願います。

 

 『悲素』(帚木蓬生著 新潮社 2015年刊)

 大みそかにこんなつまらない読後感を書くとは思わなかった。(結論を先に書くと、☆ゼロの駄本である。)これも僕の2015年を象徴しているのかも知れない。年末休みに普段はあまり読まない小説でも読もうかと思って、27日(日)の朝日新聞、年末恒例の「今年の3冊」から佐倉統氏(科学技術社会論研究者)が推薦していた本書を購入。

 氏のコメントを以下引用する。「4人が死亡した和歌山市のヒ素混入カレー事件を題材にした小説だが、事実関係を丹念に再現して、ほとんどノンフィクションのよう。著者の静かな怒りが、底深く流れていく。」とある。

 ひとりの学者を主人公にして、医学的な知見を駆使しながら警察と検察の捜査へ協力した状況が坦々と綴られる。500ページを超える大著であるが、僕は350ページを過ぎたあたりから、いつこの小説(といえるものかどうか?)は、期待している転結があるのだろうか。まさかこのまま、警察、検察と大学の組織が一体となってどこまでも容疑者を有罪へと追い詰めたストーリーで終わることはないだろう。そんなバカな・・と。

 終盤まで読み進めて行くうちに、先入観を持って読み始めた自分が愚かだったということに気づいた。この事件は、状況証拠も乏しく動機無き無差別殺人として、真相の解明など大変に難しい裁判になっていると報道されていた記憶があったので、てっきり「冤罪」の視点から描かれているのかと思い込んでいたのだ。

 しかし、著者は、最後まで、一切の躊躇も無く容疑者による犯罪だと断定し、糾弾する。評者の「著者の静かな怒りが、底深く流れていく。」とは、何のことはない、当時マスコミがこぞって興味本位に扱っていた気分と同様であり、それに著者が現役の医師として医学的な装いを施しただけの凡作である。著者の立ち位置と僕は違う。

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戦後左翼史 その1 六全協 55年体制

2015-12-29 13:32:17 | Weblog

 昨年までの前の会社では、年末の仕事納めの時点で疲労感一杯だったが、今年は待っていましたと言える年末休みになりました。ただ、今日も真冬日とあっては、外ランは慎重にならざるを得ないので、自転車のペダル漕ぎ60分です。

 

 戦後左翼史 その1 六全協 55年体制

 少し時間をかけて歴史を振り返ってみたいと思っている。興味の無い人にとっては全く無駄な時間と作業におもえるだろうが、僕のような左翼絶滅危惧種にとっては、自分の思考に孕む欠落事項、根本的な欠陥と向き合っておきたいからである。

 1955.7.30アカハタ 日本共産党第六回全国協議会の決定と決議の見出し。1955.7.27から29日までの3日間にわたり、いわゆる六全協が開催された。1950年夏以来の党の分裂状態を解消した。黒で枠取りされた写真は、徳田球一書記長、1953.10.24北京で死亡していたことが発表された。1953.9.15に中央委員会で決定されていた伊藤律除名を確認。ソ連共産党、中国共産党、朝鮮労働党より祝福メッセージが届いている。

 中央委員会常任幹部会員(7名)が選出された。野坂参三、志賀義雄、宮本顕治、袴田里見、志田重雄、紺野与次郎、西沢隆二が党を主導していくことになる。

 (*印は、僕の考え)7名のその後を簡単に記す。

・志田重雄(1957年除名、資金浪費で失踪、変名は金井貞吉、日本共産党(解放戦線)全国指導部)

・志賀義雄(1964年除名、部分的核実験禁止条約を批准しない中国共産党寄りの党と対立、日本共産党(日本のこえ)を結成)

・西沢隆二(1966年除名、日中共産党の路線対立が理由、中国共産党寄りの西沢は、日本共産党(左派)に参加、詩人としての筆名ぬやまひろし)

・袴田里見(1977年除名、スパイ査問事件で宮本顕治を攻撃)

・野坂参三(1992年除名、ソ連でのスパイ行為が判明)

 最後まで党に残ったのは、宮本顕治と紺野与次郎だけという異常な状態。特に宮本は、徹底した異論の排除、党活動を理由とするのではなく金や女といったスキャンダルによる処分など自らの党内権力を固めるためにはあらゆる手段を使った人である。

 宮本氏を分析することは、その後宮本―不破―志位と繋がる日共のDNA、体質を知ることであり、万が一、この先日共が政権に加わるようなことがあれば、党内で行われていることが、今度は国民に対しても同様に行われることに繋がると考える。

 1955年(1954年12月生まれの僕は、ほとんど0歳)には、2月日本生産性本部設立、4月初めての春闘、7月日共統一、10月左右社会党統一、12月保守合同により自由民主党結成と、その後長らくこの国のフレームとなるいわゆる「55年体制」が構築された。

 手元にアカハタ(1959年から1965年位まで)と北海道新聞(1965年位から)の記事のスクラップがある。歴史家のバイアスのかかった歴史書を読むことに比べて、新聞を読むという行為は、より当時の生活者の実感に近いものではないかと感じる。

 

 

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和田由美 『ほっかいどう映画館グラフィティー』 札幌篇 

2015-12-23 15:21:37 | Weblog

 正午で外気温が-5℃、屋外でのリハビリトレーニングは止めて、室内で60分ペダル漕ぎ。結構汗をかくいい運動。

 衆議院北海道5区補欠選挙。日共の迷走、志位委員長のしどろもどろぶりは恥ずかしい。政策が一致できれば候補者を下ろしてもいいと言っているが、そこまで言ってしまったらおしまいよ!自ら候補を立てることが自民党を利することを認めてしまったことになる。それも、これまでも含めてだ。民主党は、蹴とばしておけばいいさ。志位が共謀罪(治安維持法)にブルッてるのが見え見え。1960年頃からの日共史を調べている。離党、除名の連続で、頭脳が流出してしまった党だということがわかる。

 

 『ほっかいどう映画館グラフィティー』(和田由美+北の映像ミュージアム著 亜璃西社 2015年刊) 札幌篇                            

 1973年、浪人生として釧路から札幌桑園に引っ越し。最初に入館したのは国鉄札幌駅地下にあった「テアトロポー」(天野興業)(本書P62)だったと思う。当時は珍しかった1本立てで安価、寅さんシリーズやトラック野郎を観た。

 学生になって北27条に住んだ時は、北23条にあった「オリオン座」(九島興行)(本書P94)に通った。昔は土曜日の夜にオールナイト上映があり、朝まで観た?眠っていた。3本立てで、ATG作品、ロマンポルノ、任侠映画とプログラムは多彩だった。ATG作品では、桃井かおりのデビュー作「あらかじめ失われた恋人たち」(田原総一郎監督!)、「竜馬暗殺」、「祭りの準備」(竹下景子が脱いでいる)、「青春の殺人者」・・などを記憶している。監督は新進気鋭の、神代辰巳、吉田喜重、高橋伴明、大島渚、深作欣二、篠田正浩・・。古く汚い映画館だったが絶妙のプログラミングで映画から様々な事を学び感じた。また、時にはスクリーンに向かって「ナンセンス!」といった言葉を浴びせるなど今から思うと意味不明な、しかし学生たちにとってはワンダーランドだった。

 本書にも書かれているが、「オリオン座」が閉館した後、名前も場所を覚えていないが、美香保の方だったと思うが、ある小さな喫茶店で定期的な自主上映活動があり、「青春残酷物語」(桑野みゆきが良かった!)などの大島渚作品、昭和30年代の日活アクション映画などに何回か足を運んだ。

 貧乏学生は封切館には行けず、2番館、3番館で観た。狸小路5丁目の「(札幌)日活館」(日活)では、東映の「仁義なき戦い」全作や梶芽衣子「女囚さそりシリーズ」を観た。経営は日活なのに東映作品?

 長い映画もあった。「ウッドストック」コンサートの記録映画、「怒りをうたえ」は大谷ホールだったか?「人間の條件」全作一挙上映、いやー長かった。腰が痛くなった。拓郎の「つま恋コンサート」もあった。

 あとは稀に、狸小路の「遊楽地下劇場」「ニコー劇場」「東映パラス」、須貝ビルの「テアトロポニー」「シネマロキシ」「シネマ5」「グランドシネマ」、北23条の「シネマ23」、ホテルアルファサッポロ地下の「三越名画劇場」・・そのうちに徐々に映画館から足が遠のいてしまった。

 今は、快適なシネコンとシアターキノ。シネマ歌舞伎もいい。そして、キノの渋いところがいい。小林聡美の「かもめ食堂」「マザーウォーター」「東京オアシス」といった何気ない日常をぼんやりと描いた作品が今の僕にはあっている。

 

 

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和田由美 『ほっかいどう映画館グラフィティー』 釧路篇

2015-12-20 14:54:01 | Weblog

 外気温がマイナスの中でのリハビリトレーニングは、身体に良いのか、害があるのかはわからないが、僕にとってはこれまでどおりのことで、体調維持には必須の運動です。

 「マイナンバー」や「消費税(軽減税率)」などをめぐり、お国の官僚の力量がかなり低下していると感じます。制度設計がお粗末です。国民の暮らしの実態や何が求められているかを把握できていないのではないかと思います。国民国家の黄昏を迎えて(これは、僕の時代認識です。)、官僚組織の劣化が発現しています。

 

 『ほっかいどう映画館グラフィティー』(和田由美+北の映像ミュージアム著 亜璃西社 2015年刊) 釧路篇                            

 「映画を観なくなった時、その人の青春が終る」という言葉を聞いたことがある。僕の場合、一番観たのは、高校、大学時代(1970年代)で、30歳くらい(1980年代後半)からはほとんど見ていない。その瞬間、「ああ、青春は陽炎か~」になったのだ。しかし、50歳くらいから年に数回だが再び映画館に行くようになった。映画館も様変わりしていて、煙草の臭いが無く、シートも清潔で大きく、何より完全入れ替え制の一本立てになっていた。

 本書を読んだ方は、映画の思い出とともに、暮らしていたその街のことや若かった頃の甘酸っぱい出来事が浮かんで来るだろう。特に、巻末の「特別付録:昭和36年(1961年)道内映画館一覧」(僕、小学1年生)がいい。

 当時、釧路市の人口は15万人で映画館が市内に18館もある。今はゼロ!祖父が商売を営んでいた南大通には「東映グランド」(経営者:北山義郎)と「釧路南映」(浅川興行)があり、小学校に入る前は東映時代劇の絶頂期で大川橋蔵、東千代之介、美空ひばりなどを観た。「南映」は汚くて、行くと必ずノミをもらってきた。小学校に入ると「釧路東宝」(ツルヤシネマ)、「釧路東映劇場」(東映)などで、フランキー堺、森繁久彌の駅前シリーズ、クレージーキャッツ植木等の無責任シリーズ、ドリフターズの全員集合。よく祖父から「東宝」のタダ券をもらっていたがその理由が今わかった。祖父が丸三鶴屋関係者だったのでツルヤシネマの株主優待だったのではないかと。

 小学校の途中で引っ越し、近くなった「春採劇場」(興映商事)や「桜が丘劇場」(興映商事)にも行くようになった。この2館は太平洋炭鉱の従業員向けの娯楽施設で、土日を中心に不定期で上映していた。昼には子ども向けのマンガをやり、夜は大人向けの映画を上映したりしていた。学校で東京オリンピックの映画を観たのも「桜が丘」だったと思う。

 中学、高校になると洋画を見るようになる。「セントラル劇場」(欧米興業)、「釧路映画劇場」(須貝興行、通称エイゲキ)、そして本書P164にも書かれているが、1967年に浅川ビルができ、「釧路劇場」(浅川興行、センゲキ)と「ミラノ座」が入った。定期試験が終ると泉屋でミートソースの大盛りを食べて、「アラビアのロレンス」「ベンハ―」「007」などの映画を観た。それは、進学校と言われ生徒たちも何だか自分は勉強しているという気分になっていたその頃のわずかな楽しみでもあった。

 末広町にあった「日活オデオン」(日活)、「スバル座」(浅川興行)、「第ニ東映」(興映商事)、駅裏の若松町にあった「帝国劇場」(帝国劇場)、「日本劇場」(日本劇場)、「東映パール」(東映パール)、新橋大通「新橋映画劇場」(東映パール)、鳥取の「十條娯楽場」(十條製紙)、大楽毛の「本州製紙体育館」(本州製紙)の記憶は無い。

 

 

 

 

 

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田村敏紀 『札幌の塾長50人』 どのような教育が「よい」教育か

2015-12-11 20:03:01 | Weblog

 教師は子どもたちに夢や目標を持ちそれに向かって努力をしなさいと教えているが、教師の意図を感じる子どもたちは、心の底からそう思っているかは別として、ケーキ屋さん、プロサッカー選手、弁護士などになりたいと優等生的に答えるだろう。もし、好きな事だけをやって遊んで暮らしたい、他人と競い合うことは嫌いだから片隅で静かにしていたい、というような「夢」が返ってきたら教師たちはどうするのだろうか。

 

 田村敏紀 『札幌の塾長50人』

 『札幌の塾長50人』(田村敏紀著 共同文化社 2015年刊)は、おそらく中学生の半数以上が通っているだろう塾について、これまであまり表に出ていなかった業界の方々の本音が語られていて、僕は北海道の教育界に一石を投じる大変インパクトのある本だと思う。しかし、公立学校が主体の道内(特に小中学校)では、これを真摯に受け止め、議論する素地が無い。僕は、そもそもそこに根本的な問題があると思う。

 著者は、本州での私学教師の経験から、本州と北海道の教育について温度差があることを指摘する。そして、道内においては、もっと私学が力をつけるべきであり、そのためには塾と私学が民間同士として手を携えるべきという。

 塾により指導方法は多様である。今は、授業形式が一斉授業と個別指導に分かれ、目的も、当面の成績を上げるためか、基礎的な学力を付けるためかで分かれており、子どもの質や求めに応じて様々な手法を取り入れている。

 しかしながら、肝心なのは、どうしたら子どものヤル気に火を付けることができるのかにあると塾長たちは言う。ヤル気が出れば、特に教えなくても勉強のできる環境を整えてやるだけで自分の力でどんどん勉強を進めることができ、成績も自然に伸びていくと塾長たちは口を揃えて言う。ただ、それぞれの塾長たちが持つヤル気に火を付ける方法については、企業秘密のようで具体的には語ってくれてはいない。

 塾には、親御さんからお金をいただいて子どもを預かっているため、もらうコストに見合う仕事をしないとお客さんが離れてしまうという危機感が常にある。塾はその土地から移動することが無いので、長い場合は小学生から高校生までのつきあいになり、逃げることができない。一方、公立学校は数年で異動があり子どもも教師もお互い通過集団として一時期の接点しか持てない。また、成績を上げたことに対する報奨などインセンティブが働かない。

 本書に登場する塾長の何人かが、札幌英進学院で中村亨院長の薫陶を受けたと述べているが、僕も1979年の1年間であったが中村院長の教えを受けた一人である。中村氏は道内私塾の草分け的な存在であり、伝説の人なのではないかと思う。

 思えば、あの頃の中学生たちはもう50歳だ。

 

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『起終点駅 ターミナル』 釧路

2015-12-03 20:34:54 | Weblog

 ある会合でプチ自慢を交えて自己紹介をすることになり、身の回りにも凄い人っているものだなと感動。子どもの頃ビートルズの武道館公演を観た。NHKあなたのメロディに入選し、作詞作曲した歌をにしきのあきらに歌ってもらった。ナゴヤ球場のオールスター戦で江川の8奪三振を観た。教え子にロッテの高沢選手がいる。ちなみに僕は地下鉄サリン事件に遭遇するところだったにしました。

  

 『起終点駅 ターミナル』(篠原哲雄監督 東映 2015年作品)

 原作は、釧路出身直木賞作家桜木柴乃。釧路出身の作家による釧路を舞台とした小説が原作で無かったらこの映画は見なかったと思う。だから僕は、ストーリーにではなく、釧路のどこが映像に出てくるのかに興味を持った。そしたら何と、主人公の住宅のある場所は、僕が18歳まで育った場所「益浦」で撮影されていたのだ。中途半端な舗装の坂道も、周りに映る集合住宅も「うちの近所」じゃないか。

 そして、幣舞橋、和商市場、宮本町にある刑務所のコンクリートの塀、法務局への坂、スーパーおおぞらが停車している駅のホーム、車窓から見える大楽毛あたりの景色、厚岸という設定だがどこかわからないが海岸近くの廃屋、少し賑わい過ぎの末広町、どんよりとした独特の空の色・・ふるさと釧路のさいはて感が良く出ていると思う。60年前の原田康子の『挽歌』と釧路の持っている雰囲気は今もそんなに変わっていないのだ。僕はここまでで観た甲斐があったと満足。

 一方、ストーリーの方は現実離れしているというか、現実にそんなことが起こる可能性は限りなく低い、そういう設定をしないと物語の展開ができないという今の文学情況。そうしないと喜ばなくなっている読者のニーズ、それらはどちらも貧しいと思う。

 冒頭で、昔別れた学生時代の恋人が法廷で判事と被告人として再開、その二人は付き合い始める。判事は妻子と別れ、その恋人と別の地に逃げようとするが彼女は自殺する。ここまで非現実的な設定した後、その過去をめぐって物語が展開する。

 俳優陣は、助演の本田翼、尾木真千子もそれなりに良かったが、佐藤浩市という俳優の力量によって辛くも一定のレベルの映画になったのではないかと思う。釧路に思い出のある方にはお薦めの映画だ。

 

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