晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

「悪いのは東電だけか」 

2011-11-27 21:19:31 | Weblog

 福島原発事故の責任を東電が一義的に負うべきとしている論説が多い。しかし、これは政府見解と同じである。東電の現場における必死の対応とは違い、あの本社のえらいさん達の他人事のような姿勢を見ていると許せない気持ちになることから当然であるが。

 

「続・経済学からみた原子力発電」(SEKAI2011.11)で老経済学者の伊東光晴氏は、電力事業の真の経営者は誰かと問う。

 

電力事業においては企業運営の細部まで資源エネルギー庁の考える基本方針に沿った電気事業法によることになっており、形式上は電力会社の申請に対する資源エネルギー庁の認可となる。

 

東電の社長・会長、また経済同友会の代表幹事だった木川田一隆氏は、原爆の被害を受けた日本では、核を利用する原発は設置すべきではないと言っていたが、のちに原子力発電を受け入れた。

 

ここから東電本社の被害者面した幹部の心根がわかる。「俺達好きで原発やっているんじゃないよ。国がやれっていうからやったまでさ。」

 

「経済学からみた原子力発電」(SEKAI2011.8)においては、日本の原子力発電に対する保険制度では、民間保険は300億円まで、「危険担保特約」が別記され、「地震を原因とする津波によって生じた損害は除く」として保険会社を免責としている。

また、政府保障は、「原子力損害賠償に関する法律」第16条で損害が上記の限度額を超えたときは、事業者に対して政府が「必要な援助を行なうものとする」となっている。(援助という抽象的な条文になっている。)

 

同法第3条は、「原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる」として、事業者は無過失責任であり、無限責任とされているが、「ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときはこの限りではない」としており、事業者は免責となっている。(ただし、政府は今回の地震はそれにあたらないとしている。)

なお、同法第4条は、責任集中制といわれ、事業者のみが責任を負うとなっている。すなわち、メーカーの東芝、日立、GEは責任を負わない。

 

しかし、現在の政府の考え方は東電のみに責任があるとしている。会社更生法(100%減資による株主責任、東電債、銀行借入は債権放棄、資産売却、給与引き下げなど)は適用しない。また、政府が保障することはないというものである。

 

事故を起こした東電が主犯だと思う。しかし、共犯者もいる。いわゆる原子力ムラの構成員である。資源エネルギー庁(経済産業省、原子力安全委員会、原子力安全保安院)、原発メーカー、自由民主党、誘致した地元政治家、それを選んだ選挙民、事故が起きてから騒いでいる国民、反対の持続力を欠いた私も・・一億総懺悔だ!

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『現代国家と民主政治』

2011-11-26 15:39:40 | Weblog

『現代国家と民主政治(改訂版)』(山本佐門著 北樹出版 2010年刊)

 

政治学の教科書で、私の「国民国家の黄昏」というイメージを検証したいと思った。道内では著名な山口二郎氏は、近年の論説がごちゃごちゃしていて何を言いたいのかわからないので、オーソドックスな山本氏の著作で確認をしてみた。

 

本書では、概ねこのようなことが述べられている。国民国家がふたつの方向に解体されつつある。ひとつは、政治や経済のグローバル化と歩調をあわせるようなEUをはじめとした国家連合の動き。すなわち超国家的国家の方向。もう一つは、分権、自治の要求によって地域や民族が自立へ向かっている。すなわち国家内国家の方向。

 

国民国家は、外部的拡散と内部的分裂現象の狭間で解体の危機に瀕している。以上から、私の「国民国家の黄昏」イメージは政治学の教科書的にも確かめられた。

 

しかし、従来から私は政治学には物足りなさを感じている。その政治システムを類型化し羅列する分類的な方法論、全ての現象を政治システムの枠内として分析しようとする秩序維持的な指向性、これらからは深度が深く射程の長い社会描写のイメージを持つことができない。

 

社会を駆動するのは、経済的な下部構造なのか、人間の思想や情熱なのか。「混沌情況」(カオス)を良しとしない政治学には限界を感じる。

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『釧路の美術・演劇』

2011-11-23 20:05:23 | Weblog

『釧路の美術・演劇』(美術:米坂ヒデノリ、書芸:山田北翠、演劇:永田秀郎著 釧路叢書第20巻 1979年刊)

 

表紙は、著者のひとりである山田北翠氏による「皇甫麟墓誌」(北魏、延昌4年、西暦515年に葬られた皇甫麟の墓誌)臨書の一部、米坂ヒデノリ氏は釧路を代表する彫刻家、演劇史をまとめた永田秀郎氏は私が通った高校の現代国語の教師。

 

これで9月に帰省した際に購入した3冊を読み終わった。高校卒業まで暮らした釧路の歴史が懐かしさとともに少し厚みを増して自分の中に落としこめたような気がする。

 

本書の中にも、地方史ならではであろう、自分と縁やゆかりのある方が登場する。そこに、別の高校に行った同級生の女の子や祖父の名前が見つかるとは。

 

稲船正男、岡田利春、小川恵美子、柏村静子、加藤直樹、丹葉節郎、富永巌、長谷川工、畑佐美好、早坂孝史、柳悟

 

鳥居氏がまとめた巻末の年表から、これまでの出来事に追加すると、19512月市立図書館、市立郷土博物館新築落成、12月市立病院炎上、死者19名、195210月日本銀行釧路支店開設、1954年9月久寿里橋、永久橋に架け替え完成、1961年江南高校が北海道代表で甲子園に出場、1965年共栄中学校の炊事遠足で旧日本軍の爆弾が爆発、生徒4名が死亡(これは1学年か2学年上の事だったため良く記憶している。海上に捨てた爆弾が海岸に漂着、それを拾った生徒が炊事の火に入れ爆発。私も家の近くの海岸で砲弾のお尻の部分や手榴弾を拾ったことがある。それだけ敗戦の混乱の中でどさくさ紛れに処分されたのだと思う。)、1970年雄別炭鉱閉山、19731月市立釧路図書館新築落成、4月から大学受験に失敗した私は釧路を離れ浪人生活に突入したため、その後の出来事についての実感が薄い、1975年釧路動物園開園。

 

 

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『釧路文学運動史(戦後編)』

2011-11-13 16:43:37 | Weblog

明日から降雪の予報、気温14℃での屋外ランは今年最後か。午後から秋の光をいっぱい浴びながら週末ランニング。

 

 

『釧路文学運動史(戦後編)』(鳥居省三ほか 釧路市 1978年刊)

 

 釧路叢書第19巻、序は、山口哲夫から鰐淵俊之市長に変わっている。豊文堂書店北大通店で購入、本文中にも取り上げられている鈴木青光氏の句がサインされている。

 

 「華やかに 留守の始まる グラジオラス」 鈴木青光

 

 戦後編(1945年から1965年を記述の対象)になると1954年生まれの私も同時代として重なるところもあり、登場する文人達のうちには、子どもの頃に実際に会ったことのある方や恩師もおられ、顔を見たことのある方も散見される。

 

 岩清水尚、岡田利春、柏村静子、田中実、田中瑞穂、堤寛治、徳永滋男、永田秀郎、畑佐三好、人見和、前田和明、三國達郎、三宅信一、八木沢藤吉、渡部五郎、山本武雄・・有名、無も混じり、巻末の人名索引で調べると

 

 また、釧路の風土が生んだ著名な文学関係者としては、佐々木栄松、更科源蔵、丹波節郎、土屋祝郎、鳥居省三、原田康子らがいる。

 

 その中で、何といっても原田康子の『晩夏』が映画にもなり最大のヒット作である。本書の鳥居氏は原田康子を世に出した功労者である。

 

 

 文学は個人として思考した営みの成果を発表したものと考えるが、戦前(昭和編)、戦後編も含み、ここでは小説・詩の同人誌や俳句結社など文学が運動として語られるところに時代の特徴がある。何ゆえに文学運動なる運動が成立するのか、私にはわからないが。

 

 では、21世紀10年代の現在、地方において文学運動というものが存在するのであろうか。それだけではない。現在の文学は何を巡りどう語ろうとしているのであろうか。これも私にはわからない。また、付け加えるなら、文壇なる言葉も久しく聞いた事が無い。論壇も同じ。

 

 鳥居氏がまとめた巻末の年表から。

 人口は、194550,633人、1955119,536人、1965174,105人と急増している。1945.7.14から7.15釧路空襲で死者177人、1946市民運動会復活(子どもの頃、家の近くにあった市営グラウンドで全市を挙げた運動会が開催されていた。出店が並び市民が総出でお祭りのように賑やかで華やかなイベントだった。)1949北海道学芸大学釧路分校設置、市営球場開設、1950釧路高等学校が釧路湖陵高校に名称変更、1951春採中学校創立、1952十勝沖地震、1953湖陵高校が全焼、1954太平洋炭鉱坑内ガス爆発で39人死亡(この年は私の生まれ年であるが、小学校の同級生の中にこの事故で父親を失った女の子がいた。すなわち彼女は父親の顔を知らないことになる。)1955釧路新聞創刊、1957北海道テレビ開局(これは私の記憶ではもう少し後だったと思う。1957年はNHKではないか。HBCは、1961年頃に家の近所に電波塔を建設していて、その途中に事故で作業員が落下、死亡した記憶がある。)1958富士見坂開通、朝陽小学校開校、1960釧路空港完成、1961国鉄釧路民衆駅完成、1962釧路函館間に特急おおぞら運転開始、1963厚生年金体育館、青少年科学館開館、1964市民憲章公示(小学校で暗記させられた。「私たちは、広野に丹頂が舞い、夕焼けがうなばらを染める釧路の市民です!」)1965市長選挙で社会党公認の山口哲夫が当選、市役所新庁舎落成、旭立体橋が完成。

 

 思い起こせば、私の子どもの頃は、昨日よりも今日が、進歩、発展、成長、革新・・の時代だった。

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『東京オアシス』

2011-11-05 20:42:22 | Weblog

  『東京オアシス』(松本佳奈、中村佳代監督 日本スールキートス 2011年作品)

  私は前作『マザーウォーター』しか見ていないが、『かもめ食堂』『めがね』『プール』と続いているプロジェクト、舞台は京都から東京へ。作品中ではとりたてて大きなドラマは起こらないが、私たちの日常の暮らしそのもの中に潜む心象を描いている。

 

今回は、小林聡美がうらぶれた女優崩れを演じ、かつて出会った人たち、しかし必ずしも現在の成功者ではない人々との再会シーンで構成される。その場所は、夜のコンビニ前、ビルの狭間の路地、場末の映画館、寂しい動物園などであるが、大都会東京ゆえに侘しさが余計漂う。

 

主人公小林の表情が疲れたようですぐれなく見えたのは、役作りが巧かったのか、自身の私生活の躓き(三谷幸喜と離別)故なのかが気になった。音楽は、大貫妙子を起用していたが、大都会の寂寥感なら今最も「EXILE」の音に表れていると感じる。(歌詞の内容はわからないが。)

 

この一連のプロジェクトは、この国で、かつて小津安二郎という海外でも評価の高い映画監督がいたが、庶民の日常を坦々と描いたいわゆる小津映画を意識していると思う。

 

土、日、祝と営業が続いていて時間が作れなかったが、今日は午前中で営業を切り上げて映画館に直行して良かったと思う。札幌シネマフロンティアで20人足らずの観客数だから来週にでも打ち止めになる可能性大である。

 

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