晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『社会力を育てる』

2011-07-29 20:20:56 | Weblog

 『社会力を育てるー新しい「学び」の構想』(門脇厚司著 岩波新書 2010年刊)

 

 著者は、本書で「人と人とがつながり、社会をつくる力」を「社会力」として提唱し、いま互恵的協働社会の実現に向けて、地域や学校で社会力を育てる必要性を説き、学力重視の教育からの転換を提案する。

 

 一見すると、「社会力」を向上させることは非常に前向きで「より良き事」に思われるが、「社会力」の内実が何も語られていない。近年、例えば教育力など○○力なる言葉が流行っているように感じるが、これらは内容の無い空虚な言葉である。

 

 著者の門脇氏は、1940年生まれで筑波大学学長も歴任され、岩波書店や亜紀書房から著書を出版しているところを見ると、教育界の重鎮でリベラル派を代表するような学者と思われる。しかし、著者の考えとは正反対で、著者から見ると対立するような価値観による以下のような言説とどこも違わないように感じる。否、著者の言説には、個人を疎んじる全体主義への危険な要素が見られる。

 

 自由民主党国家戦略本部第6分科会(教育)(平成23719日)から

 自由民主党は、以下の4点を教育再生の基本的考え方において、今後の改革を進めていく。

○わが国の特質である「和と絆」を大切にしつつ、グローバル化時代に対応した教育を展開 *他は省略

 

 自由民主党 平成22年(2010年)綱領から

三、我が党は誇りと活力のある日本像を目指す

    家族、地域社会、国への帰属意識を持ち、自立し、共助する国民

    美しい自然、温かい人間関係、「和と絆」の暮らし

以下、省略

 

 「和と絆」、「共助」と「社会力」は、内実の無い空虚で何も語っていない言葉であるが、共に誰も反対しない言葉である。そのため、スローガンとして掲げられやすく、全てを飲み込む鵺のような言葉である。

 

 これでは、吉本隆明の教師論、教育論を乗り越えることはできない。(『子供はぜーんぶわかってる 超「教師論」・超「子供論」』(聞き手 向井吉人、尾崎光弘 批評社 2005年刊)

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『国家とはなにか』 その5(最終回)

2011-07-27 20:02:37 | Weblog

  原田芳雄さんのご冥福をお祈りいたします。早過ぎました。

 所用があって、今年2度目の京都へ。少し落ち着いて本など読みたいと思っています。

 さらに、時間を作ってランニングも、暑い時期はどっぷり汗が出て気持ちがすっきりします。シューズの準備は整いました。

 

 

(再開)引き続き、『国家とはなにか』(萱野稔人著 以文社 2005年刊)をノオトする。

 

第七章(最終章) 国家と資本主義

 

 国家を稼動させる富の徴収運動は、歴史の中でどのようなシステムを帰結したのか。

 ストックの存在の中に、国家の歴史的起源をみる。土地から地代が、労働から利潤が、貨幣から税が、それぞれ抽出され蓄積される。国家は、土地や労働や貨幣を生み出しながら富を捕獲する装置として、歴史の中に登場する(古代専制国家)。捕獲装置の出現は資本主義が成立するための布石となる。

 

 資本主義という歴史的システムのもとで、国家は現在どのような状況にあるのか。

 20世紀前半以降、世界恐慌とロシア革命を起因として、雇用の保護、社会保障制度の整備、組合運動の合法化、公共事業を通じた景気対策・・これらは、資本主義の危機に対する防御策である。その目標は、革命の温床となりうる社会的矛盾をできるだけ解消し、恐慌のリスクをさけるような資本循環の回路を開発した。(社会政策的実現モデル)

 

 一方、現在はどうか。雇用のフレキシブル化、失業者の放置、財政難、自己責任を理由とした社会保障制度の縮小、工場の海外移転に伴う国内市場の空洞化など生存権、社会権は急速に形骸化している。(全体主義的実現モデル)それは、冷戦状態が終了し革命の恐れがほとんどないからである。

 資本主義中心部における不変資本比率の増大。人間がその構成部品となるような機械状隷属システムが出現する。(中心の周辺化、第三世界化。)

 

 現代国家は脱領土化の形態をとりつつある。国家の運動が領土的枠組みに必ずしも準拠しなくなった。国家にとっていまや重要なのは、自国資本の指揮本部と国外の生産拠点、そして販路を結ぶネットワークを保全することである。

 

 以上のことから、グローバリゼーションをつうじて、現在の国家は、これまでの国民形態を支えた「国家の社会化」のプロセスを逆走している。経済的な生存共同体を自らの内部に保持できなくなった国民国家は、文化的共同性に重心を移すことで自己を再編成していく。文化的シンボルや道徳的な価値といったものが強く呼び出される。脱領土化する国家に対してナショナリズムが果たす役割がある。

 

 資本主義は国家を廃絶しない。資本による国家の超克は、資本のきわめて限定された側面でしかない。ただし、国民国家の枠を超えた国家形態の出現の可能性はある。資本主義が廃止されても、それによって国家が消滅するわけではない。

 

 国家を無くすことができるかは、暴力の組織化を経由することなく暴力を社会的に管理することは可能かという問題に関わっている。

 

*本書を読み始めた最初の意図、「私たちは国民国家の黄昏を前に佇んでいる」という仮説を証明することについては、現在の社会政策的実現モデルの後退、国民国家の脱領土化の進展、その反動としてナショナリズムの興隆などから、国民国家の枠組みのゆらぎは論証されていると考える。

 

*しかし、国家とはしぶとく根深い存在であり、国家に代わる枠組みや国家そのものの廃絶となるとそこには国家の本質的な問題である暴力の管理の問題が露になる。それを踏まえて、国家の廃絶イメージを持つ必要がある。

 

 

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『大鹿村騒動記』

2011-07-16 20:39:00 | Weblog

 『大鹿村騒動記』(坂本順治監督 東映配給 2011年作品)札幌シネマフロンティア、本日封切り、大入りでした。

 

 数日前、朝のワイドショーでこの映画のプレミアム試写会の模様が流れた。その時、気になったのは主演を張った原田芳雄の姿。他のキャストにメッセージを代読してもらい、車椅子の彼は泣いていた。確か、腰痛と肺炎と説明された。

 

 声色、姿、表情から独特のアウトロー的な雰囲気を出せる役者は、原田芳雄と松田優作を措いていないと思う。ショーケンもそういう味なのだが、線が細い。

 

 映画は、撮影から1年くらい経ってから公開するのだろうから、スクリーンに映った原田は昨年の姿、それから1年でここまで変わってしまった。

 

 もしかしたら、これが最後の作品になるかもと思い劇場へ。1970年代ATGの「竜馬暗殺」や「祭りの準備」の頃を思い出した。江藤潤、竹下景子も懐かしい。

 

 エンディング曲が、忌野清志郎のアルバム「RUFFY TUFFY」から「太陽の当たる場所」 ♪風の中に聞こえる 君の声が聞こえる・・とてもセンチメンタルな曲。

 

 映画の舞台は、長野県下伊那郡大鹿村、地元の人たちの手で300年以上演じられている大鹿歌舞伎がテーマ、これに原田を中心とする人間模様が描かれる。

 

 私は、釧路という海の街で育ったのだが、自分では理由がわからないが、数年前から妙に山深い街に憬れる。それも北海道ではどこにも無いような、背景に高い山々が連なる谷間のような街、その狭い隙間を川が流れていて、横を鉄道が走る。そんな風景に魅かれる。大鹿村はそんな街であった。

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『おせっかい教育論』 その2

2011-07-11 19:45:08 | Weblog

 週末、紀伊国屋書店、イノダコーヒーが習慣化しています。夏季限定メニューのコーヒーゼリーを注文しました。

 

 

 『おせっかい教育論』(鷲田清一、内田樹、釈徹宗、平松邦夫著 140B 2010年刊)その2

 

教育というテーマは私たちの生活に身近で、誰しも何らかの考え方を持っていて語りやすいテーマである。しかし、いくら語っても中々答えの出ないテーマでもある。4人の対談から印象に残ったフレーズを記述するが、おおよそこの対談の雰囲気がわかると思う。

 

 教育というのは共同体が生きていくうえで必須のもの。学校教育が歪んでしまったのは、教育を受ける個人がそこから受益するためのものだという勘違いが広まってしまったからだという「消費者の言い分」の蔓延のため。(内田)

 

 「イノベーターになるかもしれない子供たち」にフリーハンドを保証するのは学校の重要な人類学的機能なのです。学校では、子供たちの中に潜在するある種の非社会的・反社会的な部分についても、できるだけ広く受け入れ、そして面白がる余裕が欲しいと思う。「一般ルールが停止する場所」は共同体の安全保障のために絶対に必要なのです。(内田)

 

 言語能力の低い子は身体表現でコミュニケーションする能力を育てたい。「教える」ではなくて「伝える」でいい。(平松)

 

 別々の価値観の場がないと人間は生きていくのがしんど過ぎる。(釈)

 

 僕が自分で道場をやりたいというのは、家庭と学校教育のほかに、地域社会に、小さい子が自分の足でも通える所に、武道の道場があった方がいいと思うから。学校では、文科省は一貫して教員たちの規格化・標準化を推し進めてきた。(内田)

 

 この世には、「絶対なくしてはならないもの、見失ってはいけないもの、あってもいいけれど無くてもいいもの、端的に無くていいもの、絶対あってはならないこと」、があり、それをきちんと区別できる「遠近法」を持っているのが、「教養」というものだ。答えがないままにどう生きるか、どう行動するかという「勘」が働くような人を育てないといけない。(鷲田)

 

 人間の中には「教えたい」というとどまるところを知らぬ欲望があるのではないか。(内田)

 

 様々な出会いの中で、「もっと見晴らしのよい場所に出る」ということが「まなび」の意味だと思う。職住一致というポリシーでまちを再構築することを考えなければならない。「学校」という場所を、様々な「おとな」が地域の施設としてあたりまえのように使うというふうにもっと風通しのよいものにするべき。(鷲田)

 

 社会適応できない先生を見るのは、子供にとって救い。「拙速」は教育においては最大の忌避である。(内田)

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『おせっかい教育論』 その1

2011-07-10 20:47:33 | Weblog

 『おせっかい教育論』(鷲田清一、内田樹、釈徹宗、平松邦夫著 140B 2010年刊)

 

 大阪大学総長、神戸女学院大学教授、浄土真宗本願寺派住職、大阪市長が2夜に渡って教育をテーマに語り合った記録。含蓄のある発言については、「その2」でMEMOする。

 

 教育のあり方については、いつの時代でも議論のテーマとなっている。私が30数年前に勤めたある進学塾(札幌A進学院)での経験から教育を考えて見たい。

 

 進学塾は、良かれ悪しかれ極めてシンプルな原理に基づいて運営されている。ある意味、現在の教育分野での論点のうちかなりの部分がそこに表出する。

 

 進学塾の目的は、生徒の成績を上げて生徒及びその保護者の希望する高校の選抜試験に合格することである。もちろん経営主体は民間である。そこには、市場原理が貫かれている。結果を出さないと同業他社との競争に負ける、従業員の待遇も下がる。保護者は、「子どもの未来のために」良かれと思う塾を選択し、授業料を投資する。

 

 一方、公立学校が大半を占める北海道にあっては、教育は公立の独占状態にある。そこでは独占ゆえの様々な弊害が生じていると思う。競争性が無いことによる労使の慣れ合い、生徒そっちのけの組合的な既得権が現存している。学校選択性が導入されているとはいえ、保護者の学校選択権はかなり制限をされている。

 

 塾の評価につながる学力とは、入試科目にある教科だけのテスト成績である。成果指標は極めてシンプルである。入試以外の科目は学校での内申点は重要だが、塾はそれに関与できない。成績を上げるための方法論は、それぞれの塾独自のノウハウはあるものの、基本的には繰り返し繰り返し練習問題をやることでテストに慣れさせ、一種の刷り込みが基本になる。

 

 北海道の子どもたちの学力テスト結果は、全国でも最下位に属している。このため、北海道の教育長は、平成26年までに全国平均を越すと目標を表明した。塾産業から見れば方法論としては簡単である。主要教科以外の教科にかける時間を減らし、総合的学習や人間教育などを排し、ひたすらテスト問題の「傾向と対策」に慣れさせるのである。ここでは、真の教育とは何か、真の学力とは何か、といった議論は捨象される。

 

 塾産業の現状を見れば、現在のところ、教育の市場化論者の主張も中途半端に聞こえる。

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『国家とはなにか』 その4

2011-07-09 21:18:32 | Weblog

 少し古い新聞を整理していたらこんな全面広告がありました。(2011.5.21日本経済新聞)国民国家の枠組みが存在するからこその広告です。

 

 

その4

 

 第六章 国民国家の形成とナショナリズム

 

 国民国家は、現在の国家の基本的あり方をなしている。しかし、国民国家は特殊な国家形態であり、特定の歴史的状況のもとで形成された。

国民国家の成立の要因として、国家が国境によって領土化されることが基本的な前提をなす。

 

重要となるのは、国民国家とナショナリズムを区別することである。ナショナリズムとは、暴力の集団的な実践(政治的な単位)を民族的な原理(言語、宗教、人種など)に基づかせようとする政治的主張である。

 

国民国家が形成されてきたプロセスとは、国家の暴力が住民のもとへと「民主化」されてきた過程にほかならない。「暴力の民主化」は皆兵制によって具現化される。次に、「内面的な」インフラとなったのが、国語の制定や公教育の実施であり、それにより、文化的共同体としての国民の原型ができあがる。

 

さらに、国家機構の役職が住民に開放され、普通選挙制が制定される。国民国家は、形式的にせよ平等主義を実現してきた。しかし、それはマイノリティの排除と表裏一体である。

 

「暴力の民主化」により、国家と住民の間から軍事的対立の図式が消える。国家の暴力装置は、軍隊と警察に分化する。

 

住民に国家の主権のために戦うことを受け入れさせるためには、動機付けが必要である。道徳レベルでは、国家に従うことが究極的な善となるためには、宗教的なものを再導入しなくてはならない。それは、「民族」という表象である。経済的レベルでは、生存共同体を守るということであり、家族国家観が提示される。

 

国民国家の形成において、①規律・訓練(権力テクノロジー)が果たした役割は、住民全体を兵力―労働力として徴用しながら、あらたな服従関係へと組み込んだ。暴動・反抗・無秩序などを生じさせない。さらに、規律権力は、主権国家内部の権力関係を脱人格化する。

 

もうひとつ、②国家は住民たちの生が営まれる領域を管理し、調整するような統治実践が関わっている。(フーコーは、「人口の生―政治学」、またふたつをまとめて「生―権力」とよんだ。)

 

19世紀後半以降、生―権力が、血をつうじて行使される主権的権力によって活性化され、支えられる事態をつうじて「近代的な、国家的な、生物学的な形態における人種主義(レイシズム)」が形成された。住民の生を「より健康的でより純粋にする」ためには、それを「退化・変質」させる「異常」で「劣った」人間を排除しなくてはならなくなる。

 

レイシズムは、ナショナル・アイデンティティ(国民的同一性)の構成において本質的な役割をはたしている。国民国家とは、「誕生/血統」を国家のメンバーとなるための資格とするような国家形態である。すなわち、国民国家はレイシズムと暗黙の関係を結んでいる。(戸籍制度において体現)

 

 

*ここまで来て、「国民国家の黄昏」を証明したいという私の意図に反して、私たちが今生きているこの国民国家という形態は中々強固な基盤を持つ手強い存在であることが逆証明されてきている。

 しかし、現実社会の動きからは、特にこの国の最近からは、国家の機能不全状態が誰の眼にも明らかである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『国家とはなにか』 その3

2011-07-08 21:02:15 | Weblog

 7月に入ってアナログTVの画面には、常時「アナログ放送終了まであと○○日」の文字が左下に表示されるようになりました。

 ニュースの字幕やスポーツ番組のスコアなどは邪魔をされて見えなくなりました。

 これを「お知らせ」レベルを超えた「容赦なき暴力」と言わずに何と言えるでしょうか。

  

 

 引き続き、萱野氏の著作の要点をノオトする。

 

第四章        主権の成立

 主権国家体制がどのように形成されてきたのか。

 

 暴力への権利が一元化されるということが、主権の成立の基礎にある。ホッブズの自然状態「各人の各人に対する戦争」は、近代以前の国家形態である。

 

主権が成立するためにはどのような条件が必要か。

特定のエージェントが他を圧倒しうるだけの暴力を蓄積することが必要になる。ノルベルト・エリアスによると、近代国家による暴力の独占は、貨幣経済と火器の発達による富と土地の集中である。それによって、宗教的な権威(神授権説)から<政治的なもの>の自律化(社会契約説)に。

 

暴力の独占にともなう権力関係や富の徴収の一元化は、統合された領土の観念をもたらす。単一的な領土へと編成された空間は、国境によって他から区切られなくてはならない。国境が画定されるためには、主権の間の相互承認が不可欠であり、そのため主権国家間システムを現出する。

 

国家の存在を支えるものが、人間の間の主従関係から、非人間的な領土へと転換される。(国家の脱人格化)これにより国家は、様々な政治闘争がくりひろげられる形式的なアリーナへと変容する。様々な政治集団は、国家―領土的な枠組みの中で支配や決定をめぐって争うエージェントとして位置づけ直される。すなわち、国家の歴史は、領土化された同一の国家的枠組みの中で様々な集団が時の政府を担ってきた歴史として表象されるようになる。

 

次章では、いよいよ国民国家のからくりが萱野流に明らかにされる。

 

 

 

 

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『国家とはなにか』 その2

2011-07-02 21:00:31 | Weblog

 先週は火曜日から金曜日まで4日連続の飲み会(営業)、そのうち「つぼ八」が3回ともうかなりな食傷気味、明日(日曜)も営業、月曜日も「つぼ八」で飲み会(営業)・・・身体も消耗するが、気持ちの消耗の方が疲れがたまる。

 

 久しぶりの休業日の本日は散髪とイノダ。

 

 

 

 

 『国家とはなにか』 その2 

 

第三章 富の我有化と暴力

国家とは、富を我有化(専有)するために、そして我有化した富を使って、暴力を組織化する運動体にほかならない。

 

なぜ国家は住民から税を徴収するのか。

租税とは、国家によって強制されるものではなく、住民が自らのために負担するものである、という考え方は誤りである。実際には、税の徴収が成り立つためには、税を徴収する側にすでに暴力の優位性がなくてはならない。

 

なぜ人々は、自然状態(ホッブズ社会契約論でいう各自の各自に対する戦争)にあるにもかかわらず、特定の人格へと自らの力を委譲することを互いに申し合わせ信約する事ができるのか。(設立による国家)

否、国家が成立するのは、住民の間の合意によってではなく、暴力的に優位にあるエージェントが住民たちを弾圧することによってである。(獲得による国家)

 

所有権は「国家以外のエージェントが住民の富を奪うことはできない」という形で設定される。

 

所有が成立し暴力の実践が支配関係へと構造化されていくプロセスは、社会の中で暴力が実際に行使される可能性が小さくなっていく過程をあらわしており、その過程を通じて治安(セキュリティ)が確立されていく。

 

国家の形態はどのように規定されるのか。

国家の形態に対して規定的に作用する二つのファクターとして、徴収される富が生産される仕方と、物理的暴力の行使を支えるテクノロジーがある。

 

国家のない社会というものをどのように考えるべきか。

国家のない社会とは、暴力の持続的な組織化をはばむような暴力のあり方が優勢になっているような社会である。

 

第四章        方法的考察

 国民国家は、通常信じられているのとは逆に、歴史的にはかなり新しい「発明品」であり、国民共同体が歴史を通じてつねに存在してきたというのはフィクションにすぎない。

 国家を民営化したとしても、国家の基礎をなす暴力の実践は私的な形で残るのである。それは、より私的な国家の形態をもたらすにすぎない。国家の民営化は決して国家の消滅を準備しない。

 

 

 *萱野国家論の骨格が見えてきたが、「暴力」と「権力」の使い方を議論の前提としてしっかり定義しないと、「暴力」という言葉だけがエキセントリックな響きを持って独り歩きしているように感じる。

 萱野氏は、一見ラディカルな主張をしているようだが、国家存在の根拠の方に比重を置いているため、現代国家の変質や限界、国民国家の次の国家像、あるいは国家無き社会像の提示の前で行き詰っているように感じる。

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