晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その7

2014-03-30 10:25:33 | Weblog

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その7 

 『資本論 第一巻 ㊤・㊦』(今村仁司・三島憲一・鈴木直訳、筑摩書房マルクス・コレクションⅣ・Ⅴ 2005年刊)を使用しており、今回から㊦巻に入る。

 マルクスの分析は、第13章「機械類と大工業」に進む。第3節「機械経営が労働者に及ぼす直接的影響」、「a資本による補助的労働力の取得。婦人労働と児童労働」で、マルクスは、(P38)「機械類は筋肉の力を不要なものにする。」「労働者家族の全メンバーを性と年齢に関係なく資本の直接の命令下に編入しそれによって賃金労働者の数を増加させる一つの手段と化した。資本家の強制労働によって、子供の遊び場が奪われたのみならず、良識の枠内で家族自身のために家庭で営まれていた自由な労働の場もまた奪われた。」

 機械性大工業の発達とともに、成人男性に限定されていた労働者が、女性と子どもにまで拡大され、労働現場に動員される。

 (P40)(註121)「子供の世話や授乳といった、ある種の家族機能は完全にやめるわけにはいかないので、資本に取り込まれた家庭の母親たちは、多かれ少なかれ代わりの人を雇わねばならない。また家庭生活に必要とされる縫い物や繕い物などの仕事は、既製品を買うことで間に合わせるほかない。こうして家事労働の支出が減るのに対応して貨幣出費が増える。その結果、労働者家族の生産コストが増大し、収入増加分を相殺してしまう。そのうえ、生活手段を利用したり調達したりするさいに節約したり、無駄を省いたりすることができなくなる。」

 ここで述べられていることは、百数十年後の現在も基本的に変わっていないと思う。母親が働くために、子どもを保育園に預ける。家事労働は、既製服の購入、洗濯の外注、加工食品の利用、外食・・に代替され、収入が増える分、支出も増屋さざるを得ない。働けど働けど生活は楽にならずは、共稼ぎ世帯での実感。

 ただし、女性の社会進出についてのマルクスの認識については、1世紀以上も前ということで当然に時代的制約がある。

 

 

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ランナーの皆さん、エルフィンロード開通しました!

2014-03-29 09:07:50 | Weblog

 とりあえず週末ランだけは続けています。ここまでの走行距離は昨年を上回っていますので、目標はクリアーしています。

 毎年、春分の日前後でエルフィンロードの除雪が行われ、走れるようになるので、先週の日曜日(23日)に行ってみました。日陰部分に少しアイスバーンが残っているものの、きれいに除雪されていました。道路の横は、まだ50cm位の雪の壁は残っていますが、何人かのランナーとすれ違いました。

 今週は、暖かな日が続いたので、雪もかなり減っていることでしょう。いよいよランニングシーズンの開始です。最低、-7℃で走った冬が嘘みたいです。帽子も、手袋も外し、ウィンドブレーカーだけで走れます。

 今のところ、エントリーは5月5日の日刊スポーツ豊平川マラソン、6月1日の千歳JAL国際マラソンを申し込んでいます。昨年は、秋に申し込んでいた大会が営業のため出場できなかったので、久しぶりです。あと1か月でハーフを走ることができるように練習です。現在は、10kmでヘロヘロ。

 距離を延ばして、スピードをつけて、体幹を鍛えるのに筋トレをして・・わかっているがコツコツとやるのが中々難しい。Pm2.5も少し気になるし・

 

 この会社で営業できるのも、あと1年。会社に所属していれば何となく普通にできたことが、今後は自分で切り開かなければならない。何となく刑期満了で娑婆に出るような気持です。皆が経験している思えば良いのでしょうが。

 

 

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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その6

2014-03-21 15:47:12 | Weblog

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その6

 マルクスの分析は、第9章「剰余価値率と剰余価値量」、第10章「相対的剰余価値という概念について」、第11章「協業」と進む。

 第12章「分業とマニュファクチュア」、第5節「マニュファクチュアの資本性的性格」で、マルクスは、(P532)「こうしたマニュファクチュアの労働者は、その本来のありようからして、自立的なことをする能力を奪われ、生産活動を展開できるのはもう資本家の工場の部品となることによってのみとなるのである。」、(P539)「マニュファクチュアは、労働の社会的生産力を労働者のためにではなく、資本家のために発展させるのであるが、それだけにとどまらず、労働者個人を不具にすることによって発展させるのである。」という。

 会社の同僚たちは私も含めて、それぞれ人間としての個性や多面的な能力を持ちながらも、得意、不得意分野があったりしている。会社の経営者側は、その社員の能力や特性、これまでの実務経験などをもとに適材適所を掲げて業務の分担をしている。それが、マルクスに言わせると、わらわれ労働者は、工場の部品と化し、不具にさせられているということになる。

 確かに、現実に私たちは自分の持っている能力の一部しか仕事に使っていない。その仕事に合わせて能力を特化させているといった方がいいだろう。仕事によって違いがあるが、製造業のライン業務やマニュアル化された業務では、単純な業務の繰り返し連続であった、全能力を使っているとは言えないであろう。

 逆に言うと、持っている能力を全面的に発揮できる仕事とはどのような仕事なのだろうか。のちにマルクスは、資本主義社会での労働は、労働者の能力を一部しか発揮できないが、来るべき社会では、その能力が全面的に開花する労働になると言っている。しかし、それは、どのような社会のどのような労働なのであろうか。マルクスも、具体的に語っていないし、私も想像力が足りなくそれをイメージできない。

 

 

 

 

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ランナーの死

2014-03-16 14:37:17 | Weblog

 今日は、午後に営業があったので、午前中にランニング。小雪が降っていたが、随分と暖かくなった(0℃)ように感じる。今日は雪が少し積もっていたが、歩道のアスファルトが出ている所も増え、久しぶりにスピード走ができた。雪解けは遅れているようだが、確実に春が近づいている。

 

 会社のランナーズサークルでいつも一緒に走っていた仲間が11日に亡くなった。61歳だった。4年前に肺がんが見つかり、手術や抗がん剤治療を繰り返していて、先月からは緩和ケアを行っていた。彼は、定年まで1年を残し早期退職し、それからたったの2年だった。辞める時に「やりたいことがあるので」と言っていた。無念だったと思う。

 会社の中で、10年ほど前までフルマラソン走っていたのは私と彼を含めて4人。ランニングを通じて親しくなるまでは、お互いに特に接点があったわけでは無かったが、フルに挑戦し、走り切る厳しさや、それまでに至る練習のきつさをお互い経験しながら親しくなった。

 斎場の入り口には、会社の名前の入ったランシャツ、ランパン、そしてもう誰も履くことのないシューズ、各種大会で走っている写真が掲示されていた。そして几帳面な性格を反映していると思ったのが、ゼッケン、記録表、記録の掲載された新聞がクリアフォルダーにきちんと整理されていたことだ。

 彼の死に顔は、口を少し開け苦しそうだった。頭髪が無くなっていたのは抗がん剤の副作用からか。身体の上には、上半身に会社の昔使っていた黄色のランシャツ、下半身に紫色のランパンが乗せられて、そしていつも着ていた白いトレーニングウェアが傍らに。ご冥福を祈る。

 

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3.16 幻想忌 吉本隆明から学ぶ

2014-03-12 20:31:25 | Weblog

 昨年の3月24日、このブログで「私は、吉本の亡くなった3月16日を「幻想忌」と名付けたい。吉本の思想のひとつの核である、自己幻想、対幻想、共同幻想から発想した。今のところ、この国で、このような提案をしているのは私ひとりであろう。」と記した。

 吉本から何を学んでいるのだろうかと自分に問うと、教条的な左翼思想だった私に、もっと柔軟に、自由に考えてもいいのだよ、ということを教えてくれている。そして、もっと様々なジャンルに興味を持って、深く自分の頭で考えるという訓練が自由な思考のために必要だと教える。

 吉本氏が2012年3月16日に亡くなる少し前から、偶然にも私は30年ぶり位に吉本思想を再び追いかけ始めていた。氏が亡くなって直後から雑誌などにおいて吉本追悼ブームがあった。掲載されている評論をいくつか読んだが、2次的に加工された吉本思想を読んでも、評論を書いた者のバイアスがかかっているので、真に吉本が語ろうとしたであろうことを掴めなかった。そこからは、難解なのは承知のうえ、吉本本人が書いた文章を読みたいと思った。

 古書市に行くと吉本の著作が何冊か必ず出品されていた。残念なのは、既に市場における吉本の評価はそう高くないということだった。単行本1冊数百円というレベルなのである。今月から晶文社で吉本全集が刊行されるということだが、吉本の読者、おそらくその中心は60歳代半ばに差し掛かろうとしている年金暮らしの世代が、はたして1冊6,000円の本を数年間に40巻も買い続けることができるのだろうかと思うと最後まで刊行できるのか心配である。

 こう言っている私自身も、未だ決めていないのである。

 

 2014.3.15追記、東京および札幌で、吉本の命日を「横超忌」として偲ぶ集いが開催されるとの記事があった。横超とは、親鸞の言葉だそうだ。

 

 

 

 

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ある郷土史家が出版された本への感想

2014-03-09 09:43:11 | Weblog

 知り合いの郷土史を研究している方が、このほどその成果をまとめられて出版されたので、その読後感想をお渡ししようと思っている。

 (以下、感想の骨子)

 私が関心を持っている思想家の吉本隆明氏は、思考の態度として、ひとつの事象は先端と初源の二方向性を持つという。先端、すなわち未来の何かに向かっていることを追及しようとすれば、その初源、その原型(プロトタイプ)であるような段階を掘り下げることが重要だという。

 今まさに私たちは、まちの未来を描く必要性に直面している。社会は、転回的な局面を迎えている。そのひとつの現れは、右肩上がりで来た人口が停滞から減少に転じていることである。

 本書は、このまちの初源を訪ねる旅である。私は、吉本の考えによれば、まちの成り立ちを掘り下げることによって、まちの未来、先端の行方が見えてくるのではないかと思う。そしてまた、本書は、その偉人の人生の初源を訪ねる旅でもあった。

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『大事なことはすべて立川談志(ししょう)に教わった』

2014-03-02 09:34:52 | Weblog

 『大事なことはすべて立川談志(ししょう)に教わった』(立川談慶著 KKベストセラーズ 2013年刊)

 2011.11.23立川談志が亡くなった。私は落語にあまり興味は持っていない、今のところ。今のところと言ったのは、自分が何にでものめり込む性癖を持っていることを自覚しているからである。本書を読んで、談慶の芸を観たくなった。

 基本的には、落語は話芸であり、言葉による芸だと思う。吉本隆明によれば、言葉には、指示表出(他者とのコミュニケーション)機能と、自己表出(自分との対話、すなわち考えるということ)機能があるという。落語は、指示表出、噺家とお客のコミュニケーションということになるが、本書からはそれだけではそう簡単には落語にならないということがわかる。

 談慶は、談志の弟子、慶応大学、ワコールを経て入門、遅咲きの落語家である。その談慶が長~い修業時代に師匠から数々の「無茶ぶり」をされたエピソードを連ねて書いているのだが、それはどうして私に、という自己問答(自己表出)を繰り返すうちに、次第に師匠の意味するところがわかってくる。

 本書から、様々なことについてどれだけ考え抜かれたかが芸の質を決める。また、高座で噺家から発する言葉だけではなく、芸人の人格丸ごと、言葉にならないすべてが芸に現れるということがわかる。

 本書は、私の読書傾向からは異分野であるが、文句なしで面白い。サラリーマンの指南書としての読み方もあるかも知れないが、そんなハウツー本ではない。自信を持って推薦したい。

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