晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

本郷和人 『天皇にとって退位とは何か』

2018-12-24 17:14:21 | Weblog

飲酒運転事故に対する重罰適用が繰り返し報道されている。アルコール検知器とエンジン始動装置を組み合わせて“飲んだら走れない自動車”を開発できないだろうか。そうすれば被害者と加害者、その家族の双方の悲しみも減らすことができる。さらに、スピード制限標識と車の読み取り装置を連動させるような技術にすれば、制限速度オーバーが物理的にできなくなる。これらの技術を導入することによって生じる支障を並べて反対することはできると思う。例えば、取り締まり警察官が減る。罰金の国庫収入が減るなど。これらは、無人運転技術より簡単ではないか。

 

『天皇にとって退位とは何か』(本郷和人著 イースト・プレス 2017年刊)

昨日は天皇85歳の誕生日。あと4ヶ月。会見では「退位」ではなく「譲位」という言葉を用いていた。僕は、その言葉使いから、自分ひとりが退位するのではなく、次代に繋ぐという思いを読み取れた。また、沖縄、外国人のくだりもアへ政権への皮肉を言葉にしたと受け取れた。そういう「読み」ができるということを本郷氏は教えてくれる。(ちなみに本郷氏は放送大学の『日本の古代中世』で室町、戦国時代を大変わかりやすく講義してくれた今人気の東大教授である。)

本郷氏は、2016.8.8『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』から天皇の気持ちを察する。過去の天皇制を振り返ると政争の具にされた時代もあり、そういうことも踏まえて推察している。そこで天皇が今回あえて退位を希望したのは、(以下「 」は本書からの引用)「現在の天皇が後継人事を定めることで、次の天皇の振る舞いに安心できるかを見定めたいという気持ち」からではないかと。では、なぜ見定めたいのか。それは、天皇が抱える多くの懸念事項からわかる。皇太子のこと、雅子妃のこと、秋篠宮家のこと、そしてこの国のアへ首相をはじめとする今の政治家たちのこと。

本郷氏は、「今の皇太子は、公の人としての自分、奥さんを守っていくプライベートな自分という二つの行動を比べたときに、プライベートを優先するだろうということは、これまでの行動からわかる。」「ここ数年、雅子さまを慮(おもんばか)るばかりで、公務に対する熱心さが欠けているように受け取る人もいます。」(P165)と述べる。僕は、雅子妃の健康状態からは公務に自ずと限界があると考える。ならば公務の範囲を見直せばいい。政治学者の原武史氏によると、あの昭和天皇でさえも母である貞明皇太后からもう少し熱心に宮中祭祀に取り組むようにと言われていたのだから。

「外務省のキャリア官僚である開明的な雅子さまが、伝統的な皇室のありように打ちのめされているという現実があります。雅子さまには、積極的な外交を行い、開かれた皇室を見せたいという思いがあるのかもしれません。」(P166)「雅子さまのお父さんである小和田恒さんには何かと風聞があります。自分の娘が皇太子妃であれば、そういった役職の就任は辞退するというあり方もあるはずです。」(P167)僕には本郷氏が言う小和田恒さんの風聞とは具体的にどのようなことを言っているのかがわからない。

「生前退位をすることになり、しかし摂政を置かないという場合、皇室典範の改正は必然的です。しかし、皇室典範を金科玉条のように思い、改正することに対して否定的な考えの人たちも多いです。わたし(本郷氏)が思うのは、実は天皇陛下は、そういう人たちの動き、いうなれば硬直的というか、極度に保守的な考えを快く思っていないのではないでしょうか。改正する実例をつくっておきたいというお気持ちもあるのではないでしょうか。」(P38)皇室典範には摂政を置く規定がある。だが天皇は、父の昭和天皇が皇太子時代に大正天皇の摂政として大変苦労したということを聞いているため摂政には反対の気持ちを持っている。天皇が快く思っていないであろうアへ政権は、典範を改正するべきという天皇の考えを忖度することなく今回限りの特例法とした。

戦前の天皇を君主に抱き、軍国主義に突き進んだ歴史の反省から、天皇は現憲法で政治的発言を禁じられている。しかし僕は言葉というものはそもそも政治的なものだと考える。天皇をはじめとした皇族は公人なのだから尚更のことである。それが天下国家に関するものでも、家族に関することでも、自分自身のつぶやきでも。

なお、天皇制についてこのブログで、2017.12.13に『〈女帝〉の日本史』(原武史著 NHK出版新書 2017年刊)、2015.10.7、16、23、25に『皇后考』(原武史著 講談社 2015年刊)を書いた。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玄武岩(ひょん・むあん) 『「反日」と「嫌韓」の同時代史―ナショナリズムの境界を超えてー』

2018-12-09 15:51:37 | Weblog

移民法、働き方法における基礎データの誤りなど以前は考えられないミスが連発している。生煮え法案、手抜き法案が多くなっているのは、官邸主導政治に対して各省庁が嫌気を差して適当にやり出しているのではないか。思えば、森友・加計、イラク日報など・・最近は嫌なことが多すぎた。そろそろいい加減にしてほしいというのが官僚たちの本音だろう。

 

『「反日」と「嫌韓」の同時代史―ナショナリズムの境界を超えてー』(玄武岩(ひょん・むあん)著 勉誠出版 2016年刊)   

2008.12.21このブログに『思想体験の交錯 日本・韓国・在日1945年以後』(尹健次著 岩波書店 2008年刊)の読後感を「日韓、日朝は、私の今までの関心領域に入っていない。明治以後の朝鮮半島とこの国の歴史的な関わりを見た場合、圧倒的に日本に正義が無いからである。日帝本国人として植民地からの告発に応える何ものも持ち合わせていない。歴史や事実を学ばなければならないと思っていたが、分の無い議論には興味が湧かなかったのである。さらに共に連帯して運動をしようとは思わない。それは、在日の方と私の間にある溝は、永遠に埋まらないからである。」と書いた。

本書で玄氏は、1927年朝鮮半島大邱生まれ、植民者2世である作家森崎和江氏の抱える原罪意識を紹介している。「自分の中の内地と外地の反転、支配民族としての加害意識、戦後において異質な文化を排除する日本社会への息苦しさ、森崎氏の思想的な葛藤が続いた。そして彼女が見出した光明は、国家を媒体にするのではなく国という境界を超えた思考方法である」と。

僕は本書で、国家間の条約、協定、法などの視点からはお互いが加害、被害と対立的に見えるが、双方における戦争犠牲者たちにとっては未だにやり場のない苦しみが多様に存在していることを学んだ。例えば、在韓被爆者、日本軍「慰安婦」、元徴用工、サハリン残留韓国人、(戦前)朝鮮籍元日本人女性の(戦後)帰国拒否、北朝鮮帰国運動による在朝日本人女性など、国策犠牲者の存在である。

また、韓国における原爆解放論、1947年米軍占領下島民13万人が虐殺された済州島事件、韓国軍のベトナム戦時民間人虐殺、戦争被害受忍論なども新たに得た知見である。知らなかったことが多すぎることを恥なければならない。

現在、「旭日旗」、「慰安婦」、「徴用工」問題が噴出して日韓関係は最悪の情況にあるが、著者は、国という境界を超えた人々の連帯が双方の国家を動かしていく可能性があるのではないかと提唱する。僕は国家など無くてもいい、国家が無くても生きていける世界を構想できないだろうかと考えてきた。著者の考え方から、国を通してしか見ることができないような見方ではなく、直接人々がわかりあえる関係づくりの可能性がみつかると感じた、

そうは言ってもこの問題は一筋縄で解決することはできないと考える。もし僕が反対の境遇、すなわち植民地人又は在日として生まれたとすると、絶対許すことのできない、決して忘れられない民族の記憶を背負って生きていると思うからだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする