晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『人間の條件』

2013-01-27 15:01:03 | Weblog

 『人間の條件 全6部』(小林正樹監督・脚本 五味川純平原作 1959年~1961年 松竹作品)

 主人公の梶(仲代達矢)は、ヒューマニストとして描かれる。戦時下、人間が人間として扱われないような様々な事象に直面しながら梶は悩み闘う。鉱山における中国人捕虜の待遇改善のため会社と衝突する。軍隊内における上官による不合理な暴力と闘う。占領下の民衆のしたたかさと悲惨にぶつかる。戦闘場面では自分が生きるために敵兵を殺さなければならないのみならず、味方も手にかけてしまう。捕虜となった後も収容所内で旧日本軍の秩序を温存しるソ連による間接統治。脱走と絶望的な原野の逃避行。

 梶は闘い続ける。そのエネルギーは、お国のためでも無く、天皇陛下のためでも無く、最後には正義のためでも無く、ひたすら生き抜いて、故国に残した妻みちこ(新珠三千代)との再開を果たすために。

 人は、正義のために、組織のために、他人のためになどと大義を掲げながら生きている。平時においてはそうと言えるだろう。しかし、自分の生命が極限状況に置かれた瞬間においては、何が人の生を支えるのだろうか。この映画からの答えは「愛」ということであるが。

 このような映画をよく作ったものだと驚くと共に、1960年前後は、松竹ヌーベルバーグの旗手にひとりとして大島渚監督らもデビューしている。氏の『青春残酷物語』『日本の夜と霧』は日本映画の中でも特に快作であると思う。しかるに、亡くなった後もTVで追悼上映が無いのも大島らしい。

 

 

 

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体罰

2013-01-26 17:14:33 | Weblog

 『人間の條件 全6部』(小林正樹監督・脚本 五味川純平原作 1959年~1961年松竹作品)

 2011年8月にNHK―BSから録画していたが、全篇で9時間30分もあるため中々時間を作れないでいたのだが、今週A型インフルエンザに罹患しお蔭で、熱は下がったが会社へは行けない時間を使って一気に観ることができた。

 ここではストーリーには触れないが、第3篇の望郷篇で軍隊(旧日本軍)という場所がリアルに描かれている。先輩兵士から新兵への暴力、理由もなく一列に並ばせての往復ビンタとリンチ、上官の命令には絶対服従という不条理な縦社会、異質や異端な者に対する陰湿なイジメ、連帯責任という名のもと、全員に対する懲罰教育、敬礼などの所作のロボット化、閉鎖的で逃げ場のない軍隊、敵との戦いのためにという目的によって全てが正当化される。このおぞましい光景は、どこかと似ていないか。

 部活の顧問からの体罰により自死した大阪の高校生の事件が報道されている。これまでは、教育という名の暴力が、全ては勝利のために正当化されてきた。この映画を観ながら、旧日本軍の実態と現在の体育会系部活の論理が酷似していると感じた。

 就職においては体育会系の学生は、礼儀正しく、素直で文句も言わず、積極的で重宝されると言われているが、果たしてそれでいいのだろうか。何も考えず、考えられず、言われたとおりのことを黙々とこなす人材としてはいいのだろうが、何か重大な局面で判断する、何かの打開する方法を考えるなどの場面では、大きな弱点を持つと考える。

 旧読売巨人軍の桑田真澄氏がまともなことを言っている。体罰で負傷し、また、嫌気がさして辞めていった有能な選手がたくさんいた。自分も体罰をたくさん受けたが、納得したことなど無い、許せないという気持ちを今でも持っている、外国ではスポーツに暴力が付いてくることなどありえない、と。

 

 

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『世紀末ニュースを解読する』

2013-01-13 20:47:36 | Weblog

 暦では3連休、昨日と今日は営業があったが明日は完全休業。昨日から、日中の寒さが少し緩んでいるので、明日は「晴走雨読」デーとしたい。

 正確な統計数字はわからないが、最近の事件では、肉親同士の殺し合いが増えているような気がしているが、どうでしょうか。

 元号が法制化されてから久しいが、最近はマスコミはほとんど西暦を使っているし、政府発の情報も西暦が増えているような気がしているが、どうでしょうか。

 

 『世紀末ニュースを解読する』(吉本隆明著 マガジンハウス 1996年刊)

 吉本の著作が、古書店で二束三文に扱われている。本書も、200円でワゴンに並べられていた。三上治氏が聞き手で、1995年を中心とした出来事を中心に吉本が語っている。

 10数年前を思い出しながら読んだ。吉本の批評する分野は広い。ビートたけしのバイク事故、加納典明が猥褻図画販売容疑で逮捕、東京都知事に青島幸男、ダイエーの中内功、野茂、イチローの大リーグ挑戦、愛知県中2いじめで自殺、脳死、ウィンドウズ95、村山首相の自衛隊合憲発言、戦後50年決議、米兵による沖縄少女暴行、円高、新食糧法・・そういえばそんな事もあったなあと思い出したこと、今と何も変わっていないなあといった感慨を抱く。

 この頃の出来事で何と言ってもインパクトのあった事象は、阪神淡路大震災とオウム真理教事件だろう。特に、オウム問題については、現在でも説かれていない疑問が多数残っていることがわかる。

 なぜ若者がオウムに魅せられたのか。連赤の時も同じ、なぜ若者がという問いが残っている。

 個人レベルの救済であるヨガから始めたのになぜ世界の否定、「終末論」「最終戦争論」にまで行き着いたのか。

 閉鎖された集団内で発生する病理現象、それは宗教においても党においても同じ原理から生じるものなのか。

 オウムの信者の行なった行為を現在の法律に照らして裁くことは出来るかも知れない。しかし、なぜあのような事を行なったのかということをもっと解明する必要がある。なぜなら、これからも世の中を変えなければならない、より良い世の中に変えるために、といった思想や宗教が出てくるだろうが、これらの問いに答えておかなければ、同様のことが繰り返されることになるだろうと考えるから。

 「正しい」と思うことほど、「他者への抑圧」になることはない。これは、歴史が証明している。

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『織姫たちの学校1966―2006』

2013-01-11 20:30:45 | Weblog

 部活における顧問からの体罰で高校生が自死した。私は、死ぬな!と言いたい。死ぬくらいなら、顧問をぶん殴れ、刺してもいい。私は、最後の手段として「渾身の暴力」を否定しない。

 他の種目、他の高校、中学校、大学、プロスポーツ、自衛隊・・では無いのだろうか。

 

 異端の古代史研究者である室伏志畔については、このブログで2012.6.10「室伏志畔」、8.15,17,27「方法としての吉本隆明―大和から疑え」①~③でとりあげた。

 『織姫たちの学校1966―2006 大阪府立隔週定時制高校の40年』(橿日康之著 不知火書房 2012年刊)は、室伏氏の高校教師としての実践記録を記したものである。(本名は、柏井康之)

 本書は、二交代制の繊維企業で働く中卒女子労働者のために大阪府泉州地域で生まれた隔週定時制高校の、1966(昭和41)年の創立から平成18(2006)年の閉校に至るまでの40年史である。

 この高校の歴史は、繊維産業の盛衰とともにあり、また時代とともに子どもたちの意識も変わっていったが、その中で隔週定時制一筋に働いた著者の歴史でもある。その中で、経済的、家庭的に必ずしも恵まれない生徒達の日常エピソードを残している。仕事と勉強の両立の難しさ、保護者との確執、倒産、恋愛、妊娠、病気・・戻れぬ故郷を思う少女たち。

 吉本隆明の哲学に学んだ著者が、学校組織の中で巧く事を運んでいたのかどうかははなはだ疑問である。校長、教頭、職員組合、同僚との衝突、子ども達とのすれ違いなど軋轢だらけの教師人生だったようである。最後に定年後の著者に妻が残した言葉が記されている。(以下、引用)「あなたは先生には不向きだし、何ができるのかしら。とても商売人にはなれないし、不器用だから職人にも不向き。そう、訊問する刑事向きかも」 私は返す言葉がなかった。 そんな私は、家にあっては読書するかパソコンを打つしかなく・・・この最後の部分に、私は自分の事を直撃されたよう感じを受けた。

 

 

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『戦後史の正体 1945―2012』

2013-01-07 20:45:08 | Weblog

 『戦後史の正体 1945―2012』(孫崎享著 創元社「戦後再発見」双書① 2012年刊)

 書店では、平台に山積みにされていてかなり売れているようだ。「○○の正体」という書名からは、トンデモ本の類かと思ったのだが、著者は、元外務省の国際情報局長や防衛大学校の教授も歴任した外交の専門家である。内容は日米外交史ということで随分硬いように感じるが、著者は高校生にも読めるようにということで理解しやすい表現になっている。

 著者は、戦後の日本外交を、米国に対する「自主」路線と「従属」路線の相克として描く。そして、自主路線を選択した政治家や官僚が排斥されてきたとする。名前の挙がっているのは、重光葵、石橋湛山、芦田均、岸信介、鳩山一郎、佐藤栄作、田中角栄、福田赳夫、宮沢喜一、細川護煕、鳩山由起夫、小沢一郎らである。

 一方の従属路線には、吉田茂、池田勇人、三木武夫、中曽根康弘、小泉純一郎、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗、安倍晋三、麻生太郎、菅直人、野田佳彦などであり、一部抵抗路線には、鈴木善幸、竹下登、橋本龍太郎、福田康夫らがいる。

 戦後外交をこういう捉え方もあるのだと感じるとともに、私は、この史観は乱暴だと思う。一人の政治家を白か黒かに分類するのは単純すぎる。政治、経済、軍事、技術などの分野においては、それぞれにスタンスが異なるだろうし、世界情勢や米国の世界戦略の変化によっても時々刻々変化してきたと思う。

 米ソ冷戦時代は、対米外交の比重が高かったが、冷戦終結後における世界の多極化構造の中では、対米以外にも対アジアなど複合的分析が必要と考える。

 私が本書から類推してしまうのは戦後革命論争である。この国における革命をどのように戦略規定すべきかというものである。日共は、2段階革命を唱えた。すなわち、この国は、米国に従属している(対米従属)のだから先ず真の独立を果たすため民族独立民主主義革命を行い、その後に社会主義革命を行なうべきという戦略である。

 一方、この国の資本主義は一定の自立を果たしており、また帝国主義段階に達していると規定した方は、1段階革命として社会主義革命を行なうことができるというものである。真面目にこんなことを議論していたのがなんとも懐かしいが、現実を見るとほとんど死語なのだろう。(本当に絶滅した。)

 

 

  

                       

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『古事記 ナムジ 大國主』

2013-01-03 14:57:37 | Weblog

 明けましておめでとうございます。今年もこのブログを読んでいただきありがとうございます。年の初めから「晴走雨読」生活をしています。

 年末・年始休みは、1日おきに走ることができ、29日、31日、2日とランニングが出来ました。走り初めは、昨日2日です。しかし、気温が-5℃と低く、路面もカチカチのアイスバーンで肩に力が入るためでしょうか、肩こりがひどい状態です。

 

 『古事記 完全版 ナムジ 大國主 壱~参巻』(安彦良和著 角川コミック・エース 2012年刊)

 私はあまりコミックは読まないのであるが、2012.10月に読んでその歴史的なスケールの大きさに感心した『虹色のトロツキー』の作者、安彦良和氏の作品ということで購入。初出は、約20年前の1989年徳間書店から刊行されており、今回その完全版ということで再刊されたものである。

 何といっても、私は安彦氏の歴史認識に共感した。このブログでも取り上げたが、吉本隆明の方法論に拠って歴史を研究している室伏志畔氏の認識とかなり共通しているのだ。

 作者の初版版あとがきでは、「古代、四・五世紀以前の日本史はおそろしいほど判らないことだらけだ。」私もいわゆる戦後教育の中で育ったのだが、古代史は、縄文・弥生土器、稲作渡来、四世紀半ば、突如巨大古墳ができ、魏志倭人伝、卑弥呼が小さく記述されている。「これは、皇国史観への反動だ。」

 「『古事記』『日本書紀』には歴史認識の照り返しがある。両書は、歴史を遠大に脚色した産物だ。」

 私は、この国の歴史認識が敗戦を挟んで極端に振れ過ぎたと思う。戦前は皇国史観として記紀神話を無条件に肯定し、子どもたちに教え込んでいた。しかし、戦後は、軍国主義教育への反動から記紀の神話部分を完全に切り捨ててしまった。そのため、上記のように古代史にぽっかりと空隙ができてしまった。古代天皇制の確立とともに、記紀はそれ以前の歴史を天皇中心の歴史に再構成したものであるとしたら、そこには歪んだ形にせよ歴史的な事実が書かれているとすべきであろう。

 古代史ファンが多いのは、何が真実かはっきりしないため、素人、玄人の研究者も含めて様々な仮説が成立するためであろう。また、古墳の発掘が様々な制約から進まないのも一因と思う。本書は、安彦氏による古事記伝説の提示である。

 

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さすが天下の「朝日新聞」

2013-01-01 16:48:03 | Weblog

 先日、ある地方紙の記者と話す機会があったが、「新聞の将来は先細りだ。」と語っていた。便利になったということなのか、最寄りのステーションまで走らなくても各社の社説がネットで読めるようになった。

 元日の社説をざっと読み比べると、ほとんどの新聞は、安倍政権への期待と警戒感を中心に、「右・左」のスタンスの違いがありながら政策レベルの議論に終始している。

 その中で、朝日新聞だけが、私がこのブログでいい続けている時代認識「国民国家の黄昏」を意識した社説を掲載している。さすが、朝日新聞。

 混迷の時代の年頭に―「日本を考える」を考える(朝日新聞2013年元旦社説)

 「国家以外にプレーヤーが必要な時代に、国にこだわるナショナリズムを盛り上げても答えは出せまい。国家としての「日本」を相対化する視点を欠いたままでは、「日本」という社会の未来は見えてこない。」

 各社の社説を大きく分けると、ひとつには、国家というフレームを前提に国力を強めなければならないという考え方がある。(読売、日経)一方、互譲、互恵、ソーシャル・キャピタルといった人と人との関係を重視すべきとの考え方がある。(毎日、道新)

 後者における問題、これは左翼に共通していると考えるが、国家が未来永劫存在することを前提としているのかどうか、ここが肝心だと思う。朝日は、今年の社説でこの部分を突き抜けたと思う。 

 

 

 

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