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吉田敏明 『鉄から見た我が国の古代史』 葦原中津国(あしはらのなかつくに)のワケ 葦(あし) 河童は実在した

2024-06-12 14:10:51 | Weblog

『鉄から見た我が国の古代史』(吉田敏明著 火力原子力発電技術協会 2015年刊) 葦原中津国(あしはらのなかつくに)のワケ 葦(あし) 河童は実在した  

友人から、高効率発電システム研究所吉田敏明氏が火力原子力発電技術協会誌(Voi.66 No.9)に寄稿した古代史論文のコピーをいただいた。実に面白く久しぶりにわくわくして読んだ。古代においてこの国は、「葦原中津国(あしはらのなかつくに)」と呼ばれていたが、なぜ葦(あし)なのか、その謎が解明された。葦が重要な植物だったのだ。パシカルが「人間は考える葦である」と言ったことと通じるのだろうか。

昔から「鉄は国家なり」といわれている。古代においては、鉄をつくる技術を持つと丈夫な鉄製農具を作ることができ、農業が発展し、そのため強い集団づくりにつながっていた。

以下、本論文の内容を記す。我が国への鉄の伝来ルートは3つある。

①弁辰鉄資本ルート、ニニギ族が朝鮮半島(後の任那)から九州北部にもたらした、鋳鉄・鍛治(間接製鉄法)。この一族から初代天皇の神武が生まれた。

②大陸産鉄族ルート、スサノオ族が同じく朝鮮半島から山陰地方の出雲に伝えた砂鉄製鉄(半溶融直接還元法)たたら製鉄技術。素戔男尊(スサノオ)は朝鮮経由で出雲に来た。

③海辺産鉄族ルート、アタ族が中国沿岸から九州熊本(球磨川)に伝えた湖沼製鉄法

重要なのは、③の湖沼製鉄法だ。

古代の人たちは焚火の灰の底に鉄が溜まる現象を知っていた。その理由は、鉄バクテリアによって湿地帯に生える葦の根元に湖沼鉄という水酸化鉄が溜まり、この葦を燃やすと、焚火程度の比較的低温(600~800℃)でも水酸化鉄から鉄をつくることができる。葦から鉄を採るのだ。皆さんは、沼のような湿地で、根元が赤くなっている植物をみたことがあるだろうか。また、水面に赤く油のようなものが浮いているのを見たことがあるのではないか。そこに、鉄を含んだ物質があるのだ。これが、「葦原中津国(あしはらのなかつくに)」とこの国が呼ばれていた理由だ。

僕は、河童(かっぱ)はカエルから連想した想像上の生き物だと思っていた。だが、河童は実在していたという。河童は、河の子、すなわち水辺に這いつくばって葦を刈る人のことだそうだ。製鉄につながる職業だったのだ。

以上、葦から鉄を採る技術を持っていたのが、中国の河南から熊本の野間岬に辿りついたアタ族である。アタ族は、万之瀬川下流の湿地帯に定住した。

①のニニギ族は鍛治技術のみで製鉄技術を持っていなかった。そこで、ニニギ族は湖沼鉄の技術を手に入れた。その方法は、アタ族首長大山衹神(オオヤマミツ)の娘である木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と婚姻関係を結んで入手したのだ。その3代あとに初代天皇になる神武が日向(宮崎県高原町)で生まれた。神武の東征といわれる行動は、九州東岸、瀬戸内海沿岸、紀伊半島と湖沼鉄を求めながらの湿地帯を辿る旅だったのだ。

そして、当時は湿地だった大和盆地に辿りつき、その皇后に③スサノオ族からヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)を迎えた。ヒメの名前には、砂鉄から鉄をつくる「たたら製鉄」を意味する「タタラ」という言葉が入っている。このことは、神武勢力が出雲のスサノオ族を服属させ、ヤマト政権を樹立したことを表している。

これで、葦から鉄をつくる技術から始まって古代政権の樹立までの歴史が説明されたことになる。

葦原中津国、なぜ葦なのか、ずっと引っかかるものがあった。この理論では、それをすっきりと説明している。僕は、なるほどそういうことだったのかと納得した。ただ、証拠があるかというとないのだ。残されている証拠は、「古事記」「日本書記」などの書物と考古学的に発掘されたものだけだ。

古代史ファンといわれる人は多い。僕も詳しくはないがこの国の成り立ちを知りたいと思い興味を抱いてきた。古代史の専門家、さらに在野の研究者を含めてそれぞれ説得力のある理論を展開している。その中で、何が真実なのだろうか、決定的な説はない。逆にいうと、そこが古代史研究の魅力なのだ。なぜなら歴史の解釈にロマンが漂うからだ。

 

 


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