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晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『やくざと芸能と』

2014-07-22 20:00:28 | Weblog

 いつの間にか、夜の雨が降り出していました。本を読んだり、文章を書いたりしていたので、気がつきませんでした。雨粒が窓をたたく音、久しぶりに聞いたようです。猫の額より狭いマイガーデン。これで、ししとうとインゲン豆がググッと伸びるでしょう。もう少し雨が強くなったら、車庫から車を出します。一晩置くと自動洗車が終了です。

 

 『やくざと芸能と 私の愛した日本人』(なべおさみ著 イーストプレス 2014年刊)                    

 著者なべおさみ。人懐っこい丸顔が浮かんだ。そういえば、なべおさみという芸人がいたな。最近テレビに出ていない。どうしてだったかな。なべやかん(息子)は、出ていたっけ。世間からすっかり忘れられてしまった過去の人。

 なべおさみが大変面白い本を書いた。芸能界とやくざの関係は、在日など芸能人の出自と合わせて一種のタブーだと思う。昔なら、この分野は、竹中労や猪野健治あたりが得意としていたと記憶する。本書は、そのタブーに挑んでいるというより、なべ自身がその世界に生きる人だったことに驚く。

 顔に似合わずなべは中学生の頃から新宿の遊び人。人に惚れるタイプで、それがやくざだろうが、政治家だろうが、実業家だろうが、先入観を持たない。子どもの頃から現在までのエピソードが書かれていて、なべがつきあいのある芸能人の実名がばんばん出てくるが、そのほとんどはやくざと関係があることを示唆している。

 ただ、本書の中で、理論編ともいうべき『第三章「本物」やくざをおしえよう』では、この国の歴史を調べており、渡来人、ユダヤ人、アウトローの発生、やくざの起源、被差別、身分制度、天皇制などが分析されており、なべの推論も含めてこの国の裏面史となっている。良く勉強していると感心させられる。

 本書は、久しぶりに読んで楽しん本であった。推薦(☆☆☆☆)

 私も仕事上様々な世界のひとと接してきたが、ひとを肩書や他人の評判で決めつけてはいけないと思っている。自分で付き合って評価を決めてきた。ひととの関係で、私がずっと心がけていることは、シンプルに「嘘はつかない」「約束は守る」のふたつだけである。

 

 

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『絶望の裁判所』

2014-07-20 20:44:16 | Weblog

 歳をとってきて滑舌が悪くなってきたと自覚しています。発音不明瞭で、頭の回転も鈍ってきて次の単語が出にくくなってきています。相手にとって聞きにくいだろうなと感じています。そこで、ここ数か月やっている私の克服法は、朝の通勤中、自分の車の中で発生練習をしています。「あ、え、い、う、え、お、あ、お!、 お、あ、お、え、い、う、え、あ!」「か、け・・」と、大きく口を開け、お腹から声を出して。

 少し恥ずかしいのは、対抗する車の方が、不思議な顔をすることです。変なオジサンだと思います。この練習、先週からもう一ランク上げて、声の高さを変えることにしました。低音から、高音まで、短く発したり、長く伸ばしたり、声域の幅をもっと広げたいと思っています。

 これは、吉田拓郎がボイストレーニングをしていると言っていたのがきっかけです。先月出た、アルバム『Again』には、これまでのリメイク曲が収録されていますが、拓郎の声が若い頃に少し戻っているように思えます。

 

 『絶望の裁判所』(瀬木比呂志著 講談社現代新書 2014年刊)

 書店の新書の中で今一番売れているようだったので購入。しかし、かなり期待外れであった。元裁判官が現在の最高裁を批判しているのだが、その切り口は、論理の世界というより、私情、私憤のレベルとしか思えない。駄本である。帯に推薦文を書いた魚住昭氏もいい加減なほら吹きをやめてほしい。

 私は、浪人をしていた1973年に長沼ナイキ訴訟に対する札幌地裁判決をその日、裁判所前まで見に行ったのだが、自衛隊違憲判決を出した福島裁判長のその後を知っているので、既にその時点で司法は終わっていると思っている。制度上は、最高裁判事に対しては、国民審査で国民がNOと意思表示をできることになっているが、誰もそれが有効に機能できるとは思っていない。

 著者は、自分だけが清く正しく、それを受け入れてくれない司法から逃げ出し、自分以外の裁判官の個人的な資質、出世主義者、偏ったイデオロギーなどを問題にしているが、問題の本質はそのようなところに無いと考える。今までも、この手の告発型の本を読んだが、いずれも視野の狭さと有効な対案の無さが共通している。著者は、一時的にもてはやされるが、すぐに賞味期限が切れたような扱いになる。

b私は、国家権力(政治)による司法のコントロールを問題にするのなら、「最高裁」を廃止するべきと考える。国民国家が黄昏を迎えている現在、国家は解体の方向に持って行くべきと考えており、司法も地方毎の判断、地裁、せいぜい高裁レベルまででいいと思う。司法の地方主権化を進めるべきと考える。

 最高裁があることにより、全国が同一の法律の適応と解釈で公平性が保たれるというメリットよりも、今では最高裁によって国民全体が不利益になっているのなら、最高裁のあるメリットは無くなっていると考えるべきではないか。

 

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日本神話

2014-07-18 20:37:00 | Weblog

 『日本神話の地図帳 地図とイラストで読む「古事記」「日本書紀」』(武光誠編著 別冊宝島2151 宝島社 2014年刊)

 小学校で使っている社会の教科書では、この国の歴史について、私が50年近く前に習ったのと全く変わらず、縄文時代に続いて弥生時代がきて、何の脈絡もなく卑弥呼の邪馬台国がり、突然に大化の改新、聖徳太子と続く。

 この国は、その成り立ちを教えることができていないのだ。温故知新という言葉と同様に、先端、すなわち未来の方向を探るとすれば、初源、その成り立ちを突き詰める必要がある。初源のない国、いつ、どのようにして、この国が成り立ったのかが分からない国のままならば、この国のとるべき方向もわかるはずがない。

 本書は、「古事記」「日本書紀」に書かれている神話をビジュアルに解りやすく解説している良書である。天照大神から神武天皇に至る物語は、そのスケール、発想力、ダイナミックなストーリー、読み物として本当に楽しめる。

 「記紀」は、天皇制成立後にそれ以前の歴史をあたかも天皇制が存立していたかのように書き換えているという制約を持つが、その中の神話には、その時代に起こった事実が形を変えて書き込まれていると解釈すべきである。

 戦前の歴史教育は、記紀神話をそのまま無条件に皇国史観として教えていたと思うが、戦後になってその反省から皇国史観を排除するとともに、神話に入っている事実までも捨て去ってしまった。私は、天皇制統一国家の成立を確定し、それ以前の歴史から天皇制の要素を取り除き、神話から事実を自由に想像するような歴史教育があってもいいのではないかと考える。

 この国の歴史の初源が、虚構と隠ぺいであれば、いつまでも先端は、虚構と隠ぺいの連続とならざるを得ないであろう。最近の事実からでも、集団的自衛権なる議論経過も、虚構と隠ぺいそのものである。

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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その9

2014-07-13 13:43:53 | Weblog

 気温が上がりようやく真夏のランニングができるようになりました。マイナス5℃の中を走っていたことを思い出すと、この暑さもありがたいものだと感じます。少し走り出すと汗が噴き出してくる、身体の水分が無くなり汗が止まる、水分を補給する、再び汗が噴き出す。走り終えても中々汗が引かないで、顎からポタポタと汗が落ちる。一歩、一秒を負荷をかけて無理をする感じが快感になる。

 暑さに耐えることができるようになったのか、暑さを感じるのが鈍くなったのか、冷房が苦手になってしまいました。

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その9

 2か月ほどお休みをしていたが、再び読み進める。低賃金、非正規雇用の増加、ブラック企業の存在、変形労働時間、フレックスタイム、裁量労働時間の導入、サービス残業の常態化、ダブルワーク、トリプルワーク、さらに残業手当ゼロ制度の検討など、マルクスが第8章「労働日」で、労働時間の短縮が労働者の長い闘いの歴史の成果であり、一定程度労働者側が勝ち取った制度であったものが、近年、経済のグローバル化の情況の中で、労働環境は時代が昔に戻っているように感じる。階級闘争という言葉が消えていくのと同時に、労働者の権利の剥奪が始まった。

 『資本論 第一巻 ㊦』(今村仁司・三島憲一・鈴木直訳、筑摩書房マルクス・コレクションⅣ・Ⅴ 2005年刊)

 マルクスの分析は、第五篇「絶対的剰余価値と相対的剰余価値の生産」に入り、第一四章「絶対的剰余価値と相対的剰余価値」、第一五章「労働力価格と剰余価値の量的変動」、第一六章「剰余価値率のさまざまな公式」と論理展開を中心に進む。

 第六編「労働賃金」では、第一七章「労働力の価値ないし価格の労働賃金への変容」のあと、第一八章「時間賃金」で、(P255)註(37)でマルクスは、「ロンドンのシティにある製本業では、14歳、15歳の年少の少女たちをきわめて多く使用している。毎月最後の週には、夜の12時、1時まで年長の男子工と(徒弟規則を超えて)一緒に働いている。『親方は割増給』と、近くの居酒屋でとる、『うまい夕食で、彼女たちを誘惑する』。こうして『若き不死身の者たち』の放縦が生み出される。それをあたかも償うかのように、多くの聖書と宗教書が製本されている。」と現実が聖書に書いてある綺麗ごととの違いを皮肉る。

 引き続き、第一九章「出来高賃金」、第二十章「国による労働賃金の格差」と進む。

 

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『レッド Red 1969-1972』 第7巻、第8巻

2014-07-10 20:25:50 | Weblog

 半年ぶりのイノダコーヒー。大丸デパート札幌店にしかなくなった。店内はおしゃべりで少し騒々しいが、やはりコクがあって旨いと思う。ブックマークしています愛犬日記、ぷららのサービスが終了したので、ここと同じ、gooに移行したということです。NTTの合理化です。

 

 『レッド Red 1969-1972 7』『レッド Red 1969-1972 8』(山本直樹著 講談社イブニングKCDX 2013年刊、2014年刊)

 現在発刊されている第8巻まで読破。(その後は、週刊イブニングで連載中)長い長い1971年がようやく終った。山岳ベースでは、厳しい冬を迎え、この後あさま山荘事件までの60日ほどの間に、「総括」という名で15名の仲間が粛清される。

 現在の私のような市井人の日常は、家族、会社、地域、法律など様々な規範に囲まれて生活している。交通ルールのように常に意識しながら守るルールもあれば、当たり前の日常になってしまって、特に意識もせず、また特別の拒否感も持たずに受容しているルールもある。もう少し言うと、たかがその規範の範囲内での振る舞いに過ぎないのだが、それを「自由」と感じて生活している。

 目的意識を持つ者を革命家と呼ぶと、革命家は市井人の日常性に異を唱える。籠の鳥状態を自由とは呼べない。真の自由がある世界は、もっと違う向こう側にあるのだ。だから、目的意識を持って、そこまで行こう。そのためには、新しい世界までの過渡期として、我々自身の規範を守る必要がある。それを邪魔する敵との闘いにあっては、なおさら自らを律しなければならない。・・しなければならない。・・であるべきだ。闘いの非日常を構築しなければならない。目的意識の足りない者は、自らを「総括」せよ!

 それは、してはいけないことだ、というような規範に触れる行為を批判されることは比較的納得しやすい。受け入れることも、反論することも論理の世界で理解できる。しかし、内面を問われるのはきついと思う。連赤事件の「総括」に感じるその切なさ、やるせなさは、彼らの内面を問う総括だったからだと思う。「お前はお前の意識の共産主義化が足りないのだから、自らを総括せよ」と問われたのだ。自分の意識のどこに問題があるのか。どのように変えれば良いのか。答えがあって、答えのないような、終わりなき問いを突き付けられるのだ。

 連赤の事件は、過去の時代に、左翼が革命運動という特殊な状況下で起こったことなので、今の我々には無縁な出来事と言って、切り捨てていいのだろうか。私は、市井の日常で常に発生する可能性があると考える。「アイツの目つきが気にいらない」「お前は、何を考えているのだ」「なんで、そんな顔をするんだ」・・私たちは、他者を理不尽に全否定する言葉を吐いてはいる。

 

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『吉本隆明詩集』

2014-07-04 21:18:52 | Weblog

 『吉本隆明詩集』(現代詩文庫8 思潮社 1968年刊)

 ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる

 ぼくの肉体はほとんど過酷に耐えられる

 ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる

 もたれあうことをきらった反抗がたおれる

 ぼくがたおれたら同胞はぼくの屍体を

 湿った忍従の穴へ埋めるにきまっている

 ぼくがたおれたら収奪者は勢いをもりかす

 

 だから ちいさなやさしい群よ

 みんなひとつひとつの貌よ

 さようなら              

   詩集〈転位のための十篇〉の中の「小さな群れへの挨拶」より(1952~53年作品)

 

 おれが愛することを忘れたら舞台にのせてくれ

 おれが讃辞と富とを獲たら捨ててくれ

 もしも おれが呼んだら花輪をもって遺言をきいてくれ

 もしも おれが死んだら世界は和解してくれ

 もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ  

   〈吉本隆明詩集〉の中の「恋歌」より(1954~57年作品)

 吉本隆明の詩作の中で両方とも有名なフレーズだと思う。吉本には、「ぼくらが」「わたしたちが」と詠う詩もあるが、「ぼくが」「おれが」と一人称で語る詩の方が強く伝わってくるものがある。

 それにしても、全世界を相手に強烈な自負心の表明だと思う。一種のハッタリのようでもあり、自己か崩壊するか否かの瀬戸際に立って、今から始まる格闘への宣言でもある。ぎりぎりに考え抜いて、言葉を紡いで、60年前に書き留めた言葉が生命力を持っているように、私には感じる。

 でも、慌ただしい日々に追われている今の私にとっては、世界を語ることよりも、ひとりを噛みしめる時間がとても愛おしいと思う。

 

コメント (2)
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