晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

ホットケーキ

2012-01-27 21:51:53 | Weblog

 

 六花亭福住店2階喫茶でホットケーキ!

 

何気なくテレビを観ていたら、時代小説をたくさん世に出した池波正太郎氏は30年以上にわたって毎日の食事を日記に克明に記していて、その中にホットケーキが度々出てくることを伝えていた。

 

 池波氏が幼い頃、氏の父と母が離婚し、氏は父と数えるほどしか会うことがなかったという。その父がフルーツパーラーに連れて行ってご馳走してくれたのがホットケーキで、それは卵とバターの香りがする「たとえようのないほどハイカラな味のする」食べ物だったという。父との数少ない記憶とホットケーキが結びつき、池波氏は晩年になってもホットケーキをこよなく愛したという。

 

 この話しを聞いて、私は無性にホットケーキが食べたくなった。札幌市内を調べると、雪印パーラー、喫茶西林(4丁目プラザ地下1階)、六花亭などで食べることができることがわかった。

 

 

 さて、記憶を手繰り寄せると、私にとってのホットケーキは、昭和30年代、小学校に入る前くらいの頃のことで、それは釧路で一番大きなデパートだった丸三鶴屋の食堂だったと思う。当時、デパートの日曜日の食堂と言えば超満員で、食堂全体にホットケーキの甘い臭いが広がっていて、運ばれてくる2枚重ねのケーキには、四角いバターが乗り、メープルシロップの入った銀色の容器が横に付いてきた。ナイフとフォークを使って食べるのも、一人前になったような気がしてとても嬉しかったものだ。

 

 その後、ホットケーキミックスなる粉が出現し、家でもそれなりのケーキが出来るようになり、ホットケーキを外食として食べることは無くなったような気がする。

 

 しかし、最近東京でパンケーキではなくホットケーキが流行っていると聞くが、首都圏からは数ヶ月遅れでブームが来る札幌には未だのようである。それで当分のマイブームは、「ホットケーキ」になりそうなのである。

 

 PSA 4.5 うーん?

 

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走っている時考えること       

2012-01-21 21:01:23 | Weblog

 「継続は力なり」とは、わかっているが明日は営業。本日、週末ラン10km、1時間弱身体を回す。

 

体育館で走っていると、様々な走り方の人と会う。足の運び方は大きく分けて大股で走るストライド走法と細かく刻んで走るピッチ走法がある。腕の振り方も高い位置で抱えるようにする人や腰より低く四足のように足と連動させて走る人、身体の傾け方も前傾のきつい人や後ろへそっくり返るようにする人、首が傾く人など。その人によって骨格や筋力が違うので自ずとフォームも異なってくる。疲れてくるとその人の特徴がより出てくる。おそらくそれがその人の一番楽な走り方なのだろう。

 

外見からいつも苦しそうに走る人と涼しげに見える人がいる。ただ、苦しさというのは決して自分以外の人にはわからない。苦しそうな人が、どれ位苦しいのか、死ぬほどなのか、倒れそうなのか、息が出来ないほどなのか、他者からはわからない。今の苦しみは、19kwとか、30kwとか、苦しみには単位もない。他者と比較ができない。せいぜい、自分のこれまでの中で、経験したことのない苦しさとか、前にこれ位のことがあったとか、以前に比べたら大したことがないとか、そんな比較は可能である。

 

自分の傍らで、苦しみや痛み、悲しみを抱えている人がいても、寄り添うことはできるが、完全にその人と同じ苦しみにはなることができない。共感や同感は、自己と他者の間で完全に成立することはない。走っていると、「人は独りなのだ」と感じる。先ず、独りであることから始めなければならない。

 

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どりこの

2012-01-20 20:32:45 | Weblog

第800回記念ブログ!

 

 

超推薦、これは歴史書だ。書店では食品コーナーに分類されていたが。

 

 

『伝説の「どりこの」 一本の飲み物が日本人を熱狂させた』(宮島英紀著 角川書店 2011年刊)

 

80歳以上の方なら覚えているはず」と著者は言う。是非、周りにそれ位の年齢の方がおられるなら尋ねてみて下さい。

 

「どりこの」とは、昭和5年位から戦争中まで全国で売られた清涼飲料水、甘く酸味もあって爽やかな飲み物、発売が何と大日本雄弁会講談社(今の講談社)だったから驚き。それも電通顔負けのマルチメディア宣伝。

 

人々の記憶の中には残っているが、製法が失われているため再現は不可能。しかし、地名など様々なところに痕跡が残っている。それもなんと驚くことに私の故郷釧路にも。(本書P125

 

「釧路市の幣舞橋に近い南大通に昭和の初めから30年頃にかけて、饅頭屋あり、『どりこの饅頭』を売っていた」「昭和29年発行の手書きの商店街地図に、市役所の近く南大通の金物屋と食堂の間に「どりこの菓子」という屋号が確認できた。周囲は、公民館、日銀釧路支店、警察署、産業会館がある。」(市役所は現在地へ移転前の旧市役所と思われ、また地図では平面的に表現されているが、市役所、警察署は富士見坂の上の高台に位置しており距離はかなり離れている。)

 

19991112日付け北海道新聞は、釧路市栄町に『どりこの古書店ワールド』なる古書店があると紹介している。文芸・思想・自然科学を中心に5万冊の古書を揃え、うち1万冊は屋外に陳列されている。」

 

どちらも現存しない。私は、昭和29年釧路生まれ、昭和483月まで釧路で生活していて、その後も時々帰省しているが、全く記憶も何も無いが、調べたいという好奇心が沸々と湧いてくる。

 

どなたか情報があれば、是非著者の宮島氏に提供を。そして宮島氏の「どりこの第2弾」を期待したい。

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コンサドーレ札幌キックオフ2012 

2012-01-16 16:42:00 | Weblog

昨年123日の歓喜のJ1昇格から1月が経ち、今年のコンサドーレ札幌が15日キックオフイベントで始動しました。毎年、コアなサポーターが終結していますが、今年は6千人を超えJ1での戦いへの期待の大きさが表れていました。

 

 2012のチームの特徴は、基本的に2011の選手をほとんど残留させたことでしょう。これまでの昇格の際は、チームに貢献した選手であっても、J1で戦う上ではいまひとつと思われると戦力外、移籍を行い、他から獲得した選手を合わせるとほとんど別のチームのようになり、それが融合するのに時間を要したりで失敗を繰り返していたと思います。

 

 2012チームには、何人か能力的にはJ1ではまだまだという選手がいますがそれらを残したことは、個々の能力の成長への期待と解釈して良いのではないでしょうか。

 

チームはこの間、2012の戦力を整えるため補強をしました。いい補強ができていると思います。中でも私の期待は、FW大島です。ポストプレーに秀でていて、「電柱」大島と称されたこともあると思いますが、彼の経験と実績に期待しています。ただ、現時点で外国人枠が2人余っているのが気になるところです。これで、補強は終了というほどJ1は甘くないと思います。新背番号1920を空けているのは、そこに外国人をということになりそうですが。

 

さて、310日の開幕戦は、ジュビロ磐田のようです。再び、札幌ドームに4万人が集まれば、強豪に対しても良い戦いができると思います。

 

2012クラブスローガンは、「We Go On」、「ただ、ひたすらに」という意味です。私も、ただ、ひたすらに応援しようと思っています。

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『完本 情況への発言』 その4

2012-01-14 16:42:22 | Weblog

 19829月『試行』第59号(P368P398)で、吉本氏は『「反核」問題をめぐって』と題し、当時米ソ冷戦下この国でも盛り上がっていた反核運動を批判している。

 

 当時の私は「反戦」を正しいと信じ無条件で支持していたが、知人から吉本氏の『反核異論』を借りて読んだ時に、冷や水を浴びせられたような衝撃を受けたように記憶している。

 

 氏は、「(旧)左翼は、中越戦争、カンボジア・ベトナム戦争、ソ連のアフガニスタン侵略、ポーランド連帯の弾圧に対し批判から逃避し、反核運動が盛り上がれば喜び、フォークランド紛争、中東戦争に再び言葉を濁す」

 

 「今回の反核運動は、西ドイツのソ連シンパから発祥し、ソ連とポーランドの軍事政権がポーランドの「連帯」運動を制圧した事態を被覆するためのものであり、ソ連製反核運動という性格を持っている」と言う。

 

 それを裏付ける事実として当時、西ドイツから来日していた在ベルリンジャーナリスト梶村太一郎氏やオイゲン某を招致した講演会(日独平和フォーラム)などが開かれていた。今思えば、彼らの言説は、平和の尊さや核戦争の恐怖からの回避など誰もが反対できないことを説くものであり、その原因がどこにあるかなどについては言及していなかったと思う。

 

 氏はまた、「一方は、大衆と知識人に危機感や破滅感を煽り反核運動の必要を説く。他方は、軍備増強と改憲を説く。その質は同じである。それよりも若者の太平楽の方が歴史の大道を歩んでいる」と言う。

 

 吉本氏の警告は、「戦前のスターリン体制による左翼、進歩思想の世界制覇のために提唱された人民戦線戦略、この国においては戦時下の国策に沿った文学報国会や大政翼賛会のテーマ主義」に対し発せられる。

 

 私は自戒を込めて、左翼の持つ「自分(たち)だけが正しい」と考える独善性、それを他者に強要した場合の権力性への無自覚が、いつまで経っても左翼が多数派を占めることが出来ない、また権力を握った場合における数々の悲劇の原因と考え、改めて吉本氏の警鐘に学びたいと思う。

 

 私たちは、「正義の地獄」をいくつも経験してきた。「社会主義国」といわれる体制におけるスターリン、毛沢東、ポルポト、金日正らリーダーによる人民虐殺、この国においても、日共、連赤、「内ゲバ」など党内・党派抗争における殺人、死者の数を数えることから始めなければならない。

 

 

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走る時に考えたこと      

2012-01-10 21:53:48 | Weblog

走る時、心肺機能や筋力に負荷がかかり苦しいとか痛いと感じるときがある。特に、長距離走はガマンガマンでしのぐ事が多い。途中意識してペースを落として呼吸を整えることもある。無意識のうちにペースが落ちてしまうときもある。苦しさに耐え切れずこれ以上は無理と判断して止まってしまうこともある。

 

 走るごとに記録が伸びるような時(年代)は、練習するたびにこれまでよりも少し負荷をかけ、少しの無理をすると、身体の能力もそれに応じて上がっていくのが実感できた。

 

 年代的にも下降傾向の今、そういう負荷をかけることが怖いと思うようになった。昨日より今日の能力が上がっているというより、何もしないと徐々に落ちていく感じがする。前より負荷をかけた場合、身体能力が上がるというより、逆にどこかに故障が発生してしまうような怖さを感じる。

 

 ランナーには60歳から走り始めたという方もいる。心が弱くなっているからなのか、身体能力が落ちているから心が弱くなっているのか。練習をしないから心が弱くなっているのか。

 

今落ちている身体能力を再び戻すことは可能なのだろうか。

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走りながら考えたこと           

2012-01-09 16:50:16 | Weblog

週末ラン、昨日は営業のため走ることができなかったが、7日(土曜日)と本日9日(月曜日)それぞれ10km走った。2012年を迎え、気持ちも新たにした中で、私にとってはまずまずのスタートではないかと思う。

 

 この気持ちというのが不思議な存在だ。心と言い換えてもいいだろう。走る時、心が身体を動かすことを実感する。

 

 例えば、走る時、北海道マラソンのように沿道に多くの応援をしてくれる人がいる場合と原野の誰もいない一本道をひとりで走る場合、応援をしてくれる人が良く知っている人の場合と全く知らない不特定の人の場合、ひとりで走る場合も大会で記録を狙うなどの目標がある場合や結果が注目されている場合、様々な場面がありそれぞれで心のありようが違う。それによって身体の動きも異なってくる。

 

 一体、この心の正体とは何だろうか。

 

 これとは反対に、身体が心のありようを変える時もある。私は、仕事のストレスを走ることで解消できることを実感している。普段と比較して走りが良かったり、悪かったりで、気持ち(心)が軽くなったり、重くなったりもする。体調が悪くても心が弾んでいるという経験はあまりない。

 

 一体、心と身体の関係とはどうなっているのだろうか。

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『完本 情況への発言』 その3

2012-01-08 19:31:32 | Weblog

 「アジア的ということ」①  

19805月『試行』第54号から19839月『試行』第61号までの7回にわたり(P299P434)、吉本氏は『アジア的ということ』と題しレーニンを批判している。

 

はじめに吉本氏はマルクスの「反」国家のイメージを語る。資本主義社会から共産主義社会への過渡期のコンミューン型国家は、国家によって常備された軍隊と警察の廃絶、それに代わる武装した民衆、民衆によって選出され、いつでも民衆の意思表示でリコールできる公務員の採用、国家公務員は労働者や大衆の賃金を上回る給与を受け取ることができない。その「反」国家(国家の死滅)への転換、一切の階級の揚棄(無階級社会)を進めるために「過渡期的なプロレタリアートの独裁」が必要である。また、生産手段の社会化は、生産手段の国有化とは同義ではない。

 

吉本氏は、マルクスの考え方を基本的に肯定する。私が聞いた1976年の講演会の時も、国家を廃絶した以降の社会を例えて、「政治に権力や利権が付きまとうことが駄目なのだ。政治を町内会の役員やゴミステーションの掃除当番のように皆が順番に担うような社会」という主旨の発言をしていた。

 

吉本氏は、それではなぜロシア革命は国家の死滅、従ってプロレタリアートの死滅、階級の死滅に向かわず、むしろ国家の膨張と強大化、民族排外侵略主義へ向かったのかと問う。

 

実際には、レーニンは権力の掌握後初期のうちに過渡期コンミューン型国家への転化を放棄していた。成立したのは、プロレタリアートの前衛集団に国家権力を掌握された近代民族国家であった。また、生産手段の社会化は、生産手段の国家権力による強制収容にしか過ぎなかった。

 

「被抑圧者の前衛」もまた「国家」の支配階級として組織されたときは、あらゆる「国家」と同じように抑圧者に転化するほかなかった。コンミューン型国家への即時的以降なくしては、「プロレタリアート」は、抑圧者、搾取者、国家的資本家階級に転化してしまう。

 

 権力を開き国家を解体するという目標を放棄した瞬間から、被抑圧者だろうが何だろうが権力を握った途端に、意図しようが意図せざるかは別として権力者に転化する。私には、「権力を取らずに世界を変える」(ホロウェイ)の言葉が浮かぶ。それには、どうすれば良いのだろうか。

                   

 

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『完本 情況への発言』 その2

2012-01-06 20:49:26 | Weblog

 前回、私は、「1970年代半ば、吉本の講演を聞く機会があった。」と書いた。それは、高橋和己を偲び、埴谷雄高『死霊』の完結を記念して全国4ヶ所で開催された講演会である。それについて、吉本自身が参加の根拠と理由について書いている。(19769月『試行』第46号「きれぎれの感想」P234P238

 

私は長年に渡ってこの講演会における吉本氏の発言にしっくり来ないものを持っている。氏は、『死霊』の紹介ばかりに時間を費やしていた。それは、氏の著作で読んでいる内容とは全くかけ離れたものだったので、当然会場から氏への疑問と批判が出た。それに対し氏は、「今まで話したことは埴谷の考えであって、私は全然そのようなことを考えていないです。」という人を舐めたような答えだった。私の氏に対して持った感情は、「人が悪いな」というのと「さすがたいした人だ」という複雑なものだった。

 

吉本は書いている。主催者から埴谷の体調がすぐれず、北海道と東北へ行けないので出かけてほしいという依頼があった。「『死霊』という作品への敬意と、作者埴谷雄高へのわたしなりの尊敬があり・・・引き受けた。」「わたしは、・・・『死霊』の思想的解説と現代性を客観的に述べることに意を用いた。そうすることがわたしの集会参加の唯一の趣意だったからである。」

 

「しかし会場からのわたしへの<質問>なるものは、『死霊』にかかわるというよりも、わたしに直接にあてられたものであった。わたしは当惑と矛盾を覚え、そもそもこの集会へ参加したこと自体が、場ちがいなのではないかという疑念を持つようになり・・」

 

当時、その会場にいた私としては、その情況は一致している。しかし、ここでの吉本氏の記述は弁明でしかないと思う。その後は、各主催者の講演者に対する配慮不足や善意の過保護、また深夜に氏の宿泊先に押しかけようとした学生の非礼について書いている。特に、主催者が氏とある会派の衝突を避けるように配慮したことに対して、氏は勝負しても良かったというような主旨を述べている。私には、強がりにしか聞こえない。

 

こんなことにこだわって何になるのだと思われるかも知れないが、30数年来の疑問が少し解けたと思う。私にとっては、ここから吉本への関心が始まっているから。

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「走り初め 2012」 

2012-01-02 17:38:58 | Weblog

本当は、薄っすらと雪が積もった誰の足跡も無い道を走るのが好きです。一歩一歩足を前に運び、腕を後ろに振ると必ず前に進むことができます。100m走るのも、42.195km走るのも原理は同じです。

 

 

明けましておめでとうございます。このブログは、20064月に始めましたので、今回で6回目のお正月を迎えることになりました。59ヶ月のまだまだよちよち歩きの子どもです。

 

 さて、「晴走雨読」と名乗っているものの、最近は走る話題が途切れていることを自覚していました。継続的にほんの少しは走っているものの、語るべきことが見当たらないという情況でした。

 

 昨年、ひとつだけ語ることのできなかった事があります。10月に例年参加している「北海道ロードレース」というハーフマラソンを走りました。ハーフなら練習しなくてもいつでも走れると舐めていたのかも知れませんが、自己ワーストを記録しました。それも、原因はあきらめにあります。自分の持ち味は、走る才能は無い、早いわけでは無い、でも粘り強く絶対あきらめない気持ちだと思っていましたが、簡単に歩いてしまいました。

 

 今年は、目標を高く持つことにします。フルを目指して練習しているから、いつでもハーフ位と思うことができるのだと思います。やはりコツコツ練習しないで夢を見ても仕方が無いことを改めて自覚しました。

 

 そして、今日は2012年の走り初めです。約1週間ぶりで体は重かったのですが、30分ほど6kmのジョグをしました。気温マイナス1℃、微風、くもり、真冬としては絶好のコンディションでした。200mの全力走を数本入れたりしたので、今は体のサビが少し落ちたような爽快感を感じています。運動不足の割には、体重が62.4kgとそれほど増えていなかったのも良かったと思います。

 

 「継続は力」です。身体は「嘘」をつきません。

 

 

 今日、走っている時、今年のテーマを決めました。「驕り」です。「驕る平家に久しからず」の驕りです。世界システムから私自身の極私的生活まで、絶対化や思い込み、既得権化や油断をしないことです。「○○××の驕り」を考えたいと思っています。

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