晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『新しい左翼入門』 その1

2012-07-29 10:23:31 | Weblog

 1991年9月の赤旗号外、記事中に「30年余にわたって党の生死をかけてたたかってきた日本共産党として、もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である。」と記されている。(古いスクラップから)

 

 『新しい左翼入門 相克の運動史は超えられるか』(松尾匡著 講談社現代新書 2012年刊)

 書名の「新しい左翼」から新左翼を連想したが新左翼には言及していない。この国の左翼の歴史、特に左翼の持つ決定的な欠陥を的確に指摘している良書だ。副題の「相克の運動史」の方が内容を的確に表していると感じる。

 左翼ということで当然のことながら日共にも言及しているが、大変興味を引く記述がある。(以下、引用する。)

 「日本共産党という組織は、宮本顕治というカリスマに合わせて作られていると言えるかもしれません。大韓航空機爆破事件を北朝鮮の仕業と認定したのは、ほとんど宮本一人の直感によっていたように思います。ソ連共産党の解散について『もろ手を上げて歓迎する』と即答し、ソ連が崩壊した時『せいせいした』と言い切った政治的センスも凄いと思います」(P180)

 ソ連が本店なら日共は支店、ソ連が親なら日共はその子のはずなのに、支店が本店の倒産を、子が親の死を『もろ手を上げて歓迎する』という感覚に当時私は違和を感じた記憶を持つ。日共が、ソ連の支店として、子としての記憶を断ちたいならば、日共が一貫していると誇る党史(1922年結党)を根底から総括すべきである。

 続いて、本書では、宮本に比べると後継者不破の政治的センスの無さを指摘している。

 「中国共産党がいかなる意味でも社会主義的であることをやめ、そのブルジョア独裁の反人民的本質を世界の人々に次々とさらけだすようになったまさにそのときに、党関係の改善に乗り出したのでした。北朝鮮についても、体制危機の深化の中で個人独裁の悪あがきが世界にあらわになってきたそのときに、朝鮮総聯との関係改善と日朝国交回復要求に乗り出したのでした。しかも、そのために拉致問題について、北朝鮮の関与は確定ではなく「疑惑の段階」と強調したまさにその直後に、金正日が北朝鮮の犯行を認めるという間の悪さでした。」(P181)

 さらに「もし、中国とも北朝鮮とも激しく対立する宮本路線を続けていた場合、共産党は「左翼=売国」等々の右派側の攻撃に耐えて、今よりずっと勢力を維持することができていたでしょう。今日の苦境はトップの判断ミスでもたらされたところが大きいと思います。」(P181)

 不破時代の後、宮本家の家庭教師しか労働体験の無い志井が継ぎ、泡沫政党化していったのは周知の事実である。

 宮本、不破、志井とこの党のリーダーは東大卒だが(このこと自体は特に悪いこととは思わない)、一般社会の経験がほとんど無い(決定的な欠落!)、大衆の原像からは遠い者に率いられ、下部活動家は自分の頭で考えることを禁じられ、赤旗に書いていることを唯一真実と思い込んできた。そこにも「左翼の持つ決定的な欠陥」がある。

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脱原発の風景 

2012-07-22 15:15:06 | Weblog

 営業が挟まりながらも何とか週末ランを欠かさず続けている。走りながら様々なことを考えた。9月の末から10月の終わりにかけて、旭川ハーフ、室蘭白鳥大橋ハーフ、北海道ロードレースと3レースに出場することを決めた。気持ちが入るように目標を掲げた。

 フクシマの事態に対する東京電力の対応もまことに横柄なものであったが、北海道電力もこれに劣らず酷いものである。記者会見における幹部の話し方、特に前社長はエリート意識丸出しで相手に不快感を催させるものだった。さらに、今回は計画停電の地域割りという一歩間違えば人命にも関わる通知をいとも簡単に間違えてしまうという失態。今どきこのような体質の会社があるのだろうかと不思議な感覚に囚われる。

 北電は、この夏における需給逼迫を理由に、節電要請、計画停電と道民への恫喝を行なっている。しかし、本命は冬場であろう。北海道の場合、冬季の停電ともなれば、寒さを我慢するというレベルでは無く、多くの凍死者が必ず出るであろう。従って、現在ある手段は泊原発を再稼動させる以外にはない、という論理だ。され、脱原発デモの参加者は現実としてこれにどう答えるのであろうか。

 私は、現状の電力会社及び政府機関の手による原子力発電には反対である。電力会社は、公益事業という性格を人びとのために奉仕するというより、自分たちのやり方が唯一正しいとする独善性として解釈し、また他に競争関係の無い地域独占企業としてあぐらをかいている。(同じ公益事業でもガス会社は、プロパン供給会社との競争関係があるので、電力会社とはかなり体質が違うように感じる。)

 東京の脱原発集会に17万人が集まったと報道されている。(鳩山由起夫が参加したことは、野田さんと同じで「どうでもいい」ことだが。)この事態をどのように解釈したらよいのだろうか。大飯原発の再稼動を許さないという民意であることはもちろんだ。しかし、参加者の考え方は多様なのであろう。

 各々の原子力に対するスタンスは異なる。一切の原子力に反対する者、人類は原子力を利用することから完全に撤退するべきという者、今の電力会社の横暴に反対する者、フクシマを繰り返してはいけないという者、様々な意見を持っているのであろう。

 私は、この原子力発電を含むエネルギー問題の底には大きな問題があると感じている。今は、仮説を試みるしかないが、原発事故後あれほど騒いでいた地球温暖化が全く聞こえなくなった。そこからは、「温暖化防止=原発推進だった」という仮説が成り立つ。言われている脱原発の方法としては、太陽光、風力、水力などの自然エネルギーを増やすというものであるが、それらだけではとうてい必要なエネルギーを賄うことができない。どうしても原油や天然ガスに依存する火力発電に比重がかかる。しかし、火発は、大気汚染の問題を引き起こす。また、原料の供給が不安定である。

 シリアを巡って現政権維持のロシアと反政府組織を支援する米国、反米のイランを制裁したい米国、中東有事になれば、原油が高騰し、電力料金も跳ね上がるであろう。そんなことになっても17万人の方々は、何があっても未来永劫脱原発なのだろうか。

 私は、放射線の研究はもっと進めるべきであり、人間の制御能力はもっと高まると考える。また、利用の可能性も医学や考古学などの他、もっと広がるのではないかと考える。さらに、原子力発電も、核分裂による熱で水を温めタービンを回すといった原理ではなく、例えば、核分裂自体から電子そのものを取り出し電力に変換するといった原理(可能かどうかはわからないが、現状と違う原理を見出すことが重要と考える。)、根本から発想を変えてみるべきではないかと考える。

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『脱資本主義宣言』

2012-07-16 21:47:02 | Weblog

 『脱資本主義宣言 グローバル経済が蝕む暮らし』(鶴見済著 新潮社 2012年刊)

 読む前の先入観、鶴見氏というかつて『完全自殺マニュアル』を表した著者から想像していたトンデモ本的な先入観はいい意味で裏切られ、至極真っ当な議論から始まる。

 先ず、グローバル化の弊害から説き起こす。「北」と「南」という視点から捉える。①服と作り出される流行、服の原料である綿花と産地アラル海の環境破壊、②アジアへの原発輸出に向かう東芝と解決できない核廃棄物処理、③巧妙なモノの消費戦略、資源の大量採取→大量生産→大量消費→ゴミの大量廃棄、そのゴミがアジアへ輸出され、リサイクルという名の環境・健康破壊、④「南」が植民地的に生産し、グローバル企業が貿易を独占し、「北」が消費するコーヒー、⑤スポーツビジネス(アディダス、ナイキ)とアジアにおける下請工場、児童労働の実態、⑥ジーンズと西洋の文化的侵略などを例として紹介する。

 

 続いて、この国の原状を具体例から捉える。①この国ではほぼ輸入に頼っている鉱物として、アルミニウム、鉄、銅、亜鉛、エネルギーでは、石油、石炭、ウラン、天然ガス。この国は自前の資源が無いのに浪費している「砂上の楼閣」。そして近年は、国内では生産せず、「北」に投資して製造し輸入している。②この国の自動車産業は過剰生産とモデルチェンジという浪費の上に成り立っている。③この国を変えたアメリカの小麦戦略、それはパンと学校給食から始まった。③この国だけにある缶コーヒーと自動販売機、④アメリカが増やしたこの国へのタバコ輸入、⑤食の画一化マクドナルドを世界一輸入しているこの国。

 

 次に、批判的経済学が解説される。①資本主義は利潤の追求を本質とする。②GDPは豊かさを示さない。A・スミスの「分業」の勧め、D、リカードの比較生産費説(どんな国でも、比較的に生産性の高い産業に特化して、それを輸出し、他のものをそのカネで輸入すれば豊かになる。)は自由貿易の論拠だが、各国ではモノカルチャー経済が進み、それが飢餓の原因になっている。③M・フリードマンらの新自由主義(小さな政府)が推し進めた金融の自由化が2008年世界金融危機を生起した。経済学はカネ以外の幸せについて、ヒトの社会を包み込んでいる自然界のことについては明らかにできない。④金融自由化(グローバル化)による投資マネーの流入と流出(バブル経済とその崩壊)、それに続くさらなる自由化(規制緩和、構造改革)の繰り返し。⑤「北」の「南」へのひも付き援助、貧困とはモノの不足ではなく配分の誤りである。

 

 最後に、著者がこれまで進めてきた論理と大きく飛躍があるのだが、ヒトと自然界とのつながりについて語る。①ヒトは自然界の一部分、②生きていくこととは、カネを稼ぐことではなく、食べ物を育てて食べること。③ミネラルウォーターに代表される共有物(コモンズ)全般の商品化が進んでいる。④ビタミンCが作れない霊長類(ヒト)が、ますます果実の成る森林から遠ざかっていく。⑤「生産と消費」だけではない、再生させる価値、シャドウ・ワーク(影の仕事)、「死から再生へ」という循環的世界観

 著者は反抗の方法として以下を提示する。デモ、フェアトレード、自治区や経済区、ソーシャル・センター(スクワット(占拠)運動)、世界社会フォーラム、スローフード運動、コミュニティ・ガーデン(自分たちの手で公園を作る。)が紹介される。素人農業、半農半X,地産地消、マクロビオテック、ファーマーズ・マーケット、自然農。

 また、脱資本主義への行動として以下を提示する。DIY、自給自足、共有、相互扶助、カネや経済により依存しない、他の生き物に近い生き方を目指すべき、地域通貨、トービン税、富の公正な配分、ゲットー・ガーデン、「頑張って生きる」という生き方から降りること、内面をコントロールすること、身体を解放すること、自然とつながること、カネに依存しない生活、古いもの、「自然のもの、手作りのもの、地元のものがいい」、身の回りから変えていく。

 

 久ぶりに時間をかけて読書ができたのだが、資本主義に立ち向かうという問題の大きさに比べ、著者の反抗方法は自閉的で自己満足的、独創性が無い。

 資本制度によらない共同的な「生産」、貨幣経済によらない「交換」、過剰消費状態からの離脱、斬新なイメージにつながる問題提起がもう少しほしかった。

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