晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

夏目漱石 『倫敦塔』『カーライル博物館』(漱石全集第2巻 その1)

2019-01-23 16:43:41 | Weblog

次々とロシアの本音が出てくるが、1年ほど前の道新だったと思うが、ソ連が樺太、千島列島(4島を含む)に上陸する際に、米国がソ連軍の訓練を支援、米国の艦船を貸していたと報じられたことを記憶している。北方4島問題にとってこの事実の意味するところは大きいと考える。

 

『倫敦塔』『カーライル博物館』「漱石全集第2巻 その1」(夏目漱石著 岩波書店 1965年刊)  

 『倫敦塔』は明治38(1905)年1月10日、『カーライル博物館』は同じく1月15日に書かれていて、『猫』と同時期の短編である。どちらも漱石のイギリス留学時の回想を元にしたものであるが、対照的な印象を受けた。

『倫敦塔』の冒頭がいい。たったひとり異国での生活への不安感、漱石の述懐に共感できる。地理に不案内、言葉も容易に通じない環境で、果たして目指す目的地にたどり着けるのだろうか。

しかし、倫敦塔での見たモノ、出会った人たちについての表現になると、それが実際にそうであったことなのか、漱石の空想の産物なのか、なかなか区別がつきにくい。結局のところ最後は、下宿に戻りその日あったことを主人に報告すると、即座に全てを否定されるというオチで終わるのだが、そうなると倫敦塔におけるくだりはすべて漱石の妄想ということになる。小説などは想像力を駆使した作り話とすれば、それはそれでいいのだが。

一方の『カーライル博物館』は、その場所に刻まれた歴史に思いを寄せて感じるままに書かれたもので、訪問記としてはオーソドックスなものに思える。ただ、そこには、漱石自身が不在で何をどう感じたのかがあまり描かれていない。余計なことだが、書き手自身がいない文章の点形は、町内会の回覧に添えられてくる近所の学校便りの校長巻頭文だ。教育への想いや自身の子どもの頃のことなどが描かれていればじっくりと読むのだが。だから人事異動で校長が変わってもそのことに気づくことがない。

 

「漱石や鴎外も読まないで吉本隆明を読んでわかったなどと偉そうにしている奴がいる。」という言葉を噛みしめながら

 

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夏目漱石 『吾輩は猫である』(漱石全集第1巻)

2019-01-15 09:51:29 | Weblog

どこかこの国は根本のところで世界認識を間違えてしまっているではないか。韓国、北朝鮮、中国、ロシア、そしてフランスと・・いずれとも上手くいっていない。米国の後を忠実に付いていった結果だ。野党の活路は外交でしか開くことはできないであろう。

 

『吾輩は猫である 漱石全集第1巻』(夏目漱石著 岩波書店 1965年刊)

近くの図書館で岩波書店が昭和40年に刊行した漱石全集全18巻を見つけた。その第1巻『吾輩は猫である』を借りる。未知の分野に踏み込むわくわくした気持ち。旧字体漢字、旧仮名遣い、総ルビに難儀しながらようやく読了。『猫』が500ページを超える長編とは思ってもいなかった。

たった一作なのでこれをもって「漱石を語らず」であるのは承知の上だが、日本文学界の巨人夏目漱石の凄さを感じることができたかというと否である。主人公の猫が飼い主とその家に出入りする人たちが延々と繰り広げる床屋談義を冷ややかな眼で観察し皮肉を込めた批評をしているが、作品全体を貫くストーリーというものは特にない。いつ始まっても終わってもいいような日記風小説。時々出会う風刺的な言葉、世の中に対して斜に構えた見方が少しの救いか。

本作品は友人である正岡子規の「ホトトギス」に明治38(1905)年1月から明治39年8月まで連載されたものである。丁度その頃は日露戦争の真っ最中という時代背景があるのだが、それもほとんど感じられない。

漱石の代表作ということで少し僕自身が力み過ぎたかも知れない。『猫』は漱石の初期の作品だろうから、この後の変化を追っていきたい。それとともに生じることであろう僕の中の変化も感じていきたい。じゃあ第2巻も借りて来よう。

 

「漱石や鴎外も読まないで吉本隆明を読んでわかったなどと偉そうにしている奴がいる。」という言葉を噛みしめながら。

 

 

 

 

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平成最後の・・・ 謹賀新年

2019-01-03 09:49:30 | Weblog

このブログを読んでいただきましてありがとうございます。このブログを始めたのが2006年4月ですから、12年9か月続いております。僕が晴れた日に走りながら思ったこと、走れない日に読んだ本の感想、そして日々思いついたことを記してきました。この間、年をとったのはもちろんですが、病気をしたり、無業者生活になったり、平凡に過ごしてきたつもりの自分にも様々なことがありました。だからこのブログは僕の備忘録です。

 

平成最後の・・・ 謹賀新年      

年末・年始、様々なイベントなどには必ず「平成最後の・・」という枕詞が付くのが目立つようになった。僕はこれに違和を感じている。これは、時代が変わる、世替わりムードの演出だと思う。ここに何が意図されているのだろうかと疑ってしまう。

思えば30年前もそうだった。昭和天皇の体調が悪くなってきた頃、Xデーはいつになるかと一番憂慮したのは僕ら左翼だったと思う。それは、天皇の体調を心配したのではなく、新しい時代になったのだから新しい憲法が必要だという主張が出てくることに対する警戒だった。しかし、結果的にその後30年間憲法は持ちこたえた。

20世紀と21世紀は2000年12月31日と2001年1月1日、平成から新年号は、2019年4月30日と5月1日、いつもと変わらない連続した2日間であるが、僕らは何かが変わったような錯覚に陥りがちである。昭和天皇の場合は、1月6日に亡くなり翌7日から改元だったが、今回は事前に必ず改元することが決まっているので計画的に演出できる。

今の憲法論議は、現行憲法でこの箇所が不都合だから改正しなければならないというよりも、アへ首相が自分の名前を歴史に残したいという個人的な願望のためにされているのではないだろうか。「新しい時代に、新しい憲法を!」というムードになることは危険だと考える。この政治的な気分を作り上げることができるのが「電通」を代表とする大手広告代理店だ。(電通の影響力について考えるのは後日別稿で)

新元号は年金データのプログラム変更などに時間を要するため国民生活に影響を及ぼさぬように改元1か月前の4月1日(エイプリルフール)に発表するとのこと。これもなんだか嘘くさい理屈だ。もしそれまでに天皇が亡くなったら、何が何でも対応しなければならないからだ。

 

近くの図書館から夏目漱石『吾輩は猫である』を借りてきて読んでいる。会社員の最後の頃、元教師のG氏から飲み会の席で痛烈な言葉をもらった。「漱石や鴎外も読まないで吉本隆明を読んでわかったなどと偉そうにしている奴がいる。」漱石も鴎外の全く読んでいないのが僕のコンプレックス、だから漱石を読むことを今年の目標としたい。

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