晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『70年代 若者が「若者」だった時代』 その2

2012-10-31 20:09:26 | Weblog

 私の1970年代、様々な出会いの中のひとつは、高野悦子『二十歳の原点』だった。

 旅に出よう
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草と笛をもち
 旅に出よう

 出発の日は雨が良い
 霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
 萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら

 

 そして富士の山にあるという
 原始林の中にゆこう
 ゆっくりとあせることなく

 

 大きな杉の古木にきたら
 一層暗いその根本に腰をおろして休もう
 そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
 暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

 

 近代社会の臭いのする その煙を
 古木よ おまえは何と感じるか

 

 

 1972年『連合赤軍事件 社会への回路が閉じられて「生きづらさ」に繫がった』(雨宮処凛) 高校2年生の昼休み、高校近くの下宿屋兼昼はカレー屋のテレビで毎日事件の進捗情況を見た。私たちは、完全に学生側を応援していた。

 『届かなかった建議書 沖縄不在の「復帰」に異を唱えた屋良朝苗』(平良亀之介) 4.28沖縄デー、3.1ビキニデー、10.21国際反戦デー・・死語になってしまった。

 『稀代の金権政治家 田中角栄と越山会に挑んだ「たった一人の闘い」』(桜井善作) 越後出身の祖父の話し方が角栄に似ていた。私は角栄が嫌いではない。ダーティでも優しい政治を選ぶか、クリーンだが冷たい政治を選ぶか。

 1973年『『神田川』と過ぎ去った季節の追憶』(成澤宗男) お先真っ暗の浪人時代、拓郎派の私もかぐや姫の歌で感傷的な気分になった。

 『自らの役割を果たした川本輝夫 水俣という分岐点に立たされた人間存在という「命の物語」』(緒方正人) 1974年、理系を選んだ私が直面したのは「公害」問題であった。宇井純の公害原論を聴講しに行った。

 1974年『セブン-イレブンから始まった利便性の果てに』(斎藤貴男) 1973年浪人生深夜を徘徊、お湯の出る自販機を発見。カップヌードルを初めて食べる。コンビニが出現したのはいつからだったろうか。値段が高かったという印象があり、あまり利用しなかったと思う。

 『「笑い」の毒で右も左もぶっ飛ばす つかこうへい演劇の衝撃』(横内謙介) 学生時代、芝居が好きだった。佐藤信の黒色テントも観たが、唐十郎の状況劇場にのめり込んだ。つかは、その後に現れた気鋭の作家だった。

 『ファシズムに対抗する「共創協定」を仲介した国民作家・松本清張』(辻井 喬) 所詮、水と油、私は、あの頃からずっと反革命「日共」を意識している。

 『“狼"大道寺将司と東アジア反日武装戦線 償いきれぬ償い』(宇賀神寿一) 私と同じ釧路出身者で一番有名になった人。1976年道庁爆破事件の後、アパートローラーが私の下宿にも来た。

 1975年『時代を疾走した青春の「べ平連」と訪れた“解放”の日』(吉岡 忍) 私の物心が付く前からベトナム戦争はあった。1975.4.30ついにベトナム人民が米帝に勝利したと興奮している先輩がいた。

 1976/1979年 『「人間解放」をめぐる交錯 テクノロジーと想像力に揺れた村上龍と村上春樹』(池田雄一) 1976年村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を読んだが感動は特に無かった。村上春樹も私とは無縁な作家だった。

 1977年 『山田太一「岸辺のアルバム」と崩壊家庭を立て直そうとする者』(佐高 信) 山田のドラマでは、1983年から1997年にかけてシリーズ化された『ふぞろいの林檎たち』が、気だるい若者の生態を巧く描いていた。

 1978/1979年 『蜷川・美濃部・黒田革新知事と「TOKYO作戦」』(村上恭介) 釧路市では、山口哲夫氏が1965 年に市長となり3期12年、全国に先駆けて革新自治体を築き上げた。しかし、今では革新という言葉も死語である。

 

 その年の、流行語、ヒットソング、映画、テレビ番組などを振り返ると、その時代の自分が想い出される。この国において、人はこのようにして、今でも日常、非日常を生きているのではないか。

 

 

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『70年代 若者が「若者」だった時代』 その1

2012-10-29 21:15:42 | Weblog

 『70年代 若者が「若者」だった時代』(『週刊金曜日』編集部編 金曜日 2012年刊) 

 本書は、70年代について『週刊金曜日』に24回にわたって連載されたエッセイを一冊にまとめたものだ。書き手はテーマごとにそれぞれ違う。懐かしのメロディを聞くようなフワッとした70年代になっている。(駄本ですよ!)

 1954年生まれの私は、1970年4月から高校生、1973年4月から1年間浪人、1974年4月から1980年3月まで6年間の学生だったことからも、70年代人間そのものである。

 自分史を書くほど昔を振り返る気分になれないが、本書でサラッと触れられているテーマとその時代の自分との接点を記す。

 1970年 『阿久悠 社会現象を創った男 「歌は世につれ」ではなく「世が俺の歌につれ」たのだ』(鈴木耕) フォークソング世代の私からは遠い所の出来事だった。1978年頃に先輩の結婚式で「UFO」を踊ったこともあるが。

 『田中美津と榎本美沙子 ウーマン・リブが担った矛盾とはざまを今も凝視する』(田中優子) 1975年頃だったと思うが、一度だけリブの活動家の集会に行ったが、光と音楽のパフォーマンスがあったような記憶だけが残っている。

 『検定官を萎縮させた家永三郎 三二年の教科書訴訟』(高嶋伸欣) 古代史から始まると時間切れになって、争点になった現代史部分を教えないことの方が問題だと思った。

 『現代人の「まつり」に爆発させた岡本太郎の意志と野望』(北村 肇) 大阪万博については、太陽の塔と三波春雄の「コンニチハ」しか覚えていない。

 『ちばてつや「あしたのジョー」が渡った1970年という橋』(田沢竜次) 残念ながら漫画を理解できない私にとっては、同時代性を感じることができない話題。

 1970/1971年 『三島由紀夫と高橋和巳 学ぶべきものはすべてこの二人に学んだ』(鈴木邦男) 1970.11.25この日を覚えている。高校1年生の昼休み、釧路支庁の食堂のテレビで観た事件。

 1971年 『ニクソンショックがドルの大幅下落とマネー経済病を生んだ』(山田厚史) 1971.8.15この日を覚えている。日曜日だったと思うが、自宅で昼のニュースに流れた。意味するところは良くわからなかったが、大変なことが起こったと思った。

 『日活ロマンポルノ 日本映画低迷期に吹いた新しい風』(寺脇 研) 私が一番映画を観たのは、1974年から75年頃だったと思う。日活よりもATG作品に魅入っていた。喫茶店での自主上映にも行った。『青春残酷物語』の桑野みゆきが言いと思った。

 『『二十歳の原点』と高野悦子が残した激動の日々の記憶』(成澤宗男) 浪人をしていた1973年、衝撃的な出会いだった。「ひとりであること、未熟であること、それが私の二十歳の原点である」という言葉は、私にとってのスタートでもある。

 『保革伯仲時代ゆえに、司法の右旋回を狙った青法協攻撃』(宇都宮健児) 1973.9.7この日、私は札幌地裁前で下宿の浪人生仲間と一緒に長沼ナイキ訴訟判決を目撃した。福島重雄裁判長の名前は今も記憶している。

 1971/1975年 『戦争責任問題を浮上させた昭和天皇裕仁の二つの「海外訪問」』(天野恵一) 今から思えば「Xデー」はまだまだ先のことだった。

 

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『拉致と決断』(蓮池薫著)

2012-10-24 20:24:12 | Weblog

 近くの大型店で発見、旭川のラーメン店「よし乃本店」の味が自宅でも食べれます。藤原製麺製で、ピリ辛みそ味は本物にかなり近い味と思う。

 

 『拉致と決断』(蓮池薫著 新潮社 2012年刊)      

 著者が、帰国後10年を経過して初めて語った北朝鮮社会の実像の一断面。完全に包囲監視された絶望的な情況にある生活の中でも、子どもの将来に希望を託し、自らの生きがいとする。生きるため北朝鮮側の命令に従ったり、本当の自分の考えを表すことができなかったが、最後まで魂を売らなかったその強さに感動する。

 転機は10年前に来た。国家としての思惑から、北朝鮮が日本に接近し、その過程で一時帰国ができるということになった。そこには、蓮池氏への配慮など毛頭無い。国家利益だけがあった。そして、著者最大の決断は、一時帰国の後、北朝鮮へ戻らないと決した場面である。この著書の読みどころである。

 現時点でリスクを考えると当然のことながら、北朝鮮での蓮池氏の具体的な仕事の内容やその目的、他の拉致被害者の安否情報や氏の関係した具体的な人脈などは語られていない。

 

 国家から見れば、一個人の人生を奪うことなんてどうでもいいことかも知れない。では、個人から見れば、国家の運命なんてどうでもいいことではないか。なのに、国家利益を振りかざされると、思考停止状態になってしまうのはどうしてなのだろうか。

 尖閣諸島を巡る国家間の争いも、日中間に個人対個人の信頼のパイプがいくらあっても、国家が前面に出てしまうと双方が合意できる落としどころが見えなくなってしまう。政治家もマスコミも国民もそろって排外的な愛国主義になってしまい、少し異を唱えると「弱腰」として排斥される。

 私は、先人の知恵に学べば、尖閣の問題は、これまでと同様に「棚上げ状態」がいいと考える。合意点の見えない問題でむやみに対立するより、問題の先送りは優れた方法と思う。それより双方の間で、人々やモノが多く交流し、経済が拡大した方が双方の利益にかなうと思う。

 

 現在、日本の貿易や人的交流は、米国より中国の方が大きくなっている。今回の問題の底流には米国の思惑があるのではないか。米国は将来的なアジアにおけるパートナーとして、日本より中国にシフトしているのではないか。日本の国力を削ぐため中国に当たらせた?紛争に乗じて日本に兵器を買わたい?引き金になった石原発言は、氏の日頃からの国粋的言動とは異なり、米国の意を呈しているのではないか?推理は楽しい。

 

 

 

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『第33回北海道ロードレース』

2012-10-21 16:50:23 | Weblog

 旭川マラソンの前夜、完走を祈願して「井泉」で豚カツ定食、柔らかい肉が美味しかったです。

 

 10月21日といえば国際反戦デー、お決まりのデモと集会があったが、今は死語となった。たしか、大通西8丁目は総評系、6丁目は反戦と棲み分けをしていたはず。

 北海道ロードレースも33回目になった。私は20回くらい出場している。もっと元気のあった時を思い出すが、いまは今持っている力で走るしかない。道内では、以前は12月第1週に「さよならさっぽろマラソン」という超クレイジーな大会がシーズ最後のレースだったが、今は11月中旬に開催されている。大きな大会としては、ロードレースが本年最後の大会である。ただ、今年は来週にきたひろしま30kmロードレース、11月第1週に十勝フードバレーマラソン、苫小牧でフルマラソン記録会と寒いが各地の大会がありシーズンが少し延びたような気がする。

 今日は、気温が8℃くらいで、今年は9月の20日過ぎまで26,7℃ほどあったため、身体が暑さには対応できるようになっている。その分、逆に寒さを極端に感じてしまう。3週前の旭川マラソンも15℃くらいで凄く寒く感じたが、今日は手が痺れるくらい厳しいコンディションであった。真冬になればマイナス5℃でも屋外で走ることは走るのであるが。

 旭川以来、週末営業でほとんど練習ができなかったが、今日は最初から積極的に走ることができたような気がする。タイムは、春からのハーフマラソンで最速、今の力ではまずまずの結果で今シーズンの大会をしめくくることができた。営業で精神的な疲れが溜まっていたような感じだったが、身体は疲れたが、日頃得ることがなかなか難しい小さな達成感で気持ちが前向きになったのが今日の成果かな?

 ひとつ心配なのは、あとゴールまで500mほどの所で倒れた人がいたようで、現場を通過した時、救急車と消防車が止まっており、後になってパトカーが本部の方に来ていたことである。大事に至って無ければいいが。倒れることは誰にでも可能性があり、他人事ではない。

 

 

 

 

 

 

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『虹色のトロツキー』

2012-10-16 20:13:01 | Weblog

 『虹色のトロツキー ①~⑧巻』(安彦良和著 中公文庫コミック版 2000年刊)

 著者の安彦氏は、遠軽町出身で、手塚治虫の「虫プロダクション」を経て、機動戦士ガンダムのスタッフに参加している。初出は、月刊『コミックトム』1990年11月号から1996年11月号に掲載されていて、1997年1月潮出版社より単行本として出版されている。

 コミックは、あまり読まないのであるが、リンクしている「愛犬日記」で紹介されていたので、試しに購入。この物語にはグイグイと引き込まれ、ついに8巻を読んでしまった。

 物語の舞台は昭和初期の満州、皇軍に所属する日蒙混血の主人公(ウムボルト)が国家と民族の狭間で悩みながらも縦横無尽の活躍をする。石原莞爾、東洋のマタハリ川島芳子、大杉栄を殺害し満州へ渡った甘粕大尉、山口淑子こと李香蘭・・など実在の人物が多数登場するなど、実録タッチでストーリーが壮大である。

 ウムボルトなる人物が実在していたのかどうかは不明である。確かめようも無い。おそらく作者が仮想した人物であろうが、そのような人物はその時代の中にいたかも知れない。歴史の中における一人の人間は、一部の人を除いて、特に戦場に斃れた人々の多くは無名で、生きた痕跡が残るか残らないかといった存在だったと感じる。

 私自身も、会社の中で一つの部品として働いているが、幾年か過ぎれば人々の記憶からも遠ざかり、過去の稟議書などにハンコを見れば、そのような人がいたらしいと微かに思い出されるくらいであろう。家族や友人の記憶もまた同じ。人生は、全て幻想といってもいいだろう。

 この物語のモチーフの一つは、血であり国家である。領土を巡って血を流す。国家によって民族が分断される。そこには大陸で死を迎えた無数の命があった。国家という概念が無かったらどうだったのだろうか。「領土」という言葉を発した時、頭の中が真っ白になって思考停止状態になるのは、昔も今も同じ。強気が正義に見え大衆の喝采を浴びる。影で、非国民という囁きが聞こえる。今も昔も同じ。

 

 

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『子どもと哲学を』 その6

2012-10-13 20:28:20 | Weblog

 全国から見学者の絶えない旭山動物園、動物園に行ったのは30年ぶり位かな。白熊くんのところは、地面から顔を出すような構造になっていて、直ぐ傍まで近寄ってくるのが見えます。

 動物園の野生動物たちは、何代にもわたって動物園生まれですから、再び自然界に戻って生きていくことはできないでしょう。DNAに変化が生じないのでしょうか。

 

 第六章 哲学を学ぶ/教える          

 著者は、「哲学の効用は、意味と意味の世界のなかで他者とつながること、つながりの中で笑いをもって存在を受容する希望と勇気を育むことだ。」と言う。

 従来の「哲学を」教える哲学教育は、哲学が書物(文字)の中に存在することを前提とする。文字の共同体へ参加するには、読むという技能に熟達していることが必要であることから、伝統的な哲学教育は中等教育の終わりに位置づけられていた。

 もう一つの、「哲学することを」教える哲学教育は、いかなる権威からも自由な一人一人の生きた思考と、それらの間で交わされる対話(声)から始まる。1970年代頃から声による共同体(探求の共同体という)の試みが、子どもを対象として始まった。

 道徳教育は、人間としてどのようにふるまうことが正しいのかを教える教育である。人間は、考えることのできる、理性ある動物としてふるまわなければならないということを教える。いじめの問題について、道徳教育では、いじめは悪いこと、してはいけないこと、と教える。

 一方、哲学教育とは、そもそも「考える」というのはどういうことなのか、と問うことである。哲学教育は、いじめという行為をなくすことに直結しないが、探求の共同体の実践を通して、「人間の制度が完全ではないこと、人間の経験は部分的で限られたものでしかないこと、人間の知識には限界があること、だからこそ、分析を重ね、深く考え続けることが必要なのだ。」ということを子どもたちは学ぶのである。

 

 著者は、子どもたちが哲学を学ぶこと(探求の共同体の構築)で、つながり、希望と勇気を見出すことができる、というが、結局、悩める子どもたちの自死を食い止めることができるのは、つながり、であるという著者自身が批判していた「きれいごと」に帰着している。やはり問題は、つながり、希望と勇気などという「きれいごと」に子どもたちが命をかけて異議を唱えているところにあるのではないか。私は、「独りを噛みしめること」が意味のあるということを子どもたちが掴み取ることから始まると考える。

 

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『子どもと哲学を』 その5

2012-10-10 20:53:30 | Weblog

 旭川、みそラーメンのよしの。太麺にピリ辛スープ、野菜たっぷりで、超満員の人気店でした。しっかり記憶に残る味を出していました。札幌テレビ塔店の方はどうでしょうか?

 

 第五章哲学の効用

 著者は、「哲学は、誰にとっても、生きるために必要であり、役に立つ」と言う。哲学者の「ねちっこさ」に学ぶことが、子どもが生き残るために必要だ。

 子どもたちが、哲学の「ねちっこさ」を学ぶためには、何が必要か。しかし、悩める子どもたちは、いつもたった一人で考えていた。

 人間の子どもがチンパンジーと違うのは、言葉という不思議な世界へ参入することである。私たちが「世界」と呼んできたものも、「自分」と呼んできたものも、すべては言葉そのものである。この世界に住むすべての人間が、言葉の「意味」によって深く結びつけられている。人は決して「一人で考える」ことはできない。考えている時、人は意味の海の中で、同じ海にすむすべての人々とつながっている。

 悩める子どもたちの孤独は、そのことに気づくことができなかったゆえの孤独であった。

 哲学の「ねちっこさ」とは、私たちが自分の使っている言葉の意味を互いに吟味しあい、言葉を尽くすことによって、一歩ずつ探求の歩みを進めることである。意味の世界がすべての人間に共有のものであるとしたら、哲学の営みは、すべての人とのつながりを求める営みである。

 思春期の迷いの中で一人哲学をし続けた子どもたちに欠けていたものは、哲学することが持つ意味と見通しである。たった一人の哲学は、哲学ではない。哲学への切実な欲求を持ちながら、哲学する道を見出すことのできなかった子どもたちの経験は、哲学の教育の必要性と可能性について考えることを迫っている。

 

 著者の論理を整理すると、「言葉を尽くすことが、人とのつながりになり、孤独な子どもたちの救いになる。しかるに言葉を探求する哲学という営みを教育する必要がある。」ということになる。そうなると結局、人と人とのつながり、絆、和といった陳腐なスローガンとどこが違うのかということになる。私は、「独りを噛みしめる」ことの大切さ、それに耐える強さを獲得することが必要だと思う。そのために、哲学が有効ならば、教育に取り入れれば良いと考える。それが、宗教であればそれでも良いと考える。

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『子どもと哲学を』 その4

2012-10-08 20:42:28 | Weblog

 

 野外に数百人が入るテントを張り畳を敷いた会場で、「美酒鍋」を食べました。水を一切使わないでお酒で鍋を作ります。強火で酒を飛ばすとテントの中にはアルコールが充満し、息をすると酔っ払うような感じになります。

 

 第四章 自分と他者

 子どもたちは、「他者」という通路を通って「人=世間」からの脱出口を見出し、「自分」への回帰の通路となるように思われる。

 幼年期を過ぎる頃、他者とは何か、この「自分」という存在は他者とどのような関係を生きることが可能なのか、という問いを持つ。一応の答えは、「自分は自分でしかない」ことを知る。

 親になるということは、「他者としてのわが子」を引き受ける、ということである。また、親になるということは、特別な仕方(出産)で出会った、特別な他者(子)を受け入れることを学ぶことである。

 親子関係は、絶対的な揺るがぬ関係のようにも思われ、逆に何よりも壊れやすく、しかも壊れたときには他のどんな関係よりも深い傷を相互に与え合うことになるような関係である。

 本日は、頭が働かないので考察は無しです。

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第4回旭川ハーフマラソン

2012-10-01 20:23:07 | Weblog

 花咲総合運動公園発着、忠別川沿いを往路は河川敷側のサイクリングロード、復路は堤防の上の歩道、気温20度前後、湿度はかなり高くスタートと同時にあせがブハッと噴き出す。天候は曇、しかしゴール10分位前からどしゃ降りで全身ずぶ濡れ状態に。シャワーに入らなくても身体の表面の塩を洗い流してくれた。今年3回目のハーフマラソンだったが記録は低空飛行の中にあって一番良かった。最初から最後までほとんどイーブンペースを保つことができたところは満足。次は、8日室蘭白鳥大橋ハーフだったのだが、営業が入りキャンセル。次の、21日北海道ロードレースを何としても走りたい。

 さて、久しぶりの旭川だったが、駅舎の建て替えが終わり見違えるように変わっていた。駅前広場は造成中だが完成すると市の玄関口は様変わりすることだろう。既にESTAの方は閉店していて、何と旭川ターミナルホテルは、30日限りで営業を止めると言う事で、29日の宿泊客は最後のお客さんになったので記念品をいただいてしまった。従業員さんは心なしか寂しそうであったが。

 週末の買物公園はかなりの人出で賑わっていた。故郷の釧路と比較すると、メインストリートの北大通は完全なシャッター通りになってしまっている。一方の旭川は、丸井今井の後も、札幌店より広いスペースのジュンク堂が入店し、品揃えも充実。思わず『虹色のトロツキー』全8巻を買ってしまって重くて後悔。上の階には木製の遊具を備えた室内遊園地が無料で開放されていて、多くの小さな子どもたちとその親が歓声を上げていた。それぞれの街が置かれている立地条件などの差はあると思うが、釧路市は中心市街地の空洞化に対し数十年簡に渡って無策だったように感じる。

 走って消耗したエネルギーは、旭川生まれの友人から教えてもらった老舗に行き、きちっと補給できた。2条の「井泉」でとんかつ定食、お店の人の話だと、上野の有名な井泉で修行した先代が暖簾分けをしてもらって旭川で創業。札幌大丸デパートと日本生命ビルの地下に旭川の支店があるとのこと。さすが本店、札幌店よりも肉がとても柔らかい。

 豊岡の「よしの本店」でみそラーメン。入口からお客さんが溢れるほど混みあっている。スープが唐辛子を入れてないのにピリッと辛く感じる。ラーメン店が目立つ激戦区旭川で古くからあるということは、味に主張があるからと納得。マラソン後の空腹に最高。テレビ塔の地下と札幌駅アピアに支店があるとのこと。

 「純ドッグ」を旭山動物園の売店で見つける。名前だけでは想像の難しい食べ物であったが、海苔の無い太巻きにエビフライかチキンカツかソーセージを挟んで紙の筒で巻いたファーストフードとでも言おうか。レンジでチンして提供してくれる。1回は食べてみてもいいと思う。

*訂正:店の名前が間違っていました。「よしみ本店」ではなく「よしの本店」でした。 2012.10.3

 

 

 

 

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