私の1970年代、様々な出会いの中のひとつは、高野悦子『二十歳の原点』だった。
旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう
出発の日は雨が良い
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら
そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく
大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう
近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか
1972年『連合赤軍事件 社会への回路が閉じられて「生きづらさ」に繫がった』(雨宮処凛) 高校2年生の昼休み、高校近くの下宿屋兼昼はカレー屋のテレビで毎日事件の進捗情況を見た。私たちは、完全に学生側を応援していた。
『届かなかった建議書 沖縄不在の「復帰」に異を唱えた屋良朝苗』(平良亀之介) 4.28沖縄デー、3.1ビキニデー、10.21国際反戦デー・・死語になってしまった。
『稀代の金権政治家 田中角栄と越山会に挑んだ「たった一人の闘い」』(桜井善作) 越後出身の祖父の話し方が角栄に似ていた。私は角栄が嫌いではない。ダーティでも優しい政治を選ぶか、クリーンだが冷たい政治を選ぶか。
1973年『『神田川』と過ぎ去った季節の追憶』(成澤宗男) お先真っ暗の浪人時代、拓郎派の私もかぐや姫の歌で感傷的な気分になった。
『自らの役割を果たした川本輝夫 水俣という分岐点に立たされた人間存在という「命の物語」』(緒方正人) 1974年、理系を選んだ私が直面したのは「公害」問題であった。宇井純の公害原論を聴講しに行った。
1974年『セブン-イレブンから始まった利便性の果てに』(斎藤貴男) 1973年浪人生深夜を徘徊、お湯の出る自販機を発見。カップヌードルを初めて食べる。コンビニが出現したのはいつからだったろうか。値段が高かったという印象があり、あまり利用しなかったと思う。
『「笑い」の毒で右も左もぶっ飛ばす つかこうへい演劇の衝撃』(横内謙介) 学生時代、芝居が好きだった。佐藤信の黒色テントも観たが、唐十郎の状況劇場にのめり込んだ。つかは、その後に現れた気鋭の作家だった。
『ファシズムに対抗する「共創協定」を仲介した国民作家・松本清張』(辻井 喬) 所詮、水と油、私は、あの頃からずっと反革命「日共」を意識している。
『“狼"大道寺将司と東アジア反日武装戦線 償いきれぬ償い』(宇賀神寿一) 私と同じ釧路出身者で一番有名になった人。1976年道庁爆破事件の後、アパートローラーが私の下宿にも来た。
1975年『時代を疾走した青春の「べ平連」と訪れた“解放”の日』(吉岡 忍) 私の物心が付く前からベトナム戦争はあった。1975.4.30ついにベトナム人民が米帝に勝利したと興奮している先輩がいた。
1976/1979年 『「人間解放」をめぐる交錯 テクノロジーと想像力に揺れた村上龍と村上春樹』(池田雄一) 1976年村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を読んだが感動は特に無かった。村上春樹も私とは無縁な作家だった。
1977年 『山田太一「岸辺のアルバム」と崩壊家庭を立て直そうとする者』(佐高 信) 山田のドラマでは、1983年から1997年にかけてシリーズ化された『ふぞろいの林檎たち』が、気だるい若者の生態を巧く描いていた。
1978/1979年 『蜷川・美濃部・黒田革新知事と「TOKYO作戦」』(村上恭介) 釧路市では、山口哲夫氏が1965 年に市長となり3期12年、全国に先駆けて革新自治体を築き上げた。しかし、今では革新という言葉も死語である。
その年の、流行語、ヒットソング、映画、テレビ番組などを振り返ると、その時代の自分が想い出される。この国において、人はこのようにして、今でも日常、非日常を生きているのではないか。