晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

加藤典洋 『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。 幕末・戦後・現在』

2018-06-28 09:27:14 | Weblog

新聞考② 1ヶ月にわたり連日ワールドカップが報道されている。新聞は何ページも割いているが、テレビ映像、ネット動画の時代にあえて活字で詳細を伝える必要があるのか、伝えることができているのか。僕は全く紙資源の無駄だと思う。オリンピックも同様。 靴は狸小路名取川靴店。

 

『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。 幕末・戦後・現在』(加藤典洋著 岩波ブックレットNo.983 2018年刊)    

この国の今は、果たして独立国なのかが問われている。逆の言い方をすると、対米従属が目に余る情況だからだ。外交、経済、軍事をはじめあらゆる分野で常に米国の顔色を伺うばかりで、この国自らの判断で何も決められない現状に対し、国家として本当にこれでいいのかという問いである。

本書も上記の情況を踏まえた問題提起である。僕は、本書と並行して『国体論 菊と星条旗』(白井聡著 集英社新書 2018年刊)を読んでいるが、歴史分析の観点は違うが、現状に対する問題意識は全く同じだといっていい。

本書は、幕末の攘夷思想、戦前の皇国思想、戦後の護憲論を比較し、皇国思想は、壁にぶつかった時に考えを転換する柔軟性に欠けていた、そのことがこの国を破滅へと導いた原因だという。一方、幕末においては、当初は尊皇攘夷を唱えていた者たちが、欧米の圧倒的な軍事力を対峙した経験から、攘夷は無理だと判断し素早く開国に転換した思考の柔軟性を筆者は評価する。

これに比べ戦後の護憲派は、憲法第9条を守れと叫び続けているが、現実に存在している日米安保条約、地位協定、在日米軍、自衛隊の存在などとの齟齬を埋める努力をしていない。これは、皇国思想と同様に思考の柔軟性に欠けていると批判する。

では、どうするか。著者は、今後とも日米安保条約にしがみついて米国に追従しながら国際的に孤立の道を選ぶのか、安保条約を解消して対米自立の道を構想していくのか、議論を進める時が来ているという。

僕は、本書が刊行された後に、さらに情況は大きく動いていると思う。東アジアにだけ残っていた冷戦構造も、米朝会談が行われ、この先に朝鮮戦争が停戦状態から終戦に至れば、在韓米軍、在日米軍の必要性が見直され、安保条約も米国の方から不要論が出てくる可能性があると考える。

対米自立後の方向性も今から考えておかなければならない。ジャパン・ファースト、国家利益に固執して周辺国家との対決的な道を選ぶのか、EUのように東アジアの国々が共同体の形成を念頭に歩むのか。僕は、国家は開かれた方がいい、究極的には国家は廃絶されるべき存在なので、後者への道、それを目標とした現実的な道を求めるべきと考える。

トランプに尻尾を振ることしかできないポチ・アへ首相、自国独自の拉致という課題の解決をトランプに懇願する「恥かしい」姿。この国の情況認識は完全にずれてしまっている。以前、僕は「野党は外交に活路を見出せ」と書いたが、何の努力もせず、モリかけにうつつを抜かしている野党も同罪だ。そのつけが、北朝鮮との間にどこにもチャンネルが無いという現状である。

 

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『万引き家族』 是枝祐和監督・脚本・編集 

2018-06-17 09:33:45 | Weblog

「新聞考①:夕刊を購読する意味」夕刊で報じられた大きなニュースが、翌日朝刊にほぼ同じ文面で再掲載されると腹が立つ。電車に片道乗ったのに往復料金を取られたようなものだから。夕刊を読まなくても情報の欠落は無い。ある記者から朝刊だけの購読者が増えていると聞いた。当然のことだと思う。

 

『万引き家族』(是枝祐和監督・脚本・編集 2018年作品) 

第71回 カンヌ国際映画祭(2018)でパルムドールを受賞したということで話題になっている。シネマフロンティア札幌、ユナイテッドシネマ札幌など大手シネコンで上映中。通常ならシアターキノだろう。(キノでも上映すると思う。)

是枝監督は、これまでも子どもの取り違え事件を題材にするなど血をテーマにしてきた。本作品でも、血のつながりとは何かを提起する。作品の中では、血が繋がっていなくても成立する家族(共同生活)があるということを示す。

映画では、それぞれわけありの登場人物たちが、それなりに思いやりを持ち幸せを感じる家族を形成してきたが、あるきっかけから行政、法、常識(警察、児童相談所などの行政、マスコミ報道)によってバラバラにされ、一見すると世間が納得する居場所に落ち着く。そこにある論理は、社会規範としての法律や制度が前提としているのが、家族は血のつながりの中に納まるべきという一種の強制力だ。はたして、それで皆が幸せになったのかという投げかけである。

表面的には平穏無事のように見える家族も、僕らは必死になって維持しているのだ。また、ひとつやふたつ何かしら家族に関わる問題を抱えていることもあるだろう。しかし、家族というのは、病気や不慮の事故などで簡単に壊れてしまう。家族間の折り合い、別居、離婚、加齢、介護、障害、借金、児童・高齢者虐待、里子・施設入所、家庭内暴力(DV)、財産をめぐる係争、・・新聞の社会面にあるような事象は容易に発生している。

この映画を理解するには、吉本隆明『共同幻想論』における「原理的にいえば、ある個体の自己幻想は、その個体が生活している社会の共同幻想に対して〈逆立〉するはずである」(P127)というテーゼが有用だ。個人は、原理的に国家や法や規範などと相いれない幻想形態を持っている。本作品は、これを作品化、映像化したものだということになる。

 

 

 

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『マルクス・エンゲルス』 ラウル・ペック監督・脚本 

2018-06-05 16:37:27 | Weblog

パイターズ、286円(ニチハム)、日ハムとチーズが入っていて、塩味が効いたパイです。

アへ総理の、はぐらかし、すり替え答弁が、「朝ご飯論法」として批判されている。僕の会社員時代のクレーム対応。お客さんへの対応で相手を怒らせてしまった時、直ぐに謝り相手の気持ちを落ち着かせるのが第一だ。「すいません。あなたを怒らせてしまったことに謝ります。」この場合、事実関係に対して謝罪してはいけない。後で係争になった時に不利に働くから。

 

『マルクス・エンゲルス』(監督・脚本・制作ラウル・ペック フランス・ドイツ・ベルギー合作 2017年作品)  

シアターキノには、63歳の僕よりもさらに年輩の方が多かった。マルクスは、僕らよりも上の世代のものなのだろうか。僕の学生時代、’70年代にあっては、既に大多数の若者はマルクスなんかに見向きもしなかったからだ。

今、なぜマルクスを映画化したのか?それは、カール・マルクス生誕200年が理由だ。

「世界には二種類の人間がいる。それは、ブルジョアジーとプロレタリアートだ。」、「哲学者は世界を解釈することしかしてこなかった。必要なのは世界を変革することだ。」

作品の中では、マルクスは直情的な性格で、自分のラジカルな思想は決して他者との妥協を許さない。損得抜きの論争の人だ。ゆえに、家族は経済的に困窮した。一方のエンゲルスは、資本家の息子としての自分と労働者の実態に心を痛める自分とのはざまで悩む。そしてマルクス一家を経済的にバックアップする心優しき人間に描かれている。史実に正確に、2人の出会いから『共産党宣言』の完成までを描いた硬質な映画である。

「万国の労働者よ、団結せよ!」「ヨーロッパに妖怪が徘徊している。共産主義という妖怪が」

本作品は、「あなたにとってのマルクスは?」との問いかけなのだろう。それは、過去のあなたとマルクスの関係か、現在のあなたの中のマルクスなのか。

ソ連型社会主義が崩壊し、マルクスなんてとうに終わっている。否、否、国会の「働かせ方改革法案」審議の強引さをみていると、資本の本質は変わっていない。僕は、それぞれのマルクスがいていいのだと思う。ちょっと遠くなっていたマルクスが少し引き戻された。

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