晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

人生の消極的根拠

2015-07-21 19:53:41 | Weblog

 人生の消極的根拠

 3連休最終日、部屋のスペースをかなりとっている旧型のアナログテレビを買い換えた。それだけをしようと思っていたのだが、整理を始めると次から次とこれまで先送りをしていたことが、壊れたワープロと2台のPCの廃棄、そして3月までの会社関係のダイアリー、書類、冊子、名刺などのほとんどを処分した。退職して4か月、もう必要となることはないな、とようやく決断がつき、ほとんど全てを棄ててもいいやという気持ちに。あとは、記憶の中にあるだけ。

 棄てるに際して、ひと通り目を通したが、少しだけ捨てられないものや、もう少し整理が必要なものが残った。前の会社にも考え方に共感する方も少数ながらおられ、その方々からいただいたコピー類などは取っておくことにした。

 作業をしながら、それまでの会社で働いたことを振り返ってみると、果たして自分は人様の役に立ったのか、社会に貢献できたのか、生涯の大変を費やしたことの意味があったのだろうか、自分は何事かをなし得たのだろうか、などと考えてしまう。

 何事かに生涯を費やす、人生に積極的な根拠を持つという考え方は、一見誰しも肯定するだろうが、そこには二つの落とし穴があると思った。

 ひとつは、俺は何一つ人の役に立たない、社会のために何一つ貢献などしてこなかったと認識したとき、自分とは、自分の人生とは何だったのだろうか、と回復不可能な自己否定に陥るであろう。

 もう一つは、俺は大いに他者や社会のために働くことができた。だから、あなたも、皆もそうあるべきだと、他者への強制力が生まれ、そこに権力性が発生する。これは、僕が考えている無権力社会、人が人に対して及ぼす権力が最少になる社会の方向性とは逆である。

 学校では子どもたちは人の役に立ちなさい、ボランティアをやりなさいと教えられている。子どもたちが、俺はやっているのだから、お前もやれや、この考え方がひっくり返ると、あいつはクソの役にも立たない、無能、ダメなやつという烙印が押され、集団からの排除、いわゆるいじめということになる。教師は、良いことをしなさいと発している言葉の持つ権力性、その作用に無自覚な存在だと思う。

 もともと、人は自分の意志で積極的に生まれてくるのではない。親の都合で、それが愛に満ち溢れていたとしても、消極的に生まれてくる。そして、何はともあれ、持っている力をやりくりしながら生きていくしかないのだ。後付けで、自己を肯定するために、自分をなぐさめるために、人生に積極的根拠を見出そうとするが、そもそもの生存の原点が消極的根拠に基づくものなのだから、自分にも他者にも無理をすることは無いと考える。

 

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幻の東京オリンピック

2015-07-17 20:05:44 | Weblog

 幻の東京オリンピック

 アへ首相は、昨日の借りを今日返すことができたと思っているだろう。安保法制の強行採決で総スカンを食らったが、新国立競技場建設計画を白紙に戻す大英断で国民から拍手喝さいを得ていると。冷静に振り返ると、そもそも自分で五輪招致のために国際的な大風呂敷を広げておいて、ここにきてそのいい加減な計画のほころびが隠し通せなくなって自分で畳んだということに過ぎないのである。

 否、僕は違うことを妄想している。それは、安保法制とも通底する。アへ首相は心の中で、2020年(紀元2680年)東京オリンピックの開催を断念したのである。この国には過去がある。1940年(紀元2600年)に予定されていた東京オリンピックは、日中戦争の影響で政府は開催権を返上、中止となり「幻の東京オリンピック」と呼ばれた。そして今、戦時体制へと舵を切ったこの国は、新国立競技場の建設に投ずる財源を軍備につぎ込まなければならなくなったのである。

 

 『昭和陸軍全史1 満州事変』(川田稔著 講談社現代新書 2014年刊)、新書で全3巻約1,000ページを読んでいる。本書で詳細に分析されている昭和初期から太平洋戦争における敗北までの陸軍の歴史は、安保法制に前のめりになっている現在の国情、その行き着く先を予見させるようなリアリティを持つ。

 昭和初期と現在を対比するとその向かう先の共通点に驚く。政治に対する軍の関与の拡大と政党政治の終焉。国際情勢の現状分析、政治的な打開策、軍事的戦略における理論的な対立。軍隊内における派閥抗争とテロリズム。満州での軍事的暴発と現状追認、泥沼化。

 現在、国軍からの情報は伝わらないので、軍隊内部で派閥抗争や戦略の相違が存在するのかなどはわからない。しかし、政党政治は確実に劣化している。小選挙区制になって公認権を握る党本部からの党議拘束が強まり、自民党の国会議員から自由闊達な議論が消えた。政治は官邸主導で、国権の最高機関たる国会において議員たちは採決の際の起立マシーンに成り下がってしまっている。(このあたりのことは、内田樹氏のHPが面白い)

 残る2巻を読み通すのは結構しんどいが、今を知るためには有益な著作である。お薦め!

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蓮池薫 『拉致と決断』

2015-07-13 20:23:57 | Weblog

 昨日、札幌での安保法制反対集会で元自衛官が登壇したというニュースが流れた。そして、今日はその方のインタビューが流れた。

 僕は、法制反対派の方が先に禁を破ったと捉える。

 今が戦前よりマシなのは軍人が前面に出てきて政治的な発言を控えていることだ。表に出てきている中谷防衛大臣、田母神某氏などは、現職軍人ではなく政治家である。遂に歯止めが外された。それも安保法制反対派から。これから軍人の政治的な発言が目立ってこないと良いのだが。

 

 『拉致と決断』(蓮池薫著 新潮文庫 2015年刊 新潮社 2012年刊)

 本書を3年前に読んだことを忘れていて、読んでいる途中でも気づかず、感想を考えているうちに、頭に浮かぶ文章が何だか以前に書いたことがあるような記憶が甦り、調べてみるとこのブログで2012.10.24に取り上げていた。

 本書は、蓮池氏は当事者ゆえに知りえる真実をできる限り記そうとしているが、未だに拉致されている人たちや家族に差しさわりのあることは書けないため、慎重に筆を運んだことが感じられる文章になっている。

 著者の筆力、描写力は優れており、文章からは、もし自分がその場面に直面したときどのような決断をするのだろうかと問いかけがある。自分は、絶望と思われる情況に置かれたとして、それに適応しながら、その中でベストの選択をしていくという超人的な精神力を長期に渡って持続できるだろうか。

 今、戦争を現実化しようとする政治の動きがあるが、戦場において生命の危険に直面したときに、蓮池氏のような冷静な決断ができるであろうか。

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藤井聡 『凡庸という悪魔』

2015-07-09 20:56:09 | Weblog

 安保法制をめぐる世論とマスコミの論調は変わってきているようだが、僕は二つの道を想定している。一つは、安保法制が今国会で可決された場合は、憲法改定が遠のく。現行憲法の範囲内で解釈可能という政治的な次元での結論を得られたのだから、当面は憲法を改定をする必要がないという考え方である。

 もう一つは、安保法制が、否決ないしは議決の先延ばしになった場合は、憲法改定が日程に登ってきると考える。憲法学者が発している違憲表明の根拠は、その思想(反戦)では無く、憲法の条文との整合性が主であるから、憲法が変われば合憲と言わざるを得なくなる。アへ首相は、憲法改定を争点に衆議院の解散まで打ってくるのではないか。彼はそこまで政治的な執念を見せると思う。その場合、今の民主党をはじめ野党は、候補の準備、憲法改定への考え方の整理など対応不足は否めないであろう。

 

 『凡庸という悪魔』(藤井聡著 晶文社 2015年刊)

 厳しい結論から言うと、こんな本を読んだらダメだ。著者は、自分はインテリで気付いている人、大衆はバカで何にも考えていない、そこに今の危機がある、このような図式を立てること自体、その心根が間違っていると考える。僕も時々陥ることのある気分は、僕はこんなに本を読んでいるんだ、こんなに色んなことを考えているんだ、ただ集って、酒を飲んで、何にも考えていない奴等とは僕は違うと!

 これは、大きな間違いである。僕は名もなき大衆の一粒の砂であり、まだまだ何にもわかっちゃいないんだ。日々、ああなるほどこういうことだったのか、本なんて読むことは読まないよりも少しはマシな程度くらいの話なのだ。ここを常に自戒していないと、実社会では思わぬところで足をすくわれる。

 こう書けば、大体この本のスタンスが見えてくると思う。著者は、ハンナ・アーレントが、『全体主義の起源』(1951)で行ったナチスドイツの全体主義を分析した結果を、現代日本に当てはめ、警鐘を鳴らす、そんな構図である。学校におけるいじめも、政治における改革も、新自由主義の経済理論も、全て大衆が思考停止の中で進む全体主義というかなり粗雑な理論構成である。

 僕は、大衆を蔑視している著者の姿勢そのものの中に、著者が批判を展開している全体主義が潜んでいると感じた。著者には、啓蒙、啓発という作業は、己の身の置き所を間違えると、他者への刃が、自らに向かってしまうことを自戒してほしい。繰り返すが、僕自身の自戒を込めて。

 本書を購入したきっかっけは、北海道新聞(2週間くらい前の夕刊)の文化欄で内田樹、佐藤優、森本あんり氏らの「反知性主義」の本が売れているという紹介があり、その中に著者である藤井聡氏が取り上げられていたためである。書店でも、平積みにされていて、かなり売れているようであった。道新の意図もよくわからない。

 *(追記)道新は、7月2日夕刊で、ー「反知性主義」広がり懸念ーという記事でした。(2015.7.12)

 

 

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死生観論 吉本隆明ノオト その8

2015-07-01 19:46:39 | Weblog

 「マスコミをこらしめるには広告料収入がなくなることが一番だ」発言は論外だが、最近気になる新聞広告に「深見東州」(半田晴久)によるゴルフトーナメントやエンターテイメントの案内が毎週のように載っている。深見氏はどういう人なのかな。道新をはじめ報道機関は、「言論のためにはどんな広告料収入でもかまわない」と自ら言っていることにならないのか。プンプンと胡散臭さが臭うのである。

 

 死生観論 吉本隆明ノオト その8

 吉本の言説は、断定的な表現で人を引きつける魅力があるが、緻密な論理の積み重ねと言うより詩的な発想をベースとしているため、ほころびも目立つ。やはり吉本は詩人であり、文芸評論を生業としている人だ。

 日本人の死生観の変化を歴史的に粗描すると、

 ①未開・原始時代、すなわち宗教が入ってきていない時代における死後の観念は、死んだあと人間の魂はあまり遠くへ行かない、魂が肉体から離れてあまり遠くないところに漂っていて、くり返しくり返しまた帰ってくる。死んだときに魂がいる世界と、自分のいる世界との間には、そんなに断絶、分け隔てがなく、いつでも呼ぼうとすればやってくるし、自分の方からも行くことができる、と考えていた。

 あの世のイメージは、

  村里のそばの山―山の頂に霊がいる

  海のかなたー空飛ぶ鳥(稲作を持って渡って来た人たち)

  地下―アイヌ、洞窟

 ②鎌倉時代に仏教の伝来で死の観念は変わった。仏教は輪廻転生、生まれ変わりとか、魂が動くという信仰を一面では継承しながら、生まれ変わって現世にやってきたときに、貧困な生活をもう一度やらなければならないということが、ある時代から人々の心を苦しめるようになった。こういう苦しい世の中からどうしたら逃れることができるのか。あるやり方をすれば輪廻を断ち切ることができる。死んだあと浄土という楽しいところに行ったらもう帰ってこなくていい。行ったきりでいいという考え方である。十万億土のかなたにあの世がある、という考え方である。

 浄土教以前は、修業を積んである種の精神状態をつくりあげるとあの世に行き帰ってくることができる。(密教の曼荼羅は、その修行の果てにあるイメージ)

 しかし、その後の浄土教で、親鸞は正定聚(しょうじょうじゅ)になれる、いつでも浄土に行けるという言い方でどこかに霊魂が集まる世界(あの世)があるということを信じていなかったのではないか。

 ③明治時代になってキリスト教の影響があった。天国があると信じる人、ないと考えている人、様々な考え方が日本人の死生観に加わった。

 ④そして、現代は、日本人の死生観を類型化できなくなった。ただ、今の老人たちは、国や子どもに頼るのではなく、死を自分自身で解決すべき問題と考えている。老人が増え、死は最後の問題、究極の問題になったと言える。

 *(*印は僕の感想部分)歴史を振り返ると、現代は価値観の多様化に伴い死生観を定めることが困難な時代であると考える。死をどのようにとらえたらいいのか。例えば、恐怖すべきものなのか、楽土への旅立ちなのか、唯物論的には単なる物質の消滅である、などと各自各様の考え方がある。

 ただ、戦争を現実化しようとする政治の動きがある今、職業軍人(自衛官)にとって、一定の死生観を定め教え込むことが必要になっているのではないか。

 戦前社会は、国家による強制力をもって、「お国のために」死ぬということを見事に意識化し、進むも地獄、戻るも地獄という極限状況を作り出した。もし、僕が今より30歳ほど若く、30歳前後の年齢だったとしたら、そしてこの国が戦争を始め、戦場に行かなければならなくなったと仮定したら、さて兵役拒否をして家族も含めて弾圧を受ける、戦場で自分や敵の死に直面する、そんな情況にまで行ってしまったら、後戻りできなくなるであろう。そうならないよう、そして常に名誉ある退路を社会的にキープしておくことが肝要ではないかと考える。

 *自分にとってはたった一つの自分の命、それを何と引き換えることができるのであろうか。自分のため、家族のため、友人のため、国家のため、それが仕事だから命を捧げることができるのだろうか。僕は、国家という擬制がそれほどの価値を持ち合わせているとは思わないが、ある種の環境に置かれた場合や、自分の中で納得した場合は、簡単に命を差し出すことができる、それは「先の大戦」が証明していると思う。

 それまでの人間関係、自分が同僚や後輩に対して吐いた言葉が自らを縛る、仕事への指示、仕事への心構えと言って、随分偉そうなことを言ってきた自分。俺について来い、でも俺は行かない、とは今更言えないであろう。

 今は、後戻りできない情況をつくられることと、つくらせないことのせめぎ合いである。

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