選挙戦の最中、藤野保史日共政策委員長「人を殺すための予算」発言は、藤野氏の経歴から出るべくして出た発言だと思う。党内的にはエリートかも知れないが、氏は大学卒業後、穀田恵二、吉井英勝、両衆議院議員の秘書しかしておらず、実社会を経験していない、従って大衆の感性を理解していないことが根本的な原因だと考える。
戦後左翼史 その27 1965年③ 赤字国債の発行 インドネシア共産党壊滅
以下、■はインドネシア関係である。
1965.8.1道新社説 「公債政策」に成算はあるのか 佐藤首相、福田蔵相 赤字国債発行へ
1965.8.12道新夕刊 ニュースの目 まかり通る赤字国債 潜在的なインフレ “均衡”の旗じるしおろす 財源不足補てん公債3,500億円 財政法第4条で建設国債は認められているが、戦時国債の悪夢
*(*は僕の考え)1965年は先の戦争に対する国家財政面からの反省を捨てた記憶すべき年である。国は財政法で、①赤字国債(戦時国債)は発行しない、②日銀が直接国債を引き受けない、の2点を定めていたが、この年に①が破られた。50年後の現在2つの禁則は破られ、国家財政は借金の返済のために借金を重ね、借金残高が1000兆円を超えるというまさにサラ金状態にある。この間常に財政は危機にあり、今に破たんするぞと叫び続けた左翼だったが、そのような状態に陥ることは無く、まさに「オオカミ少年」に終わったのである。しかし、僕はここにきて、ついに臨界点に達したのではないかという現象が、このブログ2016.6.15「東京三菱UFJ銀行の叛旗」ではないかと考えている。
1965.8.20道新夕刊 40年(1965年)経済白書の内容 景気の回復は困難 国際収支:輸出拡大で改善 低下した企業利潤率 物価上昇、住宅難目立つ
1965.8.21道新 ソ連 来月中央委総会を招集 第23回党大会は明春か 開催承認を求める
1965.8.27道新夕刊 全道労協大会終わる 星野健三議長ら三選 決議に⑥白鳥事件の再審と村上国治君の早期釈放運動支援 ⑦尺別炭鉱事件支援 ⑧太田講師の無罪要求
*総評・社会党系の全道労協が、日共が起こした白鳥事件を支援していたのは意外な感じがする。
1965.8.29道新 社会党江田派が全国討論集会 構造改革路線を再確認 佐々木派と積極論争へ
1965.8.31道新 ソ連 ベトナム平和解決でナセル(アラブ連合大統領訪ソ)構想歓迎
1965.9.3道新 人民日報 社説で日本に警告 軍国主義が復活 抗日戦争20周年
1965.9.5道新 総評(太田―岩井)の社会党員議員協議会総会 日共との安保共闘認めない 2年後党員を10万人増⇒社党執行部(成田書記長)に衝撃 日韓国会控えて調整苦慮
1965.8.8道新社説 カシミール紛争の重大化を憂う
1965.9.9道新 ソ連中央委(3.24~26)議事録公表 フ前首相をきびしく非難
1965.9.11道新 プラウダとイズべスチア(抑圧的)が芸術の自由で対立
1965.9.11道新 北鮮政府樹立記念レセプションでインド大使が退席 周首相がインドのパキスタン攻撃を非難に対して
■1965.9.11道新 インドネシア国民協議会(カレー議長) 経済指導理設置要請スカルノ大統領に、ナサコム(民族主義、宗教、共産主義の3勢力を結合する)体制を早急に構築することを要請
(*れんだいこHPに学ぶ)9.30事件の背景として、スカルノ政治は、ナサコム体制を採用していた。共産党の利用は陸軍とのバランス上なされていた。アイジット共産党議長は内閣の実力者としてふるまい、「一挙に軍部を制し、実際上の共産主義政権をつくる」野心を膨らませていた。中国共産党と提携し、スパンドリオ外相を派遣し武器を手に入れ新政権樹立に余念が無かった。
1965.9.12道新 カシミールの概観と紛争の背景(インド、パキスタン武力衝突) 藩主反乱が拡大 インドの強引な併合も原因
1965.9.12道新 社党 共産党との共闘に和田派が反対表明(日韓条約批准反対闘争) 宮本日共書記長、社党共闘(社党の中執決定)を歓迎
1965.9.14道新 体質改善せまられるソ連農業 不振なかば慢性化 国民経済の“アキレスけん” 小麦の不足、買い入れ
1965.9.20道新 東北大紛争 石津学長が辞表 学生の退陣要求をのむ 農学部の移転問
1965.9.20道新社説 学園騒動と大学の自治 市立高崎経済大の私学化 法政大、職員の使い込み
1965.9.21道新 北大水産学部新寮 寮規則でもめて、空き家のまま 学生側:自治後退に抗戦 本質的解決にはほど遠い 旧寮で越冬の覚悟
1965.9.21、22、23道新 赤い星の下で 中国大衆の生活と発想 ④賃金・昇給:賃金の不満少ない 大衆討議で昇給決める ⑤家計・物価:生活必需品は安い 格差の少ない暮らし ⑥学校教育:急テンポで普及 “政治”“労働”は必須科目
1965.9.23道新 印パ停戦受諾の背景 最大の理由 経済苦
1965.9.23道新 どうするポンド危機 ドルが足を引っ張る 米、IMF総会前に苦悩
1965.9.25道新 プラウダ編集長後退の背景(アルクセイ・ルミャンツェフ もっと表現の自由を) クレムリン内に勢力争いか 政策の危機を示唆
1965.9.25道新夕刊 ブ第1書記演説 ソ連の粒穀生産は立ち遅れ
1965.9.28道新夕刊 コスイギンソ連首相 工業問題で基調報告 企業に利潤方式導入 経済的刺激を増大 国民経済会議の廃止
1965.9.29道新 “利潤導入”に踏み切ったソ連 独立採算制の強化 今後の経済戦略の指標 1962リーベルマンの提案
1965.9.30道新夕刊 ブレジネフ第1書記 ベトナム侵略続けば米ソ関係は悪化
1965.10.1道新夕刊 ソ連 今日から最高会議 経済の改革決定 企業法案の立法化 閣僚級の人事異動も 明年3月末に党大会
1965.10.1道新夕刊 周首相演説 大国の世界支配非難 国連通じ内政干渉
1965.10.1道新夕刊 イズべスチア 中ソ友好回復を
1965.10.2道新 ソ連最高会議開く 工業改善など2議題採決
1965.10.2道新社説 ソ連経済の“利潤率”導入
1965.10.7道新 ゲバラ工業相(中国寄り)出国などキューバに“内部変化” 背後にソ連圧力? 米、今後の動きに注目
■1965.10.7道新 マレーシア インドネシア情勢憂慮 スカルノ大統領ワンマン政治崩壊 共産主義の進出恐れる
■1965.10.7道新 インドネシアの「9.30事件」の経過 中国の支援を受けたウントン大佐のクーデター(革命派)からスカルノ大統領を救出 オマル(ジャカルタ軍管区司令官)、スハルト将軍(第1参謀次長)が反対しクーデターを鎮圧
(*れんだいこHPに学ぶ)9.30夜半からインドネシア共産党の一部勢力が、スカルノ大統領の親衛隊大隊長ワトソン中佐と組み、陸軍の首脳を急襲、直ちに革命評議会を樹立し、共産党員を含む閣僚名簿を発表した。しかし、殺害を免れたナスチオンやスハルト陸軍戦略司令官が、陸軍部隊、降下部隊を指揮し、10.1日夜半には革命軍を制圧した。これを契機に、全土にわたって共産党弾圧が始まり、20万人以上の党員が虐殺された。インドネシア共産党中央委員会議長・アイジットも射殺された。北京―ジャカルタラインが破壊され、日共党中央は衝撃を受けた。
1965.10.7道新夕刊 プラウダ社説 北ベトナム援助強化 中ソ団結を強調
1965.10.7道新夕刊 相次ぐ大学騒動 自治からみ問題こじれる 板ばさみの大学側 東北大 東京教育大 お茶の水大 高崎経済大 都留文科大
■1965.10.9道新社説 スカルノ路線の今後
1965.10.15道新 変容するソ連外交路線 対米関係は冷却化:米のベトナム、ドミニカ介入が転機 仏、AAとの接近を図る
■1965.10.20道新 中国とインドネシア(北京―ジャカルタ枢軸) 友好関係にヒビ? 中国の出方が問題 “断交”すれば中国の孤立は必至 ジャカルタ地区に共産党(PKI)活動禁止令
1965.10.20道新 中国 ソ連との和解で表明 “平和共存”廃棄せよ
■1965.10.20道新 スカルノ大統領 解任の花道与える? ダニ外相外遊へ
■1965.10.20道新 インドネシア三軍機関紙 アイジット共産党議長(東部ジャワに)逮捕を暗に否定
■1965.10.20道新夕刊 新華社 インドネシア情勢報道 9.30運動を認む?
■1965.10.21道新 苦悩するスカルノ大統領 軍部の比重が増大 AA会議で中国と対立のきざし 軍部のインドネシア共産党(PKI)に対する弾圧 弾圧に沈黙の共産党
■1965.10.22道新 スカルノ大統領と陸軍 複雑な指導権争い 不和続けば長期内戦へ 陸軍の共産党狩り
1965.10.23道新夕刊 来月初め 国際共産党会議開催か ソ連の働きかけに反応
■1965.10.24道新 インドネシア国会 共産党追放 議員の活動も凍結 スカルノ大統領 特別会議で新指令 常時“ネコリム”(新旧植民地主義帝国主義)警戒を
■1965.10.26道新夕刊 インドネシア 大統領と軍部の対立決定的 ナスチオン国防相が要請 共産党全面禁止 プラウダ 軍部独裁を非難 共産党への弾圧は正当でない
1965.10.27道新 第2回AA会議(11.5予定) 準備委で声明 中国派再び黒星 延期提案敗れる 中国は参加せず
1965.10.28道新 AA会議、中国不参加の背景 覚悟の上の“後退” 妥協許さぬ反米、反帝路線 国際世論の不利恐れる
■1965.10.29道新 攻勢に転じたソ連AA外交 大胆にスカルノ支持 “戦う共存”の自身に守られ
*ここまでの新聞紙上からは、虐殺の規模などインドネシアの情況は中々伝わって来ない。
1965.10.29道新 釧路市長に当選した山口哲夫(37歳)