道内選出の参議院議員長谷川岳氏(旧アベ派)が、その言動,振る舞いを批判されている。誰かが言い出すのを待ってそこらじゅう一斉にバッシングを始める構造は、ジャニーズ問題と同じ光景で、横並び意識が蔓延してしまっていることにある種の危機を感じる。政局的には、議員辞職した某宮澤衆議と同様、「溺れた犬(アベ派)は棒で叩いて殺せ」ということなのだろう。
『賢人と奴隷とバカ』(酒井隆史著 亜紀書房 2023年刊) 魯迅 竹内好 2010年代 福島第一原発事故 天皇制 保守リベラル化
書名は、魯迅の『賢人と奴隷と馬鹿』からきている。その翻訳者の竹内好はいう。「日本の近代は、優秀な賢人たちによっておしすすめられた優等生の文化である。しかし、日本の近代はその優秀性ゆえに『負けた』のではないか。優等生(賢人)の文化では、あたらしいものがそれ自体で価値を帯びあたらしい原則に人は次から次と飛びつく」。賢人(優等生)はダメだと。
それに対して、魯迅のような作家を生み出す土壌においては、状況がどれほど変わろうが、にわかに方向を変えるころはできない。そこでは状況に流されない頑固さをもったバカが必要だ。バカであることにこだわる。
酒井氏は、2010年代に対する「おとしまえ」をつけるという。時代の意味、どういう時代にあって、何を課題にすべきかを模索する態度が希薄になったのではないかと問う。この間の言説の微妙な変化に対して感度を研ぎ澄ます。
2010年代、僕にとってはどういう時期だったのか。2010年から16年までは現役として働いていた。バリバリで全力疾走していたと胸を張りたいところだが、「ひとから後ろ指をさされない程度にはやるか」がモットーだった。2017年にリタイアしその後は無業者生活である。この間、僕なりに世の中の情況や言説にこだわってきたつもりだ。時々に感じたことはこのブログに書いた。だが、酒井氏が見たらどう思うだろうか。
僕がバカにこだわった例は、2011.3.11福島第一原発事故以降の世論動向に対する異議だ。それまでの自分の原発に対するスタンスを総括しないで、いとも簡単に「反原発」を唱え始めた多くの人びとに疑問を感じた。それから10年あまりが経過した現在、その人たちの今はどうなっているだろうか。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」状態だ。だから世論の動向を見極めたキシダが原発再稼働、新設に舵を切ったのだ。再び、多くの人の「再転向」が起きたのだ。
僕は、この変わり身の速さに付いていけなかった。僕は「産んだ子(原発技術)は、育てなければならない」と考える。現実にメルトダウンしている原発を横に置いて、反原発を叫んでも事態は打開できないと考える。原子力に関する技術をもっともっと開発しなければならない。廃炉技術をもっと前に進めなければならない。僕は頑固なバカでありたい。
僕が時流に流される賢人だった例がある。それは酒井氏の指摘で、ハッと気づいたことだ。氏はいう。「2010年代に顕著になった批判的言説の『保守リベラル化』のなかで、現在の議会政治の『劣化』が、かつての自民党政治やあるいは天皇制すら担ぎ上げて対抗させるというかまえがあらわれた。」と。この意味するところは、右派ではなくリベラルと称される人びとの中に生じた、平成天皇を民主主義者として讃える言説を指しているのだろう。アベ右派政権と平成天皇は必ずしも折り合いが良かったようには見えない。リベラルの中に、天皇のコメントにはアベ政治に対する批判があらわれているという捉え方だ。だが、酒井氏は天皇制の本質はいささかも変わっていないという。僕も、平成天皇が何かリベラルの声を代弁しているような錯覚をもったことがある。この点では、天皇制に対してはもっと自覚的であるべきだったと反省する。
天皇制の本質を見出さなければならない例を思い浮かべると、皇族の被災地訪問のおり、皇族と面会した人びとは、マイクを向けられた時に口々に興奮と幸福感を表明する。もちろんこころから発していると思う。無意識レベルも含めて、この賞賛コメントに含まれる天皇制のソフトな権力性を感じなければならないと思う。僕は、ものわかりのいい優等生の賢人だった。
2010年代に、何が起こって、どのような言説が流布され、僕がそれらとどれだけ自分の中で向き合うことができたのだろうか。本書を読むと、後ろからゴツンと頭を叩かれたような衝撃を感じる。