晴走雨読

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ミシェル・アンリの「内在の哲学」と吉本隆明の思想について

2023-07-23 09:04:25 | Weblog

この3ヶ月間、論文の書き方の指導を受けた。下記の文章は、自分が「今、持っている力を何とかやりくりして全力」(浜田寿美男氏から)で書いたものだ。指導教官はブログを書くことを推奨していた。自分の文章を音読する。他者に読んでもらう。そうすると、文章を書くことに慣れると。

 

ミシェル・アンリの「内在の哲学」と吉本隆明の思想について

ミシェル・アンリ(1922―2002)と吉本隆明(1924―2012)は、ほぼ同時代を生きた人だ。二人を比べると、西洋哲学に抗おうとした点やマルクスとマルクス主義は異なると述べたことなど、論理に共通点がある。だが、アンリは世界との関係を切断した「内在の哲学」を構築した。対する吉本は、世界を対象化しながら世界との緊張関係の中に自己を見出した。そして、晩年のアンリに変化が生じたことを論じる。

1.戦争体験という共通性

二人には、第二次世界大戦という苛烈な戦争(アンリは戦場)体験がある。二人はそれぞれの戦中、戦後において、自分を取り巻く世界が激動する中で、時流に任せて生きるのではなく、いかに自己を確立するか、自己の拠って立つ場所をどこに求めるのかという切実な問いに向き合った。

アンリは、レジスタンス活動に参加し、そこでは常に自分の思考や行動を隠さなければならなかったという経験から、「真理は、(略)内面性、内密性の内にあり(略)文化、政治、経済、社会システム、言語構造など(略)人間の外部にあるものは人間の真理たりえない」と考えた。(1)

一方、「戦時中、学生だった吉本は、読書に基づく徹底した思索の結果、戦争を肯定し国家のために死ぬことも覚悟していた。しかし、敗戦により、自分が確信をもって抱いた死生観は全否定され」(2)、「ある種の放心状態に陥ってしまった」(3)。吉本は、自らの価値観の崩壊を経験した後、思想の再構築に挑み、かつて自分が信じてしまった国家とはどういうものなのか、さらに自分と国家や社会との関係はいかなるものなのかについて思索を展開した。

2.アンリ哲学と吉本思想の分岐点

戦争という共通の体験を経たアンリと吉本だったが、二人の考え方の間には、自らと外部との関係をどう捉えるべきか、そこに大きな分岐があった。

アンリは、自分を取り巻く外部との関係を切断した「私」という存在をあらゆる「存在」の根底に据えた。また、西洋哲学における「事象が現れてくる」とは「対象化されること」だという存在論的一元論を乗り越え、自己意識を「対象化」してはならないと考えた。彼は、私が私自身を直接に感じとる、世界の事象とはかかわらない、客観的、対象的な規定とも無縁な、自己の感情を哲学の基軸に据えた。

吉本は、国家の成り立ちを次元の異なる三つの幻想(観念)から解明しようとした。すなわち「共同幻想」という集団が持つ観念、「対幻想」という二者間の観念、個人の存在の根拠となる「自己幻想」を分析し、それらの相互関係を明らかにしようとした。そして、「国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である」(4)といい、共同幻想はその集団の構成員としての自己にとっては、共同の規範であるとともに縛りやつながりの根拠でもあると考えた。

さらに、「人間はしばしばじぶんの存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担のひとつである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている」(5)といい、共同幻想と自己幻想は、すなわち国家や法、宗教などと、それらを構成する個人とは、原理的に対立する関係にあると考えた。吉本は、戦争中に疑うこともなく国家の方針を受け入れてしまった自らの経験や、集団の中で集団が自分の思い通りにならないことから生じる苛立ちなどの原因は、共同幻想と自己幻想の逆立にあるのだと述べた。

「私」という存在をあらゆる存在の根底に据えるという考え方ではアンリと吉本は一致している。アンリは、世界の事象とは関わらない自己の感情を中心において「内在の哲学」を構築した。吉本は、世界を外部性として排除するのではなく、緊張関係(逆立)を孕みながらも世界を認識の対象とし、世界との関係無くしての自己はありえないと考えた。アンリは、事物を対象化せず、事物に対する知覚も捨て、自ずと自己の中に湧き上がる感情に依拠した。ここにアンリと吉本の考えとの分岐がある。

3.アンリのキリストの言葉への接近

世界をすべて「情緒的な主体」との関わりの中で捉えなおしたアンリだったが、その後において、「私たちの『存在の感情』と他者とはどのような関係を持つのか、他者との共生は私たちの『存在の感情』といかなるかかわりを持つのか」(6)、「アンリ哲学は、(略)自己の個体性をよく説明する一方、自己の外、すなわち外在性をどう表しうるのか」(7)という問題に直面した。「私」のうちに沈潜すればするほど、「私」を存在せしめる「何か」との関係が問題として浮上した。

晩年のアンリにとって「私」の存在を支えてくれる「何か」とはキリストの言葉だった。「超越的な現れであるキリストの言葉がその逆説性によって人間の生の条件を思い出させたのだとすれば、中期以前のアンリとは異なる次元で超越的な現れが内在的生に作用することを認めたことになろう」(8)。結果的に、遮断していたはずの世界、否定していた他者との関係が復活してしまった。これは吉本のいう自己と共同幻想の関係、他者性、外部性を否定しきれなかったということではないか。アンリの哲学は初期と後期で大きく変化した。

(1) 村松正隆『授業資料』

(2) 先崎彰容『100分de名著 吉本隆明 共同幻想論』NHK出版、2020年、14頁 

(3) 同前、26頁

(4) 吉本隆明『「共同幻想論」角川文庫版のための序文』、『100分de名著 吉本隆明 共同幻想論』NHK出版、2020年、11頁

(5) 吉本隆明『「共同幻想論」「序」』河出書房新社、1968年、27頁

(6) 村松正隆『アンリとフランス哲学』、『ミシェル・アンリ読本』法政大学出版会、2022年、54頁

(7) 吉永和可『他者と共同体』、『ミシェル・アンリ読本』法政大学出版会、2022年、130頁

(8) 古荘匡義『生の現象学とキリスト教』、『ミシェル・アンリ読本』法政大学出版会、2022年174頁

 

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原武史 『歴史のダイヤグラム〈2号車〉 鉄路に刻まれた、この国のドラマ』 JR北海道 松本清張

2023-07-03 14:09:26 | Weblog

マイナンバーカードを持つことに対する不快感はどこからくるのだろうか。それは、相次ぐ事務ミスだけが原因ではない。免許証は運転をするため、健康保険証は病院にかかるためとそれぞれ目的がはっきりしていて納得感があるが、マイナには所持する切実な必要性を感じない。僕には、在日外国人が日常的に在留カードを持たせられている気持ちに通じるものがあると思う。

 

『歴史のダイヤグラム〈2号車〉 鉄路に刻まれた、この国のドラマ』(原武史著 朝日新書 2023年刊)         

本書は、著者が朝日新聞に連載したコラムをまとめたものだ。皇室、文豪たち、駅弁や駅前食堂などいずれの話題も鉄道に関係している。「鉄学者」と自称するだけに、当時の時刻表を調べ尽しており、行き先、便名、時刻などはきわめて正確だ。これは、著者が高く評価する松本清張の小説における手法に通じている。また、車窓からの景色、車内の乗客の様子、その土地の人びとの様子なども良く書き込まれている。

1コラム、新書3ページという短い文なのでひとつの話題を掘り下げることはできないが、起承転結がはっきりしていて論理の展開が明瞭で、作文やエッセイの書き方の手本になるような見事な文章だ。

そこに鉄路があるから、人々は様々な想いを抱く。鉄道が無くなってしまうと、このような思いを抱くひとや、それを文章にしたためるひともいなくなってしまうだろう。あらためて鉄道はいいなあと思う。

本書を読んでいると、自然に北海道のことを考えてしまう。不採算路線はどうなるのか。新幹線が開通した後に並行在来線をどうするのか。本州と道内を結ぶ貨物列車は存続できるのか。鉄路が廃止された後の代替交通手段をどうするのか。北海道の鉄道には課題が山積していて中々解決策が見当たらないのも周知の事実だ。

鉄道の存続には採算も重要なので仕方がない課題ばかりだが、北海道からレールが剥がされてしまうと、これからは旅情を題材にしたエッセイや物語は生まれにくくなる。時間短縮には最も有効なのは新幹線だが、トンネルだらけの旅は楽しいのだろうか。僕は、それとは真逆の、ノロッコ列車のようなスピードを落として、車窓からの風景をゆっくりと楽しむ乗り方があってもいいと思う。

一度レールを剥がしてしまうと二度と元に戻ることはないだろう。なにか工夫はないのか。素人の思いつきだが、都市間を結ぶ幹線以外のローカル線は。車両を思いっきり軽量化した構造にして、列車スピードも落としたら、線路の整備レベルを低くでき、線路維持の経費を減らせるのではないか。

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