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晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『閉塞感のある社会で生きたいように生きる』

2010-12-30 14:57:12 | Weblog

 『閉塞感のある社会で生きたいように生きる オルタナティブ大学で学ぶ』(シューレ大学編 東京シューレ出版 2010年刊)

 

 ひとつの試行の記録である。本書には、シューレ大学という既存の制度に位置づけられない大学、そこに集う人々の思いが詰まっている。ここの学生達は、自己肯定感を得られにくいこの社会での生き難さを共有している。

 

 学ぶとは何か、研究とは何か、自由とは何か、と問う「自分研究」から出発し、自分と他者の関係を捉え、実践の中で変えていく。その間の心情が吐露されていて、読み手に共感をもたらすものである。

 

 オルタナティブ的な大学の例としては、かつて東大の宇井純らによる反公害の「自主講座」、他大学の聞きたい講義を勝手に聴講する「ニセ学生」などの運動があった。シューレ大学とそれらとの違いは、今の時代を典型的に表していると思うが、シューレ大学は社会的な視点からというよりも、「自分自身」の見つめ直し、自分と他者との関係を中心としている。

 

 シューレ大学は、ひとつの例であるが、今を生きる人々がこのような居場所(場)を求めていることは確かなことだと思う。

 

 そこで、私の思いつきだが、公的な図書館にはお金を掛けて標準的な図書がずらりと整備されているが、それに対抗するオルタナティブ図書館を夢想した。家庭にある愛書の寄贈による図書館である。子どもの少なくなった学校の教室が23つあればできる。親が亡くなって行き場を失った本たち、増えすぎて置き場が無くなった本たちを集めて図書館を作るのだ。

 

 本のクリーニング、修理、分類、登録をしてスタート。おそらく集まる本は玉石混交状態であろう。他の人から見れば価値を見出せない本も、少ない人であっても何か感じることがあればよい。ひとつだけルールを設けたい。読んだ人は、出来る限り感想を本に添えて戻してもらうのである。それをきっかけにして、読書会とかが発生し、自然にまかせていけば、人と人とのつながりに発展できる。掛かる経費は?金は天下の周りもの、何とかなるであろう。どうでしょうか。

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自由 その4

2010-12-29 20:19:07 | Weblog

 30数年ほど前に読んだことを思い出し、自分の本棚を探したが発見できず、近くの図書館、それも閉架から見つけてもらって借りて読む。

 

 『権威と権力―いうことをきかせる原理・きく原理―』(なだいなだ著 岩波新書青版 1974年刊)

 

 本書の刊行年から考えると大学に入った直後に読んだのではないかと思う。空っぽ頭で社会も全く知らない学生として読んだ時には、権威、権力という言葉に対する実感も無く、著者の主張とは反対に私自身の中には権力志向、もちろん体制側ということではなく、反体制としてではあるが、権力奪取という言葉への志向が強かったように記憶している。

 

 再読して、著者が35年前に以下のように語っていることをあらためて発見し、この間のテーマである「自由」と関連が深いのでメモする。(以下、引用)

 

 「ぼくは、革命が権力奪取を目標にしたものではなく、権力そのものの否定でなければいけないのではないかと思う。だから打ち倒そうとする対象の権力ばかりでなく、自分たちの内部にある権力主義や権威主義の否定でなければならないと思う。」

 

 権力そのものの否定! か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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国民国家の黄昏 その1

2010-12-26 17:31:41 | Weblog

この湿原の向こうに何がある。行ってみよか?

 

 

わたしは今日まで生きてみました

時にはだれかの力をかりて

時にはだれかにしがみついて

わたしは今日まで生きてみました

そして今 わたしは思っています

明日からも

こうして生きて行くだろうと

   「今日までそして明日から」 作詞・作曲by拓郎

 

と唄ったのは、1971年のことで今から40年前、しかし、現在、私たちは昨日までのように明日を生きていくことができるのだろうか。

これに対して、私は、NO!と答える。それは、一体どうなってしまうのかという不安とともに、面白いじゃないかという期待も込めて。

 

北海道新聞1218日の夕刊に、社会学者の大澤真幸氏が「2010年の記憶 露呈した国家権威の二重性」と題する珠玉のコラムを寄せている。(以下、引用する。)

 

「われわれは、2010年を、国家の意義の圧倒的な二重性が露骨に現出した年として、記憶に留めておくべきであろう。一方では、①ポストモダンなグローバル資本主義の下では、人々の国家や国民への帰属意識・忠誠心はどうしても低下していく。人もモノも情報も国境にほとんど関係なく移動し、その役割を果たすからである。(普天間基地移設問題)だが、他方で、②われわれは、決定的な場面では、なお国家に依存し、国家に対して強さと権威とを要請してもいる。(尖閣諸島沖中国漁船衝突事件)」

 

「今日の資本主義にとって、利潤の主要な源泉」は、「知的所有権」である。「『この情報は排他的に誰々に所有されている』という判断は、法的なフィクションに過ぎず、法以外(あるいは法以前)のところに根拠をもたない。ということは、現代資本主義が、最終的なところで、国家の権威を必要としていることを意味する。」

 

 

この論考を肯定した場合、我々のターゲットは明確になる。それは、国家の権威、その徹底的な骨抜き化、無力化である。

 

 

 

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自由 その3

2010-12-25 20:11:18 | Weblog

 

走る仲間が昨日肺ガンの手術を受けた。彼は、煙草も喫まない。身体も人一倍動かしていたのに。同業者としてショックである。しかし、それらのこととガンとの因果関係は元々無いのだから、ガンにならないという保障は全く無いこともそのとおりと理解はしている。

 

 

 

これまで、自由とは極めて曖昧な概念であるということを述べてきたが、その「自由」を旗として掲げるとこれに対して公然と批判できないという情況もまたある。また、積極的な自由に内在する怖さについても触れた。

 

これらから、自由を外延的に拡大していくと、そこには摩擦、軋轢、対立、衝突・・などのぶつかり合いが生じ、権力、抑圧・・が発生する。しからば、寛容、受容、許容、理解、親和・・を基調とする「友愛」社会というものがありえるのだろうか。(何だか、鳩山由起夫氏のスローガンっぽくなってしまった。)これに対する私の答えは現時点で持ち合わせていない。

 

今のところ私にできることは、自由を内側に向かって自閉的に捉え、そこに橋頭堡を築くことから始めることではないかと考える。それも大変難しいと考える。

 

そのひとつは、身体的自由である。今、自分の身体は一体誰のものかと問う。体調不良の時、疲労困憊した時など、自分の身体が自分のもので無くなる様な感覚は誰しも体験する。自分の身体が自分ではどうすることもできない不自由な状態である。

 

それに対して、自分の身体を意識化で制御できる、身体作法を使い分けることができる、最低限先ずその自由を確保したい。

 

もうひとつは、内面の自由である。一体自分は何を考えているのだろうかと問う。人は他人の言葉や表情からその人を理解できるのはほんの一部のことなのではないか。他人が何を考え何を想っているのかはわからないのである。反対に、自分を他人に完全に理解してもらうこともまた不可能に近いことである。

 

そんな自分であるが、その自分自身の内面を意識化で制御できる。他人から考えさせられるのではなく、自分自身で考えぬくことができる、その自由も確保したい。

 

 

『自由はどこまで可能か リバタリアニズム入門』(森村進著 講談社現代新書 2001年刊)は、自由論の基本文献に位置づけられているのだろうが、法哲学からの自由尊重主義への接近を述べているが、私にとってはあまり触発されるものでは無かった。

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北海道銘菓

2010-12-23 10:26:58 | Weblog

『北海道の地名の謎と歴史を訪ねて』(合田一道著 ベスト新書 2010年刊)

 

 「読む?」ということで知人から借りて読む。書店では山積、売れているらしい。道内の地名の由来がコンパクトにまとめられている。アイヌ語からきた地名が多い。ポップな読み物としては、これはこれで完結している。私としては特に触発された事柄は無い。

 

 ただ、文中のコラム「北海道お菓子紀行」は、昔からあるお菓子を取り上げていて、子どもの頃食べたことのあるもの、全然知らなかったもの、いまだに売っているので驚いたものなどがあって、ちょっと面白かった。

 

 ①塊炭飴(赤平市茂尻 有限会社石川商店)石炭の塊のように真っ黒でニッキの味がした。

 

 ②五勝手屋羊羹(江差町 株式会社五勝手屋本舗)赤い筒に入っている羊羹を押し出して糸で切るというアイデアお菓子、今でもデパートなどで売れている。

 

 ③ひとつ鍋(帯広市 帯広千秋庵 現在六花亭本店)1952年に発売された。十勝日誌という詰め合わせにも入っている。

 

 ④煉化もち(江別市野幌 煉化もち本舗)レンガの街江別を代表するお菓子。

 

 ⑤えりも黄金旅情(広尾町 上田菓子店)アーモンドとホワイトチョコでサクッとしている。

 

 ⑥孝行餅(木古内町 末廣庵)

 

 ⑦ハッカ飴(北見市 ハッカ豆本舗)大豆の金平糖にハッカ味を付けた。

 

 ⑧まりも羊羹(旧阿寒町阿寒湖温泉)爪楊枝で表面を突付くと緑の丸い羊羹が飛び出すアイデアお菓子。

 

 ⑨月寒アンパン(札幌市 株式会社ほんま)北洋銀行本店の1階に店がある。

 

 紹介されている9つのお菓子のうち食べたことのあるのは、私は7つ。

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自由 その2

2010-12-19 13:55:09 | Weblog

   

電車には自由席と指定席があり、自由席の車両は、「自由(NO  RESERVED) 」と表示されている。この場合の「自由」を英語では「予約されていない」と表現する。

 

自由の内実を見ると、規制されていない、束縛されていない、妨害、拘束、強制、障害、干渉、支配、疎外、阻害されていない・・・など、○○されない、NO ○○、非○○、否○○・・という外側からの消極的な定義となっていることがわかる。

 

以前に、「自由とは、自然必然性の認識にもとづいて自然を支配することにある」(エンゲルスからの引用)と書いた。自由を積極的に定義すればこのようなことになるのであろうか。

 

ここに、大きな落とし穴があった。積極的自由には怖さがある。何か特定の内容の自由を絶対化し、それを他に押し付けようとするとき、そこに権力が生じそれが他の自由を制限するのである。これこそ全体主義の起源ではないか。

 

一例から考えてみたい。数年前、この国は、教育基本法を改悪して学校における国旗、国歌の使用を義務化した。私は、もちろんこれに反対する。しかし、反対の論理には2つの考え方あると思う。

 

ひとつは、歴史的な認識を基に、戦争における侵略の血に染まった「日の丸」、そして天皇制を賛美する内容の歌詞である「君が代」の強制(不自由)に対する反対の意思表示である。現在使用している国旗、国歌に反対という論理である。

しかし、この論理の裏を返すと、別のシンボル、自分たちが良しとした旗、歌(積極的な定義)なら、これを国旗、国歌とすることについて容認するということになる。

 

もうひとつは、そもそも教育現場で国家が教育内容を定め、“強制”するという行為には反対という考え方である。

 

前者の反対は、権力をもって権力を倒すという論理に通底しており、自分たちが定めたものについては絶対的に正しく、皆がそれに従うべきという危険な論理を内在している。

 

私は、後者の道を追求したい。それならば何を、それではどうするかなどということではなく、嫌なものは嫌だということでいいと考える。

 

今回、「自由」をテーマとするにあたり、『自由の社会学』(橋本努著 NTT出版 2010年刊)に触発された。

 

本書で著者は、日常の多数の具体的事案を基に、「実質的な意味での自由な社会は、自由の三つの原理、卓越(誇り)原理、生成変化原理、分化原理をうまく構成した場合に実現する。P263」として、自由の内実化、豊富化を試みている。

 

しかし、これは、私の問題意識のありようとは異なった。

 

 

 

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『武士の家計簿』

2010-12-18 21:07:10 | Weblog

 『武士の家計簿』(森田芳光監督 松竹 2010年作品)札幌シネマフロンティア

 今年初めての本格的降雪で除雪、午前中は営業があったので午後から映画へ。

 封切り後3週目に入るというのに満員で最前列で大きな画面を見るのは首と背中が痛い。

 森田芳光作品は、1983年『家族ゲーム』以来、あの頃は結構映画を観ていたのだがその後長いブランク。

 楽しい映画であった。江戸時代のお城勤めも現代のサラリーマンも同じ、分をわきまえて行動しろ、見栄を張らず、倹約して質素に給料に見合う生活をしろ、運、不運もあるが真面目にコツコツと誠実に勤め上げろ、と教訓的なメッセージが発せられるが、厭味なく誰しもの心に響く。

 父と子の確執、嫁と姑、上司と部下・・人間関係を大事にしながら自然と年を重ね死んでいく。それが人生。親の背中を見ながら、子もまた親になり同じように生きていく。

 妙な野心とか、組織や世の中に背くことを思ってはいけない。誠実を旨とせよ。

 現実はこの映画のとおりだ、良かった!

 

 

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自由 その1

2010-12-12 17:10:11 | Weblog

 岸和田だんじり祭り、死傷者が出たりで一見無秩序な祭りに見えるが、地域の共同体毎に長老から子どもまできっちりと役割が分担されている。

 

 

 自由 その1

 

 これが自由というものかしら

 自由になると 淋しいのかい

 やっと一人になれたからって

 涙が出たんじゃ 困るのサ

 やっぱり僕は人にもまれて

 皆の中で 生きるのサ

   「どうしてこんなに悲しいんだろう」 作詞作曲by拓郎

 

 「自由」というテーマを考えると、自由であることは不自由である、不自由であることは自由である、というパラドックスに直面する。

 

 なんら規範の無い無政府的な社会は、例えば力の強い者に暴力的に支配される可能性がある。すなわち、自由のためには規範が必要となる。

 しかし、社会の規範を網の目のように張り巡らすと管理社会になる可能性がある。すなわち、自由のためには規範が不要である。

 ここから、自由のためには、規範的な秩序の中に一定の規範の無い空間を作り出す必要がある、というような訳のわからない論理に至ってしまう。

 

 私は、先に国民国家の賞味期限が来ている。しかし、我々は、権力を以って権力を倒すことの失敗に学んだ。ある種の共同体に未来の可能性があるかも知れないが、果たして私自身がその共同体なるものと上手く折り合いをつけることができるか心もとないと表明した。

 

 共同体は、未来的側面を持つと同時に負の側面を持つ。共同体の秩序は、ある種の人々を排除することによって成り立っているのではいないだろうか。被差別(路地)はその典型である。

 

学校における「いじめ」も共同体として結束のための行為と捉えることはできないか。「いじめ」に教師も加担している例も少なからずあるが、結束のためという点では加害生徒と考えが一致するとすれば納得できるところである。

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路地

2010-12-11 20:14:02 | Weblog

今年の誕生日はシュトーレン、少しづつ食べているが、クリスマスまではとうてい持たない。

 

今週は、木、金と忘年会が続いて疲弊気味。それなりに会社人間をやっているなと自分を誉める。

 

 

『日本の路地を旅する』(上原善広著 文芸春秋社 2009年刊)

 

 表紙の言葉を拾ってみよう。

 

41回大宅賞受賞

中上健次は、そこを「路地」と呼んだ 「路地」とは被差別のことである 

自身の出身地である大阪・更池から中上健次の故郷・新宮へ 日本全国500以上の「路地」をめぐり歩いた13年間の記録

それは、自らのルーツをたどる旅でもあった

路地と路地とをつなぐ糸を求めて日本全国を歩いた、渾身のノンフィクション

 

駄本である。

 

本書の内容は、著者自身が、エピローグで書いている「私が更池出身だと知ると、多くの人が話しにくいことでも親切に聞かせてくれ、」に尽きる。

 

ここの路地は、昔はこうで、今はこうなってしまった。ここでは、こんな生業を営んでいたが、今はこうだとの古老へのインタビュー。全国の路地を巡りながら同一パターンの記述で終始。

 

私が期待していたのは、「差別」の根源は何なのかという問いに答えるヒントが書かれているのではないかということだった。

 

世界的には、人種、性別、宗教などを要因とする差別があり、その最も極端な例は奴隷制度であろう。しかし、この国の被差別問題は、上の要因とは違う独特の差別構造でなのではないか。

 

少なくても、全国や解放同盟なる言葉が出てくるべきだし、それを巡る運動と理論にも触れるべきだったと思う。

 

要するに、路地出身だったから路地の人々に心を開いてもらうことができたと著者が語っていることは、路地出身でないと路地を語ることはできないと暗に言っていることになるが、著者はそれに無自覚である。

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論語

2010-12-05 17:14:03 | Weblog

 

 三井アウトレットパーク札幌北広島(北広島市大曲3-7-6)大かまど芝のハンバーグ」です。ミニサラダ、俵型ハンバーグ、ご飯、味噌汁、デザート、ソフトドリンクが付いて1,280円、ボリュームがあり全部食べることができませんでした。

 

中央区南1条西4-14三鵬ビル「炭火ハンバーグ・オムライス大かまど芝」の支店です。

 

 

 

 冬の一日は短い、午前中のやわらかな日差し、穏やかな休日の一日を感じさせる。午後になると急に夕暮れを思わせるような空の色に寂しさを感じる。

 

 毎年の事だが、この頃になると日没時刻を調べる。札幌では、124日から15日の16時丁度が一番早い日没である。ちなみに日の出時刻は、1230日から19日の76分が最も遅い時刻ということになる。

 

 

 『渋沢栄一の「論語講義」』(渋沢栄一著 守屋淳編訳 平凡社新書 2010年刊)

 

 書店に行くと何冊もの論語を題材にした書籍が並んでいる。ブームのようである。本書は、明治期、この国の資本主義黎明期に実業家として活躍した渋沢栄一による「論語」の講義録である。

 

 最初に「孔子が言った。・・」と論語の訳、次に「子白・・」と漢語、それについて渋沢が自分の経験や交友のあった人のエピソードを交えながら「論語」の解釈が1セット、それが連なり読みやすい。

 

 渋沢は終生「論語」を自分の人生の羅針盤にしたという。

 

私は、「論語」というものが、生きていくうえで、他人と交わっていく上で、教訓的でかつ自省的な内容のものなのだということが今回初めてわかった。しかし、あまりに厳しすぎて実践は無理。

 

では、なぜ今「論語」に注目なのだろうか。展望が開けぬ社会を反映して、自省の時代ということなのか。そういえば、「論語」には、自分と社会の関係、社会を要因とする記述が少ない。

 

 原因は、自分か社会か、自分を律するのか、社会を正すのか。これは、どちらかというと問いではなく、両方とも必要であり、バランスの問題だ。今は、自分に少し傾いた時代なのであろう。

 

 戦後教育を受けた私たちは、漢文の知識がとても弱いと思う。漢詩が読めない、わからない、掛け軸の書の意味もわからない。漢字とひらがなを交えるというこの国独特の文字表現法を使う上で、漢語を知らないのは大きな弱点と感じる。

 

 最近、日中の意思疎通が巧くいっていない遠因のひとつでもあるのではないだろうか。

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