晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『レッド1969-1972』第1巻

2014-04-30 20:24:10 | Weblog

 私にコミックが理解できるようにしてくれた作者は、安彦義和氏、他者(ひと)より遅れに遅れて、その世界に少し興味が湧くようになった。

 

 『レッド Red 1969-1972』第1巻(山本直樹著 講談社イブニングKCDX 2007年刊)

 連合赤軍事件を題材とした実録タッチの劇画。登場人物の絵には①~⑮までの数字が人物の亡くなっていく順番として付されている。また、話の区切りが付く毎に登場人物には、「○山○郎 この時23歳 埼玉県■■駅で逮捕されるまであと351日」「×川×子 この時21歳 群馬県山中で死亡するまであと279日」などと説明が付されている。

 作者も私たち読者も皆、現在から過去を見ているので、青年たちのその後の運命については承知している。知らないのは当事者だけである。

 誰しも、現在から未来を予測することはできない。自分が、明日どういうことに遭遇するのか、あと残された時間が何日あるのか。誰にもわからない。

 著者の運命論的な表現方法は、「お前の運命は私だけが知っている」というような、読者に通常とは違った意味の妙なワクワク感をもたらす。また、それは登場人物に対する優越感でもある。と同時に、著者の連赤事件全体への批判への視座となっているのではないか。

 第1巻では、青森県■■大学の学生が登場するが、そのうちの一人は、安彦義和氏だと言われている。ちなみに安彦の出身大学は、弘前大学である。

 迷いに迷った末についに全8巻を買ってしまった。

 

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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その8

2014-04-29 17:46:34 | Weblog

 週末に比べ気温が低くなりましたが、札幌市内で桜が咲いていました。私の毎年の花見は、白石サイクリングロード、万生公園付近の桜のトンネルです。白石区は開花が遅いので、5月10日位でしょうか。

 群馬県の富岡製糸場が世界文化遺産に登録されることが確実になったということですが、ここでは、「ああ野麦峠」や「女工哀史」で描かれたような負の現実は無かったのでしょうか。日共さんの評価は?

 気になっています、北区の事件。道新は今日も一字も触れず。任意の聴取とはいえ長時間はきつい。弁護士を付けることができるのだろうか。

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その8

 第13章「機械類と大工業」は、長い章である。第4節「工場」では、(P84)「工場労働がいかなる物質的条件の下でおこなわれているかについては示唆するにとどめよう。人工的に高められた温度、原料の粉塵が充満した空気、耳をつんざく騒音等によって、あらゆる感覚器官が等しく傷つけられる。社会的生産手段の節約は空間、空気、光を奪い、生命や健康を危険にさらす生産過程の諸状況から個人を守る保護手段等を奪った。労働者がくつろげる保養施設など論外である。フーリエが工場を『緩和された牢獄』と呼んでいるのは不当だろうか?」と

 私も、24時間操業の現場で働いた経験がある。当直で仮眠を摂ることが許されていたが、モーターの騒音と振動で眠りは浅く、疲れはとれなかった。また、臭気がきつく、鼻の機能が低下した。今から思うと、騒音を防止するため天井や壁にアスベストの吹付がされていたと記憶する。

 マルクスの時代に比べ、労働安全衛生対策は法的にも整備されてきたと思うが、近年、労働者が物を言わなくなったと同時に労働環境の劣悪化が再び進んでいると思う。

 

 (P88)「彼ら(労働者)の攻撃(ラッダイト運動=機械打ち壊し)を物質的な生産手段自体に向けるのではなく、その社会的な搾取形態に向けることを学びにはなお時間と経験が必要だった。」

 第6節「機械類によって駆逐された労働者についての補償理論」では、(P102)マルクスは、「資本による機械類の使用から一時的に不快なことが生じることをブルジョア経済学者といえどもけっして否定はしない。しかし裏面のないメダルなどどこにあるだろうか!」と叫ぶ。「機械による労働者の搾取は、彼(資本)にとっては労働者による機械の使用と同義なのである。したがって資本による機械使用の現実がどのような状態にあるかを暴きたてるような人間は、機械使用そのものを望まない人間であり、つまりは社会的進歩の敵だとされるのである。」

 私が今の会社に入った30数年前は、事務的な手段は、電卓、簡易日本語タイプライター、青焼きコピー、郵送だったが、その後、ワープロ、パソコン、ファックス、メールと変わり、おそらく同じ事務をする場合の時間は何分の一かに減っているであろう。また、大量のコンピュータによるデータ処理システムも導入され、人は増えなくても業務量は過去よりはるかにこなしていると思う。

 この機械化を私たちはどう捉えたら良いのであろうか。人減らし、合理化、労働強化と考えるべきなのであろうか。私は、同じ時間を費やすならより多くの業務をこなした方が良いと考えるし、大量反復業務に要する時間を短縮した分、労働時間はものを考える業務に振り返るべきと考えてきた。

 

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どのような教育が「よい」教育か

2014-04-27 17:10:34 | Weblog

 金曜日から気温が急上昇、今日のランは、出発時17℃が23km走後24℃に、半年ぶりに身体から汗が噴き出す快感。ゆっくりならハーフは何とかなるかな?

 北区の事件、なぜか道新(本日朝刊)には、不思議なことに記事が一行も無い。日経でさえ掲載されていたのに。また、TVの表現が、昨日は「50代の女」から今日は「50代の女性」と微妙に変わっている。冤罪の臭いが・・・・

 

 『教育の力』(苫野一徳著 講談社現代新書 2014年刊)ノオト その5

 私は、これまでの紹介した苫野氏の教育論について、論理的で主張も一貫しており、否定すべき点は無いと考える。しかし、苫野氏の言説も含めて、世の中には様々な教育論が流通しているが、ある種の違和感を持っている。それらの論を寄せ集めてみれば、以下のような教育空間ができあがる。これを理想と言って良いのだろうか。

 そこにいる教師像としては、博識で研究熱心。教え方が上手く、人格もバランスがとれていて、人格も高潔である。常に子どもたちを慈しみ、子どもたちからも好かれている。

 一方、子どもたちは、夢や希望に満ち溢れていて、頭が良くて、知的好奇心に富み、明るく元気で、周りの子どもたちにも思いやりがある。教室内では、互いに協力し、いじめや非行も無い。また、家庭環境にも特に問題が無い。

 こうなると、苫野氏が「学びの個別化」で提唱した「反転授業」、すなわち予め家庭でICT化された教材を自力で勉強し、学校ではその内容を協同で深めることが可能になる。もう少し言うと、技術の進歩が教師を不要にする。子どもたちも敢えて学校に行く理由が希薄になる。他者との協調性などは学校でなくとも学ぶことはできる。きれいごとの理想的な教育環境には、学校、教師を不要にするという逆説を孕んでいる。

 一方、社会はそのような所でないことは皆が知っている。子どもたちもいつか社会の一員にならなければならない。そこは、「相互承認」の場というより、それぞれの権利が衝突する場合もある。皆が公平、平等ではなく、会社も組織も常に競争にさらされている。

 私は、理想を教授しようとする教師とて、ひとりの生身の人間であり、子どもたちと同じように不完全で成長過程にあるということ、教師の間にも人間関係の歪もあり、いじめや非行は子どもの世界だけのことではないということを、子どもたちの前で明らかにすべきと考える。

 

 私が、このブログでずっと言ってきたことは、私たちは将来のために今を耐えるなどと言わず、現在の自分の持っている力を何とかやりくりして、今、ここを全力で生きる以外に無いのだ。その結果として何事かを成し遂げたりする場合があるということである。

 また、夢や希望を持ちそれに向かうのも良いが、中途で挫折し、自己を否定的にとらえてしまいよりは、人間は普通に育ち、暮らし、一生懸命働き、年老いて、最期は周りに看取られて死んでいく、そんな一生が立派で幸せな生き方なのだということである。(人によっては、結婚して、子どもを育ててを加えてもいい。)

 教育とは、自己肯定による人格形成ということではないか。

 

 

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『教育の力』ノオト その4 

2014-04-23 19:56:41 | Weblog

 通常の親子丼は、鶏肉+とじ卵ですが、ここはザンギに半熟卵が出てきて驚きましたが、美味でした。

 21日(月)の夜、道新ホールでぶんぶんクラブ主催の「2014開幕!コンサドーレトークショー」に行きました。野々村社長の1時間に及ぶトーク、ポンポンとテンポ良く出てくる言葉が一つ一つ機知に富んでいて、聞く人を引き付けていました。すっごく頭の切れる人だと思います。

 続いて、石井謙伍、宮沢裕樹、上原拓郎が登壇。7,8年前のトークショーの時は、藤田征也、西大吾、石井謙伍だったのですが、当時の石井はいじられキャラでしたが、今回は年長者としてしっかり他の2人をリードしていました。愛媛で随分と成長したなあと感じました。

 

 『教育の力』(苫野一徳著 講談社現代新書 2014年刊)ノオト その4

第Ⅲ部 「よい」社会をつくる

第八章 教育からつくる社会

 これからの教育は、より「よい」社会の構想にどのように資することができるのか。(P206)教育は社会における〈自由の相互承認〉の土台である。(P208)

 教育にできることは、教育の「機会均等」と「〈教養=力能〉の獲得保障の平等」という二つの“平等”は必ず保障すること。その上で、過酷な競争に勝ち抜ぬくための教育というよりは、「相互承認の感度」を育むことを土台に、すべての子どもたちが〈自由〉になれるための〈教養=力能〉を育むことである。(P215)

 私たちの社会には、絶対的な正解のない、きわめて複雑な問題が山積している。これからの世代に必要になってくるのは、それぞれの意見を考え合わせた上で、できるだけ皆が納得できる建設的なアイデアを見出せる力である。そのような思考力こそ、これからの教育が育むべき〈教養=力能〉である。(P229)

終章 具体的ヴィジョンとプラン

短期的ヴィジョン・プラン(~2020年頃)

 ①学びの個別化・協同化の充実(次期学習指導要領改訂で位置づけられる)、②「学びの個別化・協同化・プロジェクト化」に対応した教員の養成、③教育行政による「支援」の充実(「自主」研修に対するサポート)

中・長期的ヴィジョン・プラン

 ①学びのプロジェクトの充実、②カリキュラムの市民化(地域、市民に開く、学習指導要領の弾力化)、③〈一般福祉〉のためのネットワーク化(公教育が〈一般福祉〉に適うよう“再生ネットワーク化”する)

 ここまで、本書の要旨についてノオトした。次回で、私見を述べたい。

 

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『教育の力』ノオト その3

2014-04-22 21:22:44 | Weblog

 コンサドーレ札幌にとっての「聖地」は厚別です。私にとっての「聖地」はどこなのだろうか。日曜日に今シーズン初めて真駒内公園で練習をしました。3kmの周回コースを6周して18km。以前の1年は、8月の最終日曜日の次の日に始まるり、8月最終日曜日に終わるというサイクルでした。走りながら様々な思いが去来し、ここは「私の聖地」だと思いました。

 その後、夜に営業があり、疲れていたのでしょう。風呂場で滑って浴槽に頬っぺたをしこたま打ち付けてしまいました。バキっと嫌な感じの音がしたので、骨が折れたかなと思いましたが、まだ口を動かすと痛いのですが大丈夫なようです。おまけが付いてしまいましたが、またひとつ年齢を感じる出来事でした。

 

 『教育の力』(苫野一徳著 講談社現代新書 2014年刊)ノオト その3

第五章 学力評価と入学試験

 学力評価の目的には、①「選抜」のため、②学習者や教師がそれまでの学びの成果を振り返ることで、これからの学びや授業のあり方の「改善」につなげるため。(P142)

 今後の入学試験の形態は、知識詰め込み型よりは、一定の学力(資格)を満たした上での多様化へと移行していくものと思われる。(P149)

第Ⅱ部 「よい」学校をつくる

第六章 学校空間の再構築

 ①自分を承認できること、②他者を承認できること、③他者からの承認を得られること、すなわち、「相互承認の態度」を育むための学校空間をどのようにつくっていけばよいのか。(P157)

 「学級」という仕組みそれ自体が、今や時代にそぐわなくなってしまっている。(P159)

 「学級制」は、子どもたち一人ひとりの質の高い学びを保障するというよりは、管理の効率性(規律化し統制する装置)の方に、重点が置かれた制度である。(P160)また、「人間関係の流動性」があまりにもなさすぎ(P164)、逃げ場のない教室空間になっている。(P171)

 それぞれの生徒が、自分なりの仕方で多様な人たちと多様な人間関係をできるだけ豊かにつくっていける環境を整備する。「人間関係の流動性」をある程度担保し、同質性から離れられる機会を保障する。(P173)

 例としては、異年齢・異学年からなるクラスを編成する。(P175)担任の先生が入れ替わり立ち替わりする方法(P176)など。

第七章 教師の資質

 学校には多様なタイプの先生がいて良いし、むしろそうあるべき。(P184)多様な教師に触れることで、社会の多様性を学び、多様な人たちの間における「相互承認の感度」を育む。(P165)

 プロフェッショナルな教師は、単に教科内容に精通しているだけでも、ある固定的な教授法に精通しているだけでも十分ではなく、その時の目的や状況に応じて、さまざまな方法を柔軟に選択したり組み合わせたり、また自ら作り上げていくそのような力量を持っている。(P190)

 教師との絶大な信頼関係・承認関係が、子どもたちの自己肯定感を支え、見知らぬ世界へ飛び出る勇気を与え、他者を信頼し承認するベース(基地)となる。(P192)

 教育の使命は、子どもたちのさまざまな“失敗”を容認し、やり直しの機会をサポートし、そのことによってより〈自由〉に、生きたいように生きられるための力能を長い時間をかけて育むことである。(P200)

 

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『教育の力』ノオト その2

2014-04-16 21:36:19 | Weblog

 季節限定のお菓子につい手が出てしまいます。身体に取り込んだエネルギーは、走り込んで消費しようと思っています。そうしないと体の中に貯金が貯まってしまいます。

 北区の事件、直感的にですが、内部または関係者によるものではないかと思います。報道できないことがきっとあるのでしょう。

 

 『教育の力』(苫野一徳著 講談社現代新書 2014年刊)ノオト その2

 第二章 学びの個別化

 「学ぶ力」としての学力を、どうすれば、できるだけすべての子どもたちに十分育んでいくことができるのか。三つのキーワード、①「学びの個別化」(第二章)、②「学びの協同化(共同的な学び)(第三章)、③「学びのプロジェクト化(プロジェクト型の学び)」(第四章)を軸に論じる。(P72)

 子どもたちを皆同じ場所に集め、決められた進度にしたがって一斉に授業を行うという、その動機も意義も失いはじめている。(P78)「落ちこぼれ、吹きこぼし」問題がつきまとう、先生の指導力や生徒と先生の相性にも依存する(P76)一律的な一斉授業から、それぞれの子どもの特性に合った「学びの個別化」への転換が求められている。(P75)

 著者が具体的に示す方法は、①反転授業と言われるが、あらかじめ家においてタブレット端末で短い授業動画を見て、学校ではその内容について協同学習を行う。(P91)②一人ひとりの生徒が教師と共に学習の年間計画および1か月ごとの計画を立て、年度初めおよび月はじめにコンサルテーションの時間を設け、それぞれの個別の学習計画を設定する。(P94)

 第三章 学びの協同化(協同的な学び)

 「協同的な学び」とは、教師による一斉授業ではなく、児童・生徒同士の「学び合い」を通して深めていくという方法である。(P106)

 具体的な例として紹介されているのは、佐藤学氏が主唱している「学びの共同体」。それは、①グループは、男女混合の4人が好ましい。②グループ学習を導入するのは、「学びの個別化」を「協同化」する時や「背伸びとジャンプ」の機会である。③おしゃべりが続くなど学びが成立しなくなった直前で終えるべき。④教師は、「学び合い」に参加できない生徒に対するケアなどをポイントとする。(P109)

 西川純氏が主唱している「学び合い」の考え方は、①「学校は、多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が同僚であることを学ぶ場」であるという学校観。②「子どもたちは有能である」という子ども観。③「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、学習は子どもに任せるべきだ」という授業観である。(P114)

 第四章 学びのプロジェクト化(プロジェクト型の学び)

 プロジェクト型の学びでは、子どもたちは学び方を学びつつ、自ら思考し課題を探求・解決していく経験を積んでいく。(P122)

 ジョン・デューイの理論は、子どもたちの、発見したい、物をつくりたい、表現したい、コミュニケーションしたい、という欲求を、最大限活かした教育である。(P123)

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『教育の力』ノオト その1

2014-04-15 20:47:53 | Weblog

 ナポリタンではなく、焼きトマトとチーズのスパゲティ、薄味でトマトそのものの味がして美味。

 

 『教育の力』(苫野一徳著 講談社現代新書 2014年刊)ノオト その1

 苫野一徳氏の著作として、以前(2011.10.18)このブログで、『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ 2011年刊)について述べた。先ずは、同氏の新刊について論旨を忠実にノオトする。

 はじめに

 著者が提唱する教育の構想は、①今の画一的・一斉型から、学びの「個別化」(カスタマイズする)[第二章]、「協同化」(子どもたちの知恵や思考を持ちよる)[第三章]、「プロジェクト化」(子どもたちが自らの目的を持って挑戦する)[第四章]の融合型へ転換する。②閉鎖的になりがちな学校(閉鎖的な学級文化・人間関係)をさまざまな仕方で開き、子どもたちが多種多様な人たちと交われる空間(人間関係の流動性)をつくる、とする。(P8から要約引用)

 序章 そもそも教育は何のため?

 公教育の目的は、すべての子ども(人)が〈自由〉な存在たりうるよう、そのために必要な“力”(教養=力能と呼ぶ)を育むことで、各人の〈自由〉を実質的に保障するものである。同時に、社会における〈自由の相互承認〉の原理を、より十全に実質化するためにある。(P23)

 教育界には、①教育は社会(国)のためのものか、子どものためのものか、②道徳教育を通して愛国心を育もう、子どもたち一人ひとりの価値観を大切にしなければならない、③知識は教え込むべきだ、子どもたち一人ひとりの興味や関心を活かさなければならない、といった対立があるといわれているが、著者は、公教育の目的の実現を考えた場合、両者は支え合う関係にあると述べる。(P28)

 教育で求められる「平等」は、「教育の機会均等」および「〈教養=力能〉の獲得保障の平等」である。他方で、必要かつ容認されうる「多様化」は、この平等を達成するための方法と、この平等達成以降の教育の多様性であり、これら二つの平等を保障する限りにおいては、「競争」も一定容認されうる。ただし、義務教育段階における「競争」(過度の学力競争や学校間競争など)は、この二つの平等を侵害する可能性がきわめて高いため、基本的にやめた方がいい。(P38)

 第Ⅰ部 「よい」学びをつくる

 より「よい」学びをどのようにつくっていくことができるのか。(P46)

 第1章 「学力」とは何か

 〈教養=力能〉とは何なのか。それは、一人ひとりの子どもたちが〈自由〉になる、つまりできるだけ「生きたいように生きられる」ようになるための“力”のことである。この“力”は、「学力」と「相互承認の感度」である。(P46)

 では、「学力」とは何なのか。それは、「現代という時代はどのような学びを学校に要請しているのか」という観点から考えると、従来は、学校で「何を学んだか」よりも、忍耐強く勉強する姿勢を求められていた。しかし、現代のポスト産業社会においては、知識を「ため込む」力、さまざまなことを“まんべんなく”教え込み覚え込むことより、自ら考え自ら学ぶ力を持ち、絶えず「学び続ける」ことを求められている。(P51)そして、子どもたちの〈自由〉を実質化するものとして教育にとって、職業に就く“力”を育むことは、一つの重要な責任である。(P54)

 言い換えると、現代の公教育がその育成を保障すべき「学力」の本質、「学ぶ―力」を育むこと。それは、必要な時に必要な知識・情報を的確に“学び取る”、それをもって自らの課題に立ち向かっていける“力”のことである。(P58)

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『地図で訪ねる歴史の舞台 日本』

2014-04-13 09:27:52 | Weblog

 昨夜は町内会の役員会。私が司会をやったのだが、ずいぶんと時間がかかってしまった。ごみステーションの清掃当番の件と夏祭りの時間設定で紛糾。私は町内会は民主主義の原点、それも直接民主主義ではないかと考えており、徹底的に議論が必要との考えから進行したため、そんなことどうでもいいと考えている方たちから見れば顰蹙だったに違うまい。そんなことから会議のあとの打ち上げは、少し居所がありませんでした。

 中々気温が上がらず、昨日は強風だったが、週末ラン。追い風でようやく17km位走れた。まだ、ハーフを走る力は無いと感じている。一夜明けた今日の実感は、疲労が抜けなくなったなあ。今日も練習するぞー!。

 

 『地図で訪ねる歴史の舞台 日本 7版』(帝国書院編集部 2013年刊)

 先月の日経新聞のサタデー日経で「昔の日本を探訪へ」と題して何冊かの地図本が紹介された。本書は、その第1位。現在の地図の上に、歴史上の出来事を載せていて、その土地の地理と歴史が重層的にわかるという中々のアイデア本である。初版がいつなのかわからないが、版を重ねて最新刊は7版となっている。

 私は生来の出不精で、この何年間になってからようやく関西を中心に何回か旅をするようになったのだが、行くたびに北海道と比べると歴史の厚みに新鮮な驚きを経験している。実際に旅をするのと活字や映像で見ることとの違いは、目的地にまで至る移動時間や交通手段、その間の印象、その場所の空気、音、匂い、風など空間的な要素、その周辺で食べた味などが複合的にからまった実感を持てるというところにあると感じている。

 本書に次ぐ第2位は、『地図と愉しむ東京歴史散歩 地形篇』(竹内正浩著 中央公論新書 2013年刊)。これも楽しい本であった。古地図、写真、小説、随筆などを素材に、麻布など高級住宅街みまつわる物語や、宮様、華族、豪族などセレブのお屋敷についても良く調べられている。また、同署はシリーズ化されていて、『都心の謎編』(2012年刊)も合わせて読破。旅ガイドで取り上げられているレジャースポットやグルメ情報とは違う、少しマニアックなポイントがたくさん紹介されている。しばらく東京に行っていないなあ。未読だが、2冊の前に、最初に『地図と愉しむ東京歴史散歩』が発刊されている。

 読んでいないので、紹介だけにするが、第3位は、『重ね地図シリーズ東京 昭和の大学町編』(太田稔、地理情報開発編集 光村推古書院)、第4位は、『東京時代マップ 大江戸編』(新創社編 光村推古書院)、第5位は、『古地図で読み解く 江戸東京地形の謎』(芳賀ひらく著 二見書房)となっている。いずれも読んでみたいと思う。

 

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『教誨師』

2014-04-07 20:21:18 | Weblog

 1か月ぶりの紀伊国屋書店。イノダコーヒーの後にスタバ。軽食がサンドイッチくらいしか無く、少し不満。山本直樹作『レッド1969-1972』(劇画)を購入しようか迷うが、6巻で6,000円もするので今日は我慢。小林秀雄と宮台真司、雑誌を2冊を購入。今月は飲み会も多く、金欠病。

 週末ランを続ける。詳しくはここに書けないが、なぜか結果的に営業にもつながり「芸は身を助く」を実感する。ただ、豊平川ハーフまで1か月を切るが、現状では走り切る力は未だ無い。少しづつスピードと距離を延ばしていかなくては間に合わない。

 

 『教誨師』(堀川惠子著 講談社 2014年刊)

 私は、北海道新聞と土日のみ日本経済新聞を購読している。日経は、土曜日のサタデー日経、日曜日の書評欄を主として読むためである。本書は、どちらかの書評で取り上げられていたので購入。その結果は、☆☆☆☆☆の強烈なインパクトを持つ良書であった。多くの人に読んでほしいと思う。

 拘置所という一般社会から隔絶された空間における死刑囚と教誨(きょうかい)師の関係というこれまであまり世の中に明らかにされたことのない題材を扱った作品である。本書は、浄土真宗の僧侶である教誨師からの聞き取りの記録である。末尾の参考書籍にある加賀乙彦の『死刑囚の記録』や吉本隆明の『最後の親鸞』などを読んでいたことも私の本書への入りを良くしたと思う。

 ここで、内容を追うことはしないが、こんな読み方をしてみたらどうであろうか。

 もし、自分が、外部との交流が極端に制限されている死刑囚であったならどう考えるだろうか。明日にでも執行されるかも知れない極限の精神状態の中で、果たして教誨師との交流を求めるだろうか。話をしても本当のことを語るであろうか。死刑囚の側からキリスト教を含めて教誨師の宗派を選べるということだが、私なら、なぜ宗教家しか選任できないのか。なぜ、宗教にしか出口を作らないのかという疑問を持つだろう。最期は宗教なのか?

 反対に、死刑囚になるより確率が小さいと思うが、もし自分が教誨師であったならどう考えるであろうか。死刑囚にどうアプローチしたら良いのか。そもそも接点を見出せるであろうか。何のために宗教を語るのか。死刑囚に償いの心をおこさせるためなのか。起こしたことの真実を語るように導くべきなのか。死刑の執行に際して、心の準備をさせるためなのか。そもそも宗教の教義が通用するのか。

 また、吉本隆明が明らかにした、心の構造のあり方、「自己幻想、対幻想、共同幻想」の概念を使いながら、犯した罪の原因も分析してみたくなる。それが、自分自身との関係からなのか、親子や男女関係のもつれからなのか、集団の中でどうしようもなくなったからなのか、と。親鸞の教えからは、こういう救いなのだろうが、他の宗派はどの様な教えを使うのだろうか、キリスト教ではどうなのだろうか。興味は尽きない。

 主人公の僧侶は、自分の生きている間は明らかにしないという条件で、この筆者に閉ざされた社会の中で本当に起きていることを語ったのである。

 

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2006年4月6日

2014-04-03 19:53:42 | Weblog

 この絶滅危惧種的ブログを始めたのが、2006.4.6からで、あれから8年が経ち9年目に突入です。技術の進歩は速いもので、今は多くの人がツイッターとか短いフレーズのやり取りが中心になっているようで、ブログという形態が、絶滅危惧種になって来ていると感じています。

 読んで下さっている皆様に感謝申し上げます。もう少し、続けます。

 

 一読者様へ              

 札幌でも主要道路では、車道、歩道ともに雪は消え、ようやく冬を脱しました。ただ、日中でも暖かな日で最高10℃、夕方は3℃位と寒いのですが、厳冬期に比べれば路面を気にすることもなく、快適にランニングができる季節になりました。夜中には、マイナスになるためもうしばらく冬タイヤを付けていた方が安全です。

 一読者さま、コメントをいただきましてありがとうございます。

 ①  吉本も、マルクスも原文を読みたいという姿勢は持ち続けようと思っています。ただし、自分自身の理解のレベルがどの程度かというと、はなはだ自信はありません。

 ②  吉本全集の購入については、態度保留状態です。なぜか、私の中では、吉本と晶文社のイメージが重なりません。一説には、全集を発行するのに必要な費用は2億円と言われており、完結までたどりつけるのかどうか、心配ではあります。

 ③  吉本自身の気持ちとしては、自分のやってきたことについて、時々でも読者の心の中で思い出してくれればいいよ!横超でも、幻想でも、どちらでもいいよ!くらいに思っているのではないかと推測します。

 週末の営業が続いていて、気が付けば1か月以上書店を覗いていません。紀伊国屋書店には、イノダコーヒーが撤退した後に、スタバが入ったということですが、どんな雰囲気の店になったのかなと想像しています。

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