晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

労働と格差

2011-02-27 17:33:03 | Weblog

今日の東京マラソンは久々に感動した。日本人トップ、3位に入った川内優輝選手(埼玉陸協)は、定時制高校の先生をしながらの市民ランナーで、実業団の選手には負けないという気持ちの走りを感じた。

 

ゴール後倒れ込み、医務室へ直行、インタビューも聞けないほど本当に死力を尽くした走りだった。

 

単純な私はその影響で、午後から練習。いつもより強めの負荷をかけたので、かなりきつかったのであるが、ある瞬間から何か身体の中で目覚めを久々に感じた。

 

 

情況論ノオト 第23回 労働と格差   

 

一体、一億総中流と言われたのはいつの時代の事だったのだろうか。いつのまにかこの国は貧困社会に突入した。

 

格差をもたらした要因は2つある。ひとつは、外的な要因である。

 

1.経済のグローバリゼーションとメガコンペティション~安価な国外製品との価格競争、対外直接投資による国内産業の空洞化

2.20年におよぶ長期不況(偶然にも「平成」と符合する。)~賃金の低下と雇用の不安定化

3.技術格差、特にデジタルディバイト~先端技術の必要な職種とそれ以外の職種に格差

4.世襲化~政治家、企業経営者、医者、芸能人に典型的な例

 

二つ目は、政策的な要因(根底にある思想は、新自由主義=市場至上主義政策)

 

1.所得税最高税率の引き下げ、株式譲渡税の特例化など金持ち優遇策

2.市場主義化=規制緩和~例えば、道路運送法の改悪によるタクシー運転手の収入減

3.労働者派遣法(1986年施行)、1999年改正では、対象業務の拡大、2004年には、派遣期間制限の緩和、製造業への派遣を解禁

 

対応策

1.セーフティネットの充実(福祉の充実はあくまで受身である。)

2.労働者派遣法の廃止

3.ワークシェアリング

4.労働者の相互理解、労働運動の構築

 

ここでも謬論として、労働者派遣法が廃止され派遣労働が禁止されると、今、派遣労働で働いている人は職を失う、というものがある。(笑止千万)

 

 

 さて、私はこう考える。格差社会が顕著になってきたのと、ソ連型社会主義経済の崩壊の時期が一致することから、資本主義経済の対抗概念としての社会主義の崩壊もその遠因と考える。もちろん、社会主義に数々の欠陥があったことは事実である。

 

労働者を搾取して自らを増殖させるという資本の本性が剥き出しになっている。(決して資本が違法なことをしているのでは無く、合法的なところが難しいところ。)私たちは、資本主義社会の止揚を目標としながらも、その展望が見えない現在においては、資本の下では無く、資本の外側で私たちが主体になる働き方、暮らし方を模索しなければならないと考える。

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社会保障と税の一体改革

2011-02-26 17:17:17 | Weblog

情況論ノオト 第22回 社会保障と税の一体改革    

 

  2009.10.25情況論ノオト第21回「財源をどこに求めるか」、2009.12.5情況論ノオト第22回「民主党の無思想ぶり」に続く。

 

 

 傷病、失業、生活困窮・・など私たちは、いつ起きるかも知れないリスクの中で生活している。それらに備えて、年金、医療保険、介護保険、雇用保険、生活保護などの社会保障制度がある。それらの制度を運用するためには費用がかかり、私たちは、租税、社会保険料を負担している。

 

 社会保障制度を構築する際、「公平性」が重要になる。

 

適正な「受益」のレベルをどの程度にするか。ただ、受益という言葉は、プラスイメージだが、この場合、リスクというマイナスをどこまで減らすかであるため、使い方として相応しくないと考える。

 

誰が、どのような方法で、どの程度の負担にするか。国、国民、事業者などが、税によるか、料によるか。

 

 公平性の裏付けは「政府への信頼」である。また、制度は持続可能でなければならない。その裏付けは、「国家への信頼」である。

 

 フラフラ、ヨレヨレに見える菅内閣が現在取り組もうとしている「社会保障と税の一体改革」の議論における決定的な欠陥は、国民生活の不安を和らげるという本来の目的を忘れ、国家財政の再建を優先している点である。

 

 政府、国家への信頼無くして制度は動かない。反対に、信頼があれば制度の多少の矛盾は許容されるのではないか。しかし、私は既に国民国家の賞味期限が到来しており、国家を軸として信頼を構築することは不可能であると考えている。さらに、どの政党(日共も何ら提示できていない。)の考え方も備縫策のレベルであり根源的で無い。

 

 

蛇足になるが、社会保障の議論の中には、以下のような様々な謬論があり結構笑える。

・社会保障を増やすと、企業や若者は負担増を避けて海外に逃げる。

・税負担が重いと経済成長が阻害される。

・患者負担を引き上げれば、病院の「サロン」化を防げる。

 

『現代経済の解説 グローバル資本主義と日本経済』(SGCIME編 御茶ノ水書房 2010年刊)第12章「日本の社会保障」池上岳彦を参考にした。

 

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2.26事件

2011-02-23 19:52:23 | Weblog

 2.26事件の衝撃』(太平洋戦争研究会編著 PHP研究所 2010年刊)

 

 近くの図書館の近刊コーナーから借りる。75年前の1936年(昭和11年)226日から29日に至る4日間のドキュメントである。それに関係者のインタビューなどを掲載している。

 

 2.26事件を扱った類書はたくさん出版されている中で、本書の出来は、事件の社会的背景の分析や決起した青年将校たちの心情の掘り下げが浅く、それほどいい出来ではない。ただ、掲載されている写真は豊富である。

 

 2.26事件の刑死者・自決者の中に、北海道関係者がいる。村中幸次、1903年旭川市生まれ、父親は町会議員、札幌一中から仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校(37期)。水上源一、函館商船学校、日本大学、弁理士(民間人)。

 

 

 現在のこの国の情況と、戦前が酷似しているといわれる。景気の低迷が長くは続き、その中で政治が有効に機能しているとは思われず、対外的にも隣接国との関係も良好とはいえない。

 

本書を読みながら、現在においてこの種の事件が起きる可能性や予兆はあるのだろうか、と思った。シビリアンコントロールは機能しているのか。軍の中に、オピニオンリーダー的存在がいるのか。世の中に対して不満を持っていないか。など、次々と疑問が生じた。

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ぶんまお

2011-02-20 15:10:51 | Weblog

 週末の屋外2日連続ランニング、先週に続いて実行!

 

 気温も気持ちだけ少し上がったような、雪も毎日降るけれど少しづつ融けているような、日差しも少し強くなってきたような。

 

 そして、私の走りも少し上向きになってきたような。

 

 来週の天気予報は、最高気温が5℃位なので、融雪が進んで歩道のアスファルトが出るのを期待しています。

 

 

 『ボクの哲学モドキ Ⅰ19992002 ―生きにくい世界でボクを襲う危ない性と死の誘惑―』(ぶんまお(BUNMAO)著 末木文美士編 トランスビュー 2009年刊)

 

 著者=編者なのだろうが、それはどうでもいいこと。世にホームページは無数にあるのだろうが、「自分のことは棚に上げて」、読ませる、読むに耐える、読みたくなる、いつも気になるホームページはどれだけあるのだろうか。

 

 ぶんまお氏の文章には、かなり正直な心情吐露があり、一気に読ませる力がある。扱うテーマの幅も広く、また社会の捉え方などにおいて共感できる考え方も多かった。

 

 当ブログでもぶんまお氏に倣って、以下のような多様なテーマに挑戦したいと思った。

 

 家庭、天皇制、自殺、宗教、生死、戦争責任、性、介護、教育、差別、マンガ、公共、伝統、霊性、少数者、正義、歴史、短歌、弱者、哲学、政治、学問、倫理、文化、民族、死後・・・

 

 とても興味が持てそうも無い、歯が立ちそうもないジャンルもたくさんあるなあ。

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いっぴん

2011-02-19 20:09:52 | Weblog

十勝豚丼「いっぴん」札幌平岡店(清田区北野5条5丁目20 厚別滝野公園通り)の豚丼定食です。

 

本店は、本場帯広です。少し厚みがあって脂身の少ないロース肉が乗っています。タレも美味いはずです。タレ屋さんのソラチが経営しています。お薦めの店でした。

 

 

 

チュニジアの枯野に捨てた一本の煙草の火が、エジプトを焼き尽くし、リビア、クウェート、ジブチ、バーレーン、イエメン、イランと燃え拡がっています。

 

 

 

 

自由 その8

 

『双書哲学塾 自由論』(井上達夫著 岩波書店 2008年刊)

 

 本書のキーワードは、「自由の秩序」である。著者は、一定の秩序こそ自由を可能にし、自由な社会とはより秩序付けられた社会であると言う。

 そのため、秩序のトォリアーデとして、国家、市場、共同体があり、これらの相互抑制と均衡の中に自由が存在する。しかし、これら相互の均衡が失われた状態になると、全体主義専制、資本主義専制、共同体主義専制という専制のトォリアーデに陥り自由が失われる。

 

 

 私は、「秩序」を前提にしなければならない自由という著者の考え方に違和感を持つ。「秩序」という言葉へのアレルギーといってもいい。「秩序」という一定の枠内における自由なんていうものは、本物の自由では無いと感じる。

 

 だが現実の私は、国家、市場、共同体の中で生きている。著者のいう「自由の秩序」を否定した場合、これら以外のどこで生きていくことができるか。それ以外の居場所はあるのかという問いを解決しなければならない。

 

ひとつは、自分自身の中で自由に生きていくというのがある。しかし、内面の自由だけで生きていくことに伴う困難性は容易に想像がつく。

 

 そこで、人と人との関係性を持つ共同体の中で生きていくことを考える。そこでは、私自身が、相互扶助とか、共生に親和性を持っているのかが問われる。

 

例えば、共同体の中の規範が私自身にとって不合理な場合、また共同体のルールに反した際の制裁(私的制裁=リンチの場合もある。)の根拠はどこにあるのか。自分が所属する共同体のリーダーの正当性をどうやって確認し、自分として受け入れるのか。

 

このような問いに対して、国家や市場に判断をゆだねる(法律や選挙制度など)という習性を見直すことができるのか。国家や市場に代わり社会の基本に共同体を据えるとすると、これら規範や正当性などについて共同体の構成員ひとりひとりがひとつずつ再構築していくという気構えが必要になる。

 

そもそも私は、人といることが好きなのか、嫌いなのか?

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自由 その7

2011-02-13 16:59:12 | Weblog

 自由 その7

 

 2011.2.11 ついにエジプトで30年間続いたムバラク親米独裁政権が連日にわたる100万人を超えるデモの力で崩壊した。始まりは、チュニジアの人々によるベニアリ政権の崩壊である。

 

 人々の意思は、イエメンでも、アルジェリアでも大規模な反政権デモとなって表されている。この動きを、中国やイランの国家当局が息を潜めて警戒している。イスラエルは周辺で親米政権が崩壊し孤立することを恐れている。

 

 自由を抑圧している政権を倒した。さて、どのような社会を構想するかはここからだ。

 

 1989年のベルリンの壁崩壊から22年経過した2011年は国際的な大きな変革のはじまりの年になるのではないか。

 

 

 今シーズン初めて2日連続の戸外でランニング、気温マイナス2.3℃、風向きによって体感温度が全然違う。日差しは、少し強くなってきたようで紫外線を感じる。

 

 午前中に少し読書ができたので、ゆっくりとしたランニング中、頭の中に様々なことが巡る。

 

 

 『双書哲学塾 自由論』(井上達夫著 岩波書店 2008年刊)は、一定の秩序こそ自由(自由の秩序)を可能にするという。

 

2010.11.9当ブログ「現在の立脚点 その2」で私は、「もうひとつの社会のあり方として、自立、自助、相互扶助、共生などの概念が提示されており、これらを豊かにしていかなかればならないと考えるが、エゴとわがままの塊である私自身がそもそも相互扶助や共生などという考え方を受け入れることのできる人間なのかという問題もまた大きく横たわっている。」と書いた。

 

本書は、それを解く大きなヒントになる著作であった。

 

答えから書くと、現在の私の生き方が、国家や制度にどっぷりと依存しているため、自分の足で立つ相互扶助や共生という生き方を信用しきれていないところにその迷いがあるのである。

 

 

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アナキズム その3

2011-02-11 20:54:26 | Weblog

 イノダコーヒーでピスタチオケーキです。えんどう豆の餡のような緑色のケーキで、少し青臭く、またナッツのようなコクがありました。

 

 

 

 第Ⅸ章「アナキズム、知識人、そして国家」中のワンフレーズが妙に引っかかってしまっている。(以下P369から引用)

 

 『30年代初頭の共産党の「より悪いほうが、よりまし」というスローガン・・共産党が、ファシズムと闘えば、社民と手を結ぶことになるが、やつらは気に入らない、だから「より悪いほうが、よりまし」という理屈で、ファシズムとの闘いを拒否した時期がありました。』

 

 この「より悪いほうが、よりまし」というフレーズから様々なことが見えてくる。また、分析できる可能性を持った言葉と感じた。

 

 政治思想を右(翼)から左(翼)へと扇型にグラデュエーションするイメージからは、このフレーズの意味が理解できないであろう。

 

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日本と朝鮮半島

2011-02-09 20:22:19 | Weblog

 角界が大変です。私は、プロスポーツは観客が入ってこそ成り立つものですから、競技の面と興行の面という2面性を持っており、その時、その時に求められることが違うのだと思います。

 

 若貴時代は、何はともあれ兄弟そろって横綱になることをあんなに喝采されたではないでしょうか。兄ちゃんががんばった兄弟での優勝決定戦の一番を思い出しています。

 

 力士は、ターミネーターではありません。体調も感情も日々変化します。義理も人情も持ち合わせている人間です。

 

 今は、競技性の厳密さを求められているのでしょう。また、ニーズは変わると思います。

 

 

 

 『日本と朝鮮半島2000年』(上・下巻 NHK「日本と朝鮮半島2000年プロジェクト編著 NHK出版 2010年刊」

 

 本書は、20094月から20101月までNHK教育テレビのETV特集で10回にわたって放送された内容を書籍として出版されたものを図書館から借りる。日曜日の夜10時から毎月視聴していたが、毎回睡魔との闘いだったことを覚えている。

 

 番組は、日本と韓国における史跡や文書の最新データをもとにつくられており、見解の異なる部分は両論併記というスタンスになっている。ただ、現在の情況から「北朝鮮」の資料等は含まれないが、いずれ明らかになってきた場合、また違った歴史になることだろう。

 

 さて、私(56歳)の親たちが習った歴史は、神武天皇の神話から始まるいわゆる「皇国史観」である。私の世代は、記紀(古事記、日本書紀)に基づく歴史観であった。それから40年ほど経過した今の世代は、新たな知見を取り入れ、我々とまた違った歴史を習っている。

 

 例えば、現在の教科書には、「任那の日本府」という記述は無い。その頃の半島には伽耶という「国」があったとされる。「大化の改新」という表現も無く、「乙己の変」である。

 

 

 現在の私たちは、国民国家という概念で考えるので、国境は線でしっかり別れているものという観念を持っているが、古代から近世をみると、必ずしも国家、国境は明確では無い中で、国と国との間の島々などに住む人々は両者の間でしたたかに交易などで暮らしを立てていた事がわかる。

 

 私たちは、そこから国家というものが生きていくために必須のものではないことを学ぶことができる。

 

 現在、島々の領有をめぐり国境は非常にナーバスな問題になっているが、そのひとつの解決方法は、国民国家の成立前の歴史に戻ったところから何がしかのヒントが示唆される。

 

 今、まさに国民国家の黄昏の中で、我々はもがいているが、少し将来の視点から現在を見れば、なんて無駄なエネルギーをしょうもないことに消耗しているように見えるのではないか。

 

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アナキズム その2

2011-02-06 17:01:31 | Weblog

 「そば処 大勝(おおかつ)」(札幌市中央区北4条西5丁目アスティ45ビル地下1階)寒い日は、カレー南が一番。

 

 ここは、走る仲間の実家が営んでいるお蕎麦やさんで、この一角が再開発でビル化する前からあった老舗です。

 

 

 『チョムスキーの「アナキズム論」』(ノーム・チョムスキー著 明石書店 2009年刊)から、世界的な学生反乱後の1970年代に書かれた、第Ⅲ章「アナキズムについて」(1970年)、第Ⅳ章「アナルコ・サンディカリズムの今日的意義」(1976年)まで読み進めたところの感想を記す。

 

 アナキズムは、強制的な権威、抑圧を否定する。従って、国家権力は、代表民主制であっても、それがいわゆる労働者国家であっても「赤色官僚制」への転化の可能性を持つゆえに否定の対象とする。

 

 アナキズムの構想する社会は、職場や地域共同体を基礎的結合体として、それらの連合協定を国際レベルまで結ぶというものである。また、人々は自分本来の活動(仕事)に常に従事し続けるべきであり、政府への参加はパートタイムで、かつ全てのコミュニティが持ち回りで行なうべきである。吉本隆明が言う「政治は掃除当番のようにやれば利権などは生まれない。」というものである。

 

 しかし、これだけでは複雑な現実社会のオルタナティブにはなりえないのではないか。アナキズムは、国家権力の廃絶までは行くことができても、その先については見通しを持たないのである。

 

もっとも、その点は、マルクスも同様で、資本主義社会の矛盾を疎外論や物象化論で暴露し、また「資本論」で経済メカニズムの限界を分析したが、明確な未来社会のプランは提示していない。そういう意味では、マルクスもアナキストなのである。

 

 一方、アナキズムは、権威や抑圧を否定したうえで個人の自由の実現を求める。ここでもまた、「その自由とは何か」という問題に行き着く。

 

著者は自由について以下を引用する。カント「自分の力を自由にかつ有用に使うことを学ぶためには、人は自由でなければならない。」

 

バクーニンの自由とは、「各自が潜在能力の状態で持っているあらゆる肉体的・知的・精神的力を完全に発達させることのなかにある自由」である。

 

フンボルトは、「自由の成熟を促すことが、自由そのものである。」

 

 またまた、自由論の袋小路に入ってしまった。

 

これらから、私の直感から言えば、アナキズムは体系性を持った思想では無い。アナキズムは、心情であり気分である。清水邦夫流に言えば、「心情あふるる軽薄さ」!である。

 

 

 

 

 

 

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同期会

2011-02-05 19:53:27 | Weblog

 今年は、入社30年目という事で、昨夜は1980年入社の同期会に参加した。当時の写真が残っており、当たり前の事だが皆若かった。

 久しぶりに集まると、最初は現在の仕事に関する愚痴っぽい話しが多かったが、段々と30年前のエピソードなどを思い出していくうちに、最初の頃のキャラクターに皆戻ってしまった。

 また、記憶のいい奴もいたもので、よく細部まで覚えているもんだと感心したり、30年間全く忘れていたことを思い出したり、楽しい一夜であった。

 この会の中での私のポジションは、最長老といった感じで、一番若く入社した同期とは7歳の差がある。

 従って、挨拶といえば私。昨夜は、人生をマラソンに喩え、今は折り返し点をはるかに過ぎ、これまで辛い事や楽しいこともありながらようやくここまで来たが、本当にきつくなるのは30数キロ過ぎのこれからだろう。周りや自分の身にも様々な事が起きるであろうが、最後に完走して「自分で自分を誉めましょう!」というような挨拶の後、「もうちょっと走りましょうか!」で乾杯。

 人間個々の性格は何を基に、いつ頃までに形成されるのか。普段は、皆それぞれのポジションでそれなりに演じながら仕事をしているが、地金の性格というのは変わらないものだと感じた。

 

 久しぶりに逢えたのだから つもる話しもかずかずあるけど

 何だか胸がしめつけられて

 あなただけとにかく元気でなによりです

 あ〃あの頃よりは 少し あ〃歳もとりました だけど

 時には無邪気に はしゃいでみたいと

 フォーエバーヤング フォーエバーヤング

   「旧友再会フォーエバーヤング」 by 拓郎

 

 

 

 

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