晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

米田綱路 『脱ニッポン記 反照する精神のトポス(下)』

2016-09-25 19:57:37 | Weblog

 東京五輪のことは、このブログ2016.7.31『幻の東京五輪・万博1940』でも触れた。小池知事は築地市場の問題など手際よく進めているように見えるが、このままいくと道路建設がオリンピックに間に合わないという事態になったとき、それを無視してまでがんばることができるであろうか。現在、この国では、全てのことが2020東京のためにとされ、五輪に異議を唱えることができない空気に満ちている。2020以降なんて、どうでもいいやという気分になっている。

 

 『脱ニッポン記 反照する精神のトポス(下)』(米田綱路著 凱風社 2012年刊)              

 何年か前に購入し読み始めたのだが、上巻の途中で挫折してしまった。本と言うのは、買った時の「さあ読むぞ!」の心意気があってもいざ読み始めると、著者の組み立てに対して読者側の精神状況が上手くマッチすると感動、完読に繋がるが、ミスマッチの場合は途中で頓挫と言うことになる。今回は、僕の方の気分を変えようと、下巻から読み進めた。結果、良書である。

 本書から、日々現在進行で流されているマスコミ情報、また政治家たちが語る綺麗事によって、いかに僕らの脳髄がマヒしてしまっているかに気づかされる。本当のことは何なのか。真実はどこにあるのか。著者は、この国の膨大にある記録文学を掘り起こしながら、自らの足でその題材になった土地を訪ね、関係者から聞き取りをし、書評とともに自分で掴んだ実感を記している。

 だがそれは、ただの紀行文ではない。歴史の厚い層に埋もれてしまっていること、記憶の底に沈んだ叫び、地の底を漂流する民の怨念がえぐり出されており、一か所一か所の記述は読む者に重く問いかけてくる。

 慌ただしい皮相的な日々に流されながらも、頭のどこかにこの国で生きていくのに忘れてはならない砦となる一冊である。

 書名にニッポンを使った意味を作者は語っていない。一体どっちなのだろう。二ホンとニッポン。日本国憲法は二ホン、大日本帝国憲法はニッポン。オリンピックで国威発揚の時は、ニッポン、チヤ、チヤ、チヤ。アルファベット表記は、NIHONではなくてNIPPON。NHKは?日本航空は?全日本空輸は?何となく、著者が「脱ニッポン」とした意味が見えてきた。

 

 

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『ゴジラ展 特撮映画のヴィジョンとデザイン』

2016-09-18 09:17:15 | Weblog

 蓮舫が二重国籍で反論しなかった。台湾国籍を持っていたことがあたかも悪いことのように伝えられたが、反論できなかった。この国には多くの多重国籍の人がいる。この国には、奇妙で嫌な空気に包まれている。日共の藤野前政策委員長(更迭)が、人を殺すための予算と発言したときも、軍隊と言うものの本質的な議論は無く、ただ言葉尻を捉えられ、日共も世論に迎合し処分をしてしまった。この国には、物言えぬ空気が漂っている。

 

 『ゴジラ展 特撮映画のヴィジョンとデザイン GODZILLA at Museum : Vision, Art & Design in Japanese Sci-Fi 1954-2016』(北海道立近代美術館 2016.9.9fri-10.23sun) 2016.9.18

 僕が知らなかっただけなのだろうが、お馴染みのゴジラの主題曲を作曲した伊福部昭氏が、釧路出身だったことが初めてわかった。

 ゴジラも今年11月3日(公開日は1954年11月3日)で62歳になる。僕と同学年だ。その年の3月1日、南太平洋上のビキニ岩礁で米国が水爆実験を行い、第5福竜丸に乗っていて被ばくした久保山愛吉さんが亡くなった。これ以後、平和運動では、3月1日をビキニ・デーとした。ゴジラは、その水爆から生まれた。ゴジラには、原水爆禁止の願いと太平洋上で戦死した多くの兵士の魂が宿っていると言われる。

 ゴジラ展では、ゴジラスーツ、特撮セット、絵コンテ、デザイン画、映画ポスターとゴジラの制作に関わったあらゆるものが展示されており、マニアックな人もそもそもゴジラ映画をほとんど観たことの無い僕のような者でも楽しく興味深い時間を過ごすことができた。撮影現場の様子は、映画の撮影現場というよりも工場のようで職人によるモノづくり現場だ。精密機械を作るように、細部までこだわった細密な設計図、都心を再現したミニチュアセットの中に東京タワーを大型重機で釣り上げて設置、建物や兵器の細部までの作り込み、それぞれの分野で才能を持った人たちによる共同作業だ。

 脱線するが、僕には共同作業で苦い思い出がある。小学校4年生の図工の時間、6,7人のグループで段ボールを使って建物のミニチュアを作った。僕らは5階建てのデパートを作ろうと考え、僕以外の人は段ボールを切り貼りして重ね合わせていた。僕は各フロアーが外から見て何を打っているか見えるようにと、衣料品を吊るしたハンガーや、椅子・テーブルを作っていた。しかし、伊東君の考えは違っていた。皆は、伊東君の意見に同調し外壁は全部塞いで、壁に絵を書こうということになった。僕のそれまでの時間が無駄になったと感じた。僕は泣いて暴れた。先生になだめられたが、それ以来伊東君を許せなかった。今でもその時の悔しさが甦る。この時から僕にはチームプレイは向かないと思った。スポーツの団体競技もダメだ。自分の思い通りにできるなら、組織に居場所を作ることもできるが。僕は、我がままで負けず嫌いだという自分の性格がわかった。

 

 

 

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少し遅い夏休み2016 戦後左翼史(番外篇)

2016-09-06 20:39:39 | Weblog

 少し遅い夏休み2016

 丸井デパートの催事場で江戸老舗展をやっていて、初めてドジョウを食しました。

 今日から日曜日まで6日間の夏休みを取っています。事情があって恒例の京都小旅行を直前キャンセル。時間が少しできそうなので、『戦後左翼史』の再開に向けて、古新聞のスクラップ記事を読んでいます。昔の新聞は、現在より活字が小さくて疲れますが、ようやく1969年夏あたりまで読み進めました。

 1966年から1969年の間では、中国で文化大革命、チェコの自由化に対するソ連軍による圧殺などがあり、僕も小学校の高学年から中学生だったので、同時代の記憶として多少繋がることもあり、当時の自分が憧れ、失望したことなども思い出しています。

 スクラップ記事を時間順に読んでいて、個々に起きる事柄は事実として認識できますが、その事象の底流に流れている意味を捉えるのは中々難しいということがわかります。それで、前の会社の社長が「新聞ばかり読んでいるとバカになるぞ」と言っていたことを思い出しました。僕は、常識として新聞くらいは読まなければと思っていましたが、社長の言葉の意味は、それだけでは限界があるぞということを言いたかったのではないかと思います。

 先日訪問した室蘭市港の文学館の館長さんが説明で最初に発した「事実と真実は違いますから」という言葉、そこでは特に意味を解説していただけなかったのですが、ずっと僕の中に残っています。館長さんは、文学するということは真実を追求する営みであると言うことを言いたかったのではないかと少しわかったような気がしますが、僕が時間を費やしてスクラップ記事で日々の事実の連なりを読んでも、そこから真実、すなわち歴史的な意味を見出さなければならない、そこまでいかなければ意味がないと言うことを教えてくれたのではないかと思います。

 今、僕は戦後左翼、特に日共の歴史を批判していますが、それは単に左翼の撲滅を目的としてはいません。国家権力を握った左翼がこれまでなした事実や前衛党内部での権力的な振る舞いは、平等や公平を理想として掲げながら、彼らが否定の対象とした資本主義社会よりも明らかに劣った社会や組織を作ってしまった。そこには、国家や党の前では、ひとりびとりの人間が全く大事にされない事態を招いてしまった痛恨の歴史があります。

 僕は、この日共を含めた左翼のこれまでの歴史を根底から批判し尽すことなく、新たな展望は無いと思っています。現在において、どんなに左翼(日共)が口当たりの良い言葉を吐こうが、大衆は肌でその嘘を見破っています。「すべては徒労だったと」(立原道造)に終わるかも知れませんが、楽しい作業をやっています。

 

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