晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

経済論 吉本隆明ノオト その3

2015-04-28 20:29:26 | Weblog

 鶏料理札幌はし田屋(道庁前)で、ランチ限定「親子丼」。京都祇園「原了郭」の黒七味、京都錦市場「ぢんとら」の柚子七味と山椒三種をご用意致しました。お好みでおかけいただき約三十秒ほど蓋を締めてお待ち下さい。見事な香りと風味をお楽しみ頂けます。僕は黒七味にしました。

 

 経済論

 吉本隆明は何ものにもおもねることをしない。政治党派から、労働組合から、農業団体から、あらゆる集まりから独立しており、集団を代弁するような言説を主張することはない。単独者として自立している。

 『吉本隆明〈未収録〉講演集〈4〉日本経済を考える』(筑摩書房 2015年刊)をとりあげノオトする。本書は、古くは1974年、新しくは2003年講演もあるが、多くは80年代後半から90年代半ばまでが多く、「消費資本主義」がキーワードである。おりしも吉本の経済論では、『吉本隆明の経済学』(筑摩叢書 2014年刊)が刊行されており、このブログで、2014.11.18、11.22、11.24にノオトした。

 日本、アメリカ、西欧(フランス、ドイツ、イタリア、イギリス)では、国民の50%以上が第3次産業(流通、サービス、娯楽、教育、医療、福祉など)で働き、所得の50%以上が消費に使われ、その消費支出のうち50%以上が選択的消費(我慢可能な消費)を占めている社会を「消費資本主義」という。

 吉本は、必需的消費が50%を割った社会で、人びとが一斉に消費を控えたなら、どんな政府であっても倒れる、人びとにはそれだけの力が潜在的に備わっているという。また、国家は開くべきといい、その具体的な方法としては人々の直接投票で半数以上が現国家に反対であるという結果が出たら国家は変わるべきだという。

 *(*印は僕の感想部分)吉本の視点は、常に「脱」である。消費資本主義に変質した現在の次にくる社会をどう構想するか、脱消費資本主義にある。吉本の言説が現実性を持つかどうかは別として、僕には少し荒っぽすぎると思うが、緻密な理論体系を持ち、多くのデータを駆使して現状を分析し、経済の先行きを予想している既成の経済学に決定的に欠落しているのは、次の社会(オルタナティブ)をどのように構想するのかという姿勢である。これは、マルクス経済学にも、革命政党にも共通する欠陥である。

 労働組合主催の講演会ではこう述べる。労働者になるとはどういうことか。それは、歴史的に考えられてきた階級意識を持つことなどではなく、8時間労働を終えた時に、自己のイメージを切り換える、そのイメージをはっきりと持てることが労働者になるということだ。脱労働という理念を持ちながら、なお労働者であることが重要なのである。

 *労働組合で徒党を組んで、社会主義思想を学んで階級意識を持って革命をしてもダメだよ、それで失敗してきたのだから、そんなことは今の労働者、特に若者は、敢えて言われなくても百も承知なことである。しかし、脱の視点が欠落している。

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都市論 吉本隆明ノオト その2

2015-04-26 09:35:45 | Weblog

 アへ首相が訪米し、どのようなメッセージを表明するか、国内よりも海外メディアが注目したい。(内田樹氏のHPで海外メディアの論調がわかる。)アへは、言葉のトリックでかわすことができると読んでいるようだが、人から信頼を得るためには口先だけではだめだということ彼は今までの人生から学んでこなかったようである。問われているのは、言葉ではなく、彼の思想であり心である。戦後70年談話を待つまでも無く、このGW訪米で諸外国から総スカン情況になる可能性がある。

 都市論

 吉本隆明は群れない。孤高の人である。敢えて他者に異論を唱えることで、自分の思想の独自性は、自身の言説商品を売るために差別化しているようにも見える。

 *(*印は僕の感想部分)吉本は都市論から脱資本の可能性を示唆し、「人工都市」がそれを実現するという。氏のイメージのヒントになったのは、つかしん(兵庫県尼崎市)だと辻井喬(堤清二)との対談で述べている。(『吉本隆明「五つの対話」』新潮社1990年刊)

 現在の情況からの脱出(脱資本)の可能性は、第3次産業が主体を占める高度資本主義社会の段階になって可能となった。もうひとつの可能性は、森林と草原、砂漠と海原というアフリカ的段階である。第2次産業である製造業が発達した西欧的都市やアジア的段階においての可能性はない。

 *「つかしん」は、20数年前にセゾングループによって開発された大型ショッピングモールの走りである。吉本の人工都市のイメージは、巨大な建築物に何万人も暮らし、それがひとつの都市として生産から消費まで完結するというものである。僕のイメージでは、アフリカ的段階の例として、アラブ首長国連邦のドバイ、トムクルーズのミッションインポッシブルなどで砂漠の真ん中に超高層ビルが並び立つ人工都市を思い浮かべる。

 一方で、吉本はこう述べる。脱資本をどのようにするか。人工的な脱資本の方法は、既にソ連、東欧、中国において失敗した。脱資本の条件は、国家を開き、国家の軍隊を持たず、他国の干渉をしない。

 *国民国家の黄昏を唱えている僕も「国家を開く」という点が重要だと考える。ただ、「つかしん」のようなモールはその後イオンやアウトレットなど続々とできているが、国家を超えるものにはなっていない。ドバイも国家間の経済的な利害が複雑に錯綜する都市であり、国家を開いていくものになるかは未知数である。吉本の独創的な着眼点は誰も及ぶことはできないが、氏のイメージに現実は未だに追いついていない。否、氏の予想が外れたといっていいであろう。

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イメージ論 吉本隆明ノオト その1 

2015-04-18 21:05:30 | Weblog

 建物の横できれいに咲きました。今年の冬は小雪、暖冬だったので桜も早く咲きそうです。アへ首相は、著名人を招待して桜を見る会を主宰し、まるで園遊会での天皇気取りです。桜散る、国家のため命を散らす、そんな考えに酔っているのでしょう。

 

 吉本隆明氏の特徴は、通常は見過ごしがちな現象に対するこだわりと過大評価、それをもとにした大胆な推論、極端な結論付け、他者の追随を許さぬ独自の世界観を形成した。それは。わかりやすさ故支持者からは絶賛の声が、しかし反面、アカデミズムの世界では評価されず完全なる無視及び排斥の対象となってきた。

 吉本隆明〈未収録〉講演集(全12巻、筑摩書房)の発刊も順調であり、ここでは『イメージ論・都市論 講演集第5巻』をとりあげ、以下ノオトするとともに感想(*印は僕の感想部分)も記したい。

 『マス・イメージ論』(福武書店 1984年刊)、『ハイ・イメージ論』(福武書店 第1巻 1889年刊、第2巻 1990年刊)を読んだが難解だった。本書は、1985年から1993年までにイメージ論・都市論をテーマに行った講演集である。上記の著作を書きあげていた時期と重なり、大衆に対し吉本氏の問題意識と発想をわかりやすく説明しているので、本講演集を読んで、自分なりに少しわかったところがあった。

 イメージ論

 カルチャーの特質は、文学に典型的にみられるが、「自己実現のために」、吉本の言葉では「自己表出のために」行われるということになる。一方、サブ・カルチャー(例えば、CM、劇画・・)の特質は、「何々のために」すなわち商品をより多く売るためになど、目的を定めて創作され、書かれているということになる。近年、カルチャーとサブ・カルチャーの区別がつきにくくなった要因は、サブ・カルチャーにカルチャーの特質が多くみられるようになったためである。

 *このブログの2014.11.2に『ニッポン戦後サブカルチャー史』として書いたが、あの天下のNHKでさえ、サブ・カルの番組をシリーズで放送したのである。すなわち、ひとつの文化論として成立し、なお語るに値するという評価をしたことになる。

 吉本は、かつて文学を批評するため言語の持つ機能を分析して僕たちの前に提示して見せた。その後、文学を含むより広い概念である芸術を批評する方法論を研究し、イメージ論を提示した。その、きっかけの一つが、つくば万博富士通館での3D映像体験、いわゆるバーチャルリアリティ(仮想現実)に驚愕したからだと述べている。

 *僕から言うと、それは少し驚き過ぎじゃないか。あまりにも世間知らずではないかと。そもそもたったそれだけの体験から評論を進める無理筋の発想、そして論理の飛躍に中々着いていくのは難しいと考える。

 もう一つのきっかけは、臨死体験者たちが語る情景である。ベッドに寝ている自分が自分の真上の天井から見えたのだと言う。それは、死が自分自身の存在感を無化し、自分はただイメージを喚起する視覚、視線自体になったという。

 吉本はタテとヨコの視線に着目する。ヨコの視線、それは、普通の生活者の水平な視線であり、ヒューマニズムの視線という。もう一つが、吉本のオリジナルになるがタテの視線、キーワードで世界視線と呼んでいるが、天空から垂直に降りてくる鳥瞰的な視線である。

 吉本は、上記の著作で、この世界視線を用いて芸術や文学作品の批評を多面的に行った。

 

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北海道知事選挙 ひとり相撲

2015-04-13 21:02:00 | Weblog

 北海道知事選挙 ひとり相撲

 「鉛筆持ったら○○」とコールが聞こえていたが、棄権しようかと迷った末、投票箱が閉まる直前に投票した。そして家に帰ると何と既に結果が報道されていた。

 今回の知事選を振り返ると、S氏のひとり相撲だったと思う。「出たい人より、出したい人」は選挙の鉄則だ。出馬を表明するには、情況を作らなければならない。S氏は拙速だった。民主党の意思を確認してからの方が良かったと思う。先行して表明したことにより民主党の選択肢、すなわち有権者の選択肢を奪った。ただの「出たい人」になってしまった。

 その後、日共が支援を表明してきた時の対応もまずかったと思う。大地の宗男氏からの揺さぶりに動揺しまった。あれを見ると、仮に当選しても様々な圧力をはねつけることができるのか、各党間の調整をできるのだろうかと疑問を持った。

 政策も一貫性を感じることができなかった。一説には、最初は自民党に自分を支援するように働きかけたという話もある。大地、民主、維新、ネット、日共・・来る者拒まずだったのだろうが、節操なく「ただ受かりたいだけ」の候補に見えてしまった。

 死者に鞭打つつもりはない。T.はるみったくない知事では、道政は今までと大きく変わるはずはないが、彼女、今回の選挙では自信に満ちたとても可愛らしい表情を作っていた。

 もう一人のH.Nさんは、投票日前日の朝刊で「札幌市長選女性候補者が『生活保護は遺伝』と発言」と週刊文春の広告に書かれた。もちろん発言の真意は違うと思うが、少なからず影響はあったのだろう。でも候補の印象は暗かったが。

 いずれにしても、今回の知事選はS氏のひとり相撲で、有権者は他にありえた選択肢を奪われたのではないかと思う。

 僕は、今のところ民意を表す方法は選挙という方法がベストだと思うが、有権者の選択に当たっての情報がいつも定型的であり、またドメスティックな情報しか伝えられず、外からの視点ではこの国が今どのように見えているのか、こんなことを議論していて良いのか、メルケル首相は何をしに来たのか、中国のAIIBの狙いは、本当のことを知りたい。

 

 

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退職の挨拶 Part3

2015-04-06 20:44:26 | Weblog

 退職の挨拶 Part3

 別の場面でも挨拶をしていたことを思い出しました。

 同じセクションの同僚たちに催していただいた送別会では、35年間の会社生活を振り返ると大変に長くなりますので、昨日のことをお話します、と切り出しました。

 昨日は、札幌ドームへコンサドーレの試合を見に行きました。私の前には、祖父と2人のお孫さんがおり、試合開始前の子どもたちはずっとサッカーゲームをやっていました。試合が始まるとゲームをしまい集中して見ているようでした。しかし、その試合が何ともまどろっかしく、サッパリな展開が続いていて、気が付くと子どもたちはピッチを見ないでサッカーゲームを再開していました。大人たちは、ゲームばかりやると成績が悪くなると言いますが、今回は誰が悪いのか、それは子どもでは無く、選手が悪いと思いました。

 家でもゲームをし過ぎるなと言いますが、子どもたちは、勉強が楽しければゲームなどしません。誰が悪いのか、つまらない授業をする先生なのか。それは、隅から隅まで自由度の無くなっている先生ではないと思います。僕は、金の力だと思います。ゲームと教材に投資されている開発費を比較すると歴然としていると思います。まさに、資本の力の影響だと考えました。いつも、こんなことを考えながら会社で生活してきました。

 同期会の送別会では、入社した頃に比べあまり変わっていない人もいますが、僕は髪も白く薄くなり、姿かたちからは疲れ果てたように見えるでしょうが、僕の祖父は1899年生まれで2000年に亡くなっています。もう少しで足かけ3世紀を生きるところでした。祖父の60歳は1960年頃ですが、その後90歳を超えるまで30年以上呉服店を営んでいました。僕も今から30年間働くのはちょっと辛いですが、20年くらいなら働いていたいなと思い、最近少しエネルギーが湧いてきています。

 最後の日の夜の幹部会歓送迎会では、大昔はセクション間の仕事の押し付け合いが随分とあったように記憶していますが、今は協力関係があり、基本的にウェルカムだと感じています。是非、この雰囲気を継承していただければと考えています。

 昔の上司に挨拶は一期一会で重要だよと教えていただきました。定型的な挨拶にはしたくない、失礼な物言いになっていないか、できれば聞いている方々の印象に残るものにしたいなどと欲張りなことを考え、自己満足の世界に入ってしまっていますが、思い切って考えてことを話そうと決めています。

 

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退職の挨拶 Part2

2015-04-03 20:10:20 | Weblog

 札幌大学の学長だった文化人類学者の故山口昌男氏の蔵書を納めた山口文庫が学内で公開されています。個人の蔵書としては、最大規模であるとともに、大変多様なジャンルの書物が揃っており、一見の価値ありです。でも、なぜ日本を代表する文化人類学者が札幌大学に招かれたのかは、僕にとっての謎です。

 退職の挨拶 Part2

 ついに3月末で会社を定年退職しました。同僚、同期など様々な方々から退職を祝う会を催していただきました。その際行った挨拶(要旨)を掲載します。退職の挨拶については、2015.2.8にも掲載していますので、参考にしていただければ幸いです。

 皆さん、こんばんは。今日は大変お忙しい中、このような会を催していただきましてありがとうございます。(いつもこの出だしです。)

 最後の日に同じセクションの同僚たちに向けて、いつもはウケ狙いなのですが、敢えて言わなければならないと思ったので、上から目線でしたがこのような挨拶をしました。

 社員は、法律や会社の規定、上司の命令に従い仕事をしなければならない。上司がその命令を形成するためには、正しい情報、選択肢、それにその社員の意見が必要だと思います。その内で一番大切なのは、課題に対して深く考えて自分の意見を持つことだと思います。是非、皆さんは自分の意見をしっかりと持ち、上司に具申して下さい。また、現在のリーダーは、腹が太くて肝が据わっていると思います。リーダーを支えることは、会社のため、さらにはお客様のために繋がると考えています。

 過日、役員の皆さんと幹部社員の会での挨拶です。これまで、本当にお世話になりました。毎回の役員会で、厳しい質問や意見をいただく中で随分と自分が成長できたように思います。気づいている方はおられないと思いますが、実はピンチが予想される役員会には、僕はいつも同じネクタイをしています。この赤いコンサドーレのネクタイは僕のお守りで、これをしていると、いつも何とかなってきたと思います。今、聞いている社員の皆さん、これからは是非コンサのネクタイを着用しましょう。

 今日は、ありがとうございました。今後とも、皆さまのご指導ご鞭撻、そして今後ともご贔屓のほどよろしくお願いいたします。(いつもの結びです。)

 

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