晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『吉本隆明が語る親鸞』 その3

2012-04-30 20:57:09 | Weblog

 旧北海道銀行の建物を使った小樽バインで「小エビとギョウジャニンニク(アイヌネギ)のリゾット」、こういうアイヌネギの使い方があるのだと感じた。お米に少し芯の硬さが残っている本物のリゾット。

 第2講『親鸞の声について』(1984.6.17 武蔵野女子学院・紅雲台大広間 第261回日曜講演会)を聞いて。

 昨年、京都で時間があり偶然、西本願寺、東本願寺に立ち寄った時、親鸞が亡くなって750年を記念した行事が行なわれていた。今でも全然知識がないのであるが、その時は、親鸞が何を考えていたお坊さんなのかも全く関心すら無かった。今、自分に新しい世界が開けつつあると感じる。

 時折小鳥のさえずりの聞こえる会場で、吉本氏は親鸞の思想を信仰としてではなく思想として訥々として語る。それは、あたかも自身の思想の拠って立つ根拠を語っているようである。親鸞は、修練で到達できる境地にはあまり意味が無いという。それは凡人には修練は難しくてできないからである。アカデミズム、文化人と呼ばれるインテリゲンチャにだけ通用する思想を排した吉本氏に通ずる。吉本氏をして大衆の原像と評する根拠だ。

 親鸞は、善いことをしている時は、悪いことをしていると思ったほうがいい、善いことをしようと少しでも計らったら駄目なのだ、そこを無理すると息苦しさを感じる、という。

 世論が一面的に傾く時、吉本氏は異論を唱える。1980年代初頭の反核運動に異論を唱えた時、最後の最後、3.11以後にもあえて原発を肯定していたことから、ちょっと待てよということが大切なのだと教える。

 身近で親鸞を学ぶことはできないかと思う。浄土真宗本願寺派、浄土真宗大谷派の寺院はあちこちにあるが、親鸞の思想から現代に生きる我々が学ぶことのできるような説教を聞く事はできるのだろうか。

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『吉本隆明が語る親鸞』 その2

2012-04-29 22:11:45 | Weblog

 雑誌『サライ』5月号の特別付録に萬年筆が付いていると言うことで、ランニングも兼ねて書店へ。880円の雑誌にどうしてこのようなペンを付ける事ができるのか不思議なほどの付録!であった。女性誌に付いているブランド物の小物入れと同じか。

 吉本氏が亡くなったのは2012.3.16、87歳だった。書評紙の特集、書店にも追悼コーナーが設けられている。その中で、北海道新聞2012.4.8「異聞風聞」で編集委員の谷口孝男氏が「吉本隆明さんの残したもの」と題して小文をのせている。文中、強く印象に残った部分を引用する。

 『小説家埴谷雄高のライフワーク「死霊」(未完)第5章の刊行を記念して、札幌の北大クラーク会館講堂で講演したのは76年5月10日のことである。吉本さんは評論家の秋山駿さんらとともに、思弁的な埴谷作品を俎上に、文学者の運命を語った。「文学は個人芸で社会に負ける。でもどういうふうに負けるかが大切なんだ」。みんな息をのんで聞き入ったものだ。』

 道新の谷口氏、氏のHPを見ると吉本氏への関心がかなり強い方と思われる。同じ時代に、同じ場所で、同じ時間を共有したのは間違いない。私は、このブログでも折に触れ1976(昭和51)年5月10日のことを取り上げてきた。(最新は、2012.2.12)

 

 

 

 

 

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『吉本隆明が語る親鸞』 その1

2012-04-28 20:45:38 | Weblog

 GWで少しばかり休めそうです。日頃は難しい顔をして営業しているのでしょう。鏡の中の自分が随分と嶮しい表情をしています。慌ただしい日々から逃れた後、少しは和らいだ顔つきになると良いのですが。

 

 『吉本隆明が語る親鸞』(吉本隆明著 株式会社東京糸井重里事務所 2012年刊)

 親鸞を語る吉本氏の5本の講演がDVD-ROMに収録されている。1本目は、『現代に生きる親鸞』(1993.5.3 奈良吉野・瀧上寺)である。

 吉本氏は、「弥陀の十八願」の解釈をしながら、親鸞が「人間は中途半端な存在」と捉えていると語る。そして、吉本氏は自分の経験から「善いことであっても、何となく浮かない感じがしたら、必ず言うべき」という。

 これを私なりに現実に例えると、3.11以降の言説、絆、人と人とのつながり、ガンバロー日本・・・間違ったことを言っている訳では無いが、何となく浮かない感じがしたとしたら、それを必ず言うべきである、と捉える。誰もが反対できないようなスローガン、交通安全、健康、「人権、平和、環境、福祉」・・に対する違和を感じることのできる感性が大事である。

 

 一度自分を解体して再構築してみたいと思って、意識して異分野に手を出そうと心がけているが、響きあう部分は自分の中で長年積み上がった所。

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クローヨーと酢豚は同じもの?

2012-04-22 16:45:29 | Weblog

 5月5日のハーフマラソンまで2週間、今日は強風の中、20数kmを走ったので、お腹が空いて空いて。食べ物の話しにのめり込みます。

 私の小学生の頃、エッ45年も前の話、給食に確か「クローヨー」というメニューがあったと記憶しています。ちなみに当時中学校は牛乳のみ提供される給食でした。中華っぽい酢豚のような違うような、あまり好きなおかずではなかったです。

 狸小路(南3条西4丁目)中華料理の老舗「香州」でクローヨーランチ(写真)を食べました。間違いなくこれは美味しい酢豚でした。しかし、なんと別に「酢豚」というメニューがあります。調べてみると、クローヨーは「古老肉」と書いて、日本語で酢豚という解説がでています。今度は、「香州」の酢豚を注文してみたいと思います。

 

 Dolceさん、コメントありがとうございます。

 調べてみるとパンケーキのパンはフライパンのパンで平鍋という意味ですね。で、パンケーキとホットケーキは同じもの?

 英国圏ではパンケーキ、アメリカではホットケーキと呼ばれているということです。ホットケーキの方がケーキに厚みがあります。私の探しているのは昔ながらのホットケーキで、バターとメイプルシロップの付いたものです。水飴ベースのメイプルシロップモドキは駄目です。札幌市内でパンケーキではなくホットケーキをメニューにしている店は意外と少ないと感じています。

 食べ物の話題は尽きることがなく、ホットケーキとどら焼きは同じ?中華饅頭は人によって、地域によって思い浮かべるモノが違います。

 

 

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『日蓮』

2012-04-15 17:00:47 | Weblog

 久しぶりに長距離ランを!と思って早朝出発。12km過ぎでガス欠状態になり体が前に進まなくなる。小休止し、「さざえ」の大福もちを2個補給。再び走り始めると、20分位すると徐々に体が動くようになってくるのが実感できる。

 下がった血糖値が上がってきたのだろう。ハーフを走りきってもお釣りがくる位のエネルギーを補給できた。5月5日のハーフは、何とか完走できるかな。

 吉本隆明が亡くなり、追悼特集がボチボチ発行され始めた。ある書店で、私「『図書新聞』とか『読書人』を置いていますか?」、店員さん「それってフリーペーパーですか?」、私「書評紙かな?」、店員さん「???」

 札幌時計台付近にすっごい人だかり。200人を超えるか。向かいのビルの2階のベランダにも溢れるほどの人、人。何かイベントがあったのだろうか。観光客なのかな。

 

 『日蓮』(三田誠広著 作品社 2007年刊)

 三田氏の筆によると、何とも地味でよくわからない鎌倉時代、鎌倉仏教も面白い小説に仕上がる。日蓮も革命家になってしまうのだ。

 日蓮は、自分だけが解脱や往生できるようになると説く既存宗派(セクト)と党派闘争さながらの戦いを繰り広げる。日蓮は、来世ではなく現世の変革を主張する。あえて法難(困難)を望み、それが自分、自分の信念を鍛えると言う。

  三田は、日蓮をバイタリティの塊のような人物に仕上げた。

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『マルクスの逆襲』 再読

2012-04-10 20:25:03 | Weblog

 55日の豊平川ハーフマラソンを目標に練習をしているのだが、冬場に全く走り込めなかった影響もあり、未だに10km程度しか走ることができない。日没が遅くなってきているので、数kmなら平日の夕方も練習ができるようになった。今夕の練習は、日曜日より少し走力が伸びているような感じがした。身体と対話しながら体力が上向いていく実感を得ることができれば、それは喜び。

 

 

 『マルクスの逆襲』(三田誠広著 集英社新書 2009年刊) 

 たまにあることなのだが、読んでいるうちに何となくひょっとして前に読んだかも知れないと思っていたら、2009年8月に読んでいて、2009.8.15の当ブログに感想を記していた。それから3年ほどが経過しているが、再読して、本書の中で引っかかりを持つ部分、感じる部分が以前と異なっていることから、おそらく自分の考え方にも変化があったのだろうと思う。

 3年前の私は、「ソ連も中国も、レーニンも、トロッキーも、ポルポトも、学生運動の諸セクトも、全共闘も・・全部まとめてマルクス主義者という大雑把な括り方にはあきれるばかり。」と私も三田氏の思想を括り、もう少し丁寧で厳密な議論をするべきだと主張した。

 今回読んで立てた問題は、ある思想や宗教を理解や共鳴しながら物事を考えることと、ある思想や宗教を(無条件に)信じることの間に差異はあるのか、というものである。三田氏が何もかもをひと括りにして批判した理由は、マルクスの思想が、それぞれの運動の中で、あたかも宗教のように信じる、信じないの次元になっていて、自分の頭の中では何も考えていないのではないか、と捉えているからであろう。

 ある党派における党員とは、党の綱領に賛同し、綱領に従って活動する者であるが、党外からは見えなくても、そこには個人の考えの違いや論争があるはずである、否、無くてはならないと考える。もし、論争も何も無い真の一枚岩であれば、それは信仰の領域のことである。

 三田氏の議論の荒さは、思想と信仰、政党と宗教を同一次元で論じているところにある。

 残念なのは、本書の中で三田氏が、マルクスの思想そのもの、疎外論も物象化論などについて何も語っていないところである。マルクスの思想に基づくとひと括りにした運動が対象となっているだけで、マルクスの思想については論じられていないのである。

 

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『道鏡―悪行は仏道の清華なり』

2012-04-01 16:53:21 | Weblog

 2006年4月にこのブログを始めて以来、6年が経過した。2,188日間に、閲覧数(PV)268,900、訪問者数(IP)99,900人、最近は1日150人位が訪問してくれており、約170万ブログ中、上位10,000位以内に入ることもある。つまらない呟きを読んでいただいていることに感謝したい。コメントをいただけることもまた嬉しい。

 

 『道鏡―悪行は仏道の清華なり』(三田誠広著 河出書房新社 2011年刊)

 三田誠広にはまるかも知れない予感。私は1970年代に芥川賞受賞作『僕って何』を読んで、そのお坊ちゃま感覚(父親は三田工業社長)、学生運動を揶揄したようなスタンスに腹立たしさを覚え、それっきり触れずじまいの作家であった。

 それが、最近『哲学で解くニッポンの難問』( 講談社刊 2011年刊)、『深くておいしい小説の書き方』( 朝日ソノラマ 1995年刊)などを読んだり、氏のHPで今書いている作品の創作意図などを覘くうちに、この作家は深いかもしれない、結構考えている人ではないかと思うようになった。

 思い立ったら即実行、本日は書店までランニング(11km)することにし、『マルクスの逆襲』『実存と構造』(ともに集英社新書)を購入した。

 さて、『道鏡』は、僧侶から女帝に取り入り最高権力者に成り上がったという悪者イメージであるが、三田氏に言わせれば、それは道鏡の後の時代、藤原一族が権力の中枢を占めていた平安時代に書かれた「続日本紀」における反藤原を象徴したイメージであり、「捏造され歪曲されたものではないか。」というのだ。

 高校の日本史の教科書をあまり覚えていないが、道鏡という僧侶の記述などほんの少しで、1行にも満たなかったと思う。鎌倉時代の歴史、宗教、寺院などの知識も興味も全くなかったのであるが、『道鏡』の読み物としての面白さ、大仏開眼の導入部にはぐっと引き込まれる。

 『道鏡』に続いて『日蓮』を読み始めた。歴史の知識が欠如している私であるが、一冊の「点」から、数冊の「線」へ、それが頭の中で整理されて「面」になってくると面白さが増すのではないか。

 

 

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