旧北海道銀行の建物を使った小樽バインで「小エビとギョウジャニンニク(アイヌネギ)のリゾット」、こういうアイヌネギの使い方があるのだと感じた。お米に少し芯の硬さが残っている本物のリゾット。
第2講『親鸞の声について』(1984.6.17 武蔵野女子学院・紅雲台大広間 第261回日曜講演会)を聞いて。
昨年、京都で時間があり偶然、西本願寺、東本願寺に立ち寄った時、親鸞が亡くなって750年を記念した行事が行なわれていた。今でも全然知識がないのであるが、その時は、親鸞が何を考えていたお坊さんなのかも全く関心すら無かった。今、自分に新しい世界が開けつつあると感じる。
時折小鳥のさえずりの聞こえる会場で、吉本氏は親鸞の思想を信仰としてではなく思想として訥々として語る。それは、あたかも自身の思想の拠って立つ根拠を語っているようである。親鸞は、修練で到達できる境地にはあまり意味が無いという。それは凡人には修練は難しくてできないからである。アカデミズム、文化人と呼ばれるインテリゲンチャにだけ通用する思想を排した吉本氏に通ずる。吉本氏をして大衆の原像と評する根拠だ。
親鸞は、善いことをしている時は、悪いことをしていると思ったほうがいい、善いことをしようと少しでも計らったら駄目なのだ、そこを無理すると息苦しさを感じる、という。
世論が一面的に傾く時、吉本氏は異論を唱える。1980年代初頭の反核運動に異論を唱えた時、最後の最後、3.11以後にもあえて原発を肯定していたことから、ちょっと待てよということが大切なのだと教える。
身近で親鸞を学ぶことはできないかと思う。浄土真宗本願寺派、浄土真宗大谷派の寺院はあちこちにあるが、親鸞の思想から現代に生きる我々が学ぶことのできるような説教を聞く事はできるのだろうか。