晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

拝啓、吉田拓郎様

2007-10-29 20:20:35 | Weblog
 拝啓、吉田拓郎様、早く元気になって下さい。40年間も唄い続けたのですから、この際少しゆっくりして下さい。

 今年の夏からのコンサートツアー、体調不良で一度休んだのですが、10月になって復活したと聞いていましたが、突然の中止のニュースに驚いています。

 あるサイトの、好きな拓郎の唄ベスト3は、「洛陽」「人生を語らず」「春だったね」でした。

 頭の中に、歌詞とメロディーが断片的に浮かんできます。

 「これこそはと信じれるものがこの世にあるだろうか。信じれるものがあったとしても信じないそぶり」(イメージの詩)

 「いつも、いつも、遠くから遠くから見ていたヒロシマ」(いつも見ていたヒロシマ)

 「苦しくても、息切れても、泳ぐしかない」(虹の魚)

 あなたの唄で、どれだけ励まされたか。
 あなたの唄から、どれほど元気をもらったことか。
 あなたの唄で、どんなに素直になれるか。

 これからも、もっとたくさんの新しい唄を聞きたいです。
 もう一度、もう一度必ず、いつまでも、いつまでも僕らは待っています。
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『東大全共闘1968ー1969』

2007-10-28 17:38:59 | Weblog


 この時期、こんなに暖かな休日は今年最後かも知れない。朝起きたら、全身の筋肉痛にビックリ、昨日の練習が効いたみたい。

 今日も、午後からインターバルや筋肉系を刺激する練習を実行。昨日より、体が動く感じ。三日坊主にならないようにしたい。



 写真集『東大全共闘1968ー1969』(渡辺眸著 新潮社 2007年刊)

 今朝の日経に広告があり、山本義隆氏が寄稿しているとのことで早速購入。

 東大全共闘議長だった山本氏は、闘争終焉後一切マスコミに出ることもなく予備校講師をしながら科学史の研究を持続、近年『磁力と重力の発見』でその成果を公刊している。

 氏の文章を読んで、全く変わっていない、40年前に言っていたことと全然変わっていないことに驚く。人は、ともすれば、若い頃はこうだったなどと言う事が多いが、氏は持続している。自分のとった行動に一切の迷いがない。脅威の人である。

 渡辺氏の写真も40年も眠っていたフィルムを引っ張り出したところから始まる。当時の雰囲気が良く伝わる。

 '54年生まれの私は、全共闘世代に比べ遅れてきた世代であるが、当時の大学の様子が思い出される。とにかく、雑然としていて、汚い、散らかっている。腹が減っていて、なぜか睡眠不足で眠たい。立看も壁に貼ってあるポスター、ビラも、落書きも解放感が一杯だった。

 



 

 
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『俺ルール!』

2007-10-27 17:13:21 | Weblog
 10月最後の週末、穏やかな一日。18日のハーフマラソン惨敗を糧に、一から体のつくり直しを図りたい。今日は、久しぶりに短距離の全力走、インターバル走を入れる。最近の走りがダラダラとした感じであったが、途中から体が少し目覚めるような感じに。



 知人の紹介で、『俺ルール! 自閉は急に止まれない』(ニキ・リンコ著 花風社 2005年刊)を読む。

 自閉症(アスペルガー症候群、自閉症スペクトラムと診断されている)の著者自らが、その感覚、認識と他者との違いを語る。このようことは、これまであまり例のないことであり、著者の先駆的な仕事は自閉症への理解への助けとなるであろう。

 本書では、類推、連想、応用が苦手、同時に2つのことのイメージが持てない、仮定法が理解しにくい、など著者の子どもの頃からのエピソードがたくさん紹介されている。


 
 これらを、私なりに解釈すると、認識上の「情報処理」に難点を抱えているということになる。認識方法がデジタルで、0か1、○か×、コンピュータと同じ2分法なのである。ひところファジー理論が流行したが、あいまい感覚やグラデュエーション的な捉えが難しいと思われる。



 私達は、個人の生活レベルでは、これらの方達をはじめ、周囲とのコミュニケーションに相当な生き難さを抱えている人をサポートしなければならない。それとともに、現在の社会の構造も批判的に捉えるべきであろう。

 学校という装置は、子どもの能力を高めている反面、一種の「篩い」として機能している。資本主義的な生産体制では、労働力としての面からのみ人を評価していないだろうか。会社にとって有能な人材とは。

 私達は、選別と排除の社会ではなく、「真の共生社会」についてのイメージを持つ必要がある。先日、富山市で認知症高齢者、知的障害者、発達の遅れのある学齢前児童が、生活を共にしていた「にぎやか(阪井由佳子氏・平成9年)」などの実践に共に生きる姿の可能性を感じた。

 
 



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『下流志向』

2007-10-22 21:04:18 | Weblog
 『下流志向』(内田樹著 講談社 2007年刊) 副題に、「学ばない子どもたち、働かない若者たち」とある。

 この本では、若者に関する様々なエピソードと、それについての内田流のユニークな解釈が行なわれる。

 例えば、最近は学校で子どもが教師に、「どうして勉強しなければならないの」「勉強は何かの役に立つの」と問うという。

 学ぶとは、どういうことかという根源的な問いである。しかるに、教師は戸惑う。

 「良い学校に入って、良い会社に勤め、良い生活をするため」などという功利的な答えをしたら、子どもの思う壺である。



 私も、「本なんか読んで何になるの」という問い(否定的な)を受けたことがある。

 これに対して、「知識が増える」とか「役に立つ」とかいう功利的な理由からでは、自分が本を読んでいることの全部を説明できない。

 結局は心の中で、「うるさいな、好きだからだ、放っといてくれ」と答えている。そして、格好つけて「全世界を獲得するために!」と叫ぶ。



 従って、勉強も、したいから勉強をするということなのだろう。勉強できることの幸せを感じろというところであろう。



 また、労働の例では、自分の好きなことをしたいので、正社員になることや昇進を拒否する若者が増えているとのことである。



 この本で、内田先生と一緒に、これら若者の感性の原因を考えることは、「役に立つ」かも。(図書館から借りて読みましたので、コストはかかっていません。)



 
 

 

 

 

 
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北海道ロードレース

2007-10-21 17:35:05 | Weblog
 スタートの午前10時の気温は、アメダスで8.1℃、小雨、非常に寒いマラソンでした。ランニングパンツに上は長袖、手袋スタイルで走りましたが、雨で靴はびしょ濡れ、水を吸って重くなったり、途中で腰痛がきたりでしたが、何とか完走しました。タイムは聞かないで下さい。

 札幌でのマラソンは、この後11月18日に「さよならさっぽろマラソン」というアイスバーンの上を走る、かなりマニアックな大会がありますが、この日はコンサドーレ札幌の試合が札幌ドームであるので今年は参加しないことにしました。

 従って、今日が今シーズン最後のマラソンということになりました。指宿、豊平川ラン&ウォーク、小樽運河あたりまでは、何とか調子を維持していたのですが、北海道、そして今日のロードレースは惨敗です。

 これから、冬にかけて、筋トレやスピード走を取り入れて、一から体を作り直そうと思います。そして、来年、未だ行ったことの無い大会に参加したいです。



『街場の中国論』(内田樹著)その4(最終回)

第7講「中国の環境問題~このままなら破局?」からのメモ
 現在の中国政府は環境問題に対してどれくらいのコントロールが可能なのか、破局的な状況に対して、対応する能力があるのか。

 今の日本人は、反中国の気運もあって、中国の環境問題を冷たく見放している。 ジャーナリズムも、周辺国に影響が出なければ中国がどうなろうと自己責任という態度だ。



 ようやく今回の党大会で話題になりました。このままでは、日本の4大公害のような状況になる可能性があると思います。日本にも酸性雨などの被害が来ることが予想されます。


第8講「台湾~重要な外交カードなのに・・・」からのメモ
 中国は二国論を許容しない。2005年反国家分裂法が成立した。しかし、急に両岸関係が悪化することもない。中国の王化戦略という世界観からは、中国人は、「国境線を画定する」ことにアレルギーを持つ。本気で、台湾を武力侵攻する気はない。

 日本との尖閣諸島や東シナ海のガス田問題も王化的な考え方からは、「棚上げ」が提唱される。

 中国人の悠然とした構えと、日本人の性急に確定しようとする時間意識のずれがある。

 中国にとって、台湾は「わが国のようだが、わが国でなく、わが国ではないようだが、わが国である」といったところである。



 中国人の論理方法を知らないと大変な行き違いが出る。従って、無闇に危機意識をかきたてるような言説はしない方がいい。


第9講「中国の愛国教育~やっぱり記憶にない」
 1990年代の江沢民時代に中国では反日教育が徹底して行なわれた。しかし、当時は、村山談話で中国大陸への侵略と植民地支配に公式に謝罪するなど日中友好ムードに水を差すことになるから、外務省が情報を抑えたのではないか。



 政府には、国民に「しっかりと」事実を伝えてほしい。


第10講「留日学生に見る愛国ナショナリズム~人類館問題をめぐって」からメモ
 1903年第5回内国勧業博覧会の人類館は、「内地に近い異人種を集めて、生身の人間を展示するパビリオン」だった。「展示」された異人種には、北海道アイヌ、台湾の生蕃、琉球、朝鮮、支那、印度、爪哇(ジャワ)など7種族。



 それにしても酷い認識。
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明日は、第28回北海道ロードレース

2007-10-20 16:25:58 | Weblog
 今週は、火曜日から金曜日まで夜の営業が続き、千葉ロッテマリーンズの応援も充分出来ないうちに敗れてしまいました。でも、最終戦後、両チームのナインが、ライトスランドの前でお互いを讃えあっているシーンには感動しました。黒装束のマリーンズ応援団は札幌では異端視されがちですが、日本シリーズではパリーグの覇者としてハムを応援すると思います。

 明日は、第28回北海道ロードレースのハーフマラソンを走ります。忙しくて、2週間、全く練習をしていません。今日も雨天ですので、明日はぶっつけ本番になりそうです。少し前なら、ハーフ位ならいつでも走れると思っていましたが、今はそう舐めたものでもありません。とりあえず、何としても完走をしたいものです。



『街場の中国論』(内田樹著)その3

第3講「中華思想~ナショナリズムではない自民族中心主義」からのメモ
 中華思想は、中華から発信する「王化」の光があり、それが届かないところには「化外の民」がいるという考え方である。その境涯までは周縁部を含めてすべて「王土」に含まれる。従って、周縁を教化するという考えにはならないため、対外的に帝国主義的な政策は採らない。中国こそは文明の精華であるという「不平等ルール」に基づく。

 一方、帝国主義には、未知の文明に対して、ヨーロッパ人より開化の旅程で遅れているだけで、我々と同じ人間なのだから啓蒙教化してあげようという「親しみに満ちた軽蔑」がある。皮肉にも、植民地からの搾取の発想を正当化したのは、人間は平等という近代市民論。明治以降の日本は、ヨーロッパ型の帝国主義戦略を採った。



 日本が、自国の考え方の延長で中国を理解しようとしても、拠って立つ思想が違うため、理解をすることができないのだろう。これは、現在でも台湾や朝鮮半島の情勢を考える場合同様と思う。


第4講「もしもアヘン戦争がなかったなら~日中の近代化比較」からのメモ
 「王化」戦略に固執する清朝と、それを否定する日本の「帝国主義」戦略の対立がある。

 アメリカのハワイ取得と日清戦争で日本が朝鮮を占領しようと企図したのは、同じ1894年の出来事で、両者は植民地主義的な領土拡大という同じロジックに基づく。

 では、なぜ日本は清のように半植民地化されず、はげしい国土の簒奪と文化の破壊に苦しむ事態を回避できたのか。

 日本の近代化が成功した最大の理由は、幕藩体制で270の藩(小国)が分立していたこと、国全体では、それぞれの藩で、治世の訓練を受けた政治家が大量にかつ継続的に養成されるシステムがあったから。

 このことから、現在道州制が議論されているが、逆に「廃県置藩」、出来る限り政治単位を小さくし、現場処理に任せたほうが、システム全体としてのパフォーマンスは向上するという考えが導かれる。

 アメリカは、日本を開国させた直後に南北戦争(1860~1865年)に突入、イギリスは薩英戦争の後、薩摩、長州の「パトロン」になり、フランスは幕府と結び、英仏の「代理戦争」とも呼ぶべき相互牽制により日本は破局を免れた。



 中華思想の中国、歴史の偶然に救われた日本、両国のその後の歴史から、私達はまさに歴史の中で生きているのだと思います。


第5講「文化大革命~無責任な言説を思い出す」からのメモ
 過去一世紀の歴史の中で、抗日戦だけが中国人にとって唯一の「国民的統合」の記憶である。従って、国民的統合に危機的兆候が見えたときに、体制の矛盾が露呈したり、党指導部のハードパワーが落ちたときに、「抗日統一戦線」に記憶をかきたてようとするのは、心理機制としては自然のこと。

 ここに、中国における反日デモで示される、首相の靖国参拝や歴史教科書の記述に対する反応の根拠がある。

 反対に、日本人には、日本人としてのアイデンティティの危機を経験したときに、そこに立ち戻れば必ず自信が取り戻せるような国民的統合の記憶の核がない。

 毛沢東の文化大革命とは、王化秩序とは逆の物語の処方、農村が都市を包囲し、全土を均質化しようとした。分業の否定も、専門分化による中心=周縁の位階差の否定であった。



 あの戦争以来、アジアの民衆は、様々な軋轢があったとしても「反日」の一点て連帯できる。排除されたこの国は、米国の属国として生きていくしかないのか。

 「造反有利」「反帝反修」などという文字を見ると、騒ぐものを感じてしまう。数々の実態が明らかになったが、依然として文革を全否定できない何かがある。「文化」をスローガンに掲げた国を挙げての運動が、かつてあっただろうか。


第6講「東西の文化交流~ファンタジーがもたらしたもの」
 ヨーロッパ近代の啓蒙思想家たちが、中国にある種のファンタジーを抱いていた。

 14世紀から17世紀にかけての、ヨーロッパでのパラダイムシフト、「自然の再発見」、それまでの人間を本質的に「罪深いもの」として規定する中世的なキリスト教文化に対して、人間はそれ自体、本然の姿としては、「善きもの」であるというのが近代ヒューマニズムの考え方であった。

 ヨーロッパ人が「自然」(nature)と呼ぶものを中国人は「道」(tao)と呼んでいた。当時のヨーロッパ人は、統治技術としての儒教よりも、老荘思想の人間観に惹きつけられた。
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福田康夫に似ている?

2007-10-15 21:14:39 | Weblog
 先週はお得意様との旅行、土曜日の営業で、その疲れがどっと来て、昨日は何も考えたくなく、千葉ロッテマリーンズの応援に札幌ドームに行ってきました。
 ハムのファンクラブで購入した席だったので、周りはハムファンばかり。完全に浮いていました。しかし、ホームラン5本で完勝でした。



 会社の同僚に、「貴方は、福田康夫首相に似ているね。」と言われました。髪型、髪の少なさのせいなのでしょうか。それとも、心のこもらない話し方、軽さのせいなのかも知れません。それで、福田首相に少し興味が湧いてきました。
 
 投げ出してしまった安倍ちゃんについては、死者に鞭打ちたくないので一言にしておきますが、改定された教育基本法に、「公共の精神」や「道徳心」が謳わられていますが、それが必要だったのはご自身でしたということです。

 コイズミが新自由主義、安倍ちゃんが保守主義とすれば、福田さんのスタンスはどうなるのでしょうか。前二者の行き過ぎを少し戻さなければ、政権が持ちそうもないという観点からは、社会民主主義的な政策が断片的に出てくるのではないでしょうか。

 宇野弘蔵の言葉に、「ファシズムの強みは無理論なことだ」というのがあります。また、歴史的には、イタリアでは社会党左派からファシズムがでてきています。福田首相が立っている現在の権力の中枢部は、参議選後、2ヶ月も政治が空白であっても、首相が病院に引きこもっても、大きな支障の無い、空虚に満たされています。

 福田首相は、バランスよく一見手堅そうに見えますが、特に彼のしたいことがわかりません。強引に憲法改定まで持っていくような危険性も感じられませんが、少し生活が良くなるなんていう言葉で民主党を含めて絡め取られる可能性もあります。
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『街場の中国論』 その2

2007-10-09 19:24:42 | Weblog
 昨日から急に気温が下がりました。もう20℃を超えることはないのでしょうか。あと半月もすれば、初雪も降るでしょう。

 明日からの3日間、能登の方にお得意様と旅行に行きます。あちらは、25℃位で暖かそうです。



『街場の中国論』第2講「中国の『脱亜入欧』~どうしてホワイトハウスは首相の靖国参拝を止めないのか?」

 第1次の『脱亜入欧』は、明治の始め、日本が中国、朝鮮を排し、欧米化を目指した。
 第2次の『脱亜入欧』は、現在、中国が日本を排し、アジアの盟主として欧米と直につきあうことを目指している。

 中国が、日本に対して、過去の侵略の事実について謝罪や反省を求めているのは、「国威を賭けた盟主争い」の側面と、歴史的事実を共に記憶しようという合意をすることにより、被害、加害の記憶を両者にとって無害なものとして、「場から流す」という未来志向をも含んでいると捉えるべき。


 
 中国には、「易姓革命」という王朝交代の方法があり、天命による統治、天命が尽きれば、次の王に「禅譲」し、拒否すれば王を伐つのは天理にかなった行為(放伐)であり、天命を改めることが「革命」である。

 それに対して、日本では、最初に神武天皇に天命が下ってから、一度も改まっていない。天皇家には姓が無く、その権威は天命に基礎付けられていない。政体の変化はあるが、本質は変化していない。

 唯一の「革命」的危機は、1945年の敗戦で、現在の政体は、敗戦によってアメリカに押し付けられた暫定的な統治形態。しかるに、日本人が現在の政体に正当性があると信じようとすれば、「天」であるアメリカの世界戦略の歴史的正当性にも全幅の同意を示さなければならない。

 これが、第1講での、国粋主義者が親米であるという倒錯が起きる原因である。



 中国の王朝交代のパターンは、農村の疲弊、農民の流民化、各地で農民の叛乱の発生、カリスマ的な指導者の登場というものである。中国の政府首脳は常にこの「最悪のシナリオ」を恐れている。
 チャイナ・リスクのナンバーワンは、農村の崩壊である。



 中国、日本、統一朝鮮、台湾による儒教国連合への動きに対して、アメリカによる東アジア共同体の切り崩しを図る構図がある。「分断」の切り札が、日本であり、日本だけが脱落する可能性がある。



 首相の靖国参拝に、アメリカが「遺憾の意」を表明しないのは、参拝を止めると、中国、韓国と日本の間の歴史記述問題が解決してしまう。東アジアの友好的関係は、アメリカにとっては困るからである。



 小泉、安倍政権は、米国の意を受けた対中国敵視政策、アジアがひとつにならないような役割をこの国が担ったと捉えられる。
 福田政権の対中国のスタンスは未だ明確ではないが、父福田赳夫の東南アジア相互の外交の基本を宣言した「福田ドクトリン」を復活させるのか注目したい。
 
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『サッド ヴァケイション』

2007-10-08 17:40:35 | Weblog
 久しぶりに映画を観ました。狸小路のシアター・キノです。



 『サッド ヴァケイション』(青山真治 原作・脚本・監督 2007年 間宮運送組合作品)です。
 
 何か埃っぽい北九州が舞台、登場人物たちは間宮運送という小さな会社に繋がる。そこには、社会から逃れ、捨てられたような人たちが暮らしていた。

 異父兄弟、異母兄妹を引きずり、子どもの頃親に捨てられた主人公。間宮運送を舞台に、親が死に拾われた子ども、家出をして親を捨てる子ども。そして兄弟殺し。

 徹底的に「家族」が破壊される。

 一方、したたかな女たちがいる。不幸を引きずらず、その時、その時の境遇に合わせて、家族を再建する。息子が死んでも、刑務所に入っても、未来だけを見ている女たちがいる。生きていく強さを見せる女たち。

 浅野忠信は、幼き頃母に捨てられ、復讐を企てる危ない男を演じる。石田えりは何があってもビクともしない、全てを取り込んでいくその母を演じる。

 ほのぼのとした通俗的な恋愛物では無い。家族とか、血とか、友情とかは、徹底的に否定される。乾いた人間関係、生きていくとは、一人で生きていくとは、そのテーマの中では、結果的に女の強さ、ゆるぎなさに全てが包み込まれてしまう。

 今、家族、家族と言われているが、家族を一度解体して考えろというメッセージを発する映画である。

 資本主義経済が爛熟すると、物を売らんがために、家族をその対象とするより、個人個人が消費の対象となっていく。テレビ、電話、自動車・・一家に一台で良かった物が、個人所有になっている。

 これが、家族解体の物質的な基礎である。家族を取り巻く様々な事象が発生しているが、道徳とか倫理とかで復元できる問題ではないのだ。
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ご近所にも色々なことがあるものですね

2007-10-07 14:10:04 | Weblog
 

 今週末は営業なしの完全3連休です。昨日は、白石サイクリングロード&エリフィンロード片道24kmの晴走でした。秋の空気は、乾いていて体が動きます。今夜から、雨が予想されますので、雨読にします。



 昨夜は、町内会の役員会でした。日々何気なく暮らしていますが、考えてみると町内にも中々難しい問題があります。

 各戸の名前が書かれた町内会の案内表示板が、建てさせていただいている方が敷地に塀をまわす事になり一時撤去したのですが、案内板を再建すべきか、撤去すべきか、意見が分かれました。個人情報保護の観点からは、今はプライバシーをむやみに公開すべきではないという方と、外部から町内会の人に用事のある方には不便になるという方がいました。この問題は、学校などの連絡網についても同じようなことが、議論されていますね。

 もうひとつは、ゴミステーションのことですが、カラスなどによるゴミの飛散を考え衛生状態を考慮すると、網だけでなく屋根や蓋のついた工作物のステーションが必要という方と、大きな通りに面しているところで、立派なステーションにすると、かえって町内会以外の通りがかりの人が、収集日以外にゴミを捨てていくようになり、衛生状態が悪くなるとの問題が指摘されました。

 いずれも、社会のモラル崩壊の問題が底にあります。人間に対して、性悪説に立つか、性善説に立つかです。



 最近、ある方のHPにコメントしたのですが、
 今日、電車の中で、ふと思いました。人間の一生を季節にたとえると、生まれてから10歳代までの20年間が「春」、20歳代から40歳代までの30年間が「夏」、そして50歳代からは「秋」なのだろうかと。

 「秋」が一番いい季節なのでしょう。70歳代位までは「秋」にしたいものです。
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『街場の中国論』 その1

2007-10-05 22:57:48 | Weblog
 『街場の中国論』(内田樹著 ミシマ社 2007年刊)

「東京フライングキッズ」の内田先生の近作、売れています。神戸女学院大学での2005年の講義をまとめたものです。比較的、私の感性と合う著者なので、ゆっくり読んで見たいと思います。

 他国の国際戦略や国民性について、あまり大きな間違いをしないで考察する方法は、主観的なバイアスを排し、常識的に考えることだそうです。

第1講「チャイナ・リスク~誰が13億人を統治できるのか?」

 チャイナ・リスク(現在の中国が抱える国内的危機、中国がクラッシュすることで世界にもたらされる危機)として、以下の4点が指摘されている。

1.中国経済の失速~成長が鈍ると政体が危機に
 中国は、インビジブル・アセット(見えざる資産)である組織原理や職業倫理が未成熟

2.中産階級の動向が読めない~反日デモの中核を担うが、不満の分析が必要

3.中国政府のガバナンスの低下~苦しい立場に
 中国政府は、反日デモをコントロールできていないのだけれど、あたかもコントロールできているかのようにふるまっている。
 「中国政府は、国民を統治できていない」と言われるよりは、「政府は反日的である」と思われるほうがましと考えている。

4.技術力の貧しさ
 工業製品の流れは、商品開発、企画、研究の「川上」、材料調達、製品製造、組み立て、加工の「川中」、広告、マーケティング、流通の「川下」に区分されるが、中国経済は、あまり利益の出ない「川中」に集中している。

 これらのことから、著者は、その国のイデオロギーについて、あれこれ言う必要は無い、隣国が実効的に統治されることを希望する。
 日本にとって、最悪のシナリオは、反日イデオロギーに興奮した民衆の圧力に抗しきれず、世論に迎合することでしかガバナンスを維持することができなくなった中国政府が、危険な抗日強硬政策をとることだ。

 また、著者は、中国問題を考えるときに、彼我の抱え込んでいるリスクのスケールの差を勘定に入れる必要があると述べる。

 また、ナショナリストというのは、「自国の国益が損なわれることを喜ぶ」倒錯した傾向がある。というのは著者の珠玉の名言である。



 第10講までありますが、今キレキレの内田先生が、どんな発想で議論を進めるのか楽しみです。第2講は、中国の「脱亜入欧」~どうしてホワイトハウスは首相の靖国参拝を止めないのか?です。
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『遠野物語』

2007-10-03 20:33:46 | Weblog
 『口語訳 遠野物語』(柳田國男著 佐藤誠輔訳 河出書房新社 1992年)

 本書は、日本民俗学の父、柳田國男が1910年に出版した「遠野物語」を現代語に訳し、読みやすくしたものである。
 
 柳田國男と言えば、高校時代に、現代国語を担当していた国士舘大学出身の石倉先生を思い出す。当時の教科書に柳田國男の文章も掲載されていたが、いつも「柳田さんはねえ・・」と口癖のように言っていた。

 受験至上主義の高校では、現国も文学として味わうというより、試験の解法テクニックをどう身に着けるかの方が重要で、他の作者の文章も本田勝一を除いて記憶に残っていない。

 そんな中で、石倉先生の柳田に対する情熱は、感度の鈍った私達にも響く強いものがあった。

 先日、図書館で「遠野物語」を見つけ、昔を思い出しながら読んだ次第である。

 石倉先生は、どうしているのだろうか。「柳田さんはねえ・・」
 
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『定年後 豊かに生きるための知恵』

2007-10-02 20:55:36 | Weblog
 『定年後 豊かに生きるための知恵』(加藤仁著 岩波新書 2007年刊)

 団塊の世代が定年退職の年齢に達する。残る人生の生きがい探しに皆真剣です。そんな要望に応えてのノウハウ本です。岩波ともあろう書店が、あのアカデミックな権威主義をどこに忘れたのでしょうか。ベストセラーねらい、販売優先の本書です。

 しかし、なぜ50代前半の私が買ってしまったのだろうか。将来の不安と関心と興味がそうさせたのでしょうか。

 第2の人生の事例集である。全く別の世界を発見する者もいれば、それまでの蓄積の延長線を選択する者もいる。200例位紹介されていますが、おそらく、期待するような例はないでしょう。皆、たいして変わりません。健全すぎてアホらしくなります。結論は、人それぞれ、好きにすればいいのです。



 会社を取ったら何も残らない人は危機です。時間を潰すなどという考えのある人も絶望的です。休日が続けばすることが無いという人も可能性がありません。

 やることが、たくさんあって、時間がなくて、あれもこれもやりたいのに、と思っている人には、展望が開けます。定年が来たらなどと考えるのではなく、今からやればいいのです。

 後者の心構えで行きたいと思います。



 批判的に書きましたが、でも、一読を薦めます。面白い本です。

 
 
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『I LOVE 過激派』 

2007-10-01 20:23:35 | Weblog
 『I LOVE 過激派』(早見慶子著 彩流社 2007年刊)

 著者の早見慶子氏(おそらく本名ではないでしょう。)は、元共産主義者同盟戦旗派、活動歴は1980年代前半からで、年齢は40歳代半ば位か。

 この本を一言で評すると、とてもポップな過激派生活、無思想でも正義感と愛があれば「過激派」はつとまりますというもの。思い込んだら命がけというやつです。

 女は、と書けば女性蔑視になるが、この著者は、いわゆる子宮で考える人、組織に入る動機もあこがれの人がいたからとか、何かの判断基準もあの人がそう考えたしたからとか、かわいい年下がいたからとか、好き、嫌いの感情が優先して行動している人です。



 自らを「過激派」と称する「過激派」はいません。過激派なる言葉は、ロシア革命を担ったロシア社会民主党の多数派(ボルシェビキ)を当時日本では過激派と訳したことに始まります。しかし、現在のこの国では、公安のキャンペーンによって、反社会的な暴力によって社会の転覆を図る極悪非道の集団というイメージが作られています。しかるに、自ら過激派と自称することはありません。



 その過激派生活であるが、本書の中でアジトやオルグの様子が出てくるが、社会の変革を目的としている集団が、社会との接点が全く無いというもの全く矛盾した行動である。

 唯一、彼らの社会との接点は、学園や街頭でのオルグ活動、それだけでどうして社会の矛盾を感じ、社会に提起し、変革できるというのでしょうか。

 彼らの労働は、闘争資金を稼ぐための手段にすぎず、労働者の解放を唱えながら、職場では全く仮面を被り、職場内の労働者に対する影響力を持つ努力もしていない。

 彼らが持つエネルギーは組織の内側に向いていて、組織内の人間関係が生活の中心を占める。カルトでは無いが、蛸壺型の閉鎖集団。

 自分達だけが「正義」で、「悪」を倒さなければならない。現実を分析して、何が正義なのかを冷静に問うことも無く、左翼特有の主観と客観の転倒。


 

 
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