晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『共・有時試論』をもとに考える その2

2011-09-30 20:19:50 | Weblog

 所用で釧路へ。幣舞橋のたもと、北大通側を昔は「北橋詰」と言ったが、フィッシャーマンズワーフの向いの角地に「8月15日に開店」した喫茶店を発見。

 2階の窓からの眺めは橋の全景とその向こうに出世坂と花時計、いい場所を見つけた。

 

 

 

 共・有時試論をもとに考える その2

 

レッドリバー氏はところどころで共同性ついて言及している。

ある宗教団体の実践発表会に参加した(ことがある。)教師が荒れた学校を建て直したという実践報告を三つほど聞いた。そこにはパターンが存在した。自分以外のどの教師も手がつけられないくらいひどい生徒や保護者がおり、そこに自分が乗り込んで、相手の良いところを見つけて誉めたり、無条件に相手を信じていることを伝えたりすることによって、相互の間に信頼関係を作り上げ、最後は相手から感謝の言葉をもらうまでに正常化したという物語である。ここまででは、ただの個人的な自慢話に終ってしまうが、共通するのは、その教師が宗教団体の信者である先輩教師の指導を受けたからであり、そのような行動をとれたのは、その団体の教組の教えに拠ったからだというもの。

 

 大半が信者と思われる聴衆は、報告の節々で諸手を上げて共感の拍手、そこに宗教を核とした意識による共同体が成立していることを感じた。自ら選択した上で何か共通のものを信じて、そこに共同性が発生するとしたらそれも共同体と言って良いのだろうか。皆さん、幸せそうに見えたが、幸せといえば幸せなのだろう。

 

 

 大震災に際して、「日本人のアイデンティティーは我欲」といって批判された知事がいる。報道は少ないが、反原発・反核の運動が盛り上がりを示している。札幌でも福島、泊を繋ぐデモが行なわれている。運動自体は反原発という一致点で成立していると考えるが、参加者の意識の中に共同性は存在しているのだろうか。初めに、自分の健康、自分の家族の健康から発しているのではないか。視野の中に、福島の漁民、農民の暮らしは入っているのだろうか。まさに我欲に発する運動と言えるが、我欲の先に共同性が開ける方法はあるのだろうか。

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『僕たちは世界を変えることができない』

2011-09-26 17:41:14 | Weblog

『僕たちは世界を変えることができない』(深作健太監督 東映 2011年作品 札幌シネマフロンティア)

 

題名にも惹かれるが、見て損の無い映画。推薦、五つ星、感動、平日にも関わらずお客さんもたくさん入っていた。

 

 主人公は医大生、満ち足りているはずが何か物足りない日常、ある日郵便局の窓口で突然「カンボジアに小学校を建てよう!」のパンフに出会う。仲間を誘い150万円を作るため行動を開始。次々と困難に直面し挫けそうになる。

 

 1970年代、東映やくざ映画を実録タッチに作り変えた「仁義無き戦い」の監督深作欣二の子息、深作健太。私は親と同じ職業の二世というのはあまり好まないが、カエルの子はカエル、この映画の手法は今にあって斬新。中でも、カンボジア現地でのシーンは、向井理ら俳優人が台本に基づいた演出や演技ではなく、ひとりの人間として、地雷、HIV、ポルポトによる大虐殺、学校に行けない子どもたち、そして彼らを案内してくれたカンボジア人の本物のガイドがその自分の父が強制労働によって死に至らせられる場面を語るシーンでは、本当の現実と向き合った役者の感動が見るものに伝わる。

 

 サークルの方向性を巡った迫真の討論シーンも大島渚や高橋伴明らの1970年代映画を思い起こす。これらには、脚本のある映画(フィクション)の中でもあえてリアリズム(ドキュメンタリー)を追求する姿勢が共通している。

 

 

 この映画の挿入歌は、1980年代から活躍しているTHE BLUE HEARTSの「青空」(真島昌利作詞・作曲)

 

♪運転手さん そのバスに 僕も乗っけてくれないか 行き先はどこでもいい

こんなはずじゃなかっただろう? 

歴史が僕を問いつめる まぶしいほど青い空の真下で

 

 私の1970年代では、拓郎ですが

 

 ♪何かが欲しいオイラ それが何だかわからない だけど何かが足りないよ

 今の自分がおかしいよ 人間なんて ララー ラーララ ラーラ

 

 いつの時代でも若者の心情は不変、「心情溢れる軽薄さ」が貴重。

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『福島の原発事故をめぐって』

2011-09-18 17:38:25 | Weblog

『福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』(山本義隆著 みすず書房 2011年刊)

 

 これまで時局についての発言をほとんどしてこなかった著者が福島の原発事故を取り上げ論評を行なった。(参考までに山本義隆氏は、’70安保闘争における元東大全共闘議長、将来のノーベル賞候補といわれた俊英な物理学徒だったが、闘争の終焉以降駿台予備校の講師をしながら科学史を研究、近年は沈黙を破っ『磁力と重力の発見』『16世紀文化革命』などの著作を著した。)

 

 著者が「あとがき」で語っているように、本書には「特別にユニークなことが書かれているわけではありません」。3100ページほどにコンパクトにまとめられているが、第1章「日本における原発開発の深層底流」では、平和利用が軍事利用と表裏一体であり、この国は潜在的に核兵器保有の願望を持ち続けていること。しかるに、原発政策は外交・安全保障政策の面から周辺諸国の脅威になっていることを述べる。

 

 第2章「技術と労働の面から見て」では、高木仁三郎、吉岡斉、平井憲夫(元原発技術者、ガンで死去)などの業績をなぞり、技術の脆弱性、労働の非人間性を述べる。ここまでは、3.11以降に類書があまた出版されているが、特筆すべき内容は無い。福島原発の現状については私が追いかけている小出裕章氏の発言の方がわかりやすく捉えていると思う。

 

 第3章「科学技術幻想とその破綻」こそ、本書の、科学史家としての著者の真骨頂部分であるはずだった。著者は、現代の西欧近代文明一辺倒社会に対して、これまで『磁力と重力の発見』『16世紀文化革命』などの著作を通じて、イスラム社会における科学技術の発達史や16世紀における技術や経験重視の価値観への転換に光を当ててきた。

 

 15世紀以前には、技術は自然には到底及ばないと考えられていたのだが、17世紀頃からは、技術が自然の上位に立ったような観念が芽生えたという。なお、ここで技術を人間、自然を神と読み替えると面白い。

 

 そして3.11、著者は、「近代科学は、おのれの力を過信するとともに、自然に対する畏怖の念を忘れさっていた」という。何と後知恵で凡庸なコメントなのだろうか。さらに、「科学技術には人間に許された限界がある」、「私たちは古来、人類が有していた自然に対する畏れの感覚をもう一度とりもどすべきであろう。」と言い、3.11以降、著者の中に「神」が再来したことを表明している。

 

 山本義隆、私たち後に続く世代にとっては、絶対に人を裏切らない「義」の人としてカリスマ性を持っていた。やはり、時流に乗ったような発言は控えるべきだったのではないか。

 

 私は、安易に後知恵で語るものを信用しない。今回の事態を基に技術に関わる者は徹底的に考えるべきであろう。特に、遺伝子や臓器移植、脳科学、クローン技術などの生命科学、原子力、核融合などエネルギーなどの先端分野では、安易に「人間に許された限界」(倫理や神)を設けるのではなく、人間と自然をどう捉えるかという観点から思索し続けるべきであろう。

 

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『共・有時試論』をもとに考える

2011-09-12 21:29:00 | Weblog

まだ購入していませんが、この本を読みたいと思っています。地球温暖化二酸化炭素主犯説を否定しているそうです。温暖化対策が根底から崩れ落ちる質を持っていると良いのですが。(期待!)

 

 

 

 

当ブログとリンクしているレッドリバー氏が、本日まで11回にわたり、弁証法、自由、労働の3つのテーマについて共・有時試論を連載している。

 

①弁証法については、止揚のもとに行なう自己問答は、組織を解体させ自己を否定するベクトルを持つという。

 

②自由については、それが持つ他者への権力性について、相互の決まり事など一定の制約が必要という。

 

③労働については、近現代の労働が自然から隔絶されている、ベルトコンベア労働などは価値ある労働とは言えない。労働者国家たるソ連において、何事の解放もなされなかった、その思想には人間に対する根本的な欠陥があるという。

 

 ①は、この試論を貫く思想の核なので拙速なコメントは控えたい。

 ②私も自由についてこれまで考えてきたこともあり、権力性を孕むことについては同感である。

これまで、正義や自由を掲げた戦いによってどれほどの血が流れされたことか。

 自由という言葉から「権利」という言葉を連想する。権利ばかり主張せず義務を守れと言われる。私は、権利=義務表裏一体論ではなく、個人の権利はそれぞれ全面的に尊重されるべきであるが、そうすると権利と権利のぶつかり合いが生じ、そこに一定のルールが必要になる。そのルールを各個人は守るべきであると考える。

 

 ③は、歴史的発展過程のなかで労働を考える必要がある。歴史貫通的な労働のありようなのか、商品経済の中で、資本主義経済の中で、氏の言われるような労働の形態が存在しているのか。

 そこを捉えると、ソ連がどのような性格の国家だったのかの評価ができると考える。(つづく)

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『教育をめぐる虚構と真実』 その2

2011-09-06 20:43:01 | Weblog

『教育をめぐる虚構と真実』(神保哲生、宮台真司著 春秋社 2008年刊)

 

その2 誰も知らない教科書検定の正体(浪本勝年、神保哲生、宮台真司の対談)

 

 対談では、教科書検定の仕組みが説明され、実際の検定実務を行なっている文部科学省の教科書調査官のレベルが低いとか、他国の制度と比較してより望ましい制度などを議論している。特筆すべきは、この国で一年間に出版される書籍の全部数は、約72000万部、うち教科書は1900万部で15%を占め、300数十億円のマーケットということである。

 

 対談では触れられていないが、子どもの頃、教科書を販売している書店は釧路市内では毎年同じだったと思う。使う教科書の出版社もいつも同じだったと思う。単価の高くない書籍だから利幅は薄いのだろうが、堅い商売が成り立っているのだろう。

 

 これまでの教科書に関する議論は、検定制度を前提としたそれも社会科における歴史の記述内容を巡る物が中心であったが、それはそれで大変重要な論点を含んでいるが、私は、そもそも学校で検定教科書が無いと授業が成立しないのだろうか、教師が自分で子どもたちのために良かれと思う本を使って授業ができないのだろうかと問いたい。

 

戦前の国定教科書、戦後の検定制度は、ともに国家の要請による教育を前提としている。国家の関与によって、全国で標準的な教育を受けることができるというメリットもあるが、教師はマニュアル(学習指導要領)に従う個性なき教育ロボットにならなければならない。

 

「国民国家の黄昏」を言ってきた私は、あらゆる分野で出来る限り国家の役割を縮小、無力化し、国家無き社会を構想したいと思う。検定(国定)教科書を無くした場合は、教師の力量によって教育内容に格差が生じる可能性があるが、そのリスクは自らが負わなければならないと考える。中央集権を見直し分権化を進めることと同じくそこには自己責任が伴う。

 

例えば、家永三郎を使う教師、小林よしのりを使う教師がいても良いだろう。ただそこには学校や教師を選択できる制度も合わせて導入する必要もある。

 

現に私立学校は存在しているが、国家の庇護を取っ払った制度は、なんと厳しいものか。

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『教育をめぐる虚構と真実』 その1

2011-09-03 21:51:53 | Weblog

ようやく土曜日。紀伊国屋書店で本探しの後、イノダでケータイに案内のあった「ヒレポークコルドンブルー」を食す。ボリューム充分で美味。苦味のある独特のコーヒーで一服。

 

 

『教育をめぐる虚構と真実―教育をダメにするものー神保・宮台 激トーク・オン・デマンドⅥ』(神保哲生、宮台真司著 春秋社 2008年刊)

 

その1 いじめをなくす処方箋(内藤朝雄、神保哲生、宮台真司の対談)

 

 札幌市内でいじめが原因とされる中学生の痛ましい自殺がまた発生した。若い命が本当に惜しい。いじめは大変デリケートな問題なので慎重に議論するべきであると思うが、これまで様々な提案がありながらも解決できていない問題である。

 

 本書における対談は、従来からの言説と少し観点が違う。(以下、要約する。)

 

 いじめによる自殺の原因は、子どもたちが教室という共同体から逃げることができない、嫌なことがあっても再び教室に行かなければならない制度にある。諸外国における学校の形態を比べると、日本や韓国は共同体型、他は教習所型である。共同体主義のベタベタした距離感が問題である。

 

 学年別いじめ発生件数は、日本では中1、中2がピーク、中3で激減する。他国は、小5、小6がピーク、中学校で減少する。その要因は、日本では中学校に入ると制服の着用など共同体帰属意識を高めようとする方向に強制されるからである。他国は日本とは逆に共同体主義からの自由と自己責任を教えられる。中3で減るのは、自己に向き合わざるを得ない受験勉強の効用であり、中高一貫教育は高校入試が無くなる点では良くない。

 

 いじめの解決策としては、学校の内部に警察や司法が介入し、いじめた側を処罰すべきである。

 

 また、いじめやパワーハラスメントなどは、「言ったもの勝ち」であってはいけない。過剰な当事者主義(個人主観)は問題であり、共同主観によって判断されるべきである。(要約おわり)

 

 

 昨日までは、共同体のあり方の中に理想社会のイメージを持てないかと考えてきたが、いじめ問題からは、人間による共同体の難しさを感じる。人と人との距離感、共同体自体の開放性(閉鎖性)も課題である。

 

 警察や司法の介入による解決は、私自身には抵抗感がある。この対談の中で、それに抵抗感を持つのは、学校を権力からの聖域として捉えてきた左翼に共通する病理と批判されている。大学の自治とは質が違うということを認識しなくてはいけないのか。批判を承知で言うと、私の気分は、権力に魂を売り渡したくはないというものである。

 

 従来からの私の主張は、「渾身の一撃」論である。暴力絶対否定ではなく、暴力を行使する権利を留保するべきであると考える。死ぬ勇気があるなら、いじめた側を一発痛い目に合わせてやれ!と、もう二度といじめたくはないと言う位に。

 

 復讐か、権力による断罪か、いずれにしても教育的配慮という名でいじめた側を守りすぎているのではないか。

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『日本文化における時間と空間』 その2

2011-09-02 21:00:21 | Weblog

 

 どこで食べたか忘れてしまったハヤシライス、あわただしい日々で、記憶の整理が雑になっています。

 

 日曜日は営業ですが、台風が近づいています。

 

 

 

 

 

 加藤氏は、日本人の特徴として集団指向性をあげる。「個人の意見が集団の利益・目標・雰囲気(感情的傾斜)と矛盾するときには、原則として常に集団の主張を優先する態度である。」(P224)この指向性を有する組織を「ムラ」とすると、「たとえば交易において、ムラ人相手では等価交換、外人(ソトビト)相手ではその場の力関係となる。」(P225

 

また、加藤氏は別のところで、ムラの内では、「共同体規則というか、村特有の慣習的規約の網の目に閉じ込められ・・」「実物経済が全体として支配的」である。また、「村内には貨幣を媒介とする市場経済がない」という。(P154)村人どうしが売買でなく、贈答するという。(P180

 

このようなムラが、1945年直後には存在していたことを、経済学者の大塚久雄、きだみのるらが証言している。

 

これらのことから、こんなイメージが湧く。

 

共同体内のルールは、構成員全員による討議(直接民主主義)で作られる。共同体の代表やそれぞれの役割は、教室での掃除当番のように変わり番にする。そこにヒエラルキーや利権は存在しない。構成員同士は贈与を以って必要なものを手に入れる。共同体内に市場経済の存在する余地はない。

 

権力とは無縁な社会、貨幣が不要な社会のイメージである。

 

 

 

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