晴走雨読

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内田樹 『日本習合論』 その2  神仏習合 他者との共生 純化の危険性

2021-10-22 13:31:32 | Weblog

4年ぶりの総選挙。枝野に一言だけ忠告する。論破と説得は違うということだ。筋が通っていれば人々が納得すると思うな。あなたの語りは、ちっとも伝わってこない。2F氏の語りに学べ。マスコミに言いたい。事前世論調査及び投票終了と同時(20時)の選挙速報は全くもって興ざめで投票する気持ちを削ぐ。出口調査はやめましょう。

 

『日本習合論』(内田樹著 ミシマ社 2020年刊) その2 神仏習合 他者との共生 純化の危険性    

『日本習合論』の「習合」は、6世紀に仏教が伝来して以来1300年続いていた神仏の共生、神社の境内に寺が建っていたような「神仏習合」状態からきている。それが1868年に明治政府によって「神仏分離」令は発せられるや各地で寺院や仏像が取り壊される「廃仏毀釈」が現出したのである。

著者は、神仏分離すなわち国家による宗教の統制から「純化の危険性」を指摘する。「純化」と同様の言葉である原点回帰、純潔化、初期化などには「異物を排除して原初の清浄状態に戻せ」という考え方が内包されており、世界に存在している「浄化論」、例えば反ユダヤ主義、黄禍論、移民排斥、民族浄化、在日コリアンへのヘイトなどの思想に通底する危険な考え方である。

これらと対極にある「習合」の考え方は「他者との共生」である。著者は、排除しないこと、破壊しないこと、両立し難いものを無理やり両立させることの重要性を述べる。

現在行われている総選挙でも選択的夫婦別姓やLGBTへの対応が争点のひとつになっている。習合すなわち他者との共生とは、ジェンダー、セクシャリティ、ハンディキャップ、年齢や健康状態などといったひとりひとりが持っている多様性、もう少し広げると出自、階層、国籍、民族、言語、宗教など属性の違いを認め合い尊重しながらそれぞれが生きていくということである。多様性が認められる社会、個性が尊重される社会の構築を目指すべきである考え方に同意したい。

一方、保守派の考えは、天皇は男系男子、夫婦別姓を認めず、LGBTや同性婚に不寛容、民族や国家の「純化」にこだわっており、ある意味一貫していると思う。その背景には、自分は多数派に属しているというアイデンティティを持っていて、多数派として生きていく方が断然楽だからではないかと思う。これは様々なことが多数決で決まってきている多数決民主主義の弊害と考える。多数決と他者との共生は、両立し難いのだ。

「他者との共生」について、それではあなたはどうなのかと問われれば、言うは易く行うは難たしだ。僕のこれまでの具体的な場面での振る舞いで誉められることはひとつもないだろう。それは自分のなかで、消化しきれていない、克服できていないことがたくさんあるからだ。他者との共生はそう簡単な話ではない。

しかし、自分のことを棚に上げると、根源的にはもっと突き抜けた考え方が必要だ。民族や国民に限って考えるとこれらの概念にはそもそも明確な定義がない。自分や自分たちが他者との関係の中で、私は○○民族、僕は△△人と表明すればそうなるというだけのものである。国家や民族という幻想を取り払って、そういうもの無しにひとりの生身の人間として、他者を認識し他者との関係を築いていけないものだろうか。だが、多様性や個性を持つ他者を他者として意識してしまうこと自体が不自然な状態であり、まだまだ僕らは無意識の自然な振る舞いの次元から遠いところにいると思う。

 

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内田樹 『日本習合論』 その1 寄り添う 絆 ふれあい ワンチーム 和 一体感 

2021-10-13 16:28:22 | Weblog

スガからキシダに変わって人相がずっと良くなった。キシダは保守本流の宏池会を率いており、リベラルな政策展開を期待している向きも多いだろう。これを「キシダ幻想」と呼びたい。しかし、自民党内では力不足で言えないことばかりになるだろう。今思えばスガは、ポンコツ総理と言われながらも検察を使いながらアへの動きを一定程度牽制できていたと思う。キシダは、アへが放ったアマリら刺客たちに動きを封じられた卍固め状態になっている。

 

『日本習合論』(内田樹著 ミシマ社 2020年刊) その1 寄り添う 絆 ふれあい ワンチーム 和 一体感  

このブログは、雨読して「ああ、そういうことだったのだ!」と新たに知った事実を自分のための備忘録として掲載していることが多い。66歳になっても知らないだらけだ。知る喜びを感じなくなり知的な好奇心を失ったときはお終いと思っている。内田樹氏の著作は少し違っていて、日々どうもすっきりしないと感じていること、なかなか附に落ちないことをどのように捉えたらよいのか、考えるきっかけを与えてくれる。だから『東京ファイティングキッズ』以来、たのしく読んでいる著者だ。

本書でも2つの点で刺激を受けた。ひとつは、今の社会を「粘ついた共感」という視点から捉えていることである。もうひとつは、「純化」の危険性である。(次回で)

以下は、「粘ついた共感」から思いめぐらした僕の感想である。内田氏は、絆、ふれあい、ワンチーム、和、場の親密性、満場一致、忠誠心、一体感・・などの言葉が氾濫している今の日本は共感過剰社会だという。僕は、これらに「寄り添って」という言葉を付け加える。この言葉にはざわっとするような違和感をいつも覚える。どこかストンと来ないのはどうしてなのか。どこからともいえぬ得体の知れない自分に向かう圧力が気持ち悪い。そう感じてしまうのは僕がひねくれ過ぎているからなのだろうか。

若い頃の僕は、上司との酒席を避けると「おまえはつきあいが悪い」、「ドライだからな」と随分言われた。年齢を重ねてから、上司がなぜ酒席につきあわせようとするのかが少しわかるようになった。上司は孤独で不安なのだ。部下はまかせた仕事をちゃんとやってくれるのだろうか。部下が何を考え、自分をどう思っているのかがすごく気になるのだ。上司は部下の忠誠心を確かめたいのだ。僕は面従腹背が見え見えで酒席につきあった。僕は、今の若い人たちの会食は親しい友人とだけという気持を先取りしていたと自慢したい。昔の上司は「共感と理解の上に人間関係を基礎づけ」たかったのだ。

しかし今はマスコミが酷い。「粘ついた共感」社会を良しとして密な人間関係を称賛し強要する。災害が起きても行政の支援(公助)は直ぐには届きません。それまでは自分でなんとかできる(自助)ように備えてください。そして地域の住民同士が助け合ってなんとかしのいでください(共助)。そのために日頃から向こう三軒両隣と親密なお付き合いをしておきましょう。「粘ついた共感」社会を作ってください。僕らはそんなことをいちいち他者から指導されたくない。それは、親が子どもに友だちとなるべき人、なってはいけない人を指定しているようなものだ。共感や理解は自然に形成されるものでありどこからか言われてやることではない。

そんな中でも、コロナ禍がいい方向につながりそうである。リモートワークは会社の人間関係を変えるきっかけになると思う。これまでは毎日出社して担当ごとに机で島を作ってホーレンソー(報告、連絡、相談)、時には人間関係を円滑にするための雑談を交えながらチームで仕事をするスタイルがスタンダードだった。これが自宅又は会社以外の場所において一人で、必要な時以外はやりとりをしないで業務を遂行するようになった。「粘ついた共感」が排除され、それぞれ自分が今何をしなければならないのかがわかっているシステム、人の自由度が上がり能力の可動域が広がる働き方だ。それを社会の「成熟」と呼びたい。

 

 

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