晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

特定秘密保護法

2013-12-01 21:04:59 | Weblog

 友人の絵の中に描かれていた、痩せてあばら骨が浮き出た犬、そこに彼は自分の病巣を表現したのだろうか。

 

 当ブログとリンクしている愛犬日記で「特定秘密保護法」について述べられている。私は言論弾圧と言う観点からもちろん反対であるが、少し違った角度から考えてみたい。

 私は、最近どうも世の中で行われている各種の反対運動の質が劣化していて、また胡散臭くなっているのではないかと感じている。また、マスコミに至っては、自分たちの生命線が絶たれるような法案なのに危機感など全くなく、国民の皆様が大変なことになりますよといった他人事のような、アリバイ的な報道に終始している。かつての沖縄報道で毎日新聞が自社の西山記者を切り捨てた時点でマスコミは既に権力に屈服しているといえよう。道新も裏金報道で同じように道警に屈服した時点で言論機関として死んだといえよう。

 さらに、反対運動が法案の威力を増すと言う逆効果を招いていないかという懸念である。法律の作りは限定的であるが、「怖い」、「不安」と煽れば煽るほど、制定側の意図を超える効果をもたらすのではないか。

 反対を表明している人たちは、当然自分たちの方に正義があると考えているだろうが、本当にそうなのだろうか。私はこのブログで、左翼の病理を「自分たちだけが正しいという思い込み」と自己総括し続けている。反動的な自民党政権が強圧的な法律を制定しようとしているから反対すると言う論理には欠陥がある。ならば、万一自分たちが政権を担った場合は、ひとつの秘密も無い社会を築くと言い切れるか、その時どのような態度をとるのか。これは民主党政権を経験した国民からは厳しく問われる点であると考える。

 反対をしている組織や団体は自ら「特定秘密」を抱えていないという点も問われていると思う。この点でいえば、日共など自らの情報隠蔽体質を棚に上げて反対する資格は全くないと言えよう。未だに組織の中では「スパイ」「査問」という言葉が通用している。左翼はこれまでの歴史を総括する必要がある。

 もう少し求められる論理があると思う。今私たちは、国家という枠組みを前提とした場合、国際社会の中で、国家同士の関係で、全ての情報を公開しながら統治できるシステムの構想を持ち合わせているのか。それとは別に、私たちは、国家を前提としない、すなわち国家機密などは不用になる、ひとつの秘密も無い明け透けの社会を構想できるのだろうか。そこまで語らないと信用されない所まできている。

 

 

 

 

コメント (2)
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