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晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その5

2014-02-28 20:17:57 | Weblog

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その5   

 マルクスの分析は、第8章「労働日」に入る。

 第1節「労働日の限界」で、マルクスは、資本の本性について、(P340)「資本家としての彼は人間の姿をとった資本にすぎない。資本家の魂とは資本の魂である。ところが資本はたった一つの生の衝動しかもっていない。すなわち自分の価値を増殖し、剰余価値を作り出し、その不変部分である生産手段を用いできるだけ大量の剰余労働を吸いとろうとする衝動である。資本は死せる労働であり、それは吸血鬼のように生きた労働の血を吸いとることによって生きる。吸いとる量が多ければ多いほどそれだけ多く生きのびる。」と資本は吸血鬼だと言う。

 こうも言う。(P342)「君(資本家)は模範的市民かもしれない。ひょっとすると動物虐待撤廃協会の会員かもしれないし、それどころか聖人君主のほまれ高い人物かもしれない。しかい、君(資本家)が僕(労働者)に対して代表しているものには胸の鼓動がない。鼓動しているように見えるのは僕自身の心臓の鼓動なのだ。」

 第3節「搾取に対する法的制限を欠くイギリスの産業諸部門」では、ある工場の状態を表現して(P361)「ダンテがこの工場を目の当たりにすれば、自分のもっとも残忍な地獄絵もかなわないと思うだろう。」と言う。

 第4節「昼間労働と夜間労働。交替制」では、(P395)「将来の人類の衰弱や、結局はとどめようのない人口減少が見込まれるからという理由で資本が実際の運動を抑制するというのは、いつか地球が太陽のなかに落下する可能性があるという理由でそうするというのとどっこいどっこいの話である。いかなる株式投資においても雷はいつか落ちるにちがいないということは全員が知っている。しかし、その全員が、雷は自分自身が黄金の雨をたっぷり受けて安全な場所に逃げおおせた後で隣の人の頭上に落下するだろうと思っている。洪水は我れ亡きあとに来たれ!これがあらゆる資本家と資本家国家の合言葉である。」

 

 1980年代までの一億総中流と言われた時代には、マルクスが描く資本による搾取ということが実感としてはっきりとわかる例が少なくなっていたのだろうが、今再び、ブラック企業、非正規雇用などにおいて搾取が実感される時代になった。私自身も、会社の経費を節減し、会社を存続させ、自分の給料を確保するため、非正規雇用化を進める又は下請けに発注するような事をやってきた。それが、自分たちの世代だけが良くて、自分たちの子どもの世代に対して就職の妨げとなっていることを知りながらである。

 マルクスの時代のように人格として資本家というのが見えればわかりやすいが、今の会社という組織は巧妙になっていて、私たち自らが自らのために働いたり、スキルを磨いたりするという意識を自然に持たされている。私たちは、企画力、折衝力、営業力、経営力、統率力、○○力・・・を身に着けようと必死に努力している。

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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その4  

2014-02-22 19:07:45 | Weblog

 午前中は、町内会で除雪ボランティア、午後から週末ラン、気温は-3℃位だが、日差しが強くなったと感じました。北海道にも着実に春が近づいています。ソチ五輪はほとんど見ていません。あの絶叫調のアナウンスが鼻につきます。TV、新聞で、どれだけの時間と紙面が五輪に割かれていることか。その分、他の報道が減っています。

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その4  

 マルクスの分析は、第5章「労働過程と価値増殖過程」、第6章「不変資本と可変資本」、第7章「剰余価値率」と続く。

 この章の第3節『シーニョアの「最後の一時間」』。19世紀マルクスの時代、イギリスでは18歳未満の者は、1日に11時間半以上働かせてはならないとう法律があった。(現在の日本の労働基準法では8時間労働)

 それを、1日10時間労働をという要求運動に対して、オックスフォード大学のシーニョア教授が「最後の一時間」説を唱えて反対した。それは、資本家の利潤は労働者の労働時間の最後の1時間から得られるのだから、もし10時間労働にしたら資本家の利益が無くなってしまうという珍説であった。

 この節の最後にマルクスは言う。(P332)「わざわいにみちた『最後の一時間』について、諸君は、千年王国信者が世界の終末について広めた以上の空想物語をくりひろげているが、これはまったくのナンセンスである。最後の一時間が失われたところで、諸君の『純利得』が失われることもなければ、諸君に使われている少年少女の『魂の純潔』が失われることもけっしてないだろう。」

 『魂の純潔』について、(P333)(註32a)「作業場の暖かく純粋な道徳的雰囲気の中に閉じこめておかずに、冷酷で猥雑な下界に『一時間』早く放りだすようなことをすれば、彼らの魂の平安がその怠惰と悪徳のために奪われることになる」との註書きがある。

 『魂の純潔』から働くということをどう捉えるかを考えてみたい。私の労働観を振り返ると年齢とともに変わったと思う。学校を卒業したが中々職にありつけなかった期間は、社会から自分が否定されているような、社会に自分は必要とされていないような、社会の中に自分の居所が無いような感じを持った。就職活動に苦労している今の若者と同じだと思う。

 就職したが、必ずしも自分の希望した職業で無いと感じていた頃(今の会社です。)は、「ご飯を食べるために」手段としての労働と割り切って働いた。他人から後ろ指を刺されない程度に、つきあいも最小限にしていた。

 そのうち、会社の中で人間関係ができたり、ランニングウェアの胸に会社の名前を入れるようになったり、年齢とともに職業を変える可能性が無くなっていくのとともに、労働観に変化が生じてきた。組織として働き、人に使われたり、人を使ったり、たまに実績を評価されたりすると、仕事を通じてそれなりの自己実現を感じた。ただ、今でも不本意な仕事を命じられたりすると「ご飯を食べるため」には仕方がないと自分を都合よく合理化している。

 もし、個人として自営業的な仕事をしていたら、働いた分が自分に返ってくるのだから、労働時間を特に意識しないで一日中働いているだろうなどと、今とは違った労働観を持ったのではないかと考える。

 

 

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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その3

2014-02-16 15:37:00 | Weblog

 久しぶりに営業の入らなかった週末、昨日は東急デパート、地下食料品売り場のイートイン「天一」、今日の午後はランニング、風が強かったが気温-1℃は暖かく感じる。昨夜からの積雪が5cmほどあり足元がザックザックでエネルギーを使う。足首を鍛えるには有効だと思うが、中々前に進まない。

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その3

 マルクスの分析は、第2章「交換過程」、第3章「貨幣または商品流通」、第4章「貨幣の資本への変容」へと続く。

 この章では、剰余価値(新たに生み出される価値)の発生について説明するが、剰余価値は流通過程から発生し得ないが、同時に流通過程から発生しなければならないという矛盾にぶつかる。(P247)「サナギからチョウへの脱皮は流通圏のなかで生ずべきものであるのと同時に、流通圏のなかで生ずべきものともいえない、これが問題の条件である。」そこでマルクスは以降の論理の飛躍を表す有名な言葉を発する。(P247)「ここがロードス、さあ跳びたまえ!」と。

 次に、特殊な商品、その商品の消費が価値を生み出す、それは「労働力」という商品である。流通過程では、労働力の購買者(資本家)と販売者(労働者)は自由意思で労働契約を結ぶため「自由」が、互いに商品所有者として等価物交換をするので「平等」が、自分のものを自由に処分するのだから「財産」が、それぞれ保障されている。「自由、平等、(私有)財産」は、市民社会で保障されるべき価値である。

 

(P261)「しかし、流通圏を立ち去るとなると、われらが舞台俳優たちの顔つきも変わってくるようである。かつての貨幣所有者は資本家として一歩前を歩み、他方、労働力の所持者は彼の労働者としてそのあとに続く。前者はもったいぶった笑みを浮かべ仕事に血道を上げ、後者はおずおずと抵抗しながらついていく。まるで身を粉にしながら働いたあげく、場でなめし皮屋を待つほかない家畜のように。」という記述で、第4章「貨幣の資本への変容」が結ばれる。

 さて、いよいよマルクスの本領発揮ということになる。搾取(搾り取られる)される労働者という存在が明らかになる。

 私たちは毎日会社で働いているが、血も涙もない資本家がいて、弱い立場の労働者を雇用し、搾取しているという場面を感じることがあるだろうか。

 私の祖父は、釧路で小さな呉服店を家族だけで営んでいた。「他人(ひと)を雇わないと商売は大きくならない。でも、私は他人に任せることができないんだ。」とよく言っていた。ここからわかることは、従業員には給料以上に働いてもらい、その分を投資に回さないと経営を拡大できない、搾取しないと商売を大きくできないということである。

 私の子どもの頃は、1960年代の地方都市で営んでいた小さな商売、魚屋、八百屋、肉屋、果物屋、お菓子屋、風呂屋、床屋・・、必要な商品やサービスをお互いで売買し合いながら、利益を確保し生計を維持していた。しかし、そこに、大きな資本の大型店などが進出してくると、競争に太刀打ちできず店を畳む人が続出した。だが、大型店における労働は、非正規雇用、低賃金労働が常態化している。

 

 

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『ラッシュ / プライドと友情』

2014-02-11 21:18:35 | Weblog

 日曜日は、-7℃、紀元節の今日は-2℃の中でランニング、今日が随分暖かく感じたのは、錯覚だと思います。Tシャツにウインドブレーカーといった春秋と変わらない格好だが、寒くてもどっぷり汗をかくのは同じ。

 

 『ラッシュ/プライドと友情』(ロン・ハワード監督)

 座席が良いので新千歳空港内ジャガポックルシアター、観客7名、1976年のF1レース、ジェームス・ハントとニキ・ラウダがチャンピオン争いをしていた。2人の戦いと友情を描く、完全娯楽作品。

 当時の私は、自動車レースが好きで、最終戦、雨の富士スピードウェイからのTV中継を見た。この映画のラストシーン、ラウダの途中棄権で、ハントが年間王者になったことを記憶している。

 1970年代のレースは、今のように安全対策がされておらず、危険性が高く、F1でも年間2,3人、国内レースでも頻繁に死亡事故があった。マシンは家内工業的でメカニックによる手作り感を持ち、ドライバーも腕っぷしと度胸、そしてセッティング能力がレースに出ていた。今から思うと人間臭い時代だったといえよう。逆に言うと、今は事故で亡くなることもなく、ドラーバーの能力よりもマシンの性能で最初から結果が決まっているようなレースになってしまっている。

 僕は、生沢徹というドライバーのファンだった。国内レースの草分け時代からトップを走り、その後単身欧州でF3、F2レースを転戦。VANを身に着け、長髪でカッコよく、モデル出身の奥さんも美人。ただ、彼のライバルは不幸にも事故で亡くなっていく。鈴鹿サーキットで浮谷東次郎、ヤマハテストコースで福澤幸男(福澤諭吉のひ孫、小川知子の恋人)、鈴鹿サーキットで川合稔(妻は、Oh!モーレツとCMに出ていた小川ローザの恋人)、富士スピードウェイで風戸裕、中野雅晴、鈴木誠一、高橋徹、・・

 レース映画も随分と観た。「グラン・プリ」、スティーブ・マックイーンの「栄光のル・マン」、ポール・ニューマンの「レーサー」、「ポール・ポジション」、邦画では、石原裕次郎の「栄光への5000キロ」などを思い出した。

 中高校生のままだったら爆走派になったのではないかと思うが、公道での運転がおとなしいのは自分でも不思議。

 

 

 

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『橋爪大三郎のマルクス講義』

2014-02-06 20:50:55 | Weblog

 『橋爪大三郎のマルクス講義―現代を読み解く『資本論』』(橋爪大三郎著 飢餓陣営叢書7 言視舎 2014年刊)   

 私は、「『資本論』の中におけるマルクスの心情」その2(2014.1.29)で、「私たちは、今まで「社会は悪い」という前提で物事を語っていなかっただろうか。」と書いた。

 本書で、橋爪氏は、(P78引用)「ヘーゲルに従ってマルクスは議論を組み立てている。ヘーゲルは弁証法を用いる。弁証法は、現状は間違っているので、理想の状態に向かって変化していくと考える。」という。しかし、「アダム・スミスは、近代の市場メカニズムを完全だと思っている。」と、両社は現状を正反対に捉えている。市場に「神の見えざる手」があると信頼を寄せるスミスと、国家が市場の矛盾を解消するために出現しなければならないとする論理は全く前提が異なっている。

 (P82)さらに、「キリスト教は、今ある世界は不完全だと考えている。人間はその本質において、罪深いと考えている。人間は、自分で自分を救うことができない。神が救ってくれる。」という論理で、弁証法の認識に近い。しかし、「日本人は、自分で自分を救うことができると思っている。この社会は基本的に正しい。足りないのは努力である。」という感覚になる。日本人にキリスト教(弁証法)が広まらない理由である。

 

(P83)マルクス主義は、「この社会は間違っている。プロレタリア(一般大衆)は自分で自分を解放できない。」のだから、一般大衆の力には信頼を置いていない。解放は、知識人、インテリ、階級意識に目覚めた前衛組織、すなわち共産党(指導部)が超越的な存在、イコール神となって成し遂げられるのである。ちなみに吉本隆明は、「大衆の原像」を主張し、それはあくまで大衆に信を置くということであり、共産党には希望を持たないということである。

 革命とキリスト教の終末はよく似ている。(P84)「共産党員が天使の軍勢に当たり、革命の日が裁きの日、共産主義社会が神の国にあたる。」

 私が、「社会は悪い」という前提で物事を考えているということは、間違いなく左翼に親和性を持っていることの証明であるが、「そんなに悪くないよ」と考えている人が多いこの国では、そう簡単には多数派になることはないと考える。

 

 前回の安倍内閣は、お友達人事で躓いたが、今回は、前回の反省からか、日銀、日本版国家安全情報局、そして犬HKと、お友達ではなく同志人事を進めているようだが、そろそろ躓く予感がする。揃いも揃って、絶望的に救いようがない発言を連発している。ただ、それを射抜くようなキレのある言説を私たちの方が持ち合わせていない。

 

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『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』

2014-02-02 17:17:08 | Weblog

 2月に入り随分と日が長くなったと感じます。16時半位までなら外を走れる明るさです。昨日は午後、本日は午前中に営業があり、今日は15時過ぎからランニング開始。1時間くらいは走ることができると思っていたら、思わぬアクシデント。初めに右足、暫らくして左足のふくらはぎにかなりの痛みが発生し走れなくなり、歩くのもチョットやばい感じ。痙攣ではなく肉離れの様な経験したことのない場所と痛み。トボトボと帰宅して、消炎剤を塗布したが原因不明。

 

 『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』(加藤典洋、高橋源一郎著 岩波書店2013刊)

 昨年の5月の終わり頃、発売後まもなくして本書を一度読んだが再読。吉本の本を一冊も刊行したことのない天下の岩波書店が、吉本が亡くなって一年、雑誌の追悼特集などの売れ行きに便乗しやがって、チョット汚いじゃないかと思いながら読んだ。東京大学、朝日新聞、岩波書店といえば、この国のアカデミズムの象徴的存在であり、戦後民主主義の担い手だったのだろう。岩波から出版できたことのない吉本は、戦後民主主義に対する違和を発し続けたため、最後までアカデミズムから認知されることの無かった。

 その吉本自身も、「今では、岩波書店は普通の出版社ですよ、いい仕事と言えば岩波文庫くらいですかね」とどこかで語っていた。どこかに意識するところはあったのであろう。来月に吉本隆明全集が刊行開始されるが、ちなみに晶文社からである。

 さて、『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』とは一体何なのだろうか。本書において、それは「思考の態度」ということが示される。そのひとつは世界と自分の取り結び方である。世界と自分の関係を、「国」とか「日本」などを媒介させずに直結する。世界情勢と自分の日々の社会生活の実感が結びついていなければ社会の総体ビジョンは捉えられない。自分の場所から考えることの重要性である。それは、吉本ら戦中世代の国家に対する「もう懲り懲りだ」といった身に染み付いた感覚なのだろう。

 もう一つは、先端と始源の二方向性ということである。未来の何かに向かっていることを追及する場合(先端)、その原型であるような「段階」(始源)を掘り下げることの重要性である。例えば、天皇制を考えた場合、その歴史的な始源を掘り下げて捉え返す。そこから、将来の天皇制の歴史的な展望を推し量ることができるという思考の態度である。それは、ただ単純に批判や否定を叫ぶ態度への戒めということである。

 制度や社会などを変えるということは容易なことではないというのが、私たちが日々の生活の経験から得ている実感である。主観的な願望としては、こう変えれば良いのにとは考えることができても、その根深さに圧倒されながら、困難さを感じる日々である。ただ、そこに変革の可能性を見出すヒントは、始源を振り返ることだと思う。

 言説の他者への説得力は、そこに自分との向き合いがあるかどうかである。知識の切り売りでは人の心を掴むことはできない。おのれ自身がどう考えているのか、どの様に考えてきたのかが存在しない言説は価値を持たないと自戒を込めて考える。

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