8月の最終日曜日は例年真夏並みの暑さになる。毎年この日に北海道マラソンが開催される。ランナーの1年は、この日に始まり、この日に終っていた。今年の私は、午後から営業。 スランプになる時がある。何事にも集中できない状態だ。本を読んでも字面を追うだけ、文章もまとまりを欠く。どこにも行く気がしなくなり、これといって何かをするわけでなく。 昨日の暑さの中で20数km走を強行、多少熱中症気味になったが、身体を徹底的にいじめることで、何か壁を超えたような気持ちが芽生えた。
『日本文化における時間と空間』(加藤周一著 岩波書店 2007年刊)
本書の帯の『「今=ここ」に生きる日本 その本質を衝く渾身の書き下ろし』とあり、「今=ここ」のフレーズに魅かれ購入。
なぜ、「今=ここ」なのか。私は、浜田寿美男氏(発達心理学)の「人は<ここの今>を身体にそなわった手持ちの力を使って生きる、その結果として新しい力が伸びてくる、発達とは目標ではなく結果である」という発達論を支持してきたからである。
私は、これまで加藤周一氏を知らない。書店には全集を含め多くの著作が並んでいることから多くの人から支持されているのだろうと思っている。
加藤氏の「今=ここ」は、浜田氏のそれとは視点が全く違う。氏は氏の持つ膨大な知識を動員して論ずる。
ユダヤ教、古代ギリシャ、古代中国、仏教などと『古事記』の時間概念を比較し、また日本語の特徴、物語、抒情詩、連歌、俳句、随筆、音楽、身体表現、絵画などを素材として時間論を展開し、「過去は水に流す」「明日は明日の風が吹く」に見られるように結局は日本の文化の特質は「今」にあるという。
ヨーロッパ文明、中国文明、東アジアなどと前世神話の空間認識を比較し、さらに茶室、建築物、絵画などから空間論を展開する。「鬼は外、福は内」に象徴化される日本文化の特質を「ここ」と導出する。
加藤氏の議論には、文化的な知識を持ち合わせていない私からでも、そこには結論ありきで、「今=ここ」論に都合の良い資料を繋ぎ合わせたようなこじ付けと危うさが漂っている。
多くの日本人論や日本文化論に共通するのは、この国の特殊性や閉鎖性の強調である。ただ、加藤氏の議論は、他の言説にありがちな日本優越論に堕していないところが救いである。
なお、私の追及する国民国家の黄昏の先には、国家が不用となった社会、人間の共同性に依拠した互助社会を創造しなければならないと考えるが、本書での加藤氏の文化論は、共同体や共同性を論じる場合に有効と考える。(つづく)