晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『グリーン・エコノミー』

2011-06-25 21:30:59 | Weblog

『グリーン・エコノミー 脱原発と温暖化対策の経済学』(吉田文和著 中公新書 2011年刊)

 

 廃棄しようとしているアナログテレビが地震予知をしてくれます。共同アンテナから受信しているのですが、VHFチャンネルの①HBC,③NHK,⑤STV,⑫NHK教育で、地震の68時間ほど前に画面にザラザラやブレが出て非常に映りが悪くなります。そうすると必ず地震が発生します。このところの地震の前にこの現象が発生しています。

 

 週末ランは欠かしていませんが、月刊走行距離はあまり伸びません。本日は、午後からランニングで書店へ。

 

 『原発のウソ』(小出裕章著 扶桑新書)や『日本中枢の崩壊』(古賀茂明著 講談社)が売れていました。『水の透視画法』(辺見庸著 共同通信社)も読みたいなあと思ったのですが、縁あって吉田文和氏の『グリーン・エコノミー』にしました。

 

 先日、飯田哲也氏を取り上げた時、政局の見方を示しましたが、菅首相は脱原発政策を推進すべく電力会社や経済産業省の官僚と闘っているようにも見えますが、何せ説明がヘタです。脱原発の体系的な説明ができていません。きちんと理解ができていないのかもしれません。大スポンサーである電力資本に媚びを売っているマスコミも完全に悪意から報道していますが、菅も政局に利用しているようにも見えてしまいます。

 

 

 さて、吉田氏の著書は、エネルギー・電力政策を体系的に明確に示しています。菅が本気で脱原発を実行しようとするなら、孫正義を担ぎ出すのも良いと思いますが、こういう方をブレーンにして真摯に勉強すべきです。

 

 以下、著者の見直しの方向性をメモします。

 

①原発の新増設を止め、非常用電源を含めた原発の安全総点検、地震と津波対策を行い、老朽化した原子炉の停止、廃止をすすめ、核燃料サイクルを凍結する。

②これまでの原子力行政機構を見直し、持続可能なエネルギー政策に関する機関を設置する。

③経済産業省、資源エネルギー庁とは独立した原子力安全規制委員会を創設する。

④電力自由化、発電送電部門の分離、発電事業への新規参入を促進、全国の送電網の抜本的強化と公的管理をすすめる。

⑤ベースとなる発電を、原子力からLNG、LPG、ガスタービン発電、石炭ガス化複合発電など環境負荷の少ない化石燃料へ切り替える。

⑥太陽光、風力、バイオマス、地熱、小水力など再生可能エネルギーの利用や地域分散型エネルギーの拡大をすすめる。全量固定価格買取制度(FIT)の運用を行なう。

⑦公共交通機関へのシフトをすすめ、自動車による石油消費を抑制する。

⑧省エネルギーと化石燃料節約を促進するため、地球温暖化対策税、国内排出量取引制度の実施をすすめる。

 

 

 菅が本気なら、自分の権限で緊急総理記者会見を開いて、脱原発の考え方を国民にきちんと説明すべきです。政治家を含め、自分は抵抗勢力と今どう闘っているのか、浜岡原発停止要請後の「圧力」を語るべきです。語らずして燃え尽きても何の意味もありません。世論の80%は原発反対だが、菅を支持していません。そこまで尽くした後の解散・総選挙なら「脱原発」を「郵政民営化」のように争点にした選挙になると思います。

 

 

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『国家とはなにか』 その1

2011-06-24 21:12:29 | Weblog

 

私が求めているのは、「私たちは国民国家の黄昏を前に佇んでいる」という仮説を証明することである。国民国家という共同幻想から眼を覚まそうではないか。 

しかるに、読み方としては、「国民国家」という単語に敏感に反応しながらということになる。 

 

 

『国家とはなにか』(萱野稔人著 以文社 2005年刊)をノオトする。

 

 著者は、「国家とはなにか。国家がなぜ存在しているのか。そもそも国家が存在しているのはどういうことなのか。」と問い、「国家はひとつの運動である、暴力にかかわる運動である。」との仮説を提起する。

 

 以下、本書の構成を示す。

 国家の存在はどこに見いだされるべきか。(第1章)

 国家の考察においてなにが問題とされなくてはならないのか。(第2章)

 国家をなりたたせるファクターとは何であり、それはどのような機能や効果をもっているのか。(第3章)

 国家をどのように思考すべきか。(第4章)

 主権とはなにか、それはどのように成立してきたのか。(第5章)

 国民国家といわれる国家形態はいかなるプロセスのもとで形成されてきたのか。(第6章)

 国家と資本主義の関係はどのように考えられるべきか。(第7章)

 

 第一章 国家の概念規定

 マックス・ウェーバーは、国家をある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である、と定義する。

 

国民国家においては、国民という人間共同体と国家は一致しているが、歴史的に見ればそれは自明なものではない。

国民国家は、国家として措定された住民全体が国家の権力源泉とみなされるような政治体制、そこでは、国民から授権されたものとして、国家は暴力を行使する正当性をもつ。(国民国家においては、国家と住民のあいだにある暴力の格差はあたかも存在しないかのように表象される。)

 

国家は暴力の実践に先だっては存在しない。暴力が組織化され、集団的に行使された帰結として国家は存在している。

 

第二章 暴力の組織化

なぜ国家を含めた政治団体は物理的暴力を手段として用いるのか。

それは、ある地域における秩序や支配を保証するためである。

 

秩序の保証の条件は、相手よりも強大な暴力を行使できるということ。

支配(命令に対して服従が得られる可能性)の保証は、服従を得られる可能性を暴力によって強化すること。暴力が支配の道具になるためには、暴力と機能的に区別される権力と結びつかなくてはならない。(権力は他者に、ある行為をなすように、あるいはその行為のあり方を規定するように作用する。なお、暴力は、相手の身体にそなわっている力能を物理的に上まわる力によって、その身体を特定の状態(監禁、苦痛、死・・)に置くように作用する。)

 

暴力による脅しとそれに対する服従への同意こそが国家の存立基盤になっている。あらゆる国家の存立基盤となっているのは、暴力の優位性を確保するための、暴力の組織化の運動である。

 

国民国家とは、暴力の組織化が、国民として措定された住民全体へと拡張された国家形態にほかならない。だからこそ、そこでは規律と同胞愛が、直接には面識の無い住民全体に課せられるのである。似ているという感覚が同胞意識を育て、その内側と外側で、暴力が知覚されるあり方や暴力が処理される仕方を差異化する。

 

 

*「暴力装置でもある自衛隊」、あとで「実力組織」と言い換えた仙石前官房長官の発言は、本質のど真ん中を突いていて誤りではないが、政治的発言としては不適切だったのであろう。国家論を勉強し過ぎたのでは?

 

 

 

 

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『ニッポンの書評』

2011-06-22 20:34:17 | Weblog

 

『ニッポンの書評』(豊崎由美著 光文社新書 2011年刊)

 

 関空からの帰路、機内で3分の2程読んだままになっていたのを読了。

 

 私は、「北海道新聞」の他、土、日のみ「日本経済新聞」を購読している。日経は、土曜日の別刷りと日曜日の書評欄を読むため。その他、ネット上で朝日新聞や紀伊国屋書店、Amazonカスタマーレビューなどを読んだりしている。また、児玉清氏も司会をしていたNHK―BSの「週刊ブックレビュー」も時々視聴する。

 

 では、はたして書評を読んで本の購入を決めているだろうか。否である。なぜなら、書評の対象になる本と自分の興味範囲はあまり重ならないからである。しかし、書評そのものが短文ながら独立した読み物として面白い時もある。

 

 本を選ぶのは、書店で手にとってパラパラめくってというのが一番多いと思う。しかし、書店ではいつも限られたコーナーにしか行っていないような気もする。ジャンルが偏る原因だ。

 

 その人の話を聞いて、その人の著作を読みたくなったというのも随分多いパターンだ。話し振りや身体全体から発する雰囲気の良い人っているのだ。逆に、活字の上では知っていて興味を持っていたが、実際の人物を見て、何か肌が合わないと感じる人物もいる。

 

 あとは知人からの紹介、読んだ本の中で引用されている本、月刊誌論文の作者の著作・・まさに一期一会。まさに新たな出会いの連続である。

 

 

 学校では授業前の朝読書なる取り組みがされているという。目的は、読書習慣を身に付けるためで、それにより文章の読解力や表現力が伸びるというのだ。半ば強制的な取り組みで、それを嫌な子どもにとっては苦痛以外の何ものでもなく、読書嫌いを作り出しているように感じる。

 

 私は、自分の中で本を読む必要がなければ、無理に読む必要は全くないと思っている。本を読んだからといって、それが現在学力とされている能力の向上には直結していないと思う。本は読みたくなったら読めばいいのである。人生の一時期、無性に読みたくなる時が来る。その時に習慣化すればよいのではないか。

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そろそろ地デジに対応しないと・・・

2011-06-19 17:08:56 | Weblog

  2011.7.24まであと1ヶ月、地球温暖化(私は、二酸化炭素の増加が温暖化の原因では無く、温暖化の結果が二酸化炭素の増加だと思っています。)対策、省エネルギーなどと国は政策に掲げていますが、まだ見ることのできるテレビを廃棄物化するデジタル化政策との矛盾に未だ納得していません。東日本大震災で、アナログ波停止が延期になるのではないかと思っていましたが、地域限定に終わりました。

 

 久しぶりに大型電気店に入りました。店員さんに現状と希望を説明しました。

 

 テレビは32型位で、内蔵でも別売りでも良いが録画をしたい。今あるVHSビデオは引き続き観たい。古いテレビの内、1台は廃棄、もう1台はチューナーを付けて見続けたい。

 集合住宅の影なので、共同視聴アンテナから有線で配信を受けており、それは既にデジタル化対応になっている。BSは、個別アンテナでNHKだけを観ている。デジタル化後は、NHKの他、民放のBSデジタル放送も観たい。

 

 超概算で15万円位と見積もってもらいましたが、店員さんの説明が要領を得ません。若い人のようにはいかないこちらの理解力不足もあるのでしょうが、現状の機種や設備によって違うので一概にこうすれば良いでしょうとは言えないという説明です。では、もっとわからない私はどうしたらよいのでしょうか。

 

 良く見るとその店員さんはそこの電気店の方ではないようでした。OCNのジャンパーを着ていて、通信の契約の方が本業なのかも知れません。店舗の中にはたくさんの店員さんがいましたし、私の話を横で聞いていた方もいましたが、特に応援のアドバイスもありません。電気店のプロパー社員は非常に少ないのでしょう。

 

 結局、本日のところは、冷やかしのような状態で終了しました。

 

 近所には大型量販店がありません。いわゆる街の電気屋さんがあります。一度聞いたら買わないわけには行かなくなるような気もします。値段も割高でしょう。でも、下見をして取り付けまでお願いできるような気もします。

 

 今日は、何か高齢者になったような気分です。段々年を取るとあれやこれやの説明を理解するのが面倒になってきます。街の電気屋さんが量販店に対抗して生き残るのは、やさしい説明とお客さんからの信頼だと思います。毎日使う冷蔵庫や洗濯機が壊れた場合、離れた大型量販店に行けない、買っても配達までは時間がかかる場合などの迅速な対応ができるのであれば、それも売りになります。

 

 未だ、1ヶ月くらいあるから慌てる必要も無いと自分に言い聞かせています。

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1989年 マイバックページ

2011-06-17 22:21:56 | Weblog

 『同時代を撃つ 情報ウォッチングPART3』(立花隆著 講談社 1990年刊)

 

 今年の3月末で定年退職をした会社の先輩がから戴いた本である。本書は、立花隆氏が「週刊現代」に連載したコラム「情報ウォッチング」の1989年分をまとめたものである。なぜ、20年も前の本をくれたのか、理由もわからなく、何となく積読山に置きっ放しだったのだが、数日前から一気読み。

 

 「マイバックページ」とは言わないが、1989年という年の持つ大きな意味が理解できたように感じた。激動の時代が終った1970年代中ほど以降、私は社会に閉塞感を感じていた。今日は昨日の続き、今日のような明日がまたやってくる、同じような日常の繰り返しの中で、時間だけは動いていたのだろう。

 

 しかし、長いスパンで振り返ってみると、歴史には画期となる年がある。この国だけでなく世界にとって、今年2011年も3.11以前、以後で風景が変わってしまった画期として記憶されることになろう。2001.9.11も画期であったと思う。

 

 そのように見ると、1989年も大きな画期の年であった。世界の動きをたどると、1.18ポーランド「連帯」の合法化、2.11ハンガリー複数政党化、3.21ソ連ゴルバチョフ書記長一方的軍縮へ、6.4天安門事件、9.12ポーランドで非共産党政権誕生、10.18東独、10.23ハンガリー、12.16ルーマニア、12.29チェコ、12.2ブッシュ、ゴルバチョフのマルタ島会談、ほぼ1年間で東欧社会主義が崩壊へ。

 

世界の動きがダイナミックだったのに比べ、この国の動きは極めてドメスティックであったことがわかる。1.7昭和から平成へ。4.1消費税3%開始、リクルート事件、11.20総評から連合へ。

 

 

同じような毎日を暮らしているようだが、良く覚えている一日というものがある。1989.1.7は、その1日である。小渕官房長官が「平成」と書いた紙を見せた瞬間は、上司の家で新年会の真っ最中であった。朝、天皇が亡くなったというニュースが飛び込んできたのだが、せっかく前日から用意をして下さったのにキャンセルは気の毒ということで、昼日中から厳かに宴会を強行していたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど』 その2

2011-06-13 18:36:24 | Weblog

 

『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど シリーズ14歳の世渡り術』(萱野稔人著 河出書房新社 2010年刊)その2(2011.6.1当ブログの続き)

 

 *以下で本書の続きをノオト的にまとめる。

 

第4章 国家と暴力の切れない関係

 著者は、ここで国家の本質を暴く。

 

 国家は、暴力(軍隊、警察)のうえに成り立ち、社会における唯一合法的な暴力を独占する。

 

 国家は、合法、違法の範囲を確定し判断しながら、違法行為を暴力(物理的実力行使)によって取り締まり、それによって社会の中に権利関係(合法的な行為の可能性の関係)を決定する。

 

第5章 国家はどうやって形成されてきたのか?

 暴力を独占した近代主権国家が誕生したのは400500年前のこと。17世紀から18世紀に論じられた社会契約説は、自然状態で人々が持っていた<暴力への権利>が国家に委譲されていくという国家の成立過程を論理的に説明した。

 

 この国では、豊臣秀吉が行なった刀狩(<暴力への権利>の規制)によって、武士の身分と百姓の身分を区別することで、近代における<暴力への権利>の独占を準備した。またそれは、銃器の伝来によってもたらされた軍事上の変化によって可能となった。

 

 すなわち、私たちは自らの意志によって国家を設立したのではなく、テクノロジーの発達によっていやおうなく国家のある社会へと突入した。このことから、私たちは自由意志によって国家を作ったり無くしたりすることはできないのではないかという問題が提起される。言い換えると、「国家の廃絶」が私たちの意思にはよらないということを示している。

 

第6章            暴力をカネにする

 服従の反対給付は保護であるということは支配を考える上で重要な要素である。ヤクザと国家の違いは、国家だけが合法的だということである。それは、民衆の合意や公共性とは無関係である。

 

 暴力は権力である。富をめぐって暴力で争うことが国家の基底にある。

 

第7章        暴力とどう付き合うか

 例え、国家がなくなっても暴力の問題はなくならない。暴力への対処は、以下の三つの選択肢しかない。①合法的な暴力を独占する国家によって暴力に対処する。②合法性はもっていないがその地域を実効的に支配する暴力組織に守ってもらうことで暴力に対処する。③自分たちで暴力を組織し行使することによって暴力に対処する。

 

 国家の存在意義は、暴力が力の論理(②と③)以外のやり方(法によるコントロール)で制御される可能性が開かれたところにある。(①)

 

 暴力を道徳的に論じても始まらない。暴力は私たちにとって親密でかつ危険な生の条件である。その条件にどう向き合うのか。生き様が問われている。

 

 

*私の問題意識「私たちは今国民国家の黄昏に立ち会っている」ということを論理付けるために必要な「国家とは何か」という問いへの答えが少し明らかになった。

さらに、国家の廃絶は、私たちの意思を超えるということも著者によって提起された。

 引き続き、『国家とはなにか』(萱野稔人著 以文社 2005年刊)を参考に考えてみたい。

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飯田哲也 その2

2011-06-12 10:09:55 | Weblog

 2011.3.11福島第1原発事故を契機に、日章旗に変えて旭日旗をこの国の国旗にするのはどうでしょうか? この国から世界に向けての発信です!

 

 

 飯田氏の発言からいくつか拾いたい。

 

 今回の事故原因のひとつは、これまで原子力に対する異論が徹底的に排除されてきた歴史がある。いわゆる原子力村である。電力会社、通産省、学者、マスコミなどで原子力に異議を唱えることは、全ての関係性から排除されることを意味していた。

 

 そこには、5つの「ない」が存在する。現実を把握していない、論理的でない、科学的でない、経済合理的でない、規範的でないの5つである。

 

 組織で上層部になるほど、無能で臆病になっていく。逆に言えば、異議を唱える気骨のある人物は組織で出世しないということ。中身が無くなっていくに従って権威主義にすがる。(思考停止親父の集団)

 

 しかし、展望もある。先ずは圧倒的な世論の力。保安院や東電の説明を信用している人はいない。マスコミも異論を取り上げるようになっている。書店には原発関連コーナーが出来ている。

 

 

 昨日、菅首相が退陣表明後初めて被災地を訪問して、「決然と生きる 菅直人」とメッセージを書いたと報じられている。菅の脱原発というスタンスは、マスコミに黙殺されているのかどうかはわからないが、巧く伝わっていない。菅は首相の立場にいるのだから緊急記者会見でも何でもやって、原子力政策が崖っぷちに立たされている事を国民に語らなければならない。また、現在の事態を招いたのは、自民党政権時代の政策によったものだということも遠慮なく語るべきである。何を遠慮しているのか、どうせ退陣するのなら思い切った事を語れば良いと思う。

 

 私は、原子力政策の揺れ戻しが画策されているという視点から現在の政局を注視していきたい。

 

 簡単なことを専門性の装いをまとうことで、素人の口出しを許さないような保安院、東電の説明。「比較的」「現在のところ」など、曖昧な修飾語を付けて、事態の真の姿を隠蔽する説明。国民は見破っており騙されないと思う。

 

 思考停止親父の集団のくだりは、他人事ではなく結構インパクトのある言葉として響いた。

 

 

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飯田哲也 その1

2011-06-11 09:47:57 | Weblog

 困った時の神頼み、神国ニッポン?

 

飯田哲也(環境エネルギー政策研究所所長)     2011.6.10

 

 6th Series Springフォーラムin札幌時計台は、『パラダイムの転換―閉塞を嘆くばかりでは何も変わらない』とスローガンを掲げているが、今の情況は閉塞どころか3.11でこの国の体制に大きな風穴が開いている。そもそも主宰する山口二郎氏の情況認識は誤っている。

 

 ゲストの飯田哲也氏は、脱原発、自然エネルギーへの転換を主張しており、今最も旬な論客である。(7月号『世界』は氏を巻頭論文に起用)

 

 道新は、6月6日朝刊で、「被災地視察し2次補正 首相、成立まで続投の意向」と見出しを打ち、5日の山口氏と菅首相の会談内容を伝えている。

 

 

 新聞では報道されていないが、山口氏は、この会談において、菅首相が浜岡原発の運転停止要請を行なった後、猛烈な政治的圧力を受けていると語ったこと、その例として、福島第1原発事故の直後首相の指示で海水注入停止をしたというのは、安倍晋三が自分のブログにそのデマ情報を掲載したのが発端でそれを谷垣が使ったのが真実。のちに注入は継続されていたという事実が明らかになっている。これは、デマ情報による政治的謀略である、と明かした。

 

 もうひとつ、菅首相は、脱原発は社会運動のテーマと語ったという。要するに、政治的な決断だけでは力が足りないので、国民運動が必要という意味らしい。

 

 

 山口氏の分析では、現在の政局が混迷して見えるのは、国民の70%が賛成した浜岡原発停止以降、原発推進派と脱原発派のせめぎ合いが激しくなり、それが背景にあるという。

 

原発推進派の策動は、例えば、仙石氏は、以前から原発輸出に熱心な政治家であったが、彼の浜岡停止とそれ以外の原発は止めないという切り離し発言、原発を止めると電力が不足するという国民向けの恫喝、週刊誌ポストを使った自然エネルギー嘘キャンペーンなどに見られるという。

 

それが政局に反映し、脱原発を掲げる(?)菅を降ろそう、そして原発推進派による大連立構想という流れなのだそうだ。

 

私は、現在の政局を見るうえでこれは貴重な観点と思う。

 

大震災を経験してもなお原発を推進するというのは、国民感情とは全く乖離している。しかし、電力資本とそれに寄生する官僚、研究者、政治家、そして電力労連(民主党の支持基盤)の巻き返しが始まっているのだ。

 

 ただ、山口氏や飯田氏の分析にはこの国の政治に大きな影響力を持っている米国の意向が考慮されていないことが欠落していると思う。原発技術は40数年の歴史があるにもかかわらず、現在に至ってもGEやウェスティングハウスといった米国資本に支配されている。

 

 飯田氏の提唱する自然エネルギーへの転換技術は、それが国産技術なら残念ながら米国の圧力でそれほど拡大できないであろう。米国資本から日本市場を見た場合、原発を売り続けるか、それともこれからは原発廃棄技術を売るか、それとも自然エネルギーを売り込むか、そのどちらでも良いからである。

 

 

 

 

 

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ザ・ニュースペーパー 2011春 札幌公演

2011-06-07 19:04:39 | Weblog

 彦根キャッスルストーリートです。歴史的な街並みを再現しています。

 『ザ・ニュースペーパー 2011春 札幌公演』

 2011.3.11東日本大震災と福島第1原発ネタ一色に加え、前日の政局ネタ、菅が辞めるといったり、辞めないと言ったり、鳩山のマヌケぶりなどを面白おかしく題材にしていた。

 新鮮なネタが売り物なので、一晩で、台本のほとんどを差し替えたのであろう。台詞をとちるやら忘れるやら、普通の芝居ならお客から罵声が飛んでも不思議ではないできなのだが、そこはN・P、即興性が持ち味、アドリブで巧く誤魔化していた。

 芝居は笑いながら観ていたが、震災から2ヶ月余りが経過し、本当は今何が起きているのか。誰かが知っていて、それを隠しているのならまだマシだが、それは誰にもわからないのではないか。

 漠然とした不安と不気味さだけが漂っている。

 

 

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第31回千歳JAL国際マラソン

2011-06-05 20:26:30 | Weblog

 第31回千歳JAL国際マラソン、ハーフマラソンをかなりダメージを負いましたが何とか完走しました。

 思い起こせば、19年前の1992年、第12回日航千歳マラソンは、その前のランニング・オン・サッポロに次ぐ、2回目のマラソン参加でした。

 高校の同級生から青梅マラソンを走ったという便りをもらい、何となく自分でも一度くらいはフルマラソンを完走してみたいなあと思ったのが始まりでした。

 それから、20年も走っています。その友だちと今日も一緒に走りました。まさか、50歳を過ぎても走っているとは夢にも思わずといったところです。否、直ぐ60歳も目前になってきました。

 しかし、身体は正直なもので、エンジンもサスペンションもかなり傷んできているようで、何とか動いているというレベルです。

 この20年間、私にとって走るということは、何だったのでしょうか。走れるという自信、誇り、体力で若いものに負けたくない、粘り強さの自己確認、純粋な愉しみ・・でしょうか。走る人というイメージも定着してしまいました。

 大分しんどくなってきていますが、もう少し悪あがき的にがんばってみようと思っています。

 時計を気にすることなく・・・

 

 

 

 

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『石狩川』

2011-06-03 18:31:52 | Weblog

 『石狩川』(本庄陸男著 新日本出版社 2011年 復刊)

 本庄陸男は、1905年当別町に生まれる。官軍に降伏後、開拓民として石狩原野トウベツに移住した伊達藩の小藩の家老が主人公、明治初年を舞台とした歴史大河小説の構想だったが、本庄は1934年に本書を出版後、2ヶ月で病死。

 『石狩川』は、私の前に立ちはだかっていた2冊のうちの1冊。この歳になってようやく読んだ。30年ほど前に今の会社に入った頃、組織の中で生きることに全く無自覚であった私に薦めてくれる人がいた。

 今も組織に対して、それほど自覚的では無いが、今回復刊を機に読み通すことができたが、もうこの会社での時間はそれほど長くは残っていない。

 もう1冊はロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』、小学校高学年の頃薦められ読むが、途中で挫折、当時の私には読みこなすにはかなり無理があったのではないかと思う。その後、10年近く読書挫折トラウマに陥り、その間のほとんど読書体験が無い。40年程前の壁を次に越えようと思う。

 

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『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど』 その1

2011-06-01 20:39:03 | Weblog

『暴力はいけないことだと誰もがいうけれど シリーズ14歳の世渡り術』(萱野稔人著 河出書房新社 2010年刊)

 

 表題からもわかるが、本書はいわゆる常識を超えた興味深い提起を含んでいる。以下、簡単に論旨をまとめた。

 

第1章 暴力は善いものなのか、悪いものなのか?

 暴力は「善いもの」でもなく、「悪いもの」でもない。学校で教えられる「暴力=悪」という図式を捨てよう。人間の存在自体が暴力のうえに成り立っている。この世界には、暴力によってしか解決できないことがある。これらを前提にしないと、暴力について思考することができない。

 

第2章 「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに誰も答えられないわけ

 「死刑」は、場合によっては人を殺してもいいと認めている。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、決定的な答えは無い。例えば、人を殺したら悲しむ人がいるからと答える。→悲しむ人がいなければいいのか。→悲しむ人がいることのどこが悪いのか(人を悲しませるために殺すのだから)という反論が成立する。言葉は、道徳を究極的に正当化できるようにはできていない。

 

第3章 カントの定言命法と暴力の問題

 道徳の基礎は、「~せよ」「~するな」、すなわち「ダメなものはダメ」と命じる「定言命法」にある。例えば、「人を殺してはいけない」は「定言命法」である。反対に、道徳の基礎に、「仮に~になりたくなかったら~せよ」という仮定のもとで成り立つ「仮言命法」には無い。従って、道徳にはその理由の根拠が無い。

 

 カントは、他人に危害や損害を与えたものは、それと同等の不利益を与えられることによって処罰されなければならない、という「同等性の原理(同害応報の原理)」により死刑を肯定した。社会秩序の維持、犯罪の抑止、遺族の復讐などのためといった手段にしない。(定言命法として)

 

 しかし、「人を殺してはいけない」と死刑を肯定する二つの定言命法の間に矛盾が存在する。結局、道徳は時と場合に左右され、究極的な根拠が無い。仮言命法としてしか成り立たない。

 

 最初に戻って、「いかなる場合でも暴力はよくない」という立場は道徳的には立派なようでいて、存在論的にはまちがっている。そもそも私たちの存在が暴力のうえに成り立っているという事実がある。

 

 

 *本書は、以下の展開で政治の次元に入っていく。ただ、14歳にとってはかなり難解な書物に思われる。中学校での道徳教育がどのような内容で行なわれているのかはわからないが、こういう本をテキストに授業が行なわれると哲学や論理学の基礎も学べ、自分の頭で考える方法が身に付くのではないか。

 

 *社会の劣化が問題にされ、道徳教育の必要性が叫ばれるが、哲学的思考を伴わない道徳教育は、単なる常識教育といえよう。交通ルールを教えるような次元で道徳を教えてほしくないと思う。

 

 

 

 

 

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