晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

福祉哲学 その2

2008-01-30 21:11:37 | Weblog
 「たてなおしの福祉哲学―哲学的知恵を実践的提言にー」(徳永哲也著 晃洋書房 2007年刊)

 第2回 著者の叙述から。

 福祉には人間論が欠けているのではないか。という疑念がもたげてくる。

 例えば、高齢社会について、長寿社会は「長きを寿ぐ」社会、長生きを喜ばしく受け止める社会であるはずが、高齢者は、「対策」の対象とされ、「お荷物」扱いされている。

 障害者については、バリアフリーや障害者の雇用などは進みつつあるが、障害者の心の充足度や自己実現の実感につながっていない。

 生活保護や雇用・労災保険の制度化と運用については、財政問題もあり、審査が厳しくなる方向にあり、ウェルフェア・スティグマ(弱者の烙印)を押されたような精神的ダメージを受たり、ウェルフェア・フロード(ただ乗り、不正受給)といった問題が発生している。人間の心性の根本から考えるに到っていない。
 
 福祉は、弱者救済という発想からの脱却が必要である。可能性としては、みんなが障害者・生活困窮者の予備軍であり、「みんなの問題」として共有する想像力が必要である。

 カネに頼らない福祉づくりが必要である。カネに頼らないところで工夫できる福祉づくり、カネが全てではない社会づくりは、先人の知恵と今の技術を使えばできる。


 
 私は、資本主義社会を前提とする限り、人間論的な福祉には限界があると考える。この社会の本質として、企業も人間も競走社会の中でその生産性が問われる。一定の社会貢献を認めるにしても企業は営利追及が必要である。これらのことは、人間の意識を基底部から縛る。
 
 しかし、別の社会を空想してばかりで、何もしないわけにもいかないのだろう。何かが少しだけでも良くなりそうならば、前に進むしかないのでしょう。




 最近のニュースを見ていての疑問

 ①国際ハンドボール協会とアジアハンドボール協会の見解が異なっている中で、日韓戦を強行したが、日本が敗戦した途端に、「未だ世界選手権がある」ということを言い出し始めた。

 ②中国のギョーザに農薬、大量加工している製品なのに、なぜ10人だけが中毒になったのか。製造段階での事故では無い可能性があるのではないか。中国製品にダメージ。

 ①も②も、排外主義の匂いがする。




 週末、仕事の後、何とか体育館で短時間のランニング&ウェイトトレーニング、最近肩に違和感、これっていわゆる50肩ってやつかな。かなり痛い。

 暖かいグァムでキャンプを張っているコンサドーレの選手がうらやましいです。


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福祉哲学 その1

2008-01-28 20:44:49 | Weblog
 「たてなおしの福祉哲学―哲学的知恵を実践的提言にー」(徳永哲也著 晃洋書房 2007年刊)

 アテネ書房で偶然出会いました。「福祉哲学」という言葉に何か魅かれるものを感じました。あまり知名度のない出版社ですが、いい本だと思います。未だ、1月ですが、今年度のベスト3に入るのではないかと思います。



 著者は、「福祉には哲学が無い」という。人の幸せのあり方を根本から考えるような、じっくりと人間を考える余裕が無い福祉の現状を「哲学の欠如」と捉えています。



 著者の問題意識に富んだ叙述の中から以下に要約する。

セーフティネットづくりは、福祉政策の柱だが、二重の意味がある。一つは、生活弱者への保障、不遇に見舞われた人を奈落の底まで落ちないようにする「庶民の安全網」、もう一つは、体制側にとっての現状保障、不平を抱く者に反乱まで起こさせないようにする「現支配体制の安全弁」。

 福祉は、今曲がり角にある。経済が曲がり角にあり、「バラマキ福祉」はもうできない。福祉社会をつくる核となるべきコミュニティが崩壊している。

意識の面では、「差別はいけない」というが、どこか差をつけることでアイデンティティを守るという奇妙な心性が私たちにある。「福祉の心」は社会に育っているが、どこかに「弱者へのほどこし」意識が残っている。

 臓器移植や遺伝子診断も手放しで喜べない本質的な問題を内在している。



 私は、福祉を職業として志している方たちに共通する人間的なやさしさの心根を持ち合わせてはいないが、現状は決してそれに報いるような待遇を得ているとはいえない実態も知っています。例えば、コムスン!

 先日、建設業などに従事していて冬季に仕事がない、いわゆる季節労働者の通年雇用対策として、一定の研修を修了後、介護職場へ誘導するというニュースが伝えられていたが、一面的に評価していいのかと疑問に感じました。

 そこには、介護労働の専門性も問われています。

 
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「ツチヤ教授の哲学講義」

2008-01-26 19:58:41 | Weblog
 「ツチヤ教授の哲学講義」(土屋賢二著 岩波書店 2005年刊)

 人気のある哲学者が書いた、売れている哲学書ということで、読んでみました。11日間の講義録、話し言葉で書いてあるのですごく読みやすかった。しかし、全く面白くない、というより自分の感性に響かなかった。

 この国の学者は明治以降近代化の中で、西欧からの知識の輸入代理店をやっているだけなのだろうか。この著書の結論は、ツチヤ教授が、ウィトゲンシュタインの思想を紹介しているだけ。

 哲学は何を解明するものなのか。と問い、考え方には二つあって、哲学は感覚を超えたところにある形而上学的真理を解明するもの、もうひとつは、哲学的問題に関して理解を深めることで、そのためには、言葉の働きを理解する必要があるというもの。

 著者は、後者の立場をとり、「いかに生きるべきか」といった哲学的問題が無意味ということを明らかにするのが哲学の仕事という。

 何というニヒリズム、哲学的な問題の解消の方法としては最悪ではないか。こんな害毒を持った著作を、天下の岩波書店がよく出版したものだ。今後、ツチヤ教授の著作を読むことはないだろう。

 

 
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ユゴ 大統領有故

2008-01-25 21:09:12 | Weblog
 「ユゴ 大統領有故」(監督イム・サンス 2005年韓国作品) スガイシネマコンプレックス札幌劇場にて

 1979年10月29日、韓国大統領パク・チョンヒ(朴正熙)が中央情報部(KCIA)のキム・ジェギュ(金載圭)部長に暗殺された事件を描いた作品。

 大統領側近の間での権力争い、長期政権の腐敗、組織の硬直化などが描かれ、そしてある料亭での事件に。

 この映画は、大統領の暗殺の瞬間を中心に構成されているが、それに到る韓国社会の情況をもう少し説明すべきである。

 1961年に軍事クーデターで政権を奪った朴朴正熙時代の韓国は、現在とは全く異なる社会で、戒厳令、夜間外出禁止令・・軍事独裁体制だったことは、当時、「世界」に連載されていた「韓国からの通信」(T・K生)などにより少しずつではあるが、外部に伝わってきていた。丁度今の北朝鮮情報のように。

 映画では、載圭KCIA部長に暗殺実行の理由を「民主主義のために」と語らせているが、彼の行動が今日の韓国社会への捨石になったという意味を持たせたかったのだろうか。

 しかし、当時のKCIAこそ、1973年、後に大統領になった野党党首キムデジュン(金大中)を日本から拉致した事件に関与したとされ、民主主義から最も遠い組織ではなかったか。

 曲がりなりにも、韓国社会が民主主義的と思えるようになったのは、1990年代以降、ごく最近のことである。否、実際には最悪にして最良の制度と言われるように民主主義の定義すら現在でも確定していないが。

 この映画、ひとつのストーリーの前段と後段が省略されたようなもので、どこに制作の意図があるのか良くわからない作品である。

 

 
 

 

 

 
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もっとしたたかに、日本共産党

2008-01-22 20:29:26 | Weblog
 日本共産党(以下、日共とする。)は、2007年9月の中央委員会総会で、次の総選挙から、すべての小選挙区に候補を擁立するのではなく、その小選挙区での比例区の得票率が8%以上の選挙区にだけ擁立する方針を決定した。
この背景には、得票率が10%を割ると供託金が没収され、そのことが日共の財政悪化の原因となっていることが背景にあるとされる。

 私は、この方針は日共の自滅につながると考える。闘わずして、敗れたりである。候補者がいなくなった場合、これまでの支持者の票は、どこへ流れるのであろうか。小選挙区と比例区の投票行動はある程度連動するものと思われ、小選挙区で投票しなかった人が比例区で日共に投票するとは思えない。

 このことから、従来の日共票は、他党の草刈場と化すであろう。日共は、どのような選挙運動を考えているのだろうか。従来は、勝ち目も無いのに、候補を立て、その結果、野党の票を分断して与党の当選に寄与しているという批判を受けていたが、今回は何と180度の転換である。

 私の根本は、選挙で世の中が変わるわけがない、という考えであるが、そして日共の歴史や路線に違和を持つ者ではあるが、現在の左翼崩壊の情況にあっては、日共及びその周辺には、憲法第9条を死守する考え方を持った方や、虐げられた者の視点を失っていない方など、良質で極めて真面目な方々が存在することも知っており、この現実を踏まえない泡沫政党への解党路線に異を唱えたい。

 日共は、候補者を擁立しない場合、少なくても他党候補者との間で、政策協定を結ぶ努力をするべきである。護憲でも、第9条堅守。社会民主党との間でも、民主党、否自民党の候補とでもいい、一致点を探せ。タダ売りはするな、今持っている力を高値で売るべきである。その候補が、当選した後、疑わしい行動を取った場合、抑止力にできる。

 全て一致などというきれい事を言っている場合ではない。もっとしたたかに、もっとずるく立ち回れ。その点は、ナンミョーホーレンゲー教の方がずっと上手いぞ。



 世界同時恐慌が始まっている。資本主義が目の前で音を立てて崩れ行く時に、「展望」を示すのが前衛党の使命ではなかったか。

 資本主義と社会主義の負け比べ競争の中で、一足先に社会主義はぐらついたが、資本主義はグローバリゼーション化し、その限界を見せている今こそだ。
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コンサドーレ札幌キックオフ2008

2008-01-20 21:51:15 | Weblog
 ここ数年よりは参加者が多かったような気がします。さすが、J1チームといったところでしょうか。「コンサドーレ札幌キックオフ2008」が札幌ドームで開催されました。

 チームをJ1仕様に変えるため、戦力外通告を受けた選手、新たに期待されて迎えられた選手、実力の世界は厳しいですね。

 今日のイベントでは、新背番号が発表され、また新しいオフィシャルパートナーにニトリが加わり、ユニフォームの胸のロゴは、「白い恋人」から「ニトリ」に変わりました。

 明日からのグアムキャンプでチーム内でポジション争いが始まり、3月8日の初戦鹿島アントラーズ戦までには、大きく変貌を遂げたチームになっていることでしょう。また、3月15日の札幌ドームでのホーム初戦は、横浜マリノスを迎えることになります。札幌育ちの山瀬選手も出場してくれるでしょうから、今から楽しみです。

 2008年のみどころ
①J1の最大も魅力は、相手チームに日本代表など有名な実力のある選手がいて、そのプレーが実際に見れる。

②チームの実力は、資金力で決まると言われている(三浦監督も言っている)が、資金力がJ1で最下位のコンサドーレが、智将三浦のもと、どのような戦いをするか。

③昨年の堅守速攻サッカーが、J1の舞台ででどのような戦略を持って変貌するか。外国人選手がチームにフィットするか、若手選手(藤田、石井、西、岡本など)がどれほど伸びるか。

④1年間の目標をどのあたりに置いて、ライバルとなるチームはどのようなチームなのか。千葉、大分、大宮、神戸、FC東京、京都あたりが当面のライバルか。

 練習で絞れた体で、泥臭いサッカーを見せてほしいと思います。
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「京都の平熱」 その3

2008-01-18 20:32:07 | Weblog
 「京都の平熱 哲学者の都市案内」(鷲田清一著)から、子育てについて。

 著書からの引用は『 』内

 『「教育」だとか「人づくり」「次世代育成」などと、人はいう。「育てる」というこの他動詞の言葉が好きではない。自分自身ををもてあまし、扱いあぐねている大人に、「育てる」というえらそうな物言いが本当にできるのか、と。「青少年の育成」とうことを口に泡して語るごとに、大人たちは実は、自分が内に抱え込んだ渇きやもがき、あがきを隠しているのではないか、と。』



 親、教師、上司、人材育成業・・は、子どもを、児童・生徒を、部下を、社員を・・育てるという意識を持っている。上から目線でものを言う人たちである。それほどのものだろうかという自戒が薄れていくとともに、彼らへの違和が生まれる。


 
 『「育てる」より、「育つ」という自動詞の方が抵抗が少ない。』『子どもが自然に育つ、勝手に育つというのが、一番いい子育て、教育のあり方ではないかと思う。』『「自然に育つ」というのは、無視する、放置しておくということではない。子どもが勝手に育つような「場」がしっかりあるということである。』



 「育つ」という自ら持っている力を信頼せず、「過剰」な関与、関心が「育つ」ことを阻害する。しからば、ここで言う「場」とは、いかなることであろうか。



 『よその子どもを見て見ぬふりをする大人たちが、かつての地域にはたくさんいた。今は、ちゃんと見ないで、見たようなことを言う人が多すぎる。』『凶悪事件があると「安全」に過剰なまでに気を遣い、「監視」を一層厳重にする。そして「育て」の場所はますます閉鎖されていく。』



 ここまでくると、「健全育成」なる言葉も、いかがわしく胡散臭いものになってくる。



 夜の営業や会社の少し遅い新年会で、4日連続練習をしなかった。早くも新年の公約を破ってしまった。「膏薬も3日貼れば効かなくなる」か。

 昨夜は、新年会の後、久々のカラオケへ。吉田拓郎の回復を願い、「春だったね」「ああ青春」「祭りの後」を唄う。いつもと同じワンパターンでレパートリーは広がらずです。元気になってくれ!



 



 
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シューズの修理

2008-01-14 17:30:02 | Weblog
 土曜日のランニング中、いつもと違いカーブの踏ん張りが効かない感じがしていたのですが、原因はなんとシューズの底がはがれていたのです。屋内だけに使用していたため、靴底の減りも少なかったのですが、5,6年前のニューバランスのモデルですが、ついに悲鳴をあげたのでしょう。



 本日、合成樹脂用のボンドで修理をしました。上手く直るかどうかはわからないのですが、愛着のあるシューズなので長く使いたいと思います。それで、1日位は接着に時間がかかるので、今日は屋外ランニングに切り替えました。高校サッカーの決勝を見て、16:00から走ったのですが寒い寒い、土、日よりは多少気温は高いのでしょうが、冷たい空気を肺の底まで吸い込むと体が中から冷えていくような感じになりました。

 しかし、10分ほど走ると汗が噴き出しできます。ウィンドブレーカーの首のところや、袖口、帽子の淵は、寒気と汗の境界線になっていて微妙なところです。戻ってから、アメダスの気温を調べたら、マイナス3℃でした。



 雨にも負けず、風にも負けず、夏の暑さにも、冬の寒さにも負けずです。昨年の反省から、今年の練習の心がけとしては、続けて休んでしまうと、筋肉の緊張が戻ってしまうので、3日間以上続けて休まないようすることを目標にしました。今のところ守っています。
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「自閉っ子、深読みしなけりゃうまくいく」

2008-01-13 23:04:21 | Weblog
 「自閉っ子、深読みしなけりゃうまくいく」(ニキ・リンコ+仲本博子著 花風社 2006年刊)

 再び、ニキ・リンコ氏の著作である。花風社の浅見淳子氏の対談、自閉児トニーくんのママ・仲本博子氏による米国の実情が紹介される。

 米国では発達障害児に対する支援が充実していると言われるが、その実は「親が、時には弁護士などの助けを借りてでも交渉して勝ち取る」ものであり、そこには経済格差や契約社会など米国社会特有の問題が存在する。



 ニキ・リンコ氏については、2007年10月27日に、『俺ルール! 自閉は急に止まれない』(花風社 2005年刊)を掲載したところ、以下のようなコメントが寄せられた。(このブログとしては、これまで最大の盛り上がりだった。)

 ○私たちは「選別と排除」の中で生きてきているのだから。遠い未来では「共生」はあるのかもしれないが今は自分に合った社会生活をおくれる場で過ごすのが本人にとっても周りの者たちにとっても平和なのではないだろうか?現実は厳しい!

 ○個性のある一人一人の人間として生きています。みんな同じではありません。健常の方にもいろいろな個性があるように、彼らが持っているものもそれぞれ微妙に違い、それぞれに合った接し方や環境の配慮が必要です。

 ○私たちの生活の中でいかにファジーな表現でのコミュニケーションが成り立っているのかを改めて感じさせられます。

 ○当事者の方、周りで彼らを理解して関わっている方々にもいろんな思いがおありだと思いますし、お互いの世界観を「なるほど」と感じることもあるのではないでしょうか。

 ○障害を持っていてもいなくても、相手の立場で考えられるしなやかさを大切にしたいです。「福祉の充実した社会」は誰もが生きやすい社会になると考えるからです。



 中には、現実を知らずに語るべきではないなどの厳しい意見もありましたが、私は素人なりにも関心を持ち続けたいし、この問題を入り口として、この国の社会構造の一面を捉えることができるのではないかと思っている。



 最近、KYという言葉が使われていることを知った。随分遅れていると思われるが、週刊誌で昨年のレコード大賞授賞式でのエビちゃんの司会がKYだったと批判されているようだ。

 このKYなる言葉、「空気を読めない」を略してKYなのだそうだ。その略し方もセンスが感じられないが、この言葉をギャグ的だとはいえ、否、敢えて笑いを伴わせてマスコミで流通させている根底に潜む心根に、この社会における排除を伴った冷たさと貧しさを感じた。
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「〈畳長さ〉が大切です」

2008-01-12 20:09:29 | Weblog
 双書哲学塾「〈畳長さ)が大切です」(山内志朗著 岩波書店 2007年刊)

 ブックカバーには、話を面白くするもの、それが〈畳長さ〉。無駄を救え!効率一辺倒からの脱却のために。とのコメントがある。

 著者は、会話の中の「間」、表情、身振りてぶりなどの非言語的コミュニケーションを例にして、「冗長さ」、著者の言葉では、「畳長さ」こそが重要であり、創造性や可能性を源泉であるという。



 スケールの小さな哲学であった。岩波が哲学双書を15巻で出すというので、試しに1冊読んでみたが、これが哲学なのという位の代物であり、世界観も歴史観も認識論も全く感じられなかった。

 哲学をきちんと勉強してこなかった私の不勉強のせいだろうが論旨があちこちに飛んでしまってとても読みにくく、身近な哲学をテーマにというのだろうか、この「哲学塾」双書については、これ以上他の巻を読もうとは思わない。



 雪は少ないが寒い。「北海道新聞」本日1.12の社説で、札幌市が福祉灯油(生活弱者に対して石油代を給付するもの)を実施しないことを批判している。
 道新のこれまでの報道を総合すると、財政破綻をした夕張市の市民生活が一番大変なのだろうと思う。しかし、札幌市だけ取り上げているが、夕張市には余裕が無いので市民はガマンして当然ということなのだろうか。

 もし、生活弱者対策をキャンペーンするのなら、北海道の地域性からも全道的な話題とすべきであり、国に対しても問題提起するような報道であるべきではないだろうか。道新のバランス感覚を疑った。





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「京都の平熱」 その2

2008-01-10 20:33:00 | Weblog
 「京都の平熱 哲学者の都市案内」(鷲田清一著)から、碁盤の目について。

 以下著書からの引用(「 」内)が多くなるが、「格子状のこの街が人を安心させるのは、この「碁盤の目」のどこに立ってもなじみの山が見えるからである。三方を山に囲まれたこの街では、山の姿で方向がわかる。」

 「逆に東京という街は、どこからも山が見えない。だから東京に行けば京都で育った者は底知れぬ不安に襲われるのである。」



 翻って、札幌はどうなのだろうか。碁盤の目の道、西側には近くに円山、藻岩山、遠くに手稲の山並み。京都と同じように迷うことはない街である。だからといって、東京は、人々を不安に陥れるだろうか。



 「ビル群に視界を遮られた「巨大な密林」とでも言うべき東京にあっても、道に迷うことが少ないのは、目印の建造物から目的の場所まで移動していくその途中の光景をからだが憶えているからである。」



 東京には私鉄駅前に共通する光景がある。駅から続く自動車の乗り入れを規制した狸小路のような商店街、その周辺に延々と広がる低層の住宅街、目印の乏しいこんな住宅の中を歩いている時、見通しのない、同じところを歩き続けているような錯覚を覚える。



 「景観というのは、移動という運動のなかでのそういう光景のめくれというかたちで身に刻まれるものであって、けっして正面に立ってこの景観はすばらしいというように感得されるものではないのである。」



 都市の中のお気に入りの場所は、額縁的な風景ではなく、道端の一角からの長めであったり、路地裏から見える空だったりする。

 

 



 

 
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「京都の平熱」

2008-01-09 20:43:49 | Weblog
 「京都の平熱 哲学者の都市案内」(鷲田清一著 講談社 2007年刊)

 書店の旅行本コーナーでは、「るるぶ」など京都のガイドブックがたくさん並んでいる。単行本も多く京都ブームだそうだ。

 著者の鷲田清一氏は、京都生まれ、学生時代も京都で過ごし、今は大阪大学で哲学の教鞭をとっている正真正銘の哲学者。だからなのだろう、この本は、札幌大丸デパートの三省堂書店では、哲学のコーナーにあった。

 2回読もうと思う。そして2回楽しめる本だと思った。今回の1回目は、とりあえず中の地図と合わせて読んで、京都の都市の位置関係をおおよそ掴むことができた。東も西も、右も左もわからなかったが、少し土地勘というか、どのあたりに何があるかは、それなりにわかった。

 次の2回目では、単なる観光案内としてでは、著者の言う「古都京都」いう一面的イメージだけでない京都について、をもう一度味わって読もうと思う。



 京都駅発、京都駅行きの京都市バス206蕃で、著者が市内を一周するのであるが、その中で、食べ物や服装、遊び場などの文化論、寺社や建築物にまつわる歴史、都市論などが語られている。

 京都と同じように、碁盤の目に道路が作られている札幌と比較するのも面白いだろう。しかし、札幌の厚みの無さが見えてしまう。それは、歴史的な時間の短さだけではない。現在でさえ、京都は都市として蓄積をしているが、札幌は・・・と感じることであろう。



 2006年4月からこのブログの試行を始めて約21ヶ月、そして本日第300回を迎えた。良く続いているなという感慨とともに、読んでくださる方を意識するより、自分にとって「脳髄を使って考える生活」には本当に良い方法と思う。

 今は、もうしばらく続けようと思っている。よりラディカルに、より絶滅種として独自性を磨いていきたい。
 


 
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初○○・・

2008-01-06 16:22:45 | Weblog
 コンサドーレ札幌の三浦監督は、年頭の感想を聞かれ、今日の次に来る日が明日だから、特に感慨は無いと答えていました。合理主義者です。私もそう思いたいところですが、やはり新しい年になったことを意識して、今年の目標とかを考えてしまいます。

 新年になって初めてのことを、初○○・・といいます。私の初夢は、地面をスコップで掘っている、背丈ほどの細く小さな木の根元を掘る夢でした。夢診断では、どういうことになるのでしょうか。



 さて、走り初めは、3日でした。去年の正月もほとんど積雪が無く、歩道のアスファルトが出ていたと記憶しています。今年は、2日に25cmほど降りましたが、去年と同じようなコンディションです。

 今年、意識しようと考えているのは、距離を走ることより、練習の強度を課題にしようと思っています。短い時間でも、軽めの練習でも、途中で体を全開まで回すことが必要な気がします。

 人間の体は、使わなければその機能が退化するし、使えば高齢になってからでも機能は向上すると思います。例えば、三島由紀夫は、かなり年を取ってから、ボディビルを始め、筋肉隆々の体を造りました。

 ところで、北海道新聞の元旦1面トップ記事で、北海道マラソンが将来3万人(現在約5千人)規模の大会になって、制限時間も7時間までになると載っていました。マラソン同業者の間では少し話題になっていますが、実現のためには札幌市内の交通規制をこれ以上増やしたくない北海道警察との戦いが待っています。

 私自身の思いは複雑で、厳しい制限の大会に出場したという小さな自己満足とともに、今の力では、制限を緩和してくれないと無理という気持ち、また、交通を遮断して走れる優越感と、個人の趣味に他人を巻き添えにしていいのだろうかという気持ちが混ざっています。



 3日の後、5,6日と走れたし、今年の出だしはマズマズです。

 

 
 


 

 
 
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「歩道橋の上で」

2008-01-02 21:47:19 | Weblog
 自分へのお年玉として、12月28日発売の「TAKURO YOSHIDA 歩道橋の上で」を買いました。

 CDには、6曲しか入っていません。去年の秋のコンサートツアーは、途中で体調不良になり中止になりました。その後、情報はありません。

 今回の発売の形が、本人の本意でのものなのか、これ以上はしばらく無理なのかはわかりません。でも、この時期に、このような形で発売するということは、本人が希望しているのでしょう。

 岡本おさみの作詞が多く、全体にしっとりしています。私は、メロディーよりも歌詞から音楽を理解しようとしますが、今回の曲の中で、一番強く印象に残ったフレーズがありました。

 『黄昏に乾杯』という曲の中の、

  少し黄昏、でも会えてよかった
  今は黄昏、また、会えてよかった ♪

 です。



 早く、元気になって欲しいと願っています。

 

 
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「ホームレス中学生」

2008-01-01 17:20:04 | Weblog
 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。2008年は、雪も少なく、比較的暖かな中で、穏やかに訪れました。

 元旦号の各新聞を買うのが恒例になっていますが、今年の社説は、北海道新聞が洞爺湖サミットと地球温暖化、朝日新聞が総選挙、日本経済新聞も地球温暖化をテーマにしていました。いづれも、あまり想像力をかきたてるような内容ではありませんでした。否定ばかりしていられません、私自身ももっともっとポケットを多くしていきたいと思っています。



 「ホームレス中学生」(田村裕著 ワニブックス 2007年刊)

 帯に150万部達成と書いてありました。ベストセラーズは、あまり読まないのですが、身近にあったので読みました。2時間で読めます。

 土曜日の昼からの「タカアンドトシのどーだ」は、家にいる場合は見る番組です。ゲストに、ダイノジ、博多華丸・大吉 、ハリセンボン、「麒麟」が来ています。最近ようやくタカ・トシの面白さの質が少しわかるようになりました。麒麟の面白さはまださっぱりわかりません。

 私のこの番組の見所は、遠藤麗奈UHBアナの芸人達とのからみにあります。口達者な出演者に一歩も引けをとらない彼女の番組の仕切りぶりにいつも感心しています。



 閑話休題

 さて、「ホームレス中学生」がこのように売れた理由はどこにあるのでしょうか。貧しいけれど、極端に貧しくない生活、不幸だけれど、先生や友達に恵まれある意味幸せな生活、フツーに暮らしている(フツーとは何かが問題だが)人には、あまり経験できない体験が書いてある、しかし様々な場面にユーモアが溢れている。

 そこにあるのは、「明るい貧困」「恵まれた不幸」とでもいった、徹底的な絶望感の無いところが、悲しくても少し安心しながら読める理由ではないだろうか。

 恐らく、本当の貧困や不幸は、このような次元ではないという批判や、反対に、親を亡くしたり、会社をリストラされて家族が解散するなんて本当に凄い体験に大きな感動をしたとする人、それら両極端の評価があると思う。

 「麒麟」は、もう少し芸を磨かなくては。



 昨年の走り納めは、30日に近所で少しでした。今年の、走り初めは、どこにしましょうか。
 

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