晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

島村英紀 『多発する人造地震―人間が引き起こす地震』

2019-06-24 14:15:17 | Weblog

香港のデモを見て思った。アへ首相の独走を許していることを、全て力の無い野党のせいにしている自分がいる。「若者よ、来るべき日のために身体を鍛えておけ!」今から僕も肩を作っておくか。

 

『多発する人造地震―人間が引き起こす地震』(島村英紀著 花伝社 2019年刊)

昨年9月に発生した北海道胆振東部地震による被害の復旧はまだ道半ばにも達していないようだ。震源に近いところの地面や家屋は余震で何回も強く揺さぶられて見えないダメージを被っている。道路や建造物などは金と時間をかければ何とか復元できるのだろうが、市民生活の再建と心の安定を取り戻すのは容易なことではない。あれから少しの揺れにも敏感になっている自分がいる。相手が自然だからどうしようもない。これは仕方がないと言って自分を何とか納得させているが。

さて、ここにきてトンデモ本としか思われないような本が出版された。今回の地震が人造地震、すなわち人間の活動に起因しているというのだ。著者の島村氏は北海道大学にもおられた地球物理学・地震学の専門家であり、簡単にフェイクだといって切り捨てるだけで済む内容ではない。

著者は人造地震の原因として、シェールガスやシェールオイルの採掘で用いる水圧破砕法、堤高の高いダム建設、地下核実験、そしてCCS(二酸化炭素の回収貯留実験)をあげている。CCSというのは、二酸化炭素が地球温暖化の元凶とされているので、このガスを減らすため、工業活動から出るガスを、深さ1000メートルを超える海底下に高圧をかけて封じこめるというものだ。

著者は、CCSがこれまで新潟県長岡市と苫小牧沖で行われており、中越地震(2004年)、中越沖地震(2007年)、胆振東部地震(2018年)と何らかの関係があるのではないかというのである。本書においては、データを用いたりして理論的に詳しく解説されていないのであるが、僕が浮かべたイメージは、地下の断層の間に高圧で封じ込まれた二酸化炭素が入り込んで岩盤と岩盤の間を潤滑剤のような効果をもたらし、今まで動かなかったものが動いて地震が発生するというというものだ。

2019年4月に公表された政府の温暖化対策案「パリ協定長期成長戦略案(長期戦略)」にCO2回収貯留・利用の推進が書かれている。CCSは国策となっており、それに対する疑義であれば、国民の無用な不安を煽るのではなく科学的に反証してほしいものだ。著者が投じた一石を科学者たちは真剣に受け止め、何が真実かを追及してほしい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

経済クラッシュ ハイパーインフレ 預金封鎖 新円切り替え

2019-06-12 16:38:30 | Weblog

経済クラッシュ ハイパーインフレ 預金封鎖 新円切り替え  

このブログ2019.5.24に『平成経済 衰退の本質』(金子勝著 岩波新書 2019年刊)を取り上げた。その中で「著者が絶対に言わないことがある。それは、この国の経済が破たんした場合の実相である。」と書いた。

それに関連して興味ある文章に出会った。月刊雑誌『世界』2019年7月号に掲載された神保太郎氏の「メディア批評 連載第139回」である。以下引用する。

「安倍首相の悲願は憲法改正。衆参3分の2の議席を確保するため、消費増税を捨て、野党急進勢力が主張する5%への消費税減税を横取りして解散する。ダブル選挙で勝利すれば憲法改正を発議できる。税収不足には日銀が国債を引き受けて財政を支える。国債暴落を覚悟し「緊急事態宣言条項」を憲法に書き込む。ハイパーインフレが起きたら緊急事態を発動して預金封鎖、新円切り替えを強行する。国債暴落・インフレという国民生活を犠牲にして財政赤字を消す。9条改正はその後でいい。」(P89)

歴史を後になって振り返れば、「あの時」がターニングポイントだという瞬間が必ずあるはずだ。上記のシナリオをなぞるとそれは「消費税減税」を掲げたダブル選挙ということになる。これまでアへ首相が使ってきた増税延期ではなく減税という主張に僕ら国民は拍手喝采するだろう。野党がこの公約を崩すのは中々容易ではない。逆に一部の野党(日共など)は諸手を挙げて賛成してしまうのではないか。アへ首相の大勝利。そこから憲法改定までは一直線。

次に、憲法改定のポイントは「緊急事態宣言条項」ということだ。アへ首相は、緊急事態条項は世界中のどこの国の憲法にもある、災害や外国からの脅威に対応するためには絶対必要だと主張するだろう。それに対して僕ら国民は正面切って反対できるだろうか。緊急事態になれば基本的人権も立憲主義も三権分立も全て停止なのに。

預金封鎖をWikipediaでは、「政府において、財政が破綻寸前になった場合、銀行預金などの国民の資産を把握して、資産に対して税金を掛けて政府収入にあてることで、破綻から免れようとすることがある。また市場に出回った通貨の流通量を制限し、インフレーションを金融政策で押さえる方法として実施される場合がある。その際通貨切替(新円切り替え)をして旧通貨を無効にし、市場通貨を金融機関に回収させる方法がとられることがある。この場合にも預金封鎖が行われる。」とある。

政府による預金封鎖は、実際に敗戦直後の1946(昭和21)年に行われている。当時の混乱の中で、強制的に買わせられた戦時国債も紙くず、預金もパー、借金もパーになったのだろう。

ただ、この預金封鎖、新円切り替えは、預金があるなど持てる者がターゲットということで、低所得層、持たざる者は支持をするのではないかと思う。いずれもアへ首相が強権的に進めなくても大衆の一定の支持を取り付けながらできる可能性があるというところがやっかいだ。

僕らはどのようにして生活を維持していけばいいのだろうか。書店での立ち読みでもいいから『世界』のこの批評を読んでほしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺京二 『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』

2019-06-08 17:11:54 | Weblog

「平成最後の・・」の次は「令和最初の・・」だったが、今よく聞くのは「一生に一度だから・・」、また悲しみの現場でインタビューに答えて「・・言葉になりません」。消費税増税対策にカード利用の普及、その真意は個人情報収集のためではないか?気にかかることが多い日々です。

 

『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(渡辺京二著 葦書房 1998年刊)

書名にある「逝きし世」とは、「江戸文明とか徳川文明と俗称されるもので、18世紀初頭に確立し、19世紀を通じて存続した古い日本の生活様式」(P7)のことであり、それは「ある特定のコスモロジーと価値観によって支えられ、独自の社会構造と生活様式を具現化し、それらのあり方や自然や生きものとの関係にも及ぶような、そして食器から装身具・玩具にいたる特有の器具類に反映されるような、そういう生活総体」(P7,8)である。それが明治になり逝ってしまったのである。その事実を、著者は異邦人観察者の著述、すなわち幕末・明治初期に日本に来た欧米人の日本見聞記から明らかにした。

日本見聞記で描かれたこの国の「面影」は、「外国との接触を制限することによって独特の仕上げぶりに達したひとつの前工業化社会」(P47)であった。海禁政策(鎖国)の中で、限られた資源を活用して出来上がった独特の文明社会。

僕の今まで漠然と抱いていた江戸時代は、士農工商の階級社会のもとで武士が威張っており庶民は小さくなって暮らし、また農村では領主の年貢の取り立てに農民は米を作るが自らは食べることもできず貧しく疲弊していた。それが、明治になり文明開化で新しい西欧文明を取り込んだ結果、富国強兵、殖産興業をスローガンにこの国の近代化が進み欧米列強に並ぶまでに変貌を遂げたというイメージであり、江戸から明治への変化を肯定的に捉えるものであった。

本書は、僕だけではなく学校教育、日本史学、司馬遼太郎をはじめとする文学作品などにおける歴史認識に対してそれを根底から覆そうとする挑戦的な書である。以下は、引用になるがポイントだけでも掴めると思う。

(第3章 簡素とゆたかさ)「楽しき国、美しき土地」(P112)

(第4章 親和と礼節)「日本人の親切・善意・礼譲」(P158)

(第5章 雑多と充溢)「生活を楽しきものとする装置を、ふんだんに備えた文明」(P187)

(第6章 労働と身体)「当時の別当や人力車夫や船頭や召使の身体が、美しく生き生きとしたものに映ったという事実は、ある意味で自由で自主的な特質をもった労働に従事していた」(P211)

(第7章 自由と身分)「武装した支配層と非武装の非支配層とに区分されながら、その実、支配の形態はきわめて穏和で、被支配者の生活領域がかれらの自由にゆだねられているような社会、富める者と貧しき者との社会的懸隔が小さく、身分的差異は画然としていても、それが階級的な差別として不満の源泉になることのないような、親和感に貫かれた文明」(P238)

(第8章 裸体と性)「買春はうしろ暗くも薄汚いものでもなかった。それと連動して売春もまた明るかった。性は生命のよみがえりと豊饒の儀式であった。まさしく売春はこの国では宗教と深い関連をもっていた。」(P276)

(第9章 女の位相)「日本女性にとって結婚とは子供の時代の屈託のない幸せな日々から、理性により責務を負う段階への移行、全身全霊、頭も心もこの一時~新しい家の主人とその一族をことごとく満足させること~に捧げなければならない」(P314)

(第10章 子どもの楽園)「日本では子育てがいちじるしく寛容な方法で行われるということと、社会全体に子どもを愛護し尊重する気風がある」(P351)

(第11章 風景とコスモス)「日本的な自然美というものは、地形的な景観としてもひとつの文明の産物であるのみならず、自然が四季の景物として意識のなかで馴致されたという意味でも、文明が構築したコスモスだった」(P396)

(第12章 生類とコスモス)「日本人の生類に対する関係の基礎には、ひとと生類が同じレベルで自在に交流する心的世界があった。」(P432)

(第13章 信仰と祭)「町にはこの世ならぬ雰囲気が充満していた」(P460)

(第14章 心の垣根)「日本の庶民世界ののどかさ気楽さ」(P480)

こじんまりとしながらも幸福感に包まれた文明だったことがわかる。子どもが社会全体から大事にされ、子どもたちの表情も明るく、職人たちはいつ売れるかもわからない日用品の作成に時間と技を込め芸術品に仕上げる。そんな文明が逝ってしまった。著者の渡辺京二氏は在野の歴史研究者である。凄い方だと思う。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする