晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

金子勝 『平成経済 衰退の本質』

2019-05-24 09:28:42 | Weblog

加藤典洋氏が亡くなった。僕が唯一聞いた講演は、2018年3月24日(土)、教育文化会館で催された「第5回北海道横超忌 吉本隆明~その遥かなる射程を追って~」において、『戦中と戦後をつなぐものー戦後、吉本隆明に「自己表出」モチーフはどのようにやってくるのか』である。当日は、そのまま出版できるレベルの完成された講演原稿を用意し、話すという機会を非常に大事にしていることを感じさせる、また真面目な人柄がにじみ出たお話であった。まだまだやりたいことがあっただろう氏の無念を想像する。

 

『平成経済 衰退の本質』(金子勝著 岩波新書 2019年刊)

岩波新書で読む「平成」シリーズ、『平成の終焉―退位と天皇・皇后』に続く第2作目は経済から平成を振り返った『平成経済 衰退の本質』である。ちょうど時代は、僕の会社員生活と重なり、あの頃はそうだだったなと実感を伴いながら読むことができる。

著者に言わせると平成の経済は「失われた30年」ということになる。この間、著者は多くの著作を刊行し、マスコミにも露出して常にこの国に対して警鐘を鳴らしてきたことは多くの人の知るところである。

著者は、バブル崩壊による不良債権の抜本的処理を怠ったこと、金融危機および福島第一原発事故におけるリーダーの責任逃れ、失われた国際的な産業競争力、アへノミクスが経済破綻に導く危険性を指摘する。あわせて、公文書や政府統計の改ざん、公職選挙法・政治資金規正法に違反しても責任を取らない閣僚や政治家、大手企業でのデータ改ざんや粉飾会計など、この国の制度的劣化や倫理的退廃も批判する。

著者が言うように近い将来にこの国の滅びが待っているのだろうか。僕は金子氏の著作をそれほど多く読んではいないが、30年前も「日刊ゲンダイ」などで危機を叫んでいたと記憶する。著者は機器ならぬ危機販売をモットーとしているようだ。

著者の警告は的を射ているのだろうか。著者が絶対に言わないことがある。それは、この国の経済が破たんした場合の実相である。破たんした後はどうなるのか。日々生活している僕らにとっては、会社は存続できるのか、貯金は、年金は、ローンはどうなるのか、敗戦時のように超インフレで何もかもパーになるのか、そこが一番知りたいが著者は決して語らない。はたして、金子氏はオオカミ少年なのだろうか。

本書で著者が唯一評価しているのは、アへ首相のいう「あの悪魔のような民主党政権時代」の政策だ。「コンクリ―トから人へ」、農家の戸別所得補償政策、地球温暖化対策、東アジア共同体構想などが打ち出されたことである。しかし残念ながら民主党政治家の力量は無かった。

僕らは今、台本は良いが役者がヘタで演じきれない芝居を観るか(民主党)、台本はひどいが役者の演技力でなんとか持っている芝居を観るか(自民党)の選択を迫られているのだ。

本書の最後で著者は「救済のための台本」を提起している。透明で公正なルールの確立、教育機会の平等を保障、産業戦略とオープンプラットフォームの作成、電力会社の解体、地域分散型ネットワークシステムへの転換、財政金融の機能回復などであるが、これが「難病治療の画期的新薬」になるのかは判断がつかないが、誰に演じさせるのかを決めるのは僕ら有権者だ。

 

岩波新書で読む「平成」シリーズは、『バブル経済事件の深層』(奥山俊宏・村山治)、『平成時代』(吉見俊哉)、『日本経済30年史―バブルからアベノミクスまで』(山家悠紀夫)と続く。平成ではなく1990年代から2010年代の歴史として振り返るのは無益ではないと考える。

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改元に想う 

2019-05-05 16:47:47 | Weblog

アへ総理は「新しい時代には、新しい憲法を!」と叫ぶ。僕は「新しい時代には、新しい総理大臣を!」と切り返す。「令和」スタートでざわついていた世間が落ち着きを取り戻した。

 

改元に想う    

30年前を思い出すと、天皇の体調悪化、それに伴う「自粛」ムード、Xデーが近いことはわかっていたが生身の命のこと予め何時とは確定できなかった。命が失われることイコール代替わりだったから、幾ばくかの悲しみと寂しさが漂った中での新天皇即位だった。あの時、世の中はそれなりに厳粛な空気に包まれていた。

それと比較すると、今回の生前退位および即位は予めスケジュールが決まっていたので、代替わりの行事はあっさりと進んだ感がある。盛り上がったのは、スゲ官房長官の「令和」発表ぐらいだった。また生前譲位という形だったため悲しみも伴わず、マスコミも祝賀一色の報道だった。皇族の姿を見た人たちがインタビューを受け、その感激に涙を流さんばかりの様子のオンパレード、そこには異論を言わせぬ空気が占めていた。そこに僕の居場所はなかった。

小ブチさんによる「平成」の発表は、上司の家の居間で職場の仲間とともに酔っ払いながら観た。当時は、上司が部下を家に招くという慣習があり、その日は丁度新年会が予定されていた。半ドンの土曜日だったと記憶する。天皇が亡くなったということが伝えられた朝、職場では新年会をどうしようかとの相談があった。奥さんは買い出しや料理などを終え準備は万端とのことだったので、不謹慎かも知れないが静かにやろうよということになった。だが、始まれば大騒ぎだ。

今は無業者の僕、天皇の退位、即位の両日とも普段と変わらずランニングと読書、その合間のテレビ視聴。ただ、どのチャンネルも朝から夜まで同じような番組構成、出演者からの礼賛コメントが垂れ流されすぐに食傷ぎみになった。こういう風景は今まで何度も見ているが、現在はいいだけ持ち上げられている天皇家が、何かをきっかけにバッシングに転じる可能性だ。また僕らは、北朝鮮の報道を奇異な感じで観ているが、こちらの騒ぎもまるで鏡に映る自分のようだ。

丁度同じタイミングで、タイでも新国王の即位に伴う戴冠式があった。5種の神器を受け継ぐなど、日本とよく似た儀式を行ったようだ。天皇制には、この国独自のものというより東アジアに共通の風習がベースにあると感じた。

最後に、この先この国の天皇制が抱える危機を列挙しておこう。

・すこぶる調子がよさそうに見えたが皇后の健康問題だ。これまでのように何事も夫妻ご一緒でとならなくなった時に我々国民の方に寛容さを持てるだろうか。天皇は、公務か皇后かの選択を迫られる時が来るのではないか。

・上皇が完全に引退するのだろうか。国民の人気があっただけに、今後においてもしばしば表に登場すれば権威の二重化に繋がる。

・新天皇は、今までのように皇室の権威と政治権力との距離感を保つことができるのか。戦前のように天皇の権威を政治的に利用しようとする企てを拒否することができるか。

・そこで気になったのは、識者の指摘にもあるが、即位のお言葉の中で「日本国憲法・・の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。」とは言ったが、「憲法にのっとり、・・責務を果たすことを誓い」と今後のところで日本国憲法とは言わなかった点だ。憲法改正を前提にしていると受け止めた。

・男系男子による継承を貫き続けることが可能なのかどうか。ようやく中学生になったばかりの悠仁さまに皇室の未来がかかってしまう可能性がある。

 

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