晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

日本共産党ウォッチャー

2009-08-31 20:38:25 | Weblog
 十和田観光鉄道、十和田市と三沢市を結ぶ。



 2008.1.22に当ブログで「もっとしたたかに日本共産党」を掲載し、小選挙区での候補の絞込みについて、そのお人好しぶりを批判した。

 昨日(2009.8.30)の総選挙で民主党が大勝し政権交代になるということだそうだが、自由民主だろうが民主だろうが、私にとっては特別な興味も無いが、今回の選挙でいくつか感じたことを記す。

 公明党は、太田代表、北側幹事長、冬柴と幹部が軒並み落選したが、彼らは小選挙区のみの立候補で、比例代表区の保険をかけないで潔く散った。
 一方、日共は、志位、穀田、佐々木憲昭ら幹部は、比例代表区だけの立候補で、もともとある程度の得票は計算できるので、小選挙区で真っ向勝負するというより最初から安泰のポジションに置いた。闘ったのは、無名の下部党員。
 さて、社会を変革するという「気概」を感じるのはどちらであろうか。

 北海道では、新党大地のムネオちゃんが、実力以上に党勢を大きく見せる技を見せてくれた。氏は、小選挙区11選挙区での民主の勝利は大地の協力があったからと、鉢呂代表にしっかりと言わせている。
反対に、比例区で民主を大地にきっちりと協力させ、道内第3党の43万票(得票率13%)を取った。参考までに、公明10%、日共7%である。

 日共が、民主優勢の事前情報が出るようになってから、突然言い出した「建設的野党」というスローガンは全く受けませんでした。
 仲間に入りたいのに中々仲間に入れない子どものようです。親からは、金持ち(自民)とは遊んではいけませんと言われています。それで、汚い貧乏臭いガキ達(民主、社民、国民)と遊びたいのですが、素直になれず中々言い出せない子どものようです。

 これからは、自民、公明、国民新党などの責任の取り方を見ていきたい。日共の場合は、幹部の無謬性ゆえ責任問題に発展することはないだろう。


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吉本隆明 『真贋』

2009-08-30 18:39:46 | Weblog
 色々あって走れず20年ぶり位で「北海道マラソン」をテレビ観戦。コースが一新され全く新しいマラソンに生まれ変わったよう。

 今までのゴールだった中島公園がスタートに、いつも鬼門の新川あたりは、直線が延び、石狩の海岸の手前を折り返し、ラストは、北大構内、道庁と変化を付けた面白いコースになりました。

 エントリーはしていたので、昨日は参加賞のみもらって棄権の届けをする。その後、ゴールの大通公園を散策。



 あと数時間で総選挙の結果が判明するが、このところのマスコミの民主党圧勝報道が結果にどのように影響するか。
 
 また、出口調査の裏づけを持っているのであろうが、開票が始まる前からの「当確」情報の連発。興ざめであると同時に実際に投票した有権者の行動を冒涜している。

 残る興味は、民主党政権に「ムネオ」ちゃんが入閣し、外務省関連、北方領土担当大臣にでもなれば面白いのだが。

 鳩ポッポが、総理の器とは思えないが、閣僚候補の身体検査を充分して、当面は順風が吹くだろうが、いつの時点かで必ず風向きが変わる。そこをどう乗り切るかであろう。



 『真贋』(吉本隆明著 講談社インターナショナル 2007年刊)

 近くの図書館から借りる。吉本氏が自ら書かなくなってから随分と経つが、編集者がインタビューしそれに氏が答える方法だが、それなりに売れるのであろう。

 従って、著作の形式も会話調で柔らかく、気合を入れて読むというより、寝床読書向き、山田風太郎の『ぜんぶ余禄』(角川春樹事務所 2001年刊)の後は吉本が睡眠薬。

 どうって事の無い日常的な話題に対して、吉本が答えるのであるが、さすが「思想界の巨人」である、常識を超越している。一つ一つを記憶する必要がないが、何かの際に、吉本ならどう考えるだろうか、と思い出すようなインパクトがある。

 思想というのは、知識を覚えるのでは無く、モノの見方、考え方なのだということが改めてわかる。

 肩の力を抜いた面白い物を読みたかったたら、ちょい年寄りの著者がいい。



 
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『マルクス・コレクションⅣ「資本論第1巻」』

2009-08-29 17:48:09 | Weblog
 『マルクス・コレクションⅣ「資本論第1巻」㊤ 今村仁司、三島憲一、鈴木直訳』(筑摩書房 2005年刊) (資本論ノオト第2回)

第1版序文 
*マルクスは理科系か?
 1867.7.25に書かれている序文では、『資本論』の目的は、「近代社会の経済的運動法則を明らかにすること」としている。
 「商品」は、社会にとって生体における細胞にあたる。細胞を研究する際には、化学試薬や顕微鏡が必要なように、商品を分析するのに必要なのは「抽象能力」である。

 抽象能力により、社会の最小の構成単位である商品から、論理をメカニカルに積み上げ、社会総体の分析まで行なう方法は、理科系的な頭の構造の方が向いていると思う。

*しかし、マルクスは、時々感情を露にする!
 『資本論』の分析対象が、イギリス経済であるため、ドイツの読者が他人事のように捉え楽天的になってことに対して、「ここで語られているのは君のことだ!」と叫ぶ。

 序文の最後で、世論の偏見に対しては、フィレンツェ人の格言を引用して、「汝の道を行け、そして人びとの語るにまかせよ!」と。

第2版あとがき
*マルクスは、一歩たりとも譲らない姿勢で論争的である。
 第1版が出版されて5年半が経過した1873.1.24に書かれている。その間、ドイツ、イギリス、フランス、ロシアでの反響、批判に対する反批判となっている。

フランス語版序文およびあとがき
 1872.3.18に書かれており、「学問に王道はありません。学問の急峻な細道をはい上がる労をいとわない者だけが、光り輝く頂上に達するチャンスを手にするのです。」と述べる。




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『私と他者の語りの世界』

2009-08-28 19:59:48 | Weblog
 特急スーパーおおぞら号です。


 『私と他者の語りの世界 精神の生態学へ向けて』(浜田寿美男著 ミネルヴァ書房 2009年刊)

 発達心理学、犯罪心理学を専門としながら、子どもの発達障害や冤罪事件の究明をテーマとして研究を続ける浜田氏の最新作。

 氏は、形成論の視点を提起する。一般的に、障害は形成の結果ではなく、固体内に内在する障害の直接的発現として固定的に捉えられている。形成論の視点を見失った診断、治療、支援は、最終的なところで排除の論理にはまり込む。

 この論理を犯罪にあてはめると、人は犯罪を自分たちとはかけ離れた異人種の引き起こした通常ならありえない出来事のように見てしまいがちである。

 しかし、形成論の視点から見ると、犯罪はすべて私たちの社会の<内>で生み出されているという現実を忘れてはいけない。犯罪がいかにして形成されたのかの解明こそが本題である。

 2004年6月1日に起こった長崎県佐世保市の小学校で、6年生の女の子が同級の女の子を学習室に呼び出し、2人きりになったところをカッターナイフで切りつけて殺すという事件が起こった。

 氏は、この佐世保事件を克明に分析する。子どもの事件は、子ども自身の人格特性や子どもの「内面」の問題にされ、あるいは両親の養育のあり方にされて、子どもが現実におかれた状況や犯罪行動にまでいたった具体的経緯はすっぽりと看過されてしまうことが多い。

 しかし重要なのは形成論の視点であり、女の子がどのような学校の状況のなかにいたのか、そこでどのような人間関係を生きてきてこの事件に至ったかを解明することである。

 近年の犯罪報道を見ると、秋葉原事件など典型的であるが、原因を個人の性格や特性のみに求め、社会や時代の特性などに求めることをしない。
また、少年犯罪においては、その原因を加害者の発達障害に求める例も目立つ。レッサーパンダ事件しかり。そこには、形成論の視点が欠落しており、扇情的な情報を垂れ流す中で、障害=犯罪という図式を作り、そして排除という論理につなげている。



 犯罪報道といえば、酒井法子事件はひどいものがある。あんなクダラナイ事件を1ヶ月も垂れ流している。警察発表の一方的情報を毎日毎日小出しにして、清純派アイドルから一転極悪非道のように描き出している。

 元々、彼女(や柔道家の・・・ちゃん)の出自は皆が知っていること。敢えて、語る必要も無いことである。

 問題なのは、見ていて本当に疲れるバラエティなどテレビ番組の異常なハイテンションではないか、それを求められ普段の自分とは全く違う自分を演じなければならないような環境を分析してほしいものだ。

 
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『誰もが読める「資本論」』

2009-08-17 20:49:08 | Weblog
 『誰もが読める「資本論」 起て 飢えたる者よ!』(咲木英和著 新生出版 2009年刊)

 著者のプロフィールで、1953年生まれ(私より1歳年上)、元中学校教員ということがわかります。はじめにの中では、学生時代、長谷部文雄氏に師事したとあります。

 ネットで検索した結果、新生出版は、自費出版系の出版社のようです。

 著者には、大変失礼かも知れませんが、活動家の臭いがしません。在野の資本論研究家なのでしょうか。何か思うところがあって中学校教師を辞めたのでしょうか、などと要らぬ詮索をしてしまいました。

 書店に行くと、今や「資本論」の要約本および解説本の出版ブームです。「蟹工船」の比ではありません。この際、便乗します。

 筑摩書房刊 資本論〈第1巻(上)(下)〉 (マルクス・コレクション) で原典に当たりながらゆっくりと読もうと思います。



 以下は、「資本論」を要旨をまとめたノオトです。(資本論ノオト第1回)
序文
「資本論」は、1867年に発行された。「労働力」という商品の発見。「抽象力」によって分析し、資本の法則を明らかにした。
第1部 資本の生産過程
第1編 商品と貨幣
第1章 商品
第1節 商品の2要因 使用価値と交換価値
・社会の富は、商品の集まりであり、社会の細胞と言えるのが商品、社会の最小単位である商品から分析を始める。
・商品は、有用性、人間の役に立つという性質から使用価値を持つ。他の商品と交換が可能という性質から交換価値を持つ。
・商品から使用価値を除くと、労働生産物という性質が残る。
・商品の交換価値に表されている共通なものが価値であり、価値を生み出しているのが抽象的人間労働である。(具体的な有用性を持った労働ではない。)
・この社会にある全商品の価値に表されている労働時間は、社会全体の総労働時間であり、個々の商品の価値は、それを生産するために必要な社会的に平均した労働時間で表される。
・空気は、労働が含まれていないので、使用価値はあるが、価値はない。

第2節 商品に表示される労働の二重性格
・商品の使用価値の中には、有用労働だけが含まれるのではなく、自然的な素材も含まれる。
・労働の中の有用性を「抽象力」で排除すると、人間労働が残る。
・生産力が増大すれば、労働時間が短縮され、個々の商品の価値は低下するが、社会全体の使用価値は増加する。

 以下、私のコメントは、*印を付して記す。
 *資本論は、冒頭を理解するのが一番やっかいであるが、最もダイナミックな部分である。
 商品に潜む2面性、使用価値―具体的有用労働という側面と、交換価値―抽象的人間労働という側面。この2面性を把握するというモノの見方・考え方は、何事にも応用できる方法論となる。
 実社会において、様々な事象に出会った時、必ず2面性ということを頭に浮かべる。白・黒、善・悪、0・100・・という2元論ではなく、常に物事の2面性を認識し、正→反→合という弁証法的な落しどころを見つけるのである。
 初期マルクスの疎外論とは一味違ったこれもマルクスの認識論である。



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『日本の経済針路』

2009-08-16 21:02:48 | Weblog
 僕は、「あおもり犬」です。青森県立美術館にいます。よろしく。



 『日本の経済針路 新政権は何をなすべきか』(鈴木淑夫著 岩波書店 2009年刊)

 本書の帯には、「緊急提言」「民主党政権がとるべき経済政策はこれだ。」とある。著者の鈴木氏は、日本銀行、野村総合研究所理事長、1996年から2003年まで衆議院議員(自由党)を務めたエコノミスト。

 民主党のマニュフェストからは、国民受けを狙った甘い蜜(ばら撒き政策)の香りしかしないが、はたして民主党ブレーンの経済政策はどういうものだろうか。

 先ず、結論の章である、「Ⅳ国民生活重視のマクロ経済政策を」から読んだ。

 「日本の国民生活は、超低金利→円安バブル→外需依存・内需停滞→格差拡大に悩まされてきた。」

 「対米輸出立国の道が塞がれた今日、国民生活の向上を軸とする内需主導型の成長に切り換えるのが、09年の総選挙によって出来る新政権の使命である。」

 「日本は、ASEANプラススリー(日本、中国、韓国)の包括的、地域的自由貿易協定の締結をめざすべき。そのためには、農業の市場開放を行い、価格支持ではなく、所得保証とその漸進的引き下げ、法人参入と農業集約化に対する規制緩和を行うことが不可欠。」

 具体的な財政支出計画は次の2つ、「スーパーエコ日本計画」と「安全ネット日本計画」である。

 「内需の拡大は、温室効果ガスの排出量を減らすための投資、具体的にはエネルギー効率向上のための投資、脱炭素でクリーンな代替エネルギーの開発投資、低炭素化設備への切り替えのための投資、同じ目的の民間投資の補助など広義の環境対策が一つの柱である。」

 「生活のセイフティ・ネットを再構築するため、出産・子育ての補助金拡大、学費の無償化、年金・介護・医療・雇用の保険制度改革、医療・介護・保育・教育の人員と施設の拡充など。」

 次に、小泉改革とは異なる真の構造改革は、「これまでの日本的システムでは、官僚がムラとしての業界を指導し、そこの利益が「官僚内閣制」を通じて日本の政治を動かしてきた。」「あらゆる業界に対して監督官庁が存在し、業法で業界の経済活動を支配している。業法を全部廃止し、必要不可欠の最小限の立法をやり直す。」

 「官僚の天下り先である公益法人、特殊法人、独立行政法人を洗い出し、要らない組織を全廃する。」

 「中央官僚が地方自治体を支配する手段としての事業補助金の制度は廃止し、使途自由な補助金として地方自治体に交付すべき。」

 「これらによって、中央官僚機構の組織と人員が浮いて財政支出の圧縮になる。」

 なるほど民主党の政策とほぼ一致している。民主党にも現実的な政策ブレーンがいて、経済の現状分析、政策展開が練られていることがわかった。

 しかし、巷間言われているように財源問題は明らかにされていない。中央省庁のスクラップでそれほど捻出できるとは思えない。

 労働者の生活向上の視点が無い。内需を引っ張るのは、環境や福祉などの業界であり、それにより雇用の拡大は図れるが、非正規雇用などワーキングプアの解消まで視野に入れていない。従って、消費の拡大には限界がある。

 民主党は、政権に近づけば近づくほど社会民主主義的な思想を放棄し、資本の要請に応えようとしています。連立政権の中で、民主党の頬を左からぶったたけるのは、社民党です。日共は、いつものように綺麗事を並べて蚊帳の外にいると思います。



 
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『マルクスの逆襲』

2009-08-15 20:50:47 | Weblog
 青森県三内丸山遺跡は、約5,500~4,000年前の1,500年間も縄文人が生活していたところです。このやぐらは、残っていた基礎の大きさから想像して作ったもので、用途は不明です。集落のシンボルなのか、倉庫なのか、舞台なのか・・

 縄文人は、ここで原始共産制社会を営んでいたのでしょうか。



 『マルクスの逆襲』(三田誠広著 集英社新書 2009年刊)

 三田誠広といえば、唯一1977年に芥川賞を受賞した『僕って何』しか読んだことが無い。その、ストーリーはほとんど思い出せないが、丁度私の過ごした学生時代(1973年から1980年にかけて)の雰囲気そのもので、学生運動の高揚期が過ぎた大学のキャンバスが舞台で、挫折感、無力感の漂う学生たちが、赤、白、青など色とりどりのメットをかぶり、何やら繰り広げられる小ドラマを描いた作品だったように記憶している。

 その三田がマルクスを語るというので、買ってしまった。

 著者の論旨はこうだ。(以下、引用では無く、私なりの言葉にした。)
先ず、かつてマルクスは神だった。ヨーロッパにおいても、この国の学生運動においても、マルクスは大きな影響力を持ち、この矛盾に満ちた社会を変革する希望の星だった。
 しかし、1970年代、マルクスを信奉した者達の末路は、社会主義社会の現実、連合赤軍の同志粛清であり、社会的な信用は地に落ちた。
 そして、何という皮肉であろうか、マルクスが描いた計画経済の理想は、実は官僚主導によって高度経済成長を遂げたこの日本社会にあった。
 さて、小泉政治で格差社会になったこの国を建て直すには、どうしたら良いか。それは、マルクスが理想とするコミュニティの再構築だ。そのためには、コミュニティの核となる家族、郷土、国家を愛することから始めるべきだ。

 読んでいて、まさか再生の鍵が愛国心に繋がるとは予想しなかったが、価値観が異なるゆえ、駄本とか、トンデモ本と言って切り捨てることは簡単なのだが、上記の三田のような考え方は、世の中の一般的な見方なのかも知れない。左翼が振り向きもされない現実からは認めざるをえないのだろう。

 わずかに三田に反撃をすると、ソ連も中国も、レーニンも、トロッキーも、ポルポトも、学生運動の諸セクトも、全共闘も・・全部まとめてマルクス主義者という大雑把な括り方にはあきれるばかり。

 なぜ、都市への労働力の供給源として農村共同体が解体され、また核家族化された家庭も資本主義経済の中で解体に瀕し、国家もグローバル企業により国境が乗り越えられているのか。それらの現実から歴史が後戻りできない情況において、あえて家族、郷土、国家愛を唱える突然の飛躍した論理。

 

 
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『東北知の鉱脈Ⅱ』

2009-08-13 19:44:26 | Weblog
 『東北知の鉱脈Ⅱ』(赤坂憲雄著 荒蝦夷 2009年刊)

 第2巻では青森県出身者として、津軽じょんがら三味線奏者の高橋竹山、ブルースの女王淡谷のり子が紹介されている。いずれも、東北の風土や血からその芸に憂いを含み、聞く者の心に響く。

 東北の血といえば、私も青森県人のクウォーター(1/4)である。母方の祖父母が青森県出身である。かつて祖母との会話では、三本木、東北町、乙供などの地名を聞いた記憶がある。しかし、東北人の寡黙で辛抱強いと言われる性格が、私の中に全く無いのはなぜだろうか。

 祖母が育ったのであろう土地を初めて訪ねたのであるが、江戸時代のそこは三本木原と呼ばれた荒涼たる原野であり、それを開発したのが新渡戸稲造の祖父新渡戸傅だそうだ。(近頃、あちこちで新渡戸稲造に出会うが。)

 江戸時代の末期、傅は、奥入瀬川から稲生川という農業用水を引いてこの地を穀倉地帯に変え、またこの国で最初に碁盤の目状の都市計画街路を作った人だそうだ。十和田市内には新渡戸稲造記念館があり稲造を祭ってあるが、三本木にとっては、祖父傅の貢献の方が大きいことがわかる。

 アーケードのかかった商店街の状態を見ると、一時は繁栄を誇ったであろうが、現在はシャッターが並び、あちこちが空き地となっている。郊外には、大型店が進出し、中心部が空洞化する典型的な地方都市の姿であった。

 昼食は、大昌園という焼肉屋さんで、十和田名物の「バラ焼き」。牛のバラ肉とタマネギだけを甘い(林檎か)タレでからめて鉄板の上で焼いて食べる。十和田でしか食べることのできない、しかし十和田市内のほとんどの食堂で食べることのできる名物料理だそうだ。
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『東北知の鉱脈Ⅰ』

2009-08-12 14:51:43 | Weblog
 『東北知の鉱脈Ⅰ』(赤坂憲雄著 荒蝦夷 2009年刊)

 旅をすると寄りたくなる所、地元の書店とデパートの食品売り場、その地方の雰囲気が良くわかると思っているため。

 青森市内の書店、成田本店には地元の出版コーナーがあった。そこで現在の東北のマイブームともいうべきは、「地域学」という分野。「津軽学」「岩手学」「仙台学」と題された雑誌が発行されている。

 本書も、著者の専門分野である民俗学をベースに、東北に固有の知や思想のありよう「東北知」を再発見する試みである。6県12人の有名人を紹介する中で、青森県出身者として取り上げられているのは、両者とも弘前生まれの探検家笹森儀助と詩人寺山修司である。

 地域学という分野が学問的に成立しているのかどうかはわからないが、確かなことは現在の東北が「東北」という地域を意識していることだ。それは、従来のどちらかというと本州の中での辺境の地、過疎、出稼ぎといったネガティブなイメージというより、青森市内で感じた2010年12月に新幹線が青森まで開業されることによる高揚感のようなものとは無縁ではないように思う。

 しかし、青森に到着して直ぐ立ち寄った「朝市寿司」は、いらっしゃいませもなくメニューの質問にも無愛想で、おやじもおばちゃんも皆寡黙だった。青森で乗ったタクシーの運転手さんは、2人とも寡黙だった。
これが、東北人の特徴なのかなと思ったが、翌日の十和田観光鉄道バスの運転手さんは、人懐っこくバスに迎えてくれた。「十和田までバスで行く観光客はいないよ」「現代美術館は、バスを降りたら後ろに向かって左に曲がりな」「帰りは、4時半のバスだったら自分も青森までもどるよ」
 十和田市からの帰りに偶然、十和田観光鉄道の駅で再開した時もこちらのことを覚えてくれていて、「これから焼山さ行って来る」と話してくれた。

 今さらながら東北は、自らの地のアイデンティティを模索しているように感じる。本州の最北端、辺境の地なのであろうが、北海道はその先、海を隔てた先にある。東北人から見た北海道はどのように映っているのか。

 道州制論議は、低調になってしまっているが、北海道だけの道州制は、今と何も変わり映えが無くつまらないが、津軽海峡を挟んだ北東北(青森、秋田、岩手)と一体になった道州制なんていうのはどうだろうか。南東北は、関東と北陸にくれてやる。


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総選挙

2009-08-11 14:42:01 | Weblog
 当ブログとブックマークで相互リンクしています「愛犬日記」の2009.8.6「Manifesto(政治的宣言)とManifest(集荷目録)とマニフェスト」では、マスコミの論調が政党間のマニフェスト比較に矮小化されていることを批判しており、至言であります。

(参考)憲法第59条
第1項 法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。
第2項 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。
第3項 前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。
第4項 参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。

 「ねじれ」国会の情況において、自公両党は、来る8月30日の総選挙で、現有3分の2議席を確保できない限り、過半数を確保し、政権交代を阻止できたとしても、憲法59条第2項の再議決権は発動できなくなるため、今後は、憲法第53条第3項の両院協議会の出番が増え、政局運営はより難しくなると予想されます。

 そういう意味では、闘う前から民主党の“負け”は無い選挙です。

 さて、公明党と創価学会は、どう動くでしょうか。連立与党という考え方はあっても、連立野党では何の徳にもなりません。公明党が恐れているのは、宗教法人法の改正、池田大作名誉会長の国会証人喚問、宗教法人の認可取り消しです。昨日の友は、今日の敵?自民党の中には、反創価学会派がおり、離反に対しては、相当の恫喝が予想されます。民主党の小沢一郎、国民新党の亀井静香も根本的には反学会です。

 公明党は、小選挙区で数名を当選させるために、全選挙区で自民党選挙に費やすエネルギーの無駄に疲れています。今後は、比例代表区に特化して、時の政権に是々非々の態度で臨んで、キャスティングボードを握る作戦に転換することでしょう。

 幸福実現党は、宗教法人「幸福の科学」の政治部隊です。私たちは、1990年2月の総選挙に真理党が出馬し、その後のオウム真理教の顛末を見ています。幸福の科学の今後を注視する必要があります。

 社会民主党、日共とも主張に「キレ」がありません。鳩山の全く理念の端くれもない「政権交代」というフレーズにかすめとられています。このままでは、両党とも泡沫政党化してしまうでしょう。

 

 



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夏休み

2009-08-07 21:34:05 | Weblog
 明日から短い夏休みをとります。仕事の区切りがつかなくて、昨日までは無理かなと思っていました。

 従って、いつものように計画性の無い休み方になります。

 それで、突然、青森に行くことにしました。特に、意味は無いのですが、3日に行くはずだったNHKホールでの拓郎コンサートの代替と考えることにしました。

 行き先は、乗った電車の中で考えようと思っています。



 ケータイを持って4年位になります。便利でもあり、束縛もありです。

 電車の中などで、親しい人同士の会話を聞いている時、特に違和感を持ちません。しかし、ケータイでの会話を近くでされると、不快な感じがします。

 近頃は、それもフツーの出来事として慣れてしまったようにも思えます。

 人の話には「対話性」があるためでしょう。お互いの会話が聞こえる場合は、そのやりとりの雰囲気の中に「対話性」が感じられるからなのではないでしょうか。

 それが、ケータイでは、こちらの話しての言葉しか聞こえないため、どのような相手とどのような会話なのか、その「対話性」が感じられないことに違和を感じるのではないかと思います。

 では、ドラマの電話シーンはどうなのでしょうか。そこに違和を感じないのは、「対話性」があるからです。それまでのストーリーから容易に相手が想定でき、相手の話している内容も想像がつきます。

 次回は、「メール」について考えてみたいと思います。

 



 
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『「脱」世界同時不況』

2009-08-02 09:34:44 | Weblog
 『「脱」世界同時不況 オバマは金融危機を克服できるか』(金子勝 アンドリュー・デウィット著 岩波ブックレットNO.758 2009年刊)

 私は、当ブログ2008.10.25,26で、同じ著者達の『世界金融危機』を論じた。本書は、その岩波ブックレットとしての続編である。まず疑問が浮かぶ。なぜ1年前に「世界金融危機」だったものが、「世界同時不況」にレベルダウンしたのか。

 北海道新聞の論壇時評が、6月末から金子勝氏に変わった。ブックレットの要約が時評にまとまっている。氏の論旨を紹介する。

 景気が底入れしたという観測があるが、金融危機の収束は未だ先である。米国の情況は1990年代にこの国に似てきた。厳格な不良債権査定も無く公的資金が銀行に投入されている。

 不況と政府の景気対策で米国の財政赤字が膨らんでいる。その結果、長期金利が上昇を始めている。そこからは、ドル安(円高)、石油高が日本を襲い景気が腰折れする可能性がある。

 最後に氏が語る展望は、この世界的な金融危機は、地球温暖化とエネルギー危機でもある。「100年に一度の危機を乗り切るにはエネルギー革命が必要だ。いまや各国政府は規制による投資誘導策をとり、エネルギー転換に伴う爆発的な更新需要を引き起こそうとしている。だが、規制が市場の活力を削ぐといって、日本では自然再生エネルギーに関して投資誘導策がとられていない。このままでは世界から取り残される。

 
 この情況認識は全て誤っていると考える。まず、地球温暖化という現状認識である。温暖化には科学的根拠が本当にあるのか。更新需要への期待は、「資本」と同じだろう。ITバブルの次は環境バブル化。問題は、新たな投資先が見出せない資本の過剰流動性だ。

 氏は、竹中平蔵に代表される新自由主義者(規制緩和論者)を批判してきたが、適切な「規制」がなされれば、適切な経済運営ができると考えているのだろうか。ある日共のローカル議員は自分のHPで「目指すべき社会はヨーロッパのようなルールある資本主義社会」と語っているのと同様ではないか。(余計はことだが、この議員の主張は日共方針とは違うような気はするが。)

 結局、昨年と同じ結論になってしまうのだが、金子氏の分析は、丁寧に現象を追っているのは間違いないが、資本主義社会の歴史性(限りがあるという意味で)、腐朽性(矛盾に満ちている)の観点がないため、「大きな物語」としての体制論がないのである。だからこそ、体制批判をしているような顔をしながら、マスコミで使われているのだ。
 
 


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『いまわの際に言うべき一大事はなし』

2009-08-01 21:14:52 | Weblog
 今週は、結構ハードであった。夜の部は、営業で3日、社員との飲み会が2日。特に昨日の飲み会は、盛り上がってしまって1時半まで。さすがに、お疲れモードの一日だった。



 『いまわの際に言うべき一大事はなし』(山田風太郎著 角川春樹事務所 1998年刊)

 戦中派1922年生まれの山田風太郎から荒井敏由紀、小山晃一氏らが1996年12月から1998年4月まで12回にわたって聞き取りした記録。

 そのインタビューの最後の言葉が、「いまわの際に言うべき一大事はなし」であり、本書の表題になったのである。

 アルツハイマー症で不自由な生活をしている山田風太郎は、自らを「アル中ハイマー」と称したりで、ユーモアたっぷりの語りが収録されている。

 今にも死にそうなことを言ったり、自分はとぼけているのか、呆けているのかわからないといったり、そうかと思えば、死んでいく有名人について思い出があったり、全然関心が無かったりで、とっても笑える老人の弁である。

 山田氏は、本書の前に、『コレデオシマイ』という題のインタビュー記録が刊行され、本書の後にもう一冊刊行された後、ついに2001年に79歳で亡くなられた。

 80歳前後のお年寄りが、何に関心を持ち(関心が無く)、何を考えているのか(何も考えていないのか)が、よくわかる。センスがあってところどころ笑えてしまう。
コメント
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