寒くなったとは思うが、真冬に比べるとまだまだである。昨日は、3℃、今朝は-1℃の中をランニング。まだ吐く息は白くならない。涙も出ない。帽子が凍らない。アスファルトの上を走ることができる。目標のひとつであったが、年間練習距離が昨年を上回った。今年はまだ1か月ある。アキレス腱痛が治まればもう少し距離を延ばしたい。
『吉本隆明の経済学』(中沢新一編著 筑摩選書 2014年刊)その3
先日、私が住む地域の町内会で、次年度役員をどのように選ぶのか、打ち合わせを行った。しかし、それぞれ出来ない理由が並び、選考が難航、2回目でようやく会長以下の体制が決まった。これで、お祭り、ごみステーション、環境美化、女性部の活動など来年の町内会の業務は無事行われることになる。町内の住民は、新役員に仕事を付託したことになり、仕事は粛々と進んでいくと思うが、何よりそこには何の「権力」も発生しないことに私は着目したい。役員さんは、住民(国民)のために働くのであるが、何の権力も介在しないし、生じないのである。
一方、国家政治の世界は選挙モードに入っている。代議士候補は自分がなりたいと必死に運動を行っている。議員たちと町内会の役員はどこが違うのだろうか。片方は、できる根拠を並べ、他人を蹴落としてまでもなりたいのである。そこには、名誉欲や権力欲が存在するからではないか。中でも、他者に対する権力性が発生し、それも己や己に繋がる者たちの利につながる権力、すなわち利権が絡んでいるからではないか。
吉本氏は、資本主義社会に代わる未来をイメージする場合、キーワードは「交換」に代わる「贈与」であると言う。私には、「贈与」という行為が切り開く関係性がいまだピンとこないが、さらに私は、「権力性」の無い社会、「権力」の源泉になる国家も無くて良いと考えている。では、その場合、徴税など国家の仕事は誰がどのようにやるのか。それは、住民が町内会の役員へ仕事をお願いするように、住民が住民に対して、国民が国家では無く国民に対して、お互い交替しながら、業務の信託行為を順繰りに行うのが良いのではないかと考える。
第二部では、編者の中沢氏が本書の吉本氏の経済講演をコンパクトにまとめている。
第二部 経済の詩的構造(中沢新一)
吉本氏は、マルクスが『資本論』の価値形態論において、商品の二面性を使用価値と交換価値とに分析した構造把握の方法から発想する。詩は言語の意味と音の響きの結合でできている。言語は、指示表出と自己表出という二つの軸の結合としてつくられている。
人間の脳=心は、生起と喩という二つの過程を通じて意味増殖を行う。その増殖性を「詩人性」と呼び、この詩的構造を備えた脳=心が交換現象を発生させる。同様の現象が、物の交換でも起きる。商品の交換と贈与の交換である。資本主義社会では、一般的商品交換においては、等価交換の原則が貫徹されているが、前資本主義社会では「贈与」が一般的に行われている。
吉本氏は、資本主義の未来に関する第一の見通しとして、先進資本主義国は、「無償の贈与」を農業担当地域に与えることで、「無形の何か」、それは、潜在空間に内蔵されているアモルフな力を得、先進資本主義国で失われてしまった詩的構造を回復する。
第二の見通しとして、都市化の進行は必然であり、都市の内部は産業と天然自然の割合が理想的なハイブリット構造に変わる。このハイブリット都市の最深部には経済の詩的構造であるプライマルな構造がセットされる。
第三として、ヘーゲルの歴史概念では「アジア的段階」の前の段階である大地を開墾してしまわない「アフリカ的段階」、それは詩的構造を直接的な土台として造形された世界である。
「アフリカ的段階+ハイパー科学技術」が生み出す社会は、国家の先にある未知の世界を構想させる。レーニンもロシア革命を通じて国家の先にある世界を実現しようとしたのだが、「遅れたロシア」において失敗した。それは、ロシアの革命がアジア的段階という土台の上に行われたがゆえに、革命の中から近代科学技術と結合した恐るべきアジア的専制国家を生み出さざるをえなかったからである。
未来の革命は、超資本主義の先か、アフリカ的段階の先にしかあらわれないであろう。(以上、中沢氏から)