晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

中沢新一編著 『吉本隆明の経済学』 その3

2014-11-24 16:36:07 | Weblog

 寒くなったとは思うが、真冬に比べるとまだまだである。昨日は、3℃、今朝は-1℃の中をランニング。まだ吐く息は白くならない。涙も出ない。帽子が凍らない。アスファルトの上を走ることができる。目標のひとつであったが、年間練習距離が昨年を上回った。今年はまだ1か月ある。アキレス腱痛が治まればもう少し距離を延ばしたい。

 

 『吉本隆明の経済学』(中沢新一編著 筑摩選書 2014年刊)その3

 先日、私が住む地域の町内会で、次年度役員をどのように選ぶのか、打ち合わせを行った。しかし、それぞれ出来ない理由が並び、選考が難航、2回目でようやく会長以下の体制が決まった。これで、お祭り、ごみステーション、環境美化、女性部の活動など来年の町内会の業務は無事行われることになる。町内の住民は、新役員に仕事を付託したことになり、仕事は粛々と進んでいくと思うが、何よりそこには何の「権力」も発生しないことに私は着目したい。役員さんは、住民(国民)のために働くのであるが、何の権力も介在しないし、生じないのである。

 一方、国家政治の世界は選挙モードに入っている。代議士候補は自分がなりたいと必死に運動を行っている。議員たちと町内会の役員はどこが違うのだろうか。片方は、できる根拠を並べ、他人を蹴落としてまでもなりたいのである。そこには、名誉欲や権力欲が存在するからではないか。中でも、他者に対する権力性が発生し、それも己や己に繋がる者たちの利につながる権力、すなわち利権が絡んでいるからではないか。

 吉本氏は、資本主義社会に代わる未来をイメージする場合、キーワードは「交換」に代わる「贈与」であると言う。私には、「贈与」という行為が切り開く関係性がいまだピンとこないが、さらに私は、「権力性」の無い社会、「権力」の源泉になる国家も無くて良いと考えている。では、その場合、徴税など国家の仕事は誰がどのようにやるのか。それは、住民が町内会の役員へ仕事をお願いするように、住民が住民に対して、国民が国家では無く国民に対して、お互い交替しながら、業務の信託行為を順繰りに行うのが良いのではないかと考える。

 第二部では、編者の中沢氏が本書の吉本氏の経済講演をコンパクトにまとめている。

第二部 経済の詩的構造(中沢新一)

 吉本氏は、マルクスが『資本論』の価値形態論において、商品の二面性を使用価値と交換価値とに分析した構造把握の方法から発想する。詩は言語の意味と音の響きの結合でできている。言語は、指示表出と自己表出という二つの軸の結合としてつくられている。

 人間の脳=心は、生起と喩という二つの過程を通じて意味増殖を行う。その増殖性を「詩人性」と呼び、この詩的構造を備えた脳=心が交換現象を発生させる。同様の現象が、物の交換でも起きる。商品の交換と贈与の交換である。資本主義社会では、一般的商品交換においては、等価交換の原則が貫徹されているが、前資本主義社会では「贈与」が一般的に行われている。

 吉本氏は、資本主義の未来に関する第一の見通しとして、先進資本主義国は、「無償の贈与」を農業担当地域に与えることで、「無形の何か」、それは、潜在空間に内蔵されているアモルフな力を得、先進資本主義国で失われてしまった詩的構造を回復する。

 第二の見通しとして、都市化の進行は必然であり、都市の内部は産業と天然自然の割合が理想的なハイブリット構造に変わる。このハイブリット都市の最深部には経済の詩的構造であるプライマルな構造がセットされる。

 第三として、ヘーゲルの歴史概念では「アジア的段階」の前の段階である大地を開墾してしまわない「アフリカ的段階」、それは詩的構造を直接的な土台として造形された世界である。

 「アフリカ的段階+ハイパー科学技術」が生み出す社会は、国家の先にある未知の世界を構想させる。レーニンもロシア革命を通じて国家の先にある世界を実現しようとしたのだが、「遅れたロシア」において失敗した。それは、ロシアの革命がアジア的段階という土台の上に行われたがゆえに、革命の中から近代科学技術と結合した恐るべきアジア的専制国家を生み出さざるをえなかったからである。

 未来の革命は、超資本主義の先か、アフリカ的段階の先にしかあらわれないであろう。(以上、中沢氏から)

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中沢新一編著 『吉本隆明の経済学』 その2 

2014-11-22 20:22:42 | Weblog

 以前、金沢城址には金沢大学があったが、大学の移転後公園として整備が進み、城の一部が復元されている。北陸新幹線の開業がせまり、都市の魅力を必死でプロモートしようとしていることが伝わってきます。

 最近、無意識のうちに腕組みをしている自分にハッとすることが多いと感じています。会議や打ち合わせで腕組みは相手にいい感じを与えないと思っています。腕組みは、何にも考えていないのに考え深そうなポーズをしているような、自分に自信が無いので身構えているような、また自分の弱さを隠す完全な自己保身にも見えます。胸襟を開くという言葉がありますが、腕組みをやめようを今のテーマにしようと思います。

 

 『吉本隆明の経済学』(中沢新一編著 筑摩選書 2014年刊)その2

第五章 都市論

「像としての都市―四つの都市イメージをめぐって」(1992.1.21、日本管主催の講演)

 資本主義が消費資本主義の段階に入り、都市設計にクレオール化現象(稚拙化)が発生している。吉本の都市論の鍵は「視線」にあり、都市を視線の構造によって四つの系列に分ける。

 第一系列:低い住宅が並ぶ下町の市街地。人は身長の高さの水平な視線と、真上からくる視線とを同時に用いて都市の自立像を得ている。

 第二系列:ビルとビルの谷間につくられた人工的な広場。水平な視線に、下から上を見上げるしかない垂直な視線が交わっている。

 第三系列:異化領域とも呼ばれる。サービス業のためのビルの屋上に畑や林が設けられ、壁面に緑が植えつけられ、そこにハイテク工場が同居したりする。見上げた屋上から自然的(第一次産業的、排泄的)な要素が下に向かって落ちてくるような、ねじれた視線構造が生まれる。吉本が、一番興味を持っている系列であり、あとで氏の言う「超資本主義」の段階に関わってくる。

 第四系列:ビルの密集地帯で、高層階から別のビルを見たとき、いくつもの視野が上空で重なり合っている感覚が生まれる。上空にある視線同士が重なり合っている構造である。(以上、中沢氏解説から)

第六章 農業問題

「農村の終焉―〈高度〉資本主義の課題」(1989.7.9、「修羅」同人主催、長岡市で行われた講演)

 先進資本主義国においては、農村そのものがいずれ消滅に向かっていく。それは、農業が天然自然を直接相手にする産業だからであり、交換価値を価値増殖の原則とする資本主義では、農業が貧困化していく。

 吉本氏は、エコロジストや有機農法家に対して批判的だった。自然史の過程のように必然的であるものに対しては、それを受け入れた上で、出てきた問題についての対処を考えなければならない。自然史過程に逆行していても「オルタナティブ」なものがすぐさま可能であるように言う主張には、批判的であった。(以上、中沢氏解説から)

 農業問題に対しては、吉本自らが認めているように素人であり、『農業白書』の解説のような講演を行っているが、そこでは何事も語っていないし、凡庸で陳腐なものである。吉本は、農業からはもっとも遠いところにいる人であり、都会の人であり、東京の人だと思う。

第七章 贈与価値論

①「贈与論」(『母型論』 学習研究社 1995年刊)

②「消費資本主義の終焉から贈与価値論へ」(『マルクスー読みかえの方法』 深夜叢書社 1995年刊)

 吉本の贈与論は二つのタイプがある。一つは、未開社会の贈与慣行をめぐるものであり、国家の発生を結びつけた考察が展開される。

 未開社会では、母方の叔父に威信があり、父親の存在は影が薄い。これは、母親は出産をつうじて根源的な贈与をもたらす存在であり、それに比べ、父親の存在は形而上学的な意味しかもたない。「贈与は遅延された形而上学的な交換である」とされる。

 未開社会での贈与関係はいつも揺らいでいる。この揺らぎを停止させ、関係性を固定化する動きの中から国家が発生する。このとき贈与は貢納に変わり、その拡大がディスポティズム(専制)的国家を生み出す。

 もう一つは、消費資本主義の終末以後の人類史に関わる。消費資本主義は最終的に、交換価値のみによる先進資本主義の地帯と農業により食料を供給する地帯に分割される。その絶対的非対称を解消するためには、消費資本主義の地帯は食料調達地帯へ無償の贈与を行わなければならない。そうなると、交換価値が消滅し、贈与価値が問題になる。(以上、中沢氏解説から)

 吉本は、贈与価値は資本主義の始源にあらわれ、その後姿を消すが、資本主義の終末期である消費資本主義の中に再び姿をあらわすと言い、資本主義の次の社会のイメージに贈与が重要なポイントであることを示唆する。

第八章 超資本主義論

①「超資本主義の行方」(『超資本主義』 徳間書店 1995年刊)

②「世界認識の臨界へ」(『世界認識の限界ヘ』 深夜叢書社 1993年刊)

 1990年代半ばからのこの国の不況期にケインズ的政策は誤りである。消費資本主義の段階に入っている国では、公共投資は教育、医療、福祉などの第三次産業に向けなければならない。

 消費資本主義社会のほんとうの主人公は国民と企業体であるが、「支配の思考」は、それらがそのことに気付き、その意思を政治に直接反映させようとする事態を恐れている。それを超えると、超資本主義の段階に入る。

 吉本氏は、超資本主義の世界を、「アフリカ的段階」の要素を保存したままの世界、すなわち人間の心の原初構造がハイパー科学技術と結合した未来をイメージしていた。(以上、中沢氏解説から)

 

 根源的なところで吉本は詩人であると思う。詩人的であることによって、独創的な発想をするが、アカデミックな論理性には今ひとつ欠けている。吉本は、詩、文学批評、言語論、宗教論、史論など広範囲に思想を展開し、また現実社会への発言などを行ってきたが、なぜか社会学などの一部を除いて学会で氏の思想が論争になったことはないのではないか。学会では、吉本思想は、無視され評価の対象にすらなっていない。それは、吉本の思想が詩的発想から始まるゆえであり、氏の思想は常にモヤモヤと霧がかかったようなところがあって、肝心なところに論理的な飛躍を感じてしまう。しかし、それ故、吉本はこれまで誰も到達したことの無い領域で、誰も考えたことの無い仕事をしたのだと思う。ザクッとしているが氏の中には未来社会を構想するヒントが存在していると思う。

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中沢新一編著 『吉本隆明の経済学』 その1

2014-11-18 21:15:12 | Weblog

 政治の今に興味を失って久しいのですが、いつの間にかアへ首相は衆議院を解散することにしてしまいました。選挙費用が600億円かかる、それは無駄だと言われていますが、少なくとも国費600億円の経済効果(需要)があります。野党は、与党に300議席も許しておきながら、なぜ選挙を避けるのか理解できません。今は、議席の少ないことを無力の言い訳にできるが、中途半端に議席をとってしまうと、何にも考えていないことがわかってしまうので消極的なのではないでしょうか。

 私の理想の選挙結果は、自民党が議席は減らしながらも政権を維持できる負け方でアへが退陣、ネクスト石破です。他人の容貌を揶揄してはいけないのですが、あの顔がこの国の顔となった時の国際社会の反応を見たいと思います。

 

 『吉本隆明の経済学』(中沢新一編著 筑摩選書 2014年刊)

 本書は、中沢氏によって、吉本の講演から経済学に関するものを選び出して編集し、それぞれの章ごとに解説を書いている。私は、こと経済に関する吉本氏の言説には、常々違和を感じており、それはどの段階からなのかを明らかにしたい。

第一章 言語論と経済学

①「幻想論の根底―言葉という思想」(『言葉という思想』 弓立社 1981年刊)、②「言葉と経済をめぐる価値増殖・価値実現の転移」(『吉本隆明の文化学―プレ・アジア的ということ』 三交社 1996年刊)

 1970年代は、言語論の時代だった。言語のなにかの対象を指示したり、有意味なメッセージを伝える働きとしての「機能主義」、吉本は「指示表出」と呼ぶ、だけではなく、「自己表出」と呼ぶ心の内面の潜在空間からの力の表現とに組み合わせとしてできている。「自己表出」は、心の深層や身体性や情動の深みにつながる。吉本は、『資本論』の価値形態論を原初の発想とした。

 さらに、文学は言語の意味増殖機能によって可能となる。これも、資本の価値増殖機能に発想する。(以上、中沢氏解説から)

第二章 原生的疎外と経済

「三木成夫の方法と前古代言語論」(『新・死の位相学』 春秋社 1997年刊)

 吉本は、「心的現象論」で、自らの言語論を展開していく中で、身体内部への探求、内臓的領域に触れたあたりで限界に突き当たっていた。そこで三木成夫の研究と出会う。三木成夫は、内臓の諸活動に数億年のおよぶ生物進化の記憶が刻印され保存されていることを明らかにした。また、吉本の自己表出に関わる無意識や情動の源泉までもが、内臓的諸活動と関連づけられていた。三木は、原初的な生命レベルで起こっている「原生的疎外」の構造を示そうとした。(以上、中沢氏解説から)

第三章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」

「経済の記述と立場―スミス・リカード・マルクス」(『超西欧的まで』 弓立社 1987年刊)

 吉本は、古典派経済学のアダム・スミスの『国富論』には「うた」があり、リカードの『経済学と課税の原理』では「うた」が「ものがたり」になっているとした。それが、マルクスの『資本論』では、「うた」や「ものがたり」が消えて「ドラマ」になったとした。(以上、中沢氏解説から)

第四章 生産と消費

「エコノミー論」「消費論」(『ハイ・イメージ論Ⅲ』 福武書店 1994年刊)

 1980年代、日本は消費社会に入った。マルクスの時代は、「生産は同時に消費である」とされ、「必需的消費」だけであった。しかし、消費資本主義では、外食や高級車や新型電化製品やファッションなどに対する「選択的消費」が拡大した。吉本は、選択的消費では、「生産に対して大なり小なり時空的な遅延作用をうけることになる」、時間や空間のずれ(遅延)が発生して、生産と消費の分離がおこっている、と分析した。

 吉本は、現在を消費資本主義と名付ける。「生産に対する消費の時間的な、また空間的な遅延の割合が50%をこえた社会」「必需的な支出(または必需的な生産)が50%以下になった社会」「第3次産業が50%を超えた社会」といった特徴を有するという。これによって資本主義社会は決定的に変質したとする。(以上、中沢氏解説から)

 吉本の経済に関する言説の中で、ここが一番理解できないところである。仮に吉本の言う消費資本主義の社会に突入したからといって、資本の本質は変わったとは言えない。資本は、今では剰余価値の拡大をめざし一国の枠組みを超えて、グローバル化しているが、それでも本質的なところは変わっていないと考える。経済を消費の面からだけ見るのは皮相的であり、またこの国だけしか分析対象にしていない。吉本が、マルクスの思想、「資本論」の方法論から言語論を発想し、社会学的に社会現象を分析するまでは良いが、経済学としては通用していないと思う。完全に違和を感じる。

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浅野いにお 『虹ヶ原ホログラフ』 その2

2014-11-16 14:53:39 | Weblog

 もう少しで還暦になるということで、赤いちゃんちゃんこではなく、赤い長袖シャツを買ってもらった。今日は、気温3℃と寒かったが、ウインドブレーカーの下に着て13kmほど走った。どっぷりとかいた汗が乾きやすく、さらっとしていて肌に着かず、走り終わった後に身体が冷えることが少ないように感じた。

 

 『虹ヶ原ホログラフ』(浅野いにお著 太田出版 2006年刊) その2

 もう一度読んでみた。物語は現在と10年前の間を往復する。登場人物たちは、10年前もそれぞれのそれまでの因果を背負いながら、先行きなど誰にもわからない瞬間を生きていた。時には自分を殺して周囲に迎合し、またある時は沸き起こる憎悪をこらえきれずに。

 そして、10年後の現在も、大人になった登場人物たちは、忘れようとしていた10年前を様々な出来事によって想い出すことを強いられていた。それぞれは、何気ない瞬間を生きており、それがこのままずっと続くのだと思っているが、ある瞬間「世界に終わりが来る」のである。ある者は、自分自身によって「世界に終わり」を告げるのである。しかし、そんなことになろうなんて、それは誰にもわからない。

 結局、作者は暗闇の中で飛ぶ蝶の意味を最期まではっきりと明かしていなかった。ただ、この物語の全てを見ているのは無数の蝶たちなのである。

 私は、コミック(漫画)をあまり読まないので、他の作品と比べて本書が優れているのかどうかはわからないが、人間の持つ計り知れない奥底を描いた傑作だと思う。

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浅野いにお 『虹ヶ原ホログラフ』 その1

2014-11-14 09:04:10 | Weblog

 今シーズン初めての積雪。この雪は解けるであろうが、またしばらくアスファルトの上で走れなくなる。寒風の中、アイスバーンの走り込みの先に、春の喜びを一層感じることができる。さて、スノーランニングシューズに履き替えるとするか。

 

 『虹ヶ原ホログラフ』(浅野いにお著 太田出版 2006年刊) その1

 このブログ2014.11.2『ニッポン戦後サブカルチャー史』で触れた’00年代を代表する作品『虹ヶ原ホログラフ』を遅ればせながら読んだ。(もう一度読もうと思っている。)

 奇妙な物語である。登場する若者たちの心の奥底には、巨大で掴みようのない底知れぬ虚無が潜んでいる。ほとんどの若者が潜在的に精神的病理要因を抱えていると言ってもいいと感じた。これはこの物語の中だけのことではないのだろう。今の若者たちが例外なく有している心根なのではないか。その発現が、ひきこもりやいじめとなっているのであろう。

 学校では、相変わらず「夢や希望を持とう」「自己有用感を持とう」「相手を思いやる気持ちが大事」などと、綺麗ごとの言葉が流通しているようだが、果たしてこんな陳腐と思われるスローガンが若者たちの心に届いているのだろうか。

 否、ここまで書いてふと思った。この鵺のような正体不明の感覚は、若者の世界だけのものではないのではないか。TV番組を見ても、他人の私生活を暴いて平然とし、集団バッシングに喝采するワイドショー、乾いた笑いのバラエティ。この社会の中で確かな存在感を得ることができていないような者たちによるヘイトスピーチ。一国の首相(アへのこと。)すら、備えるべき資質を欠いており、ヘイトスピーチを国の最高権威を持つ国会の場で行っている現状だ。

 否、『虹ヶ原ホログラフ』に出てくる暗闇の中で飛ぶ蝶は、私(たち)自身である。

 

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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その13(最終)

2014-11-11 19:52:23 | Weblog

 金沢21世紀美術館、水槽の中から上を見るとこのようになります。見ている人が見られている。見られている人が見ている。人間が動物を見るのでもなく、動物が人間を見るのでもない。人間が人間を見て、見られるのです。

 ここ数日、「正義を装った頽廃」(吉本隆明から)という言葉にこだわっています。「進歩」や「ヒューマニズム」という言葉にも権力性を感じます。

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その13(最終)

 第一巻の最終章は、第二五章「近代植民理論」である。マルクスが直接に書いた『資本論』第一巻の最後は、「しかし、ここでわれわれが論じたいのは、植民地の状況そのものではない。われわれにとって唯一の関心の対象は、旧世界の経済学が新世界において発見し、はっきりと公言している秘密なのである。その秘密とは、資本制的な生産と蓄積の様式が、言いかえれば、資本制的な私的所有が、自己自身の労働に依拠している私的所有を破壊すること、つまり労働者の財産収奪を条件としている、ということである。」と結ばれる。

 資本主義社会には、労働者の私的所有を破壊し、資本家が労働者を搾取する自由がある。労働者の子は生まれながらにして労働者である。

 『資本論 第一巻 ㊤』(今村仁司・三島憲一・鈴木直訳、筑摩書房マルクス・コレクションⅣ 2005年刊)の冒頭に戻る。

 マルクスは『資本論』の刊行にあたり第一版序文の結びで(P11から引用)「科学的な批判であれば、私はあらゆる批評を歓迎する。しかし、私はいわゆる世論なるものには、私は一度も譲歩したことはない。世論の偏見に対してはいまもなお偉大なフィレンツェ人の格言がまた私の格言でもある。(汝の道を行け、そして人びとの語るにまかせよ!)」と述べる。

 ここに、『資本論』の刊行に当たってマルクスの決意が示されている。『資本論』に至るまで数々の著作を刊行し、実践活動を行って来る中で、数々の理論的な対立があった。しかし、この社会の本質を明らかにするというマルクスの揺るがぬ決意が示されている。

 ほぼ1年かけて『資本論』第一巻を自分なりの読み方だったが読み終えた。私が、マルクスの心情が溢れている部分に注目して読もうとしたのは、資本の論理の方は『資本論』が刊行された約150年前と比べて現代ではかなり変質していると思われるからである。しかし、近年は、ひところに比べて資本の暴力性が再び露わになってきており、マルクスの心情に学ぶべきところも多いのではないかと思ったからである。

 マルクスがわずかしか書き残していない資本主義社会に代わるオルタナティブ、次の社会を考え続けたいと思っている。

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「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その12

2014-11-06 20:21:55 | Weblog

 金沢21世紀美術館の人気展示、水槽の中に人間。

 鵡川町などでイワシの大群が浜に打ち上げられたと報道されています。地震など不吉なことの前兆などという人もいるようですが、私が小学生の頃、50年近く前に釧路の浜でもありました。高波が押し寄せる中、ピチピチはねる活きのいいイワシを拾って帰ったら、母親に褒められました。また、釧路川にサンマの大群が押し寄せたこともあります。岸壁からバケツにひもを付けてすくうとサンマが面白いように採れました。昔は、危ないからやめなさいなんて言う大人はいませんでした。あまり神経臭く考えてはいけません!

 

 「『資本論』の中におけるマルクスの心情」 その12

 第二四章「いわゆる原初的資本蓄積」第七節「資本蓄積の歴史的傾向」では、資本主義社会の成立までの歴史とその限界、それに代わる社会についてのイメージが示唆される。

 (P571)「資本の原初的蓄積は、直接に生産する者たち(農民、職人など)の財産剥奪を意味している。自分自身の労働によって成り立っていたような私有財産の解体である。」これは、(P573)「個人がばらばらにもっていた生産手段が、社会的に集中された生産手段に変えられることであり、多数の民衆の土地、生活手段と労働手段の収奪こそが、資本の前史」なのである。さらに、マルクスはこの資本主義社会の誕生について「いかなる容赦もない暴行によっておこなわれ、不潔きわまりなく、汚辱にみちた、けちくさく醜悪な情熱に駆り立てられていた。」と言葉を尽くして批判的に表現する。

 次に、(P574)「資本制的生産に内在する法則である資本集中の法則」によって、「少数の資本家による多数の資本家の財産収奪、労働プロセスにおける共同作業の形態の発展、科学の意識的な技術への応用、すべての民族が世界市場のネットワークに組み込まれる。」と資本主義社会の歴史的傾向について粗描する。

 そして、「資本の独占は、生産様式そのものを束縛しはじめる。生産手段の集中、労働の社会化は、ついにその資本制的な被膜と合わなくなるところまでくる。そして、この被膜は吹き飛ばされる。」ここで遂に、マルクスは声高らかに「資本制的私的所有の終わりを告げる鐘が鳴る。収奪者たちの私的財産が剥奪される。」と宣言する。

 資本主義社会が独占段階で行き詰まり、資本主義社会の終わりが宣言されるが、ここには論理的な飛躍があり、次の社会への変革プロセスなどは示されていない。マルクスの主観的願望といって良いであろう。ここに、マルクスに続く後世の世代が、「革命」を必然的なものと思い込んでしまった原因があったと考える。

 さらにマルクスは、(P575)「個人が自分の労働によって得た、分散化した私的所有が資本制的な私的所有へと変わっていったプロセスは、すでに社会的な生産経営に現実に依拠している資本制的所有が社会的所有へと変わるプロセスに比べれば、比較にならぬほど長く、苛烈でかつ困難をともなう過程であった。先の場合には、少数の略奪者によって膨大な民衆が搾取された。それに対して今回は、少数の略奪者を民衆が略奪するのである。」と結ぶ。

 まさに、体制転覆ということになるが具体的な方法論には触れていない。民衆が略奪者を略奪する、否定の否定ということになるが、その後がどのような社会を目指すのかといったイメージ、それを実現化する方法については何も語っていない。自分で考えろ!ということである。

 そして、この章の最後に、(註252)「産業の進歩は、競争によって労働者を孤立させる代わりに、アソシエーションによる彼らの革命的統合をもたらす。巨大産業の発展とともにブルジョアジーの生産の基盤、彼らが生産物を自分たちのものとしていた基盤が、彼らの足もとから取り払われていくのである。要するにブルジョアジーは自分たちの墓彫り人を作り出しているのだ。今日ブルジョアジーに対立しているいっさいの階級のうちで、プロレタリアートだけが現実に革命的な階級である。」とカール・マルクス、F.エンゲルス共著『共産党宣言』から引用している。

 これが、「正義を装った頽廃」(吉本から)集団、前衛党の結成根拠である。残念ながら、否幸いなことに、私の会社のまわりの同僚で、現実社会を手放しで肯定しないが、この前衛党と称する集団の言っていることをそのまま信用しているものも皆無であると言える。ここが思案のしどころである。

 

 

 

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『ニッポン戦後サブカルチャー史』

2014-11-02 10:27:41 | Weblog

 アベノハルカスは、タワーではなくすごく高いビルでした。床がガラスで透けている部分に乗ると身体がすくみます。

 3連休のうち、土、月と営業があり、今日だけが休みなのですが、雨が降っていて・・・走ることができません。スキッと汗をかきたいなあ。

 

 『ニッポン戦後サブカルチャー史』NHK Eテレ 

 2014.8.1~10.3まで毎週金曜 午後11時より全10回放送、撮りだめしたものを見終る。講師は演出家の宮沢章夫氏(1956年生まれ)、生徒にはジャニーズ事務所の俳優風間俊介氏の組み合わせも良かった。風間氏の博識ぶり、的確な分析、コメントが番組を引き立たせたと思う。

 私の視点だが、これまで直接サブカルに浸かったり、体験したりしてきているが、戦後サブカルの流れの中で、単なる懐メロ的な回顧ではなく、どこまで着いて行けていたのか、どの辺りから吹っ切られてしまったのか、そんなことも確認してみたかった。

 結論から言うと、1954年生まれの私は、宮沢氏より2歳年長であるが、1990年代半ば位からであろう、現象としてはそういうのもあったなと記憶することもあるが、2000年代に入るとかなり着いて行けてない、接点が無い、理解の範疇を超えている状態であることがわかった。

 時代に吹っ切られて20年である。決して新し物好きが良いとは言えないが、「今、私たちはどの様な時代に生きているのか」などと問うている割には、全くイケていないのだなあとガッカリである。

 以下、ノオトとして、番組を粗描するが、▲は私のガラパゴス印である。

①  1945年から50年代 

 宮沢氏はサブカル元年を自分が生まれた1956年と定める。石原新太郎「太陽の季節」

②  60年代

 新宿が拠点、フーテン、前衛芸術、JAZZ、アンダーグラウンド。大島渚「青春残酷物語」、唐十郎「状況劇場紅テント」、白戸三平「カムイ伝」、赤塚不二夫「天才バカポン」、ちばてつや「あしたのジョー」

③  70年代

 深夜放送、雑誌。パックインミュージック、荒井由実、はっぴいえんど、「宝島」、「ポパイ」、「アンアン」

④  80年代

 原宿、渋谷が拠点、テクノ、ファッション、広告文化。YMO、DCブランド、パルコ、「不思議大好き」、「おいしい生活」

⑤  90年代

 秋葉原が拠点、オタク、アニメ。▲コミックマーケット、▲フィギュア、▲コスプレ、▲岡崎京子「リバース・エッジ」、▲「新世紀エヴァンゲリオン」

⑥   00年代

 OTAKU。▲ニコニコ動画、▲初音ミク、電車男、▲浅野いにお「虹ヶ原ホログラフ」

  浅野いにお「虹ヶ原ホログラフ」を読んでみようかな。

 

 

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