晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

私の吉本隆明への親和と違和

2014-06-29 17:11:24 | Weblog

 私の吉本隆明への親和と違和

 この週末は、土日とも営業があったのだが、昨日は午後から久しぶりに公開講座を受講した。2014年度北海学園大学市民公開講座で、テーマは『グローバル「資本論」』で、神山義治経済学部教授、平野研准教授、大屋定晴准教授の3人から講演を聞いた。身なり、恰好から若く、独創的な講師が、大きな声で堂々とマルクスを語ることに驚いた。

 1989年東欧革命以降、マルクス株は売られ続け、この20年間はマルクスを論じる人は大学にいなくなったと思っていたのだが、確実に潮目は変わったのだと感じた。これについては、後日書きたいと思う。

 

 『思想と幻想』(対談者 鮎川信夫・吉本隆明 思潮社 1981年刊)の対談を読み進めながら若い頃から私が持っていた吉本に対する違和の原因が少しわかった。

 それは、吉本氏の仕事が、思想なのか、文学なのか、ということに繋がる。私のように。文学に対する知識や関心が薄い者にとっては、氏の仕事の思想的な側面には親和性を感じるのであるが、吉本氏は元々詩人であり、直観力で論理をもっていくところがある。そこの文学的といっていいと思われるところに違和を感じてきたのだと思う。

 これまで情況論は何とか吉本に言わんとすることころについて読めていたと思うが、『心的現象論』『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』の氏の代表的な仕事に対しては、現在でもその難解さに戸惑いを感じている。

 また、これとは逆の観点から吉本に親和感を持っている。それは、氏の心や言語などについての仕事が、その非論理的と思われる対象に対して情緒的な切り口では無く、真っ向から論理的な分析を試みている点である。合理的な視点といってもいい。それは、吉本氏が理系出身ということも影響していると思う。事象に対するあくまで分析的で論理を構成しようとする姿勢は、私も理系出身なので、親和感を持てるのだと思う。

 

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『日本鉄道史 幕末・明治篇』

2014-06-23 21:23:21 | Weblog

 足の裏に滑り止めがついていて、指を一本一本意識して走ることができます。優れモノのひとつだと思います。

 

 『日本鉄道史 幕末・明治篇 蒸気車模型から鉄道国有化まで 1854-1906』(老川慶喜著 中公新書 2014年刊)        

 来年、ついに北海道まで新幹線が繋がる。

 新幹線建設の歴史を振り返ってみたい。今から丁度50年(半世紀)前の1964年に東海道新幹線(東京―新大阪)が開通した。続いて、1975年、山陽新幹線(新大阪―博多)で九州まで繋がった。いわゆる太平洋ベルト地帯がこの国で重視されていることがわかる。

 次に、1982年には、上越新幹線(大宮―新潟)と東北新幹線(大宮―盛岡)、1985年には、(大宮―上野)が繋がった。新潟県の田中角栄、群馬県の中曽根康弘、福田赳男といった有力政治家の力も影響しているのだろう。しかし、東北新幹線が新青森まで開通したのはずっと後になって2010年のことである。

 1997年には、長野新幹線と呼ばれていた北陸新幹線が、高崎―長野間で冬季オリンピックの開催に合わせて開通した。ただし、長野―金沢間が開通するのは2015年になる。2011年には、九州新幹線が博多―鹿児島中央間を走った。

 そしてようやく、2015年に北海道新幹線が新青森と新函館北斗間を走る。走ると言っても本州と繋がっただけで、北海道内を走るまではまだまだ時間を要するであろう。

 山形、秋田はミニ新幹線でお茶を濁され、最期まで残された手つかずの地域は、山陰、四国だけとなった。それより先に、リニアによる中央新幹線の方が先に整備されるであろう。

 

 『日本鉄道史 幕末・明治篇』によると、1872(明治5)年に東京―横浜間で、1874(明治7)年には大阪―神戸間が開通し、関西圏では京都、大津と延長される。明治の初めは、首都が東京に移ったとはいえ、長く都があった関西の力があったためではないだろうか。

 1880(明治13)年には、何と北海道で全国3番目の鉄道(幌内鉄道)が手宮―札幌間で開業した。当時、北海道の開拓に国を上げて取り組んでいたことがわかる。

 東海道線の新橋―神戸間が開通したのは1889(明治22)年のことになる。1891(明治24)年には、九州で門司―熊本間、上野―青森間が開通した。

 現代の新幹線と違うのは、東北、北陸、山陰といった日本海側の整備が進まず、上越線のように太平洋側と結ぶ路線も遅れていた。四国は、当時から全く手つかずの状態であった。しかし、北海道内の整備は速く、1906(明治39)年の時点で、函館から小樽、札幌、旭川、名寄まで、旭川からは落合―帯広間を除いて釧路まで、岩見沢から室蘭までと、現在の鉄道網の骨格がほぼ出来上がっていた。明治の時代、北海道が重要視されていたことがわかる。

 来年、ついに北海道まで新幹線が繋がる。しかし、問題はそれからであろう。並行在来線の問題だ。小樽経由なので、札幌―新千歳空港―苫小牧間の路線には直接の影響は少ないだろうが、本州までの乗客が新幹線に移行したならば、運行回数の減は避けられない。変わらず航空機を選んだなら、新幹線は赤字でJR北海道の経営の足を引っ張ることになるだろう。

 東京まで90分の航空機プラス空港までの移動時間と新幹線で5時間のどちらを選択するのだろうか。札幌までの建設を始める前に議論が必要と考える。

 

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『【極私的】60年代追憶 精神のリレーのために』

2014-06-17 20:44:59 | Weblog

 所用があって琴似にあるケルン書房という古書店を訪ねました。博識で楽しい店主と少しお話をした後、コーヒーの美味しいお店を紹介してもらいました。「サッポロ珈琲本店」、JR琴似駅に近く、建物は以前は別の何かに使っていたものを改造したのだと思います。イノダコーヒー亡き後、久しぶりに美味しいと思える珈琲に出会えました。

 

 『【極私的】60年代追憶 精神のリレーのために』(太田昌国著 インパクト出版会 2014年刊)その1               

 私と同じ釧路市出身の太田氏の論考にはいつもなるほどと気付かされることが多々ある。本書は、著者の前著『テレビに映らない世界を知る方法』(太田昌国著 現代書館 2013年刊)に続く時代批評である。(このブログでは、2013.5.28から6.11まで4回連載)

 1943年生まれの太田氏にとって1960年代とは、17歳から26歳までの間にあたり、釧路での高校時代から東京での学生時代、そして社会人成り立て位までにあたる。1954年生まれの私は、氏よりひと世代あとなので、6歳から15歳、釧路での小学生から中学生の頃になる。

 私は、いつも太田氏の著作で描かれる一昔前の釧路の風景を読むと、なんだか懐かしくも切なくなる。本書の3箇所ほどを引用したい。

 「1950年代後半、当時私が住んでいた釧路の中学校の図書室にあった彼(清水幾太郎)の書物を通してだったと思う。当時、北海道は『革新王国』と言われるほどの土地だった。社会党は一定の政治勢力を擁する政党であり、炭鉱労組・電電公社労組などを中心に、組合運動も盛んだった。これらの政党と労組が、反戦・平和運動の主軸に確固として存在していた。」(P81)

 私が政治少年になったのも釧路という政争のまちに育った影響だと思う。太平洋炭鉱労組、国労、北教組、本州・十条製紙労組と大きな労組が力を持っていた。1965年(5年生)10月だったと思うが、市役所労組出身で社会党から出馬した山口哲夫が激しい選挙戦の末に市長になった。工場誘致条例を撤廃して、ゴミ収集を無料化するなど、政治を身近に感じる毎日だった。なお、太田氏の父親は、社会党の道議会議員である。

 「放課後、釧路の繁華街へ出た。信頼を寄せていた高校の教師たちが激しいジグザグ・デモの先頭に立っていた。少し離れた場所で、大学生たち百人足らずのデモも行われていた。北海道学芸大学釧路分校があったから、そこの学生たちだった。」(P126)

 子どもの遊びにも「安保安対!」のシュプレヒコール、「岸さん、岸さん、なぜ泣くの♬」の替え歌が登場したことを覚えている。小学校に入る前から親に連れられて毎年メーデーにも参加した。生まれた時からデモ好き少年だった。血が湧き肉躍る衝動を抑えることができるようになったのは、かなり最近のことである。

 「私が通っていた高校の文化祭の名物は、行灯行列である。1960年秋、安保体験を共有する私たちは、日米安保に象徴される政治を風刺する立体をいくつも造り、中に行灯を灯して街中を練り歩いた。」(P129)

 1970年4月から1973年3月、私は太田氏と同じ湖陵高校に通った。私たちのクラスの行灯のテーマは思い出せないが、3年間クラスは途中で変わったが、何故か文化祭で毎年お化け屋敷をやったことを覚えている。春採湖の湖畔から葦を刈り取ってきて、お化けを作って、結構人気のある教室だった。

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『レッド Red 1969-1972』第5巻、第6巻 & 『落ちたって、いいじゃん!』

2014-06-14 20:42:14 | Weblog

 『レッド Red 1969-1972 5』(山本直樹著 講談社イブニングKCDX 2011年刊)                       

 巻末に作者である山本直樹氏と作品中では恵那検索と呼ばれている京浜安保共闘で活動家だった人物との対談が行われていて、山本氏の顔写真が掲載されている。

 私は、これまでコミックをほとんど読んでいないので、というより絵と短文からなる漫画といわれるもののストーリーを巧く追えないというか、理解ができないでいたので、他の作者の画風と比較をきちんとできないのであるが、山本氏の画は、人間の表情、当時の服装、まちの風景、山岳ベースの木、草、石、空、闇について、一本一本の線が繊細で細部にもこだわった書き込みが行われていると感じる。登場する人物は皆ナイーブでどこか不安を抱えた表情を見せていて、世間で作られた極悪非道という連赤事件のイメージとはかなりギャップがある。これは、あの時代、学生であれば、誰しも、ああいうことに関わる可能性があったということを作者が示唆していることの表れなのだろうと思う。

 『レッド Red 1969-1972 6』(山本直樹著 講談社イブニングKCDX 2012年刊)   

 この巻でも巻末で作者である山本直樹氏と作品中では元赤色軍活動家キム氏として登場している金廣志(キム・クヮンジ)氏との対談が行われている。金氏は、元赤軍派、全国指名手配で15年間逃亡、時効成立後、塾講師の道となる。すk在日、高校中退と激動の人生経験を活かし、今ではカリスマ講師と呼ばれている。

 金氏の著書に、『落ちたって、いいじゃん! 逆転発想にこそ南関中学合格のカギがある』(金廣志著 角川書店 2009年刊)がある。

 本書では金氏が、連赤事件の後、自問と自責を繰り返した末にたどり着いたのは、「倫理を突きつめれば悪と化す」という結論だという。閉ざされた世界のなかでの理念や理想の追求は、限定された倫理性を絶対視する事態を招く。結果的に、少しの言動の違いや心情の揺れが、互いの本質を弾劾する大問題となっていった。(いわゆる「総括」)

 そして、これは連赤だけではなく、理念や理想を掲げる共同体においては、常に生じる可能性があると警告する。例えば、なまじ教育熱心と言われている教師は、「・・してはいけない」「・・であるべき」と「いい子」を作ろうとする。やがて親や子どもを巻き込んだ集団的無意識となり、個として生きようとしはじめる子どもを懐柔し、抑圧しにかかる。

 社会では、口当たりの良いたてまえや道徳が流布し、私たちの考えをからめとろうとしている。「偉そうに見えるもの」「正しそうに見えるもの」に同調してはいけない。

 金氏は、以上の省察から、塾で子どもたちに「自分で考える力をつけること」にこだわる。「君はどう考えるんだ?」「そう考える君は何者だ?」と。

 

 私は、連赤事件を別世界のこととしてはいけないと思う。少し違えば当事者であったかもわからないし、今、現実に自分が属している共同体が連赤と同様の病理に陥っているのかも知れないから。

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AKB総選挙

2014-06-08 10:33:47 | Weblog

 久しぶり雨の日曜日。昨日は、町内会で花壇の花植え、それから30kmほど走ったので、今日の雨は恵みの雨。

 

 向いの家の石垣に毎年セキレイのつがいがやってきて巣を作ります。既にひな鳥が生まれているらしく鳴き声が聞こえます。今日は朝から雨が降っていますが親鳥は必死になって餌を巣に運んでいます。

 セキレイが何年生きるのかわかりませんが、何世代にもわたって同じ場所で巣作りをしているのでしょうか。場所の記憶とDNAに子育ての方法がインプットされているのでしょう。

 

 昨夜は、19時からBS日テレで谷村新司と吉田拓郎の特集を見ようと思っていたのですが、AKB総選挙に見入ってしまいました。

 これまでのプロヂュース側が作ったアイドルから、ファン側が作るアイドルへ、とイドル像も変わったと思いました。私の以前のアイドルのイメージは、度胸のある(一番大事)チンピラなお姉ちゃんをスカウトしてきて、化粧と必要があれば整形をして、鼻にかかった発声を練習して、虚像を損なわない受け答えを仕込んでデビューさせるといったものです。でも可愛いいならば全て許されます。

 AKBは、メンバー同士がライバルであることを隠しません。悔しいとか、嬉しいとか、より本音に近い言葉で語っています。気になるのは、あまりにも若いうちから競争をしているのでしょう、二十歳を過ぎたメンバーが老けた感じになってしまっています。

 1位になった渡辺麻友はメンバーの中で一番きれいだと思いますが、私は2位の指原莉乃は日頃の切れのあるコメントといい、博多のメンバーを育成した手腕といい、ある意味天才だと思います。16位に滑り込んだ川栄李奈は怪我の功名というところでしょうが、順位に作為を感じます。

 先月のミュージックフェアで、1970年代アイドルの南沙織と吉田拓郎のデュエットが放映されていた。1974年の映像で、曲名は『春の風が吹いていたら』。一人ぽっちで寂しく切ない曲ですが、名曲だと思います。今見ると南沙織は清純なイメージですが、中々気が強そうにも見えます。さすが、拓郎を振っただけのことはあります。

 

 

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『カラスの常識』

2014-06-03 19:50:20 | Weblog

 京都伏見稲荷大社名物、稲荷煎餅きつねちゃん。縁起物なのでしょうが、まるでデスマスクのようです。食べるとサクサクしていて甘さ控えめで美味でした。

 

 『カラスの常識』(柴田佳秀著 寺子屋新書 子どもの未来社 2007年刊)

 夕方、マンションの屋上に集結したカラスの大群を見ると、地震か雷雨か、天変地異の前兆かと思ったりする。毎年ランニングの途中で必ずカラスの急降下襲撃を受ける場所がある。私を覚えているのだろうか。

 また先日は走っている直前を、死んでいると思われるぐったりとしたカラスをくわえた大きなカラスが横切って行った。その後仲間たちが大騒ぎ。私にとってはあまり相性の良くない動物である。おそらく多くの人にとっても。

 本書は、そのカラスについての疑問に丁寧に答えてくれる。発行が2007年と少し古いが紀伊国屋書店札幌店では山積みにして販売キャンペーン中であった。1500冊が売れたと書いてある。その通りで興味を引き付けながら一気に読ませる好著。

 本書でひも解かれる私たちの代表的な疑問を示す。

 カラスは、黄色が嫌い?黄色いネットは有効か?

 凶暴で人を襲う?

 どこで死んでいるのか?死体を見たことが無い。

 ごみの収集日を知っている?

 光るものが苦手?CDをぶら下げるのは有効か?

 何でも食べる雑食?マヨネーズが好き?

 人を覚えていて恨みを持つの?

 カラスが来るとその家に死人が出る?カラスは不幸の知らせ?

 鳴き方に意味があるの?

 頭がいい?線路や道路の物を置く。

 昔と比べて、私たちの周りにスズメがいなくなったように感じる反面、カラスは増えているのでは。そして、海岸に棲んでいるはずのカモメが札幌中心部で見られるようになった。

 

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