私の吉本隆明への親和と違和
この週末は、土日とも営業があったのだが、昨日は午後から久しぶりに公開講座を受講した。2014年度北海学園大学市民公開講座で、テーマは『グローバル「資本論」』で、神山義治経済学部教授、平野研准教授、大屋定晴准教授の3人から講演を聞いた。身なり、恰好から若く、独創的な講師が、大きな声で堂々とマルクスを語ることに驚いた。
1989年東欧革命以降、マルクス株は売られ続け、この20年間はマルクスを論じる人は大学にいなくなったと思っていたのだが、確実に潮目は変わったのだと感じた。これについては、後日書きたいと思う。
『思想と幻想』(対談者 鮎川信夫・吉本隆明 思潮社 1981年刊)の対談を読み進めながら若い頃から私が持っていた吉本に対する違和の原因が少しわかった。
それは、吉本氏の仕事が、思想なのか、文学なのか、ということに繋がる。私のように。文学に対する知識や関心が薄い者にとっては、氏の仕事の思想的な側面には親和性を感じるのであるが、吉本氏は元々詩人であり、直観力で論理をもっていくところがある。そこの文学的といっていいと思われるところに違和を感じてきたのだと思う。
これまで情況論は何とか吉本に言わんとすることころについて読めていたと思うが、『心的現象論』『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』の氏の代表的な仕事に対しては、現在でもその難解さに戸惑いを感じている。
また、これとは逆の観点から吉本に親和感を持っている。それは、氏の心や言語などについての仕事が、その非論理的と思われる対象に対して情緒的な切り口では無く、真っ向から論理的な分析を試みている点である。合理的な視点といってもいい。それは、吉本氏が理系出身ということも影響していると思う。事象に対するあくまで分析的で論理を構成しようとする姿勢は、私も理系出身なので、親和感を持てるのだと思う。