晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

戦後左翼史 その47 1966年③ 文化大革命とは? 

2017-06-30 15:48:24 | Weblog

無業者生活になって3か月が経過。これが、理想の「晴走雨読」生活か。晴れた日の午前中は主治医の指示どおり「適度な運動」(?)としてランニング。午後は、近くの図書館で読書を中心としたお勉強も。今まで中々聞けなかった専門家による講演会なども行くようにしています。ただ、発語量が減っているなとは感じています。

 

戦後左翼史 その47 1966年③ 文化大革命とは? 

(★印は日共関係、◎中ソ対立関係、■文化大革命関係)

◎1966.6.1道新 赤い国のインテリ ソ連:社会を動かす力に 中国:労農階級の“同伴者”扱い

■1966.6.2道新 中国の整風運動、新段階へ 人民日報改めて呼びかけ 労農兵中心に革命 問題は党内部の追及 「いっさいの妖怪変化を一掃せよ」 中国少年先鋒隊一億に 反党分子闘争に一役

*(*は僕の考え)文革の展開を知っている者(僕を含めて)から見てもあの運動は何だったのだろうかという問いには一言で答えることはできないと思う。中国で一体何が生じ始めたのか。当時の北京特派員からは、党機関紙誌のほか、大字報と呼ばれる壁新聞など実に様々な媒体からの情報が毎日大量に送られてきたが、今起こっていることの全体像やその本質が容易には摑めなかったと思う。それ故に、ミステリアスな興味を引いた面もある。

★1966.6.2道新夕刊 5.20全国警察本部長会議「日共は独自の自主的な革命路線を進めている」 日共の独自性 中国、北ベトナム、北朝鮮訪問(4月宮本帰国) 北朝鮮、北ベトナムと共同声明を出したのに中共とはできず。「赤旗」は「人民日報」などの転載を止めている。

*さすがは、警察。公安同様、日共と中共の関係の変化についてよく情勢を分析し把握している。

■1966.6.3道新 中国の整風運動 北京大学にも波及 “敵からペンを奪え”陸平北京大学校長批判

1966.6.4道新 中共 彭真氏を解任 北京市委の第1書記 市長解任も必要 失脚した“次代の指導者”

■1966.6.4道新夕刊 人民日報「毛沢東思想の新しい勝利」 前北京市長を非難 責任者に修正主義者 北京市民 彭真氏失脚で気勢あげる

外務省 整風運動を注視 権力闘争に敗れる?

*この段階から外務省が権力闘争との見立てを持っていたとしたら秀逸である。

■1966.6.6道新 彭真解任 大躍進の前ぶれか 毛路線一つに結集 知識人ら右派に総反撃

■1966.6.6道新 香港の国府系紙が論評 権力闘争と内部分裂 

*鋭い分析!

◎■1966.6.6道新夕刊 ソ連 “彭真解任”重視 中ソ論争にも重大影響

■1966.6.6道新夕刊 北京市の新委員会決定 北京日報と北京晩報 編集委員会を一新

■1966.6.7道新 中国整風運動の背景 微妙な毛沢東主席(73歳)の後継争い 軍の発言権強まる 林彪国防相実力者の地位に

■1966.6.7道新 北京日報に新編集長 人民日報 北京大学事件で社説 文化大革命の大波

*ここで新聞紙上初めて「文化大革命」という言葉が使用された!

1966.6.8道新 光明日報 揚述氏(科学院哲学・社会科学学部政治部主任)を非難 “反党グループ”の支柱 北京消息筋語る 彭真氏の思想 毛主席かねて警戒

■1966.6.8道新夕刊 整風運動 陳其通(人民解放軍)文化部副部長を批判 軍部高官にも波及

■◎1966.6.9道新 外務省 中国情勢を検討 整風運動 彭真氏は犠牲者 背景に権力争い 一段落すれば中ソ和解も

*権力闘争としての文革が一段落すると中ソ和解になるという外務省の見通し理由が不明。文革の背景に中ソ対立があり、親ソ派が勝利すれば和解をもたらすというのか。この推論の根拠が僕にはわからない。

■1966.6.10道新 中国映画「真紅の太陽」も整風運動のヤリ玉 上海音楽院長(賀緑汀)も非難される 

■1966.6.10道新夕刊 人民日報 整風運動で論評 新たな“大躍進”を予告 「われわれは、古い世界の批判者である」

■1966.6.11道新 「紅旗」誌 整風運動で社説「プロレタリア革命の文化大革命万歳」 文化革命を徹底 修正主義の一掃を強調 中国外務省 外国特派員に取材前に許可申請要求 党機関紙 思想闘争の重要性訴える アルバニアにも波及

◎1966.6.11道新 周中国首相ら党・政府代表団 今月中ルーマニアへ

1966.6.11道新 ソ連が供与 ア連合に1億6500万ドル借款

■1966.6.12道新 紅旗社説 整風のゆがみ警告 知識分子を敵に回すな

■1966.6.13道新 軍幹部を大幅更迭 クーデター防止で林国防相、地位固む 林彪直系部隊北京へ移動 劉少奇国家主席を追放するため

1966.6.13道新 ルーマニア書記長言明 NATO、ワルシャワ条約ともに廃止せよ ソ連党書記長 ルーマニア外相(メネスク)とモスクワで突然会談

1966.6.14道新 中国最高人民法院 外人刺傷犯人に死刑 国際紛争ねらう反革命分子 楊国慶被告を直ちに銃殺

■1966.6.15道新夕刊 中共 南京大校長を解任

■1966.6.16道新 北京放送 共青団(中国共産主義青年団)北京市委も改組 第1書記に李立功氏 

■1966.6.16道新夕刊 ユーゴ国営のタンユグ通信報道 彭真氏、総書記、首相めざす 出世主義の犠牲 周首相 ルーマニアへ出発

■1966.6.17道新 人民日報が発表 南京大学校長(匡亜明)解任 “整風運動”地方に波及 反革命分子の摘発を続行

★1966.6.17道新 日共(春日正一団長)・ルーマニア(チャウシェスク)が共同声明 各国に自主的権利 特権もつ党はありえない 

■1966.6.18道新夕刊 中国の文化革命 教育制度に波及 推薦選抜制を実施 大学入試を半年延期

◎1966.6.19道新 中国(周恩来)・ルーマニア(チャウシェスク)会談 “ワルシャワ条約”討議 周恩来:現代修正主義を攻撃 チャウシェスク:ワルシャワ条約解消を主張

1966.6.20道新 英紙報道 ユーゴ 政治改革を討議 党と政府権力分離か

■1966.6.20道新夕刊 中国各紙 大々的に林の書簡報道 “林彪後継説”裏付けか

1966.6.21道新 人民日報 5.12米中会談での“核不使用宣言”を論評 米は核独占をねらう

■1966.6.21道新 中国 拡大する文化革命 徹底した闘争意識 “平和的変化”考えられず 

◎1966.6.23道新夕刊 中国・ルーマニア首脳 公式会談を再開 中ソ対立問題、全く行き詰る 聞く耳持たぬ中国 

★1966.6.24道新 日ソ共産党 グリシン全ソ労働組合中央評議会議長が代々木訪問 再び接近の動き

1966.6.24道新 ソ連国防相(マリノフスキー)が長文の論文 東欧軍事協力強まる

■1966.6.25道新 人民日報 整風運動 峠越す? 批判行き過ぎに警告

1966.6.25道新 ソ連首相(コスイギン) スウェーデン訪問を中止

◎1966.6.25道新夕刊 険悪化する中国・モンゴル 国境紛争続く

◎1966.6.25道新夕刊 中国・ルーマニア簡単な公式発表 意見の不一致露呈

◎1966.6.25道新夕刊 周中国首相 アルバニア指導者と会談

◎1966.6.27道新夕刊 中国・アルバニア共同声明 対ソ闘争を再確認

1966.6.28道新 ソ連の文芸整風 シニャフスキー事件の余震続きそう 「新世界」などヤリ玉に

◎1966.6.28道新夕刊 周・アルバニア首脳会談終わる 周首相:今夜パキスタン入り アルバニア首相(シェーフ):“中立”(ルーマニアを指す)を激しく非難

1966.7.2道新 結党45周年記念日の人民日報社説 劉、周、林、鄧4氏の発言列挙 後継者の順位を暗示 紅旗 周揚氏も批判(党宣伝部副部長)

■1966.7.5道新 文芸整風 陸定一部長(宣伝部長兼教務院文化部長)に波及か 林(黙涵)中央宣伝部副部長も批判

1966.7.5道新 きょうからブカレストでワ条約首脳会議 米と西独の接近に対処

■1966.7.7道新 進む中国東北の整風 各地で“毛沢東学習”を強化 演劇関係から口火 

◎1966.7.8道新 モンゴルをめぐる中ソ対立 国境紛争頻発 中国の孤立化深める危険

1966.7.8道新夕刊 ワ条約首脳会議 「ベトナム」で声明 ジュネーブ協定厳守せよ 義勇兵派遣の用意

■1966.7.9道新夕刊 AA作家会議開幕祝賀会で陸定一氏解任を示唆

1966.7.10道新社説 東欧首脳会議の声明と宣言

■1966.7.10道新 引き始めた文化革命の高潮 一掃された分子の名を小出しにし、学習運動に熱入れる 次は、経済大躍進

◎1966.7.10道新 AA作家会議 大勢、ソ連非難に不同意 中国、やむなく譲歩

■1966.7.11道新 中共 中央宣伝部首脳を一新 陸定一氏は失脚 新部長兼書記に陶鋳氏

1966.7.11道新 周首相演説 全力でベトナム支援 インドの和平提案拒否 陳毅外相 北爆拡大を非難 米の悪事放任せず

◎1966.7.11道新夕刊 陳毅中国副首相 ソ連を非難 中ソ国境に軍隊 米の封じ込めに同調

■1966.7.13道新 人民日報 中国の学生 新学生改革を提案 “詰め込み教育”排除

■1966.7.15道新 中国 文化革命 底辺に移る 新しい英雄宣伝

1966.7.15道新夕刊 ユーゴ副大統領にポポビッチ氏起用

1966.7.17道新 共産圏諸国の傾向 “教義”より“経済繁栄” 下部からの改革の圧力 

1966.7.18道新 北ベトナム大統領アピール 米侵略に徹底抗戦 ハノイ破壊されようと20年戦争も辞さず 最高国防会議声明 いかなる和平のあっせんも問題外 南北一体 米に“宣戦布告” 平和解決の望み絶つ 部分的動員令公布予備役を招集 南に全面的な支援 全人民の力動員 解放戦線が“コミュニケ” 統一戦線の強化も

1966.7.18道新夕刊 人民日報がホー・アピール支持 米打ち負かすまでベトナムを支援

◎1966.7.19道新 人民日報 ソ連の加担を非難 “和平交渉ありえない”

1966.7.23道新 劉主席 「ベトナム」で米に警告 中国を見誤るな 最大の犠牲になう用意 ベトナム支援 北京で大集会

★1966.7.25道新 原水禁“分裂”世界大会近づく(7.28~8.9) 

・日本原水協(原水爆禁止日本協議会 畑中政春代表理事 日共系)中国と日共対立か 1966.6日共は、世界平和評議会で、ベトナム支援でソ連との共同行動を主張し中国と対立 ベトナムが焦点(*参考)

・原水禁国民会議(原水爆禁止日本国民会議 田中功孔議長 社会党・総評) “お祭り大会”返上へ苦心 

・アジア核禁会議(松下正寿議長 民社党、保守系)

*(れんだいこHPに学ぶ)第12回原水禁世界大会。日本政府、中国代表団の入国拒否、周恩来首相からのメッセージのみ。大会途中でソ連代表が参加を申し込み、原水協の承認に対し中共の意向を汲んだ外国代表が反発。この問題で2日間激論、マレーシア・オーストラリアなど15カ国代表が「分裂主義者(ソ連)の参加を認めない」と退場。中国は、退場グループを北京に召集、日本原水協を「ソ連修正主義と結託し、誤った路線を押し付けた」と非難。赤旗は中国非難。大衆団体を舞台にした日中共産党間の対立であり、その後両党間の対立に発展。 

1966.7.27道新 観測筋が指摘 北ベトナムと中国 ジュネーブ協定めぐり見解の相違存在 べトコンのゲリラ激化 米軍絶滅競争を展開 E.スノー氏の論評 “米中戦争”不可避になる

★1966.7.28道新 原水協 ソ連の参加を断る

★1966.7.31道新 原水協国際予備会議開く(日共系) ぐっと少ない参加国

1966.7.31道新 ユーゴとアルバニア 東欧の両極 正反対の“社会主義”歩む 関係悪化する一途

 

 

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楠木新 『定年後 50歳からの生き方、終わり方』

2017-06-19 15:38:59 | Weblog

森友も加計も詰め切れず国会が終った。振り返ると、野党のそもそもの筋立てが間違っていたのではないかと思う。2月のアへ発言「私や妻は認可や国有地払下げには関係ない。関係しているとすれば、総理大臣も、国会議員も辞める」というタンカにとらわれ過ぎてしまったのではないか。それは、いくら追及しても言った、言わない、の話になってしまったからである。

僕は、問題の本質は別のところにあると考える。2014年5月、霞が関(官僚)対官邸(内閣)の闘いの末に審議官以上のキャリア官僚の人事権を持つ内閣人事局が発足した。この時点で、官僚は首根っこを官邸に押さえられ、前川氏の例でもわかるように私的生活さえ監視されるようになった。

僕は、政治家(総理を含む)が、支持者(お友達も含む)からの陳情・要望を受けてそれを実現しようとするのは、当たり前のことだと思う。その場合、その案件が法律や制度に適合しているかどうかを判断するのが行政(官僚)の専権事項だった。ゆえに時として、官僚は政治家にとって最強の抵抗勢力(岩盤)だったはずだ。これまで官僚たちはダメなものは駄目と言えたが、官僚の最も弱点である人事を官邸に握られてしまった。諸悪の根源である内閣人事局を解体すべきと考える。

 

『定年後 50歳からの生き方、終わり方』(楠木新著 中公新書2017年刊)

本書では触れられていないが、そもそも定年について考えたり、準備したり、ましてや迎えることができるということは、とても幸せなことだと思う。会社や組織に勤めていても、倒産、解雇、病気などの理由で途中リタイアしなければならない可能性があるからである。

著者が自分と1954年の同い年生まれということで、同世代としての価値観やこれまでの時代環境が共通しているのではないかということで親しみを感じた。

本書を手に取るのは、題名にある50歳代から再雇用が終わる65歳くらいの方ではないかと思う。ただ、本書を読んでの感じ方には、それを現実的な切実さと言ってもいいが、それぞれの読者の置かれている情況によってかなり違いが生じると思う。

また、本書の優れたところは、ただ他人の退職後を事例的に並べたものではなく、著者が47歳で体調を崩して会社を休職した時に、仕事や人生について改めて深く考えたことが叙述のベースになっているからである。著者自身の迷い、選択、決断の過程が読者に実感を伴って伝わってくるからである。

現在62歳の僕自身のことを振り返っても、35年間勤めた会社を定年退職した2年前は、3月末の退職日の直前まで仕事があり、それなりの責任も持たされていて、定年後の4月からのイメージを持つことができないままに、時間の流れとして第2の会社に入った。もし今、当時の僕のような情況のある方には、本書の内容を実感するのは中々難しいと思う。

その後、今年の3月まで第2の職場で仕事をしたが、最初は、職場環境の違いに戸惑い、モチベーションが上がらず、シフトチェンジに完全に失敗してしまった結果、入社4か月目に体調を崩し死に損ねた。しかし、ある意味、この2年間の経験が今の生活をイメージする上で退職後のリハビリ―期間として良かったのではないかと思う。

それは、本署にもあるように「死」というものを現実のこととして考え、「残り時間」を意識するようになったからである。収入のことも心配ではあるが、今自分が一番やらなければならないこと、やりたいことは何かということを考えた。そして、65歳まで3年間仕事を続けることが決してベターな選択ではないという結論に達した。

本書は、定年後生活のノウハウ本ではない。きっかけ本である。なぜなら、自分自身で考え決めなければならないからである。

 

 

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戦後左翼史 その46 1966年② 文化大革命開始

2017-06-15 20:54:34 | Weblog

共謀罪成立。僕はもちろん異議あり!だ。理由は、審議が不十分だからでも無く、手続きが荒っぽいためでもなく、国家の権力が強まる方向は駄目だと考えているからだ。でも、引っかかっていることがある。それは、この国会で成立したヘイトスピーチ対策法だ。権力が強まる点では共通しているのだ。いや、もっと本質的な所で似ているのだ。何を考えどのような行動をしたら排外的な差別となるのか、何をもってテロとなるのか。僕らはどこかで、正しいと思っている自分と取り締まるべきと想定している対象との間に線を引いていないか。先日、中核派の大坂正明氏と思われる人物が40数年間の逃亡の末逮捕された。僕は、「長い間、お疲れさま」と思った。

 

戦後左翼史 その46 1966年② 文化大革命開始 

(★印は日共関係、◎中ソ対立関係、■文化大革命関係)

1966.4.1道新夕刊 論壇時評(下)寺沢一(東大教授)

・長洲一二「社会主義第二段階論―わたくしの見たソ連」(展望):「ソ連は、スターリンの死まで低開発国型であり、強制された封鎖体制型の第一段階にあった。現在は、高度工業社会の開放体制型社会主義を模索しているただ中にある。」

・相場正三久「ベトナムに対するソ連の姿勢」:「ブレジネフの現状維持、スターリンの民族解放運動支持の間をさまよっている。」

◎1966.4.1道新夕刊 ソ連党大会 チェコ(ノボトニー共産党第1書記)、ハンガリー(カダル社会主義労働者党第1書記)代表 中共を激しく非難

1966.4.2道新 党大会で公表(マリノフスキー国防相) ソ連原子力潜水艦隊 潜水のまま世界一周(1960.5米原潜オライオン世界一周に成功)、北朝鮮代表(崔庸健党中央委副議長)が演説 日韓条約は軍事同盟、べトコン代表(グエン・チ・ビン中央委)も演説 米国との戦いは必ず勝つ

◎1966.4.2道新 ソ連党大会 各国代表の演説から 反帝、ベトナム支援で一致 中共孤立化は明白

◎1966.4.3道新 中ソ和解望み薄 共産陣営の対立深まろう

1966.4.3道新 ソ連グロムイコ外相 党大会で演説 ベトナム援助は継続 侵略策動に反撃

1966.4.6道新 党大会 ソ連・ルーマニア会談 各国との接触活発化

1966.4.6道新 コスイギン報告要旨 5か年計画 調和ある発展の基礎に 生活水準高める

1966.4.8道新 ソ連党大会 きょう閉幕 新経済計画を採択 4,5月中に追加修正

1966.4.7道新夕刊 ソ連共産党大会 バイバコフ国家計画委議長が発表 経済成長率は低下 カザネツ鉄鋼業相らフ前首相を間接批判

1966.4.9道新 ソ連党大会の成果 定着したブレジネフ、コスイギン路線 対米関係凍結へ 統一回復に強い自信

1966.4.9道新 ソ連党大会終わる 書記長ブレジネフ氏 大会宣言 米の侵略行動を非難

1966.4.9道新夕刊 ソ連党大会 ブレジネフ書記長が閉会の辞 “平和共存”を確認

◎1966.4.10道新 世界平和評議会(3.17~21)ブタペスト ベトナム問題など中ソ代表が対立

1966.4.10道新 ベトナムでインドが見解 ジュネーブ協定厳守が必要

■1966.4.25道新 中国の文芸整風 1963.4党中央宣伝部周揚副部長「文芸戦線強化」を唱えて以来 劇作家協会主席田漢、北京市副市長呉晗(ごかん)、人民日報元編集局長鄧拓らが批判

*(*は僕の考え)「文芸整風」という言葉が初めて報道される。その後も名称は、整風運動、文芸整風運動、整風批判、文化革命、社会主義文化革命、文化大革命と定まらない。この段階では、何が起き始めているのかわからない。後知恵からは、これが大きな運動になる萌芽だったとわかるが、この時点で気付けるかどうかのセンスが重要と思う。これは現在にも通じる。

1966.4.26道新 リーベルマン教授 ソ連の経済改革説く 少数精鋭で高賃金を

★1966.4.27道新夕刊 公安調査局長会議開く 米、中、ソの緊張注視 日共の動向 1965暮れ「ベトナム支援のための行動の統一」を提唱して以来、中共との間に見解の相違 2月に宮本訪中も共同声明の発表なし 党員20万人、赤旗本紙30万部、日曜版100万部 民青同学生班を中心に全学連の過半を獲得 中共は、日共が反米反政府闘争を激化させることを期待

*さすがは公安。日共と中共の関係の変化を正確に把握している。

■1966.4.29道新夕刊 光明日報報道 郭沫若氏(全国人民代表大会常務委員会副委員長)が自己批判 4.14開催の同委員会で 私の全著作の焼却を 6か月前から整風運動

1966.4.30道新 仏のNATO離脱に思う

■1966.4.30道新 「郭沫若批判」の意義 大きい政治的波紋 知識層に自己改造訴える 決定的になった歴史学、文芸非難

■1966.5.2道新 周首相 文芸整風運動(社会主義文化革命)で演説 中国の運命かかる

(参考)「日本にとっての「文革」体験」(福岡愛子)『戦後日本スタディーズ②「60・70」年代』(所収論文 紀伊國屋書店 2009年刊)には、「発端となった報道は、1966.5.1周演説で、文芸整風運動、社会主義文化革命の言葉を使用」とある。

◎1966.5.5道新 中国外務省が声明 ソ連の対ベトナム援助 物資輸送妨害せず

■1966.5.5道新 中国軍機関紙呼びかけ 文化革命遂行しよう

1966.5.6道新夕刊 官房長官(橋本)が閣議で報告 中国第3回核実験は10日頃か

1966.5.6道新夕刊 訪日の途についたショーロホフ氏(ノーベル文学賞受賞)に聞く 自由化後退はない 不穏当なアラゴン(ルイ フランス作家)の批判

◎1966.5.8道新 鄧小平中国共産党総書記が演説 ソ連は裏切り者 徹底的な闘争あるのみ 

■1966.5.8道新 中共 “毛沢東以後”に備える 進展する学習活動 劉少奇国家主席 周恩来首相 鄧小平総書記兼副首相 林彪副主席兼副首相 彭真党書記の集団指導体制だが、彭真の姿が見えない 四清運動(政治、経済、思想、組織)

■1966.5.9道新 解放軍報 北京日報を非難 鄧拓北京市委員会書記(新聞界)を批判 右派かばう反党分子 

■1966.5.10道新 北京日報 前線両派 整風批判全面的に受け入れ

1966.5.11道新社説 中国の核実験に抗議する

◎1966.5.14道新 人民日報 シューロホフ氏を非難 裏切り 修正主義の文芸家 

1966.5.14道新 ソ連(ブレジネフ書記長)・ルーマニア(チャウシェスク書記長)両首脳間で微妙なやりとり 

1966.5.14道新 自民 AA研で“中国公聴会”終わる 政府批判の姿勢強い

◎1966.5.14道新夕刊 タス通信発表 ブレジネフ書記長 ルーマニアから帰国 中ソ対立などめぐり認識一致せず? 

◎1966.5.14道新夕刊 周首相 ルーマニアへ明日にも訪問 政府要人と会談 ルーマニア代表団、アルバニア代表団北京から帰国

◎★1966.5.16道新 中国(周首相)・アルバニア(シェーフ首相)共同声明 北京にて調印 修正主義と徹底闘争 公開論争やめず ルーマニア、北ベトナム・北朝鮮・日共は中ソ間で中間的な立場をとろうとしている

1966.5.16道新 チャウシェスク書記長・ブレジネフ書記長秘密会談 ルーマニア ソ連に確約か ワルシャワ条約守る 

1966.5.16道新 コスイギン首相・ナセル(アラブ連合大統領)会談 ソ連海軍の地中海港湾使用を協議か

◎1966.5.17道新 中国・アルバニア共同声明の背景 アルバニア:ルーマニアの動き心配 強い表現ためらう

1966.5.17道新 ワルシャワ条約諸国にルーマニアが通告 ソ連駐留は不要 仏の観測:NATO騒動東欧版 底流に領土問題 1955~197ソ連、ポーランド、チェコ、東独、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア(1961脱退) 1957.5ルーマニア、東独、ハンガリー、ポーランドとソ連軍駐留協定 1958ルーマニアからソ連撤退 

■1966.5.18道新社説 中国整風運動をどう見るか

1966.5.18道新夕刊 フランスで500万人がスト ベアと時間短縮

1966.5.18道新夕刊 ルーマニア ワルシャワ条約改正案 対ソ拒否権要求か

1966.5.19道新 わが道をゆくルーマニア ソ連の干渉に反発 ワルシャワ条約機構再編迫る

1966.5.19道新夕刊 ソ連、ア連合共同声明を発表 帝国主義侵略を非難 イエメン問題には触れず コスイギン首相のアラブ連合訪問

1966.5.19道新夕刊 ルーマニア ワルシャワ機構必要 改定要求の報道否定 積極政策の機運

■1966.5.21道新夕刊 北京日報 党北京市委員会機関紙 反社会主義活動を批判 北京市長もやり玉 鄧拓(前北京市委員会書記)、呉晗(北京市副市長)、彭真(大北京市委員会第1書記兼北京市長)は、3月下旬から姿を見せない

★1966.5.21道新夕刊 日共代表がルーマニア訪問 春日正一参議ら5名 1か月の予定

1966.5.23道新 英誌 ルーマニア党書記長の演説紹介 軍事ブロック廃止提唱 領土問題に不満表明

★1966.5.23道新 社党の基本路線 佐々木派が統一見解 共産党含めて共闘

★1966.5.24道新 佐々木派の見解 反主流派、強く反発 社共統一論は誤り

■1966.5.28道新夕刊 中国の整風運動 党の中央にも及ぶ 宣伝部副部長がヤリ玉に 8人の中の誰か?

1966.5.29道新 キューバ 軍に警戒体制指示 米軍基地(グアンタナモ)で“交戦”事件

■1966.5.29道新 中国の呉晗・北京副市長批判 ついに“反革命”のらく印

■1966.5.31道新夕刊 中国軍機関紙 武力クーデター計画 鄧拓氏(党北京市委書記、元人民日報編集長)ら非難 

 

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戦後左翼史 その45 1966年① 日共・中共関係決裂 

2017-06-11 15:47:02 | Weblog

国から北海道をしっかりと管理するために派遣されているとしか思えない高橋はるみ官選知事は、JR問題でようやく重い腰を上げた。5月25日、宗谷本線乗車! 乗ったのは、名寄から塩狩(和寒)まで。名寄―稚内間に乗らなかったのは、深い意味が込められていたのではないか。

 

戦後左翼史 その45 1966年① 日共・中共関係決裂 

1966年(僕11歳、小学校6年生、毎朝の職員会議に遅刻する担任と折り合いが付かず登校拒否を経験) この年に、国内外であったこと。文化大革命発動 ベトナム反戦運動

*(*は僕の考え)戦後左翼史を再開する。これまで(「その1」(1955年六全協)から「その28」(1965年))を総括すると、除名処分の乱発による異端の排除、それによる野坂-宮本体制の確立とまとめることができる。

(1)志田重男 1956.1.6中央常任幹部会員で書記局員志田(徳球派)が突然失踪 6.6常任幹部会「志田重男君同志についての発表」で公表 1956.9離党確認 1957.5.21除名

(2)椎野悦郎 1956.9徳球派最高幹部椎野の除名→これで徳球系主流派最高指導部の伊藤律(中国に幽閉)、志田、椎野を排除。

(3)学生運動急進派追放 「代々木事件(6.1事件)」 1958.6.1全学連第11回定期全国大会代議員グループ会議 香山健一全学連委員長、島成郎、森田実らを党規約違反として除名及び13人を党員権制限 トロツキストとして排除

(4)旧国際派の野田弥三郎、山本正美追放 9.21「第4回東京都党会議」

(5)「現代の理論」派追放 1959.9雑誌「現代の理論」廃刊 構造改革派の排除

(6)港地区党委員会追放(トロツキストとして断罪) 山崎衛、田川和夫、冬木ら3地区委員の資格剥奪を決定 1959.12.16に除名

(7)関根弘、武井昭夫 1961.4.12アカハタで、「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人を処分

(8)長谷川浩処分 徳球系残存指導幹部

(9)春日(庄)派処分 春日(庄)ら構造改革派グループが集団離党 春日、山田六左衛門等7名を除名 1961.9.2大西、9.6針生、安部らを除名

(10)「新日本文学会」グループ処分1961

(11)旧東京都委員会グループ処分 1961野田、増田、山本、芝、西尾、武井ら6名 

(12)波多然とそのグループ処分 佐賀県の前中央委員1963

(13)親ソ派志賀グループ処分 1964鈴木市蔵、中野重治、朝倉、出、国分一太郎、佐多稲子、佐藤、野間宏、本郷、丸木位里、俊子夫妻、宮島、山田、渡部 ソ連派排除

(14)「4.17スト」 1964聴濤克己を統制違反で処分、幹部会員解任。竹内七郎を書記局員、労働組合部長解任 翌年聴涛変死

(15)神山、中野グループ処分 1964.8.23~27「第10中総」で神山、中野の党員権停止

 

(★印は日共関係)

1966.1.10道新夕刊 シェレーピン書記(ソ連) ベトナム支援協調 社会主義国が結束

1966.1.11道新 印パ首脳が共同宣言 ソ連首相の調停成功 平和的関係を回復 紛争開始時の位置まで両軍とも引き揚げ

1966.1.11道新 ソ連、アジアへ影響強める 紛争解決へ第一歩 コスイギンの斡旋でインド・パキスタン首脳会談 シャストリインド首相:印パ関係に貴重な成果 パキスタン代表団が声明:宣言では不十分

1966.1.13道新 中国、キューバの不和拡大 共産圏団結に影響か

1966.1.15道新夕刊 ソ連のハノイ外交成功 精神、物資、軍事完全援助で中国の影響力を排除 シェレーピン書記党内の地歩強める 

1966.1.15道新夕刊 プラウダ 中国に反論 ソ連をブルジョア精神で評価

1966.1.17道新夕刊 アジア・アフリカ・中南米人民連帯会議閉幕 反帝闘争への援助など決議

1966.1.20道新社説 日ソ貿易の具体的拡大を

1966.2.1道新 新段階に入るEEC 仏の主張認めて妥協 政治統合の道は遠のく

1966.2.22、23道新夕刊 論壇時評 寺沢一(東大教授)

(上)・加藤周一「現代中国をめぐる素朴な疑問」(展望):「北京政府が膨張主義的であるか」「今日の中国人のものの考え方は、中国の伝統的思想とどう関係しているか」周到な見分と検証

・一柳東一郎「保守独走下の政治」(朝日ジャーナル1.2号):党と官僚の癒着の上に築かれた保守党の体質

・松下圭一「選択をせまられる社会党―統治政党への道をめぐって」(エコノミスト1.25号):揺れる社会党の背景

(下)・日野一陽「日ソ接近への佐藤外交の狙い」(現代の眼)

・松下輝雄「ソ連政治の現実と展望」(経済往来):ソ連政治のダイナミックスの大要とソビエト・デモクラシーに特有な政治機構を解明

・力石定一「利潤概念導入の背景」(経済往来):リーベルマン方式導入の意味

・直井武夫「中ソ関係、激突か妥協か」(潮):1980中ソ条約期限までは「一種のパイプが通じているといえよう」

・荻原康則「コスイギン政権とソ連市民」(経済往来)

1966.2.3道新 人民日報 激しくソ連非難 中国包囲網に協力

1966.2.3道新 北朝鮮が回答(崔庸健最高人民会議常任委員会委員長) ホ―(北ベトナム大統領)書簡全面支持

1966.2.4道新夕刊 ソ連 各国へ“告発状”送る 中国と徹底対決か

★1966.2.4道新夕刊 日共 赤旗(2.4付)論文でソ連非難 「アメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線を強化するために」 2.3宮本書記長ら10人の幹部(*団長:宮顕、副団長:岡正芳、団員:蔵原、米原、上田、不破、工藤)が中国、北ベトナム訪問直後の決定

1966.2.6道新社説 ソ連軍縮提案の意義

1966.2.8道新社説 ベトナムをめぐる中ソ対立

1966.2.10道新 べトコン指導者の顔ぶれ (ポー・チ)・コン副議長 18歳から抗仏運動 (グエン・フー)・ト議長 傑出した知識人

1966.2 カストロ首相 中国を激しく非難 キューバ軍破壊図る

1966.2.14道新 北ベトナム援助会議(ワルシャワ条約機構) アルバニア拒否

1966.2.14道新 ソ連計画の国際党会議 ベトナム支援が主眼 後退する“中ソ対決”の線

1966.2.14道新夕刊 北ベトナム支援会議 中国、頭から無視 

1966.2.14道新夕刊 インドネシア 中国駐在大使(ジャウォト)を召還? 外交断絶へ一歩? 2.3在ジャカルタの中国大使館をデモが襲撃

1966.2.15道新夕刊 ソ連政府機関紙イズベスチアが論文 中ソ団結を協調

1966.2.16道新 のしあげてきた日中貿易 往復8億ドルをめざす 機械輸出3倍強も増加 

1966.2.22道新 人民日報 キューバに反論 “筋が通らぬ中国反対”

1966.2.22道新社説 最悪の事態招いた早大スト 授業料、入学期の値上げ 2.21警官隊の導入

1966.2.24道新社説 ソ連新5か年計画の問題点

1966.2.24道新 キューバ 対中国関係最悪の段階 全面的ソ連依存へ 援助なしには生きられぬ

★1966.2.25道新夕刊 人民日報 2.4付日共赤旗論文を掲載 中ソ共同を呼びかけ

1966.3.10道新 ハンガリー党機関紙 中国の強硬路線を非難 核戦争招く危機 暗にソ連の立場説明か 平和共存、人民解放同じ政策の両面

1966.3.15道新 キューバ首相 中国の挑発を非難 国交断絶も覚悟 放送でも非難演説 中国は反キューバ宣伝を展開している

1966.3.15道新 流動するアフリカ急進派(OAUアフリカ統一機構、本部アジスアベバ) 巻き返しをねらう ソ連、中国の出方も注目

1966.3.16道新 ソ連共産党大会めぐる東側陣営 静かな緊張感 ベトナム支援 中ソ分裂を警戒 焦点は中国の参加

1966.3.17、18道新 ユーゴの素顔 クロアチア、スロベニアの旅から ①頭の中は“東”腹の中は“西” たくみな平和共存 ②チトー亡き後に“不安” 経済矛盾が表面化

1966.3.22道新 近づいた第23回ソ連党大会 ベトナムなど微妙な友好国の動き 企業の自主性拡大 

(これまでの党大会の歴史)

第6回1917.8.6~16新党規約採択 この年に11月革命 

第7回1918.3.6ボリシェビキ党をロシア共産党と改称 

第10回1921.3.8新経済政策(NEP)採用 

第11回1922.3.27~4.2スターリン書記長に就任 

第14回1925.12.18~31スターリン一国社会主義政策採択 

第15回1927.12.2~19コルホーズ化決定 トロツキーら服従拒否 

第17回1934.1.26~2.10第2次5か年計画採択 

第18回1939.3.10~21第3次5か年計画採択 第2回最高会議1946.3.12第4次5か年計画採択 

第19回1952.10.5~14第5次5か年計画採択 

第20回1956.3.24~25フルシチョフのスターリン批判(秘密会) 

第21回1959.1.27~2.5 7年計画(59~65)承認 

第22回1961.10.16~31新党綱領 20年建設計画 共存政策確認 

第23回1966.3.29~ 5年計画(66~70)討議

 

1966.3.25道新社説 ソ連党大会と中国の不参加

1966.3.25道新夕刊 ソ連党大会 ブ第1書記が発表か スターリン再評価 アフリカ諸党も招く ソ連党筋報道 中共の不参加 発言公表拒否が理由

1966.3.26道新 ソ連新5か年計画の課題 生産向上に新方式採用 依然農業が難関

1966.3.27道新 迫るソ連党大会 ベトナム統一行動訴えよう 中国の“絶縁”に反論

1966.3.30道新 ソ連党大会 ブレジネフ報告 党内民主主義を強調 党規約改正を提案 幹部会は政治局に改組 “スターリン評価”ふれず ブレジネフ報告詳報 ベトナム 米の侵略危険な結果に 外国軍の撤退を要求 核禁止へ5つの措置

★1966.3.30道新 日共代表団 帰国の途に 宮本顕治書記長らは中国訪問を終え北京から広州へ

(*れんだいこHPに学ぶ)日共と中共の関係に亀裂発生

3.3~3.8北京で劉少奇副主席と会談。

3.21平壌で金日成と会談。共同声明に調印。

3.22~27北京で再度日中両党会談、共同コミュニケに合意。団長周恩来副主席。3.27ハノイでベトナム労働党代表団長レ・ズアン第一書記と共同コミュニケに調印。

3.28~29上海で毛沢東と会談。毛沢東が反米反ソ統一戦線を主張したため、北京で合意された共同コミュニケを破棄。この経過は、岡正芳の1966.5.4付け「理論部門担当幹部党員会議報告」によると、「毛沢東は、中米戦争必死論、ソ連軍浸入論を唱え、『その時、君達(日共)は中国を援助し、また君達自身の革命のために蜂起する腹を決めているのか』、『沖縄の党の勢力は幾らあるか、沖縄でゲリラ活動を起こすことを、日本の党は考えたことがあるか』と発言。

3.28毛沢東は、「資本主義復活の道を歩む実権派打倒」の文化大革命を発令。紅衛兵を全国的に動員。中国共産党は、代表団の帰国直後から、日共を修正主義と規定し、批判する大規模なカンパニアを開始。

4.4宮本党代表団帰国。4月党中央は、全党員に対して「教条主義との闘争」(対中国)を指示。第2回日中友好青年交流への不参加、名古屋.北九州での中国貿易展への非協力、中共出版物の不購買、赤旗の毛沢東選集の広告不掲載などが指示。

*宮本、野坂が権力と通底しているという疑惑は、伊藤律などからの情報により毛沢東は当然把握していたと思われる。日共との会談における毛沢東の武装蜂起発言は、宮本の革命に対する本気度を試したのではないかと推測する。これにビビった宮本は、以後党内の中国派を排除し、ソ連とも中国とも連帯しない(おりこうさん)自主独立路線に舵を切っていく。

1966.3.31道新 ソ連党大会 モスクワ市党委員会 エゴルイチョフ第1書記提案 書記長制復活

1966.3.31道新夕刊 ソ連党大会 北ベトナム代表(レ・ジュアン北ベトナム労働党第1書記)あいさつ ソ連援助に感謝 

1966.3.31道新社説 ブレジネフ報告の問題点

 

 

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北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 その2

2017-06-03 21:37:49 | Weblog

北海道コンサドーレ札幌サッカー専用スタジアム構想 その2

この話題については、丁度1年目に、このブログ2016.6.19に書きましたが、その後あまり話題になっていません。今は、北海道日本ハムファイターズ専用球場の移転に俄然注目が集まっているので、霞んでしまっているということでしょうか。否、違います。今、コンサは密かに日ハムの結論を待っていると思います。

では、日ハムはどうなるのでしょうか。チョット振り返ってみると、最初の秋元市長のコメントは「ドームを出ていきたいなら、どうぞ勝手に」というつれないニュアンスでした。それまでに、水面下で日ハムと市との間で、こじれる何かあったのではないかと推察されます。次に、ドームの採算上残ってほしいと言って、日ハムに蹴とばされました。その間に、隣の北広島が広い運動公園の土地を武器に提案したのは周知のとおりです。

秋元市長が市、日ハム、コンサの3者会議をセットしたが、一度きりで終わり、日ハムは移転、コンサはドームを使用するとの表明がありました。コンサの判断は、ドームを野球専用にされると、コンサの現状では試合をする場所が無くなってしまうので、コンサ専用スタジアム構想は口に出さなかったということだと思います。野々村社長はしたたかです。

その後、市は北大と八紘学園(一部道有地)の2か所、どちらも他人の土地を使うことを前提に提案をしました。これらの見通しはどうなのでしょうか。北大は、国立大学法人になって採算が問われるようになったとはいえ、理屈っぽく独立独歩の学者たちの合意を取り付けるのは容易ではないと思います。八紘学園は、難しそうな理事長さんがいまし。月寒ドームの道有地は後利用について民間業者からのコンペを終了したとの報道もあります。(リアルエコノミーHP)

では、北広島に決まるのでしょうか。ここに来て、日ハムは最後に市民の意向調査をして決めたいと言い出しました。圧倒的な札幌市民は、市外には持って行くなと言うでしょう。北広島の線は消えると思います。ただ、税金を投入した札幌ドームがあるのに、また別の施設に、それも一企業に税金を投入することに理解を得ること難しいと思います。

新しい動きもあります。JR北海道がエアポート4編成分の車両を40億円で発注したと報じられました。札幌―新千歳空港間を現行1時間に4往復(15分おき)を5往復(12分おき)に増発するためということです。北広島に日ハム新駅ができた場合、輸送力もアップです。

ここからは、推測です。日ハムが世論の意向で北広島ではなく札幌市内に決めた場合(僕は、先の2か所でも別の場所でもドームに戻っても、コンサの邪魔さえしないでいただければ文句はありません。)、では、コンサはどう動くでしょうか。

この夏に稼働する北広島の石屋製菓新工場、それに隣接する旧ダウ加工用地4.5ha(取得済)でコンサ専用スタジアム?JRアクセスは300mくらいで最高です。他に、北広島が日ハムに提案した運動公園用地、40ha以上もあります。北広島市と石屋製菓の関係は緊密と思われます。この春、北広島の市役所が庁舎を新しくしましたが、その最上階に石屋製菓の直営カフェが入店しました。

北海道コンサドーレ札幌専用サッカースタジアム、現実的には建設資金や維持経費など課題は山積ですが、石屋製菓の石水勲会長の部屋には、スタジアムの構想図が掲げられているということです。現在は、日ハムの結論待ちだと思いますが、あと1年もしない内に再び動き出すのではないでしょうか。

そのためにも、J1残留! 明日は、ヴィッセル神戸を撃破しに札幌ドームに参戦です!

 

 

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