晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

金子游 『混血列島論―ポスト民俗学の試み』

2018-09-18 10:10:35 | Weblog

NHKの全国天気予報、時々北東北から北海道が欠落した地図で雲や風雨が予想される。また、台風も首都圏を直撃される可能性のある場合とそうでない場合の扱いも随分と違う。この意味するところはどういうことなのだろうか。東北は賊軍、北海道は化外の地なのか?

 

『混血列島論―ポスト民俗学の試み』(金子游著 株式会社フィルムアート社 2018年刊)

著者は、『日本国』、『日本人』、『日本国民』という言説は擬制だということを、各地を訪ねその土地の人から話を聞き、遺跡や記録、残されている映像に当たりながら実証していく。樺太、台湾、オホーツク圏(北海道―サハリンー千島列島―東シベリア)、宮古群島、奄美大島などへ足を運ぶ。

(引用P218)「欧米の外圧に対抗してあまりにも近代化を急いだがために明治維新の日本社会では、日本民族が万世一系のものとしてひとまとめにしようという皇国史観が、後発近代化国である日本におけるいわば自意識として流布されていた。『日本国民』や『日本人』というアイデンティティは、江戸時代以前の民衆のなかにはほとんどなかったか、あったとしても希薄だった。むしろ人びとは幕藩体制のなかでそれぞれの『藩』という国に縛りつけられていた。」

僕らが今持っている「日本」という観念が、明治になってから急ごしらえで作られたものであることがわかる。それは裏を返すと、「日本」という枠に収まらない社会を構想するヒントになるということだ。

分子人類学からは(引用P7)「主流日本人はミトコンドリアDNAの分析によって、①中国東北部と朝鮮半島に近いグループ、②アメリカ先住民に近いグループ、③東南アジア系のグループ、④バイカル湖周辺からマンモスを追ってきた狩猟民、⑤シベリアの先住民に近いグループ、①中央アジアの遊牧民など数種類以上の種族が混血したものと判明した。」「独自の民族性をもつアイヌや琉球人をのぞいたとしても『日本は複数の異なる集団から構成される多民族集合体』である。」(篠田謙一『日本人になった祖先たち』)の知見が得られている。

こうして「日本人=単一民族」という擬制が否定される。そして以下からは、国家、国境というものがそこに暮らす民衆からみると全く無用な線引きであり、古来よりの人々の活動に制限を加えるものにほかならないことがわかる。ここに昔から暮らす人々の生活範囲は、現在、日本国の国境として定めているラインを軽々と超えたものだったことがわかる。

(引用P283)島尾敏雄は、「奄美、沖縄本島、宮古、八重山の島々を中心にすると、もうひとつの日本列島の姿が見えてくると考えた。島尾はそれを『ヤポネシア』と名づけて、その言葉によってミクロネシアやポリネシア、メラネシア、インドネシアのように日本列島を太平洋上の島嶼としてとらえ直そうとした。」

(引用P166)土本典明は、「たかだか近代に入ってから国家間が帰属をあらそってきた地政学的な事実よりも、オホーツク海を中心とした圏域で暮らす民衆の生活習慣のほうが、よっぽど古くて本質的なものだ。」という。

そう考えると、アへとプーチンが双方の国家を背負いながら何度も交渉を行っても領土という枠内の議論では現状を打開できないはずである。思い切って発想を転換し、古き時代に学び国家を開く、棄てる必要があるのではないか。

また、今の天皇は通算50数回も離島を訪問している。その目的はどこにあるのだろうか。僕は、国の中心から離れた所で暮らしていても、日本国民としての一体感を確認する場を作ることで、民心をこの国から離反させないという意図もあるのではないかと考える。

しかし、天皇の訪問を受け、言葉を交わした、姿を見ることができた島民、いや島民に限らず全国どこでもだが、いずれもとろけるような感激を口にするという意味では、この天皇の持つオーラの本質は一体何なのであろうか。もし僕自身もそういう機会に巡り合えば、言い知れぬ感覚を持つのだろうが。

最後に本書は、「国家は開かれた方がいい、国家は無くなる方に向かうべき」という僕の考えを補強してくれる一冊である。

 

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『菊とギロチン』 瀬々敬久監督

2018-09-03 17:07:01 | Weblog

強い台風が来る、大きな地震への対策を、猛暑なので熱中症に注意・・毎日のTVニュース、新聞のトップニュースはこればかりだ。命は大切だから守ろうということには、誰しもそのとおりだと思う。でも、僕には何か憂かない感じが残るのだ。

 

『菊とギロチン』(瀬々敬久監督 2018年作品)    

東京で高い評判と聞いていたので待望していた作品。シアターキノにて特別上映。

時代は大正末期、女相撲もギロチン社も実在したということだ。女相撲力士たちは、植民地朝鮮から渡ってきた者、夫の暴力から逃れてきた者など、それぞれに訳ありの過去を持つ。一方、アナーキスト結社「ギロチン社」の若者たちは、革命という大きな夢を持ちながらも少々頭でっかち。女力士たちと活動家の若者が出会い、自由を求めて躍動する青春群像劇。

「大逆事件」、「大杉栄」、「テロ」、「爆裂弾」「関東大震災」、「朝鮮人虐殺」、「甘粕大尉」、「正力松太郎」、「満州」、「天皇陛下万歳」、「アナーキズム」、「プロレタリアート」、「無産階級」などといった最近はあまり聞かない台詞がポンポン出てきて何だか1970年代のアングラの匂いもした。

活劇としてのストーリーは楽しめるものだった。しかし、いかんせん役者たちがヘタ。練習不足なのに監督が妥協してしまったのではないかと思わせる。大人数のシーンでは、順番に与えられた台詞を前の人が発するのを待って次の人がという学芸会のようであった。大正末期の時代考証も髪型、服装に違和を感じるものだった。売れっこの東出昌大も多くの作品に出演していて忙しいのかこの作品では一本調子だったのでもう少しこなれてほしかった。

 

 

 

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