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戦後左翼史 その7 1960年③ アカシアの雨がやむとき

2016-01-30 20:36:26 | Weblog

 部屋の整理をすると、忘れていたものが出てくる。このお面、豆まきの鬼でもしましょうか。

 甘利辞任、週刊誌の力に驚くとともに、他力本願の野党の無力にも妙に納得。今回の件は、単に脇が甘かっただけなのか、米国の意向なのか、そのうち見えてくるのだろうか。

 

 戦後左翼史 その7 1960年③ アカシアの雨がやむとき

 *(*は、僕の考え)今回で激動の1960年が終了。8月、安保闘争の高揚期が過ぎ去り、日共では野坂―宮本体制による異論排除が進む。トロツキストというレッテルを貼り排除、続くは党内構造改革派の駆逐へと、物言えぬ体制づくりが進む。

1960.8.1アカハタ 「貿易、為替の自由化と日米経済関係」中央委員会経済調査部

1960.8.2アカハタ トロツキズム批判の立場の問題、津田道夫著『現代のトロツキズム』(青木書店)について

1960.8.2アカハタ 主張「安保闘争会議の今後の発展方向について」

1960.8.2アカハタ 解説「農民運動に若い力を 期待される「青年運動研究集会」」(8.5~8.7)

1960.8.4、5アカハタ 解説「国民をしぼりあげる物価と税金」

1960.8.12アカハタ 意識的な挑発集団、反革命の本質をつかめ

1960.8.14アカハタ 「日本共産党全国活動者会議における宮本書記長の報告と結語」十一中総決定の実践のために総選挙をめざして統一戦線を強め党を拡大しよう

1960.8.21アカハタ 解説「再編進む日本独占資本」、「財閥復活」を達成、膨大な合理化計画も、10大銀行(富士(旧安田、浅野系)、三菱、住友、第一(旧古河、川崎系)、三井、三和、興銀、東海、勧銀、長銀)

1960.8.22アカハタ 日本共産党の選挙綱領(8.18)

1960.9.1アカハタ号外 日本共産党の選挙綱領(8.18)

1960.9.2アカハタ 1960.7.22日本共産党遠賀地区委員会、谷川雁(サークル村宣言)、杉原茂雄(中間市議)、小日向哲也(大正炭鉱細胞)、沖田活美を除名処分

1960.9.10アカハタ 「安保条約反対闘争と知識人・文化人の活動について」中央委員会文化部

1960.9.12アカハタ 日本共産党総選挙予定候補者一覧

北海道関係、(1区)西舘仁(炭労)、(2区)五十嵐久弥(全日農)、(3区)谷内盛治(全逓)、(4区)豊島俊男、(5区)日光福治(国労)⇒結果は、全員落選

(参考)・西舘仁(れんだいこ氏の記述によれば、「1975から76年にかけて、袴田がしばしば北海道を訪れ、西舘仁(元北海道委員会委員長)、中川一夫(前北海道委員会委員長)、豊島俊男(同副委員長)、水落恒彦(同常任委員)らと会合する。」「1977年11月から翌年4月にかけて、西舘仁は統制委員会に三度呼び出され、袴田私案「北海道独立共産党案」について調査を受けた。」とあるが、その意味するところは不明、1963年の北海道知事選挙に立候補し落選)

・五十嵐久弥(1946年入党、1984年死去)

・谷内盛治(1958年、1960年総選挙に立候補し落選)

・豊島俊男(1960年、1963年、1967年総選挙に立候補し落選、1997年第21回党大会で顧問に再任(87歳))

・日光福治(1952年、1953年、1955年、1958年、1960年、1963年、1967年、1969年の各総選挙に立候補し落選)

*選挙カーから聞こえてくる万年落選候補「ニッコー・フクジ!」の名前は子どもの頃の僕の記憶に刷り込まれている。

1960.9.13アカハタ 主張「トロツキスト擁護者の論理」、「現代思想研究会の共産党批判」について

1960.9.13、14アカハタ 「安保闘争の「主役」のすりかえー清水幾太郎氏の果たす役割」岡正芳前衛編集委員、『現代思想研究会』(清水主宰、鶴見俊輔、浅田光輝、樺俊雄、香山健一、三浦つとむ)を批判

1960.9.15アカハタ 「『現代思想研究会』についてー『週刊新潮』誌への回答の全文―」宮本顕治中央委員会書記長

1960.9.16アカハタ 偽装されたトロツキスト擁護の試みー「さしあたってこれだけは」というよびかけについて(六月行動委員会、谷川雁、吉本隆明、鶴見俊輔、藤田省三、武井昭夫(てるお)、関根弘)

(参考)・関根弘(1961年除名)、武井昭夫(1961年除名)

1960.9.16、17アカハタ 「指導の失格という中傷―武井昭夫の安保総括についてー」

1960.9.27アカハタ 解説「日教組の方針~荒木文政の弾圧と対決」

1960.10.6、5アカハタ 「民族の独立をあいまいにする新しい理論―佐藤昇氏の見解についてー」豊田四郎宣伝教育部長『経済評論』(1960年9月号)討論会「新安保条約と日本帝国主義」、広沢賢一(社会党)、川崎巳三郎(日共)、佐藤昇、大橋周治、塩田庄兵衛、この討論で、佐藤昇は日本独占資本による自発的従属論を批判した。

(参考)・川崎巳三郎:昭和期の経済評論家 プロレタリア科学研究所常任中央委員、東京商科大学(現一橋大学)講師

・佐藤昇:1950年代に日共内で構造改革論を主張、のちに脱党

1960.10.8アカハタ 「教育基本法改悪のねらうものー「教育基本法を守る講演会」からー」、丸岡秀子、田畑忍(同志社大)、長田新(日本子どもを守る会会長)、小林武(日教組委員長、北教組出身)、松岡洋子、宗像誠也(東大)、荒木文相を批判。

1960.10.8アカハタ 解説「新潟会談を振り返って」竹本記者、朝鮮民主主義人民共和国赤十字代表団来日、クリリオン号、政府と日赤の帰国協定は帰国事業のスピードアップを妨害

*この北朝鮮に関する10.8と10.31の記事は重要。現在は沈黙している日共が、かつて北朝鮮帰国事業に積極的だった証拠である。僕は、当時の北朝鮮、韓国からの情報がともに乏しかった情況のもとでは、在日朝鮮人の方々が帰国を希望しそれを援助したことは間違いではなかったと思う。結果から見ると、帰国後の生活苦など大変な情況になってしまったのだが、それに対して知らん顔を決め込む日共の態度が無責任極まりないと考える。日共は、どんなにいいことを言っても、過去への真摯な総括なくして大衆からの信頼は決して克ちえることはないだろう。

1960.10.10道新 13日に社会党大会、総選挙体制を確立、「護憲・中立」を浸透、反独占資本闘争展開、浅沼委員長、江田書記長体制

1960.10.11道新 「教育基本法を守る講演会」の発言から 一人一人が意見を、改正は憲法問題に関連

1960.10.13アカハタ 「社会党臨時大会に寄せて」土岐強中央委員会経済調査部長

1960.10.16道新 歴史を血で汚す右翼、その系譜を探る

・玄洋社(明治10年)平岡浩太郎、頭山満、福岡で創立、尊皇攘夷、文明開化に反対

・黒竜会(明治34年)内田良平、三国干渉に憤激

・浪人会(明治41年)吉野作造東大教授、村山竜平朝日新聞社長に暴行

・大日本国粋会、床竹徳三郎(原内閣内務大臣)、西村伊三郎、青山広吉ら侠客60万人

・大和民労党、河合徳三郎(大都キネマ社長)が設立、堺利彦襲撃

【国家社会主義】

・猶存社(ゆうぞん)(大正8年)北一輝が創立、大川周明、西田税、鹿子木員信(かのこぎかずのぶ)

・建国会(大正15年)赤尾敏、会長上杉慎吾東大教授、顧問頭山満、永田秀次郎、平沼騏一郎、書記長津久井竜雄

【戦後右翼】

・大東塾、景山正治

・愛国党、赤尾敏

・国民総連合、大森曹玄

・護国団、井上日召

・新日本協議会(1959.3結成)自民党岡崎英城、木村篤太郎、高山岩男神奈川大教授

(参考)10.12浅沼委員長が右翼山口二矢に刺殺される。

1960.10.16~18アカハタ 「最近の経済情勢について」(上、中、下)中央委員会経済調査部、恐慌不可避

1960.10.20、21アカハタ 「「経済成長」の総決算―国民経済白書からー」柏木保雄(統計学者)

1960.10.22アカハタ 「炭鉱合理化と災害―労働者の生命を守るために」矢田文男(労働問題研究)

1960.10.28アカハタ 「三池闘争の新課題」(韮澤)、全産業へ合理化の波、意義を持つ今後の三池闘争

1960.10.31アカハタ 国際解説「六年目に入ったアルジェリア戦争」

1960.10.31アカハタ 帰国協定延長調印、日朝人民の勝利、政府よぎなく後退、在日朝鮮人、日朝両国赤十字は、協定を一年延長で合意、南朝鮮の張勉政権は「北進阻止」を主張(重要!)

1960.11.1、2アカハタ 「中立化で日本の経済は破綻するかー自主平和経済の展望―」土岐強(経済調査部長)

1960.11.28、29アカハタ 「西ドイツ軍国主義復活の経済的基礎」席林生11.16人民日報掲載論文

1960.12.7アカハタ 「中立の道と社会主義」カンボジア・シアヌーク首相、ラオス・プーマ首相、キューバの教訓、岩村三千夫(中国研究所理事)

19060.12.10、11、12アカハタ 「ドル危機はアメリカの世界政策の危機である」ソ連アカデミー会員E.バルガ

1960.12.12アカハタ 国際解説「ルムンバ首相逮捕とアメリカの策動(コンゴ)」世界の世論憤激高まる

1960.12.12道新 比重増すソ連共産党中央委員会、一月総会を前に展望、フルシチョフ首相(党第一書記)体制確立に活発な討議や批判を利用、農業が重要議題、7か年計画の成否をかける。次世代候補:ブレジネフソ連最高会議幹部会議長、コズロフ党書記、スースロフ党書記

1960.12.19、20、21アカハタ 「アメリカの恐慌とドル危機」渡辺武(経済評論家)資本主義の全般的危機と社会主義体制の優越性

(参考)・渡辺武:1946年入党、1968年から2期参議院議員

1960.12.20アカハタ 国際解説「NATO核武装の危険な動き」

1960.12.29アカハタ 「1960.12.27第十四回中委総会決議 総選挙の結果と当面の任務」 3議席、115万票

1960.12.30アカハタ 「1960.12.27第十四回中委総会決議」、「「共産党・労働者党代表者会議の声明」及び「全世界諸国民への呼びかけ」に関する決議」

 

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戦後左翼史 その6 1960年② '60年安保

2016-01-27 20:04:22 | Weblog

 真冬日が続き、外でのリハビリ―は回避。室内でのペダル漕ぎでエネルギーを消費し体重を何とか維持している。春を呼べ!

 本の整理を始めたが、懐かしいような、切ない気持ちが押し寄せてきて、中々進まず。捨てることができないが、捨てなければいけない。

 

 戦後左翼史 その6 1960年② '60年安保

1960.1.19 日米新安保条約がワシントンにおいて、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印。反対闘争の目標は、調印阻止から批准阻止へ。5.19衆議院で新条約批准を強行採決。6.19参議院通過、自然成立、発効。安保闘争が佳境を迎える。

*(*は、僕の考え)共闘組織の安保条約改定阻止国民会議(総評、社会党など13団体が中央幹事団体)において、日共はオブザーバー参加であった。この意味するところは不明。日共が傍観者的なスタンスを決め込んだのか、共闘組織から信頼を勝ち得ることができずオミットされたのか。

1960.5.25アカハタ 通達「新しい事態の闘争のために」日本共産党中央委員会書記局

1960.5.31アカハタ 主張「安保阻止闘争の全般的利益にために、トロツキスト集団に断固たる態度を」

1960.6.4アカハタ 6.3中央委員会幹部会声明「岸打倒、国会解散、安保批准阻止、売国・ファッショ的暴挙粉砕」、政府声明の不当と虚偽に断固抗議する、今日全国で愛国、正義の大闘争

1960.6.5アカハタ 6.4中央委員会幹部会声明「6.4ストの偉大な成果に立ってさらに前進しよう」6.4大行動、米日反動に通弊 

1960.6.11、12、13アカハタ 「知識人の思想と行動―一部の人々の誤った見解についてー」蔵原惟人(これひと)中央委員会常幹部会員文化部長

・5.23『週間読書人』清水幾太郎「最悪の事態に立って」、6.4『図書新聞』竹内好「民主か独裁か」、『世界』7月号「心境と見通し」に対する批判

1960.6.12アカハタ 人民日報(1960.6.10)が論評「安保闘争 しっかりと人民大衆に依拠して」

1960.6.12アカハタ 「アイゼンハワー来日をめぐって この瞬間の歴史的意味」宮川寅雄(日本AA連帯委員会担当常任理事)

(参考)宮川寅雄(戦前1931年入党、1967年中国問題で除名、日中文化交流協会理事長、1985年死去)

1960.6.15毎日 全学連の反主流派、主流派とどう違うか

・主流派は、共産主義者同盟、唐牛健太郎全学連委員長、「反岸」

(参考)唐牛健太郎(北海道大学、1957年入党、その後共産主義者同盟結成大会に参加)

・反主流派は、日本共産党、リーダー黒羽純久(東京教育大4年)、ハガチー新聞係秘書来日乱暴事件、「反米」

(参考)黒羽純久(よしひさ)(1960年全国学生自治会連絡会議議長、構造改革派、後に離脱)

1960.6.15~19アカハタ 「日米修好の「百年」」(1)~(4)井上清(京大助教授)

(参考)井上清(在野で、歴史学研究会などで講座派マルクス主義の立場からの日本近代史研究の第一人者、後に、中国文化大革命、全学共闘会議を支持。1967年除名)

1960.6.17アカハタ 「日米修好百周年と新安保条約」 大ウソの「日米新時代」、岸のやり口、明治専制政府顔負け

1960.6.18アカハタ 「アイク訪問中止の国際的波紋、米帝国主義の新しい敗北」岡倉古志郎(日本AA連帯委員会担当常任理事)

(参考)岡倉古志郎(岡倉天心の孫、アジア・アフリカの民族運動を研究、2001年死去)

1960.6.19アカハタ 主張「新しい勝利にたってさらに前進しよう」6.10ハガチー来日、6.16アイゼンハワー大統領来日中止

1960.6.25アカハタ トロツキスト共産党本部を襲撃

*6.15東大生樺美智子が殺された。6.23国民葬に日共は不参加。これに対して全学連は憤慨し、党本部にデモをかけた。日共は、死んだのはトロツキストでそれは自業自得だ。ひとりの人間が亡くなった事実に対して人間としての哀悼の意を示すことをせず、思想の異なった者は死んで当然という態度。これは当時も現在も変わらないが、大衆が日共に対して抱いている共に闘うという信頼感を持てない原因である。

1960.6.26アカハタ 解説「日本のトロツキスト 反革命分子の集団 米帝との闘争を否定 反ソ、反共の挑発行動」

1960.6.27アカハタ 主張「トロツキスト徒党への断固たる闘争の勝利」、小島弘、糠谷秀剛、香山健一、藤原廣久、北小路敏らを批判

(参考)・小島弘(1957年全学連副委員長、その後世界平和研究所参与)

・糠谷秀剛(全学連執行部、その後弁護士)

・香山健一(1956年共産主義者同盟結成、その後学習院大学教授)

・北小路敏(さとし)(1954年入党、1958年離党、その後革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派))

1960.6.29アカハタ 安保体制打破道民会議常任幹事会でトロツキスト除名決議、北海道学芸大学札幌分校が拠点。岩見沢、函館、釧路、旭川分校、札幌医科大学、北海道大学における共産主義者同盟員(社会主義学生同盟員)は2百数十名

1960.6.29アカハタ 民青同盟文化祭宮本書記長演説、安保破棄への条件は十分、青年の未来とざす米日反動

1960.6.29アカハタ ブカレスト会議12か国共産党労働者党共同声明を発表、平和共存と戦争阻止、1957.11モスクワ宣言の正しさ確認、(12か国:アルバニア、ブルガリア、ハンガリー、ベトナム、ドイツ、中国、朝鮮、モンゴル、ポーランド、ルーマニア、ソ連、チェコスロバキア)

1960.7.1アカハタ 「米日反動の政策と新安保条約にたいする今後のたたかい」志賀義雄中央委員会幹部会員の東京千代田公会堂での記念講演から

1960.7.4アカハタ キューバ革命の前進 アメリカ石油工場を接収、武力干渉ねらう帝国主義

1960.7.4道新 ブカレスト会議「戦争と平和をめぐる理論的対立」、中ソの食い違い妥協なる、「分業関係」作られる、西側ゆすぶる?両面作戦

1960.7.5アカハタ 「安保闘争と経済干渉 次期政権への援護射撃、政府・独占、逆宣伝に狂奔」

1960.7.6アカハタ 1960.7.1第11回日本共産党中央委員会総会「愛国と正義の旗の下に団結し前進しよう」

1960.7.7アカハタ 主張「十一中総(6.29~7.1)の決定と意義」

1960.7.9アカハタ 「トロツキズムと小ブルジョア急進主義」豊田四郎中央委員会宣伝教育部長、

ハンガリー事件の影響もあり、1958年全学連第12回大会以後全学連中央執行部30名全員が共産主義者同盟に結集。中執は、香山健一、島成郎、森田実、革命的共産主義者同盟は、元全学連中執、塩川喜信、土屋源太郎により結成されたが、黒田寛一系の同志会と書記局派に分かれている

(参考)・島成郎(1950年入党、1960年全学連書記長、その後精神科医)

・森田実(1958年共産主義者同盟結成、その後政治評論家)

・塩川喜信(1958年全学連委員長、その後東大助手)

・土屋源太郎(都学連委員長)

1960.7.11アカハタ 「たたかうキューバ人民―対米従属の脱却と民主主義の前進をめざしてー」池上幹徳(ジャパンプレス理事)

1960.7.14アカハタ 「7.15に思う」春日庄次郎

1960.7.18アカハタ 「樺美智子葬に対するわが党の態度について」橋本貢(中央委員会宣伝教育部員)、6.24中央委員会幹部会声明で「国民葬」不参加を決定

1960.7.19道新 35年度の経済白書発表 驚異的成長ぶり 上昇の成熟期を迎える

1960.7.23、24アカハタ 学生の思想と小ブルジョア的革命性の問題をめぐってー学生の暴走の背後にあるものー、―トロツキストを孤立化し粉砕せよ―

1960.7.28アカハタ 主張「社会党の「政治方針解説」の文書について」

1960.7.28、29アカハタ 「民主勢力の団結強化のために 社会党「政治方針解説」を検討する」二つの敵、米帝と独占、革命論、統一戦線、学生運動への対応で対立

1960.7.30アカハタ 全国都道府県委員長会議(7.5)における宮本書記長の総括

1960.7.30アカハタ 「最近の日本経済の動向」中央委員会経済調査部

1960.7.30、31アカハタ 「国際情勢の見方に現れたトロツキストの立場と役割―かれらは米帝国主義をどのように美化するのかー」西沢富夫中央員会経済調査部副部長

1960.7.31アカハタ 「35年度経済白書についてー転機に直面する日本経済の問題」土岐強経済調査部長

 

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天皇(制)について 天の邪鬼さまへ 

2016-01-21 21:03:06 | Weblog

 天皇(制)について 天の邪鬼さまへ

 天の邪鬼さま、コメントありがとうございます。このブログ「原武史『皇后考』」(2015.10.7~)及びリンクしている愛犬日記の「『談話』VS『お言葉』」(2015.8.6)における天の邪鬼さま、雨読、管理人Red氏のコメントをもとに天皇(制)について考えてみました。

 大日本帝国憲法と日本国憲法では、機関(システム)としての天皇の権能は大きく変わりました。しかし、Red氏や天の邪鬼さんと同様に、市井人の感情レベルにおいて精神的、情緒的な連続性があると思います。これは、相当に根深いものであり、そう簡単には変わらないと思われます。邪鬼さんの憲法第1条を削除するとすっきりするとの主張は、論理の次元では整理がつきやすいですが、しかし市井人の感情レベルではかなり難しいと思います。

 日共の志位は、将来において国民連合政権が実現できて、国民の議論が進み、合意が得られたあかつきには、民主共和制にすると主張していますが、それは党員向け(天皇制廃止は立党の原点です。)と国民向け(共産党は乱暴なこと、無理はしません)との二枚舌になっています。

 現憲法では、政治的発言に対して制約があるにも拘わらず、現天皇はそれを逸脱する発言が目立ちます。これは、発言内容が政治の暴走に対する危惧の表明で肯首できる内容であったとしても、いつまでも保障されない、場合によっては反対に転化する危険性を持っていると考えます。政治的発言ができるという悪しき前例になる可能性があります。

 現憲法の「象徴」規定は、政治的側面からは権力を有しないと解釈できますが、社会的、世俗的側面からは影響力を残したという天の邪鬼氏の解釈に対しても異議なしです。

 僕は、かねてから「国民国家の黄昏」を主張していますが、国民国家という擬制も歴史的な限界を持っていて、たかだか200年間ほどで、そろそろ賞味期限が来ている制度と捉えています。稲作文化を基盤とする天皇制も1300年あまり続いてきていますが、いつかは賞味期限を迎えるだろうと思います。それよりも、男系男子を貫きながら側室性を採らずにいくと、生身の人間による神(生き神様)の継承はいずれ生物学的な限界に達すると推定できます。

 (少し脱線しますが、数学的に、男女のうち男の生れる確率は絶対に1(100%)にならないのですから、0位かの少数と少数(0.☆×0.★)を掛けつづけると限りなくゼロに近づいていき、血統は絶えてしまいます。)

 先端(未来)を知ろうとすれば、初源(原点)を訪ねなければならない(温故知新と同意)。古代における天皇制の初源は記紀の記述からもかなり曖昧です。『皇后考』(原武史著)には、宮中祭祀は明治になってから作った「伝統」、初代天皇を神武に定めたのが明治24年、さらに大正末年になってようやく皇統(歴代天皇名)が確定した、と書かれています。皇国史観は明治から戦前昭和にかけてのわずかな期間だけのものです。皇室のあり方としては、維新前の京都に居た時代くらいの状態でいいのではないかと思います。

 

 

 

 

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戦後左翼史 その5 1960年① 安保闘争 トロツキスト

2016-01-17 14:02:08 | Weblog

 あまりにも本の整理がつかない状態になっているので、「お値段以上ニトリ」で書棚を購入。一昨日は、帰宅後標準組み立て時間90分となっているところ2時間以上かかりようやく組み立て終了。30本くらいネジくぎを締めたので右手が筋肉痛に。

 例年に比べ積雪は少なく、日中も陽が射しているが、気温は最高でも-5℃、これでは外でリハビリトレーニングは無理。室内を片付けて、ペダル漕ぎでもしますか。

 

 戦後左翼史 その5 1960年① 安保闘争 トロツキスト

1960年(僕は5歳)上半期に国内外であったこと。

60年安保闘争、三井三池炭鉱闘争、社会党から民社党が分裂、韓国で李承晩政権崩壊、米軍の偵察機U2がソ連上空で撃墜される、全学連で民青系が東京都自治会連絡会議(都自連)を結成。

*僕は小学校に入学する前の年だったが、子どものたちが「アンポ、ハンタイ!」といいながらデモごっこをした記憶がある。「カラスの赤ちゃんなぜ泣くの」を「岸さん、岸さん、なぜ泣くの」とした替え歌も覚えている。

1960.2.20、22、23アカハタ 「安保改定阻止国民会議の発展のために 国会・羽田闘争の評価をめぐって 清水幾太郎ら進歩的文化人について」中央委員神山茂夫

(参考)当時、党中央委員として国会への直接行動を主張した清水幾太郎らを批判した神山茂夫も1964年に除名され、志賀義雄らと日本共産党(日本のこえ)を結成。1967年には中野重治とともに日本のこえも脱退する。

1960.3.16アカハタ 解説「トロツキストの国際的活動について」

1960.3.17アカハタ 主張「トロツキストと全学連指導部」

1960.4.6アカハタ 日本共産党中央委員会青年学生部「全学連の臨時大会について」 3.16から開かれた第15回臨時大会で共産主義者同盟(ブント)が執行部を独占、全学連は、ブント系の社学同、革共同系のマル学同、日共系の民青同に色分けされた。

1960.4.18 アカハタ 3.21付けで、『日本読書新聞』静岡大学助教授浅田光輝「全学連と大衆の間」に反論

(参考)浅田光輝(1954年除名 豊田四郎、神山茂夫に共鳴し戦後入党)

『新日本文学』4月号村上一郎「羽田ふらぐめんて」安保改定に対する自然な怒りと挑発の分別が重要

(参考)村上一郎(戦後中野重治に共鳴して入党したが脱党)

1960.5.1アカハタ 「いわゆる日米修好百周年 日本への手紙」呉(ウーハン)北京副市長

(参考)呉:北京副市長、後に文化大革命で失脚

1960.5.9アカハタ あいつぐ米経済視察団の来日 もうけ確実な対日投資、外資導入緩和は日本独占の望むところ

1960.5.9、5.10、5.11アカハタ 「日米経済関係の実態」(一)軍国主義復活と対米従属を強める「軍事援助」と「特需」、(二)「経済援助」と「借款」による対米従属、(三)貿易と技術および外資導入を通じる対米依存

1960.5.20アカハタ 日本共産党中央委員会幹部会「全学連指導部(トロツキスト)のたびかさなる分裂・挑発活動について」

*安保闘争に対する日共のスタンスは、「日本は米国の半植民地で従属国」とした規定から反米民族独立闘争を重視した。従ってアイク(アイゼンハワー大統領)訪日阻止、羽田でのハガチー(大統領新聞係り秘書)事件だけが、安保闘争における唯一の闘いだった。日本の独占資本に対して戦いを挑むとか、安保を政治闘争の位置づけにはできなかった。

このため、先鋭的な闘いを行う学生(全学連主流派=ブント)に対して、「トロツキストの挑発行動に乗るな」「冒険主義」と批判を浴びせ、その闘うエネルギーへの妨害、組織的な切り崩しなど「反革命」的な存在に終始した。吉本隆明の言葉を借りるなら、これが「擬制(前衛)の終焉」である。

 日共の反米愛国はまるで右翼の使う言葉だが、ただブントも根はナショナリズムに基づいた国家(日本国)の存在を前提にした闘いだったと思う。国家を開く(廃絶する)という射程を持ったインターナショナリズムの考え方はどの党派にも無かった。

 

 

 

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戦後左翼史 その4 1959年 『現代の理論』 トロツキズム

2016-01-10 17:08:13 | Weblog

 一昨日の夜だったか、BSフジに志位委員長が出ていて、司会者の質問にしどろもどろ(僕にはそう映った。)に答えていた。一例では、「国会開会式への出席がなぜ衆議院議員6名で全員(21名)でなかったのか」と問われると、「最初だからこれ位で」、との答え。そういういい加減なことを言うから臆測を呼ぶのだ。僕などは、幹部の考え方に差があり不満分子は欠席、志位はヘタをすると失脚するかも知れないなどと想像をたくましくしてしまう。

 

 戦後左翼史 その4 1959年 『現代の理論』 トロツキズム

 1959.9.26アカハタ 主張「マルクス・レーニン主義の破りがたい原則―雑誌『現代の理論』をめぐって」

 *(*印は僕の考え)宮本による異論排除、党支配が着々と進む。構造改革派が雑誌『現代の理論』を4月に創刊、党員の論文も掲載され活発な理論活動が行われていたが党中央の批判により5号をもって9月に廃刊に追い込まれる。

 ここで、党中央(宮本)は奇妙な論理を展開する。党員は、党外の出版物などにおいて、意見を公表してはいけない。意見の表明は党内に限る。しかし、その党内のルールはといえば、「マルクス・レーニン主義理論の発展は、今日では党の中央委員会と別個に行えるものではない」(9.26主張)というものである。要するに、これは、党中央の言う通りにして下部党員は黙っていろ!さらに嫌なら党から出ていけ!ということである。こののち、構造改革論争においては多くの人材が党を離れて(除名)いく。

 1959.9.26アカハタ 「マルクス・レーニン主義の中国における勝利 中華人民共和国成立10周年を祝い、『平和と社会主義の諸問題』誌にために執筆」)(1959.9.14)劉少奇国家主席論文を転載

 (参考)劉少奇:大躍進政策が失敗に終わると、1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任する。党内序列も毛が1位、劉が2位。しかし、その後文化大革命の中で失脚する。

 1959.10.7アカハタ 「戦後日本の二つの道のたたかいー日本の無条件降伏14周年にあたって」庄濤『国際問題研究』(中国)誌第5号から転載

 1959.11.23アカハタ 日本共産党東京都委員会常任委員会「マルクス・レーニン主義の純潔を守れ トロツキズムを粉砕せよ 港地区委員会山崎衛(まもる)同志批判」

*党中央に従っている都委員会の中にあって、党中央批判を行った港地区委員会の山崎、田川は1959.12.16に除名され、翌60.4に共産主義者同盟(ブント)に合流した。

(参考)山崎衛(1960.8.31共産同政治局員山崎衛・田川和夫ら論文「主観主義と小ブル急進主義の克服のために」を発表)

*日共は1960年安保闘争前後に方針をめぐり党に反対を唱える党員をトロツキストとして断罪、除名する。ここでも人材の流出が続く。

1959.12.17アカハタ 日本共産党中央委員会農民部、婦人部、市民対策部各拡大会議討論結果の概括

1959.12.19アカハタ 主張「トロツキストの思想と挑発から学生運動を守ろう」

*全学連(ブントが主導)が、60年安保闘争において国会突入など戦端を切り開く闘いを繰り広げていることに対して、日共はお得意のフレーズで「敵の挑発に乗るな!」を連発するのである。この党は、人民(国民)のために自己(党)を犠牲にして闘うことを第一とせず、闘いよりも党組織の温存を常に第一としている。この後、様々な闘いが緊迫していく場面で、常に「敵の挑発に乗るな!」と言って敵前逃亡を常としていく。いくら正論を唱えても信頼できる組織ではないとの評価が定着していく。

時代は、激動の1960年代に突入する。

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戦後左翼史 その3 1956~59年 スターリン批判 ハンガリー動乱

2016-01-05 20:28:07 | Weblog

 戦後左翼史 その3 1956~59年 スターリン批判 ハンガリー動乱

1956年(僕は1歳)

1.6志田重男の突然の失踪(スキャンダル)

2.24ソ連第20回共産党大会で、スターリン批判

7.28春日正一自己批判(旧徳田系から宮本へすり寄る)

9月椎野悦男、女性問題を理由に除名、志田離党の確認(除名は、57.5.21)

 これで、宮本による旧徳田系最高指導部、伊藤律、志田、椎野が失脚、排除

10,11月 ポーランド、ハンガリー動乱、ソ連による軍事介入

日共はソ連共産党を支持したが、これを契機に党中央批判が強まる。ここから、新左翼(トロツキスト)運動が生まれる。

 *(*印は僕の考え)ロシア革命後のソ連社会で行われた粛清などの行為は、スターリンという指導者の個人的な資質の問題に起因するのか、そもそも共産党に内在する理論的かつ根源的な欠陥なのか、それについてどこまで内省が行われたのか、掘り下げがされたのかが課題であった。しかし、想像するに当時の空気は、支社(日共)が本社(ソ共)を批判できない、社会主義社会を建設するという理想や希望という言葉が力を持っていたのではないかと推察する。しかし、これがその後の左翼組織の分裂と現在の衰退に繋がっていくと考える。

 

1957年(僕は2歳)

学生運動においても党中央に批判的な潮流が生まれる。

 

1958年(僕は3歳)

7.7党中央、香山健一全学連委員長ら学生活動家を除名

 旧徳田系の紺野与次郎は、指導の責任を問われて、常任幹部会員を解かれる。

7.13密出国していた党員65名が白山丸で中国から帰国

7.21第7回党大会 人事では、野坂参三中央委員会議長、宮本顕治書記長、春日庄次郎統制委員会議長、幹部会員は野坂、宮本、袴田、蔵原、春日(正)、聴涛克己、志賀、鈴木市蔵、松島重治の9名となり、袴田の台頭、旧徳田系の駆逐により宮本―袴田体制が確立されていく。

 理論面では、新綱領が、宮本、野坂、志賀らの「アメリカ帝国主義+日本独占資本=二つの敵論」(敵の出方論=平和革命否定も含んでいる)と、春日(正)、内藤知周らの「日本独占資本=一つの敵論」の論争に決着がつかず継続審議になる。

12.10日本共産主義者同盟(ブント)結成

 

1959年(僕は4歳)

1月キューバ革命

3月安保条約改定阻止国民会議(総評、社会党など13団体が中央幹事団体)、日共はオブザーバー参加

4月マルクス主義の創造的発展を目指すという目的で、雑誌『現代の理論』が発刊される。不破哲三、上田耕一郎も執筆するが、党中央の圧力(6月6中総決議)で9月の第5号をもって廃刊に追い込まれる。

(参考)雑誌『現代の理論』:日本共産党内の構造改革派である安東仁兵衛、長洲一二らにより1959年5月創刊(同年9月終刊)。安保闘争後、1961年に構造改革路線を打ち出し、路線対立から日本共産党から離党する。

6月全学連4役を含む幹部7名が除名される。

6月党中央では宮本派と春日(正)派の対立が深まる。

 

 

 

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戦後左翼史 その2 1955年

2016-01-03 17:14:50 | Weblog

 新年あけましておめでとうございます。元日の社説、道新は「岐路の年に 格差と分断のない社会を」、朝日「分断される世界 連帯の再生に向き合う年」でしたが、今一つインパクトが無かった。一方、日刊スポーツの元旦記事、「本気で党名変更 共産 日本大衆党か」は興味を引いた。

 国会冒頭の天皇の開会宣言に出席し、野党結集のためには候補を降ろし、次は党名を「大衆党」に変更するというのか。そうなると、大衆を導く前衛という概念も当然に無くなるだろうから、機関紙『前衛』も雑誌『大衆』にし、革命も民主集中制という組織原理も捨て去るのか。いずれにしても党内でコソコソと議論をしない党を開くことから始めるべきと思う。

 

 戦後左翼史 その2 1955年

 1955.7.30アカハタ(六全協決議)の次のスクラップは、

1959.9.26アカハタ 主張「マルクス・レーニン主義の破りがたい原則―雑誌『現代の理論』をめぐって」まで飛ぶので、その間の党史について「れんだいこ」氏のHP『左往来人生学院』に学んだ。

1955年(僕は0歳)の動き

 六全協で、1950年以降分裂していた徳田旧執行部派(所感派)、野坂参三、志田重男、紺野与次郎、西沢隆二、椎野悦男、春日正一、袴田里美らと、志賀義雄、宮本顕治、春日庄次郎らの国際派が統一。これにより宮本グループの執行部入り、宮本の書記局入り、野坂―宮本執行部が確立された。

 ここから、宮本による旧徳田系グループの掃討戦が始まる。

 第1弾は、1955.9.19志田重男、椎野悦男のスキャンダル(金と女)が暴露される。党員としての政策論争や活動に対する批判では無く、宮本は醜聞という卑劣な手段を駆使して権力闘争をこの先勝ち抜いていく。これは重要である。もし、政権に参画したら、政敵や国民は同様の方法を使われることを意味するのだから。

 党史の謎がある。北京機関の存在である。徳田球一委員長は既に(1953年)に北京で死亡している。スパイの嫌疑をかけられ北京に幽閉されている伊藤律を、西沢、紺野、袴田、宮本太郎がしばしば訪問し査問を行っている。そして白鳥事件の容疑者たちも北京に逃亡している。当時の中国共産党と日共の関係、北京で一体何が行われていたのか。

 

 

 

 

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