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麻田雅文 『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』 ノオトその2 希望的観測 原爆投下 無条件降伏 ソ連参戦

2024-07-21 10:59:17 | Weblog

正確な情報を入手することが適確な判断につながる前提になるが、大本営は自らの希望的観測に沿わない情報に対して聞く耳を持たなかった。この主観と客観の転倒という事態は、なにも旧日本軍だけの病理ではなく、会社や党派などの組織が抱えがちな病理である。

 

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(麻田雅文著 中公新書 2024年刊) ノオトその2 

2 打ち砕かれた日本の希望的観測 

・なぜ原爆投下やソ連参戦の前に日本は降伏できなかったのか。

・1939.9ソ連、不可侵条約を破棄してポーランド侵攻、独とともに領土を分割

・1939.11ソ連、不可侵条約を破棄してフィンランド侵攻、領土を拡大(ソ連には前科があった。)

(日本)1941.4.13日ソ中立条約調印(有効期間は5年で1946春まで)北の守りを固めたと安心し、1941夏にベトナム南部を占領。日米対立が決定的に。

(米国)1941.12.8日米開戦。ソ連は日ソ中立条約を遵守、米(中)は失望

1943日本軍の劣勢が明らかに。独もソ連相手に劣勢に。

 

○(再掲)1944.10モスクワ会談、スターリンが「対日作戦計画」を米英に提示した以降、公然と日本批判を開始。

1945.4.5ソ連が日本に、有効期限(1946春)満了後には日ソ中立条約を延長しないと通告。それでも日本は、ソ連に和平仲介を託して時間を浪費。

 

○(日本)米英との直接交渉を避け、ソ連に仲介を期待した理由。

①無条件降伏への拒否感。無条件降伏とは、敗者が条件を付けないで降伏すること。指導者たちや昭和天皇は、「万世一系」の天皇が永遠に日本の統治権を保持する「国体」の変更を恐れた。②大本営は、ソ連の仲介があれば条件付きの講和ができると期待した。

1945.5.8トルーマン、日本に無条件降伏を勧告。これに対して、日本政府は戦争継続声明。

1945.5.9独降伏。

 

○(日本)1945.5.11、12最高戦争指導会議構成員会議、ソ連に代償(樺太)を用意して終結の仲介を依頼すると決定。(戦争継続から方針転換

(日本)1945.6.22御前懇談会、昭和天皇「一撃講和論」に代り、戦争の終結についての具体的研究を求める。→ソ連との会談が重ねられる。

1945.6.23沖縄における日本軍の組織的抵抗が終わる。

(日本)1945.7.13佐藤尚武駐ソ大使は、ソロモン・ロゾフスキー外務人民委員代理に、近衛文麿特使の派遣希望と、昭和天皇の聖旨(メッセージ)「米英が無条件降伏にこだわるなら戦い続けるが、なるべく早い平和を願っている」を伝え、早く返答がほしいと希望した。

(ソ連)1945.7.14それを伝えられたスターリンは、返事をしないまま、ポツダム会談に向かう。7.18ロゾフスキーは、「聖旨」には具体的な内容がないと返答を拒否。

(米)1945.7.18スターリンが「聖旨」をトルーマンに渡すが、返答はスターリンが決めることと取り合わず。無条件降伏を求める米国は、日本の求める条件付き講和に興味を示さず。

 

(再掲)1945.7.26ポツダム宣言(米・英・中)、日本に無条件降伏を求める。

○(日本)スターリンの署名がないことから、ソ連が日本に好意があるとの「希望的観測」にすがる。7.27閣議、ソ連と交渉中なので、宣言には意思表示せず、事態の推移を注視すると決定。7.28だが、宣言拒絶を求める陸軍のクーデターを恐れた鈴木貫太郎首相(2.26事件で重傷の過去)は、「ただ黙殺するのみ」と発言してしまう。

○(日本)1945.8.2東郷成徳外相、特使派遣をソ連に申し入れるよう佐藤駐ソ大使に訓令。8.6広島原爆投下。だが、なおもソ連の回答を待つ。

○1945.8.8午後0時、佐藤大使から外務省に、午後11時からモロトフ外務人民委員との会談が設定されたとの一報。ソ連が仲介を了解か。(希望的観測)

 

○(再掲)1945.8.8だがソ連の回答は対日宣戦布告だった。ソ連は「日本がポツダム宣言を受諾しないので戦争終結の時間を短縮し、平和を確立するために参戦する」と表明。

○(日本)1945.8.9佐藤がソ連側に依頼した宣戦布告の旨の電報は日本に届かず、日本政府と軍部は、早朝の米英ソからのラジオ放送で開戦を知った。→ようやくソ連の仲介という選択肢は消えた。ポツダム宣言の再検討へ。

○(日本)1945.8.9午前10:30最高戦争指導者会議構成員会議、4条件案(国体護持、自主的撤兵、戦争責任者の日本による処罰、日本本土は保障占領しない)を決定。午後2:30閣議、長崎への原爆投下が報告されたが、無条件降伏は議論されず

(日本)1945.8.10午前0:30最高戦争指導者会議は混乱し結論が出ず、最後に昭和天皇による「国体護持」の一条件案でポツダム宣言受諾の「聖断」が下る。

(日本)1945.8.10午前9時、東郷外相から各国駐在(ソ連含む)の公司に「天皇の国家統治の大権」を変更しないことを条件に受諾を打電。

○(ソ連)だが、スターリンは日本の条件付き降伏を認めない。「妥協的和平」を求めれば「将来の危険」が残る。

1945.8.11スターリン、現地(満州)の部隊に攻撃の継続を命令。

 

○(米国)ソ連に比べると米国は柔軟。バーンズ国務長官の回答に「国体護持」が保証されていないと日本の軍部は反発。

(日本)1945.8.14午前11時御前会議、昭和天皇は2度目の「聖断」で再交渉を求める軍部の意見を斥ける。

(日本)1945.8.14午後11時、ポツダム宣言受諾の用意があるとスイス政府を通じて米国に、米国から英中ソに伝達。

(米国)1945.8.15正午以降、ダグラス・マッカーサー連合国最高司令長官の命で米軍の攻撃は止む。

(日本)1945.8.15正午、「終戦の詔書」ラジオ放送で国民は敗戦を知る。

・米英との戦闘は終わった。だが、ソ連は停戦に応じなかった。なぜ日ソ戦争は1945.8.15に終結しなかったのか。

 

 

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麻田雅文 『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』 ノオトその1 

2024-07-11 13:57:08 | Weblog

ヒューマニズム精神、宗教的な信条、反戦思想などを抱きながら、自国が戦争へ向かっていることに警鐘を鳴らし、戦争反対を叫んでいたとしても、いざ国と国の戦争が始まれば、その国の兵士となってその国のために戦場に駆り出され殺したり殺されたりしなくてはならなくなる。たまたまその国に生まれたために、その国のために戦争に加わらなければならない。僕は不条理だと思う。

 

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(麻田雅文著 中公新書 2024年刊) ノオトその1  

【知りたいこと】1945.8.8ソ連は日本へ宣戦布告→「日ソ戦争」開始。

・なぜ、ソ連は第2次世界大戦の終わりになって対日戦に参戦したのか。

・日本はなぜこの直前まで、ソ連の仲介に期待したのか。

・玉音放送が流れた8.15以降も、なぜ日ソ両軍は戦い続けたのか。

・日ソ戦争は、その後の朝鮮半島の分断、満州における国共内戦、シベリア抑留・中国残留孤児・北方領土問題の起点である。

1 日ソ開戦(1945.8)に至るまでの米ソの思惑

○ソ連の対日参戦を長らく待ち望んでいたのは米国(ローズヴェルト大統領)である。だが、ソ連はそれどころではない。

(米国)1941.7.10(日米開戦5か月前)ローズヴェルトは、ウマンスキー駐米ソ連大使に「ソ連の航空機で、厚紙でできた日本の街に焼夷弾を降らせてほしい。」

(ソ連)1941.6.22独軍が独ソ不可侵条約(1939.8.23締結)を破棄してソ連に侵攻。防戦一方のソ連は米の支援を期待。日独との二正面作戦は避けたい。

(米国)1943.5.12ローズヴェルト大統領は、チャーチル英国首脳との会談で、「対日戦では、中国軍(蒋介石主席・重慶国民政府)は頼りない、ソ連の参戦は絶大な効果がある。」

(ソ連)1943.11.28米英ソによるイランのテヘランでの会談、スターリン人民委員会議議長は「対日戦に加わるのは、ドイツが崩壊した時だろう」と述べて、参戦をほのめかす。米英にアジアよりもヨーロッパでの対独戦に集中してほしいという意図。

○1944.夏、ソ連軍が独軍の主力を壊滅させる。→対日戦の協議が始まる。

(ソ連)1944.10モスクワ会談で方針転換。スターリン「対日作戦計画」を米英に提示、(見返り)戦闘部隊を支える兵站を要求。

(ソ連)1945.2.4~ソ連のヤルタで戦後処理について会談。秘密協定(米英ソの口約束)を締結しドイツ降伏後2,3カ月以内のソ連の対日参戦を決定。ソ連への見返りは、①旅順を租借地に、大連を自由港に。②モンゴル人民共和国《外モンゴル》の現状維持、満州鉄道や港湾の利権は蒋介石の同意が必要。③満州の鉄道は中ソ共同経営に。(日本関連条項)南樺太(1905までは露帝国領)は「返還」し、千島列島は「引き渡す」。

(米国)ソ連の参戦によって、米兵の犠牲を抑えて日本を無条件降伏させたい。1945.4沖縄戦で米軍死者続出。(中国に配慮しながらもソ連の要求を飲む)

1945.4.12ローズヴェルト病死、トルーマンが継承。

1945.5.9独降伏。→ヤルタ秘密協定によるソ連の対日参戦の期限は1945.8.9に。

(米国)原爆開発と並行して、1945.6.18、九州への上陸(オリンピック)作戦の開始を1945.11.1と決定。だが、引き続きソ連参戦を求める。

1945.7.17~8.2ドイツのポツダムで会談(米・英・ソ)。対日戦、最後の協議。

(ソ連)スターリンはトルーマンに参戦を1週間延期して8.15と伝える。

(米国)トルーマンあせらず。(1945.7.16原爆実験に成功している)

(ソ連)だが、既にスターリンは、ベリヤ内務人民委員から原爆成功情報を得ている。

○通説は、原爆開発によって米国に余裕が生まれ、ソ連の対日参戦を望まぬ方向に考え方が転換したというものだが、政治的には両国に溝ができてきたが、軍部の協力関係は進んだ。

(米国)引き続き米軍幕僚はソ連参戦により対日戦を早期に終結させることを希望。7.26米ソ参謀長会議で、ソ連軍の作戦区域を満州・朝鮮北東部・南樺太・千島列島最北部とする。

1945.7.26ポツダム宣言(米・英・中・三国宣言)発表、日本に無条件降伏を求める。宣言文は米国単独で作成、英国とは協議するもソ連とは協議なし

○(日本)スターリンの署名のない宣言を、ソ連が終戦を仲介する気をまだ捨てていないと解釈し、日本は同宣言を黙殺した。(次節でソ連への期待を説明)

(ソ連)日本の宣言黙殺は、日本の降伏前に参戦し利権(ヤルタ協定)を拡張したいソ連の思惑通りとなる。

1945.8.6広島へ原爆投下(ソ連への予告なし)→米ソ関係の悪化

○(米国)日本や東アジアの戦後処理にソ連の関与を望まず。(ソ連はずし!)

○(ソ連)1945.8.7スターリン、原爆投下によってソ連の参戦前に降伏が早まると予想し、参戦予定の繰り上げ(8.15→8.9)を命令した。

○これは、独降伏後3カ月という期限(8.9)を守るために参戦を繰り上げるのではなく、ヤルタ協定(3首脳による私的な口約束)で約束された利権を自力で手に入れるよりほかなくなったため。(ローズヴェルト死去、チャーチル失脚)

1945.8.8(日本時間午後11時、モスクワ時間17時)、ソ連モロトフ外務人民委員、佐藤尚武駐ソ大使に対日宣戦布告文を渡す。2時間後、米英大使に8.9に日本と戦争状態に入ると告げる。

(米国)1945.8.9長崎原爆投下。ソ連が参戦しても原爆投下を止めなかった。8.14トルーマン、元英国王ウィンザー公爵に3発目を「東京に投下するより他ない」

1945.8.10日本は条件付きでポツダム宣言受諾を米国に伝える。

 

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