晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

東郷和彦 フォーラムin時計台

2009-03-29 15:19:36 | Weblog
 週末ランだけでは練習量が不足して身体が戻ってしまいます。年度末は会社の送別会や歓送迎会という飲み会が重なります。

 それに加え、先週は、コンサ戦、フォーラム時計台、土曜の夜の営業と続きました。ランニング日和の本日は、ゆっくりランで少し足を伸ばしました。



 東郷和彦 フォーラムin時計台 2009.3.26

 4th Series『フォーラムin時計台』が「 世界を視るー分断から連帯へ向けて 一歩踏み出すー」をテーマに再開した。

 3月26日は、元オランダ大使というよりロシア局長を長く勤めた東郷和彦氏(現テンプル大学日本校客員教授)の話だった。
 
 氏によると外交官の仕事は3つに分かれる。情報収集、交渉、そして国内世論の形成。氏は、2001年3月イルクーツクで行なわれたプーチン・森会談では戦後における日・ロの距離が最も近い所まできたが、その後の日本側の国内事情(鈴木宗男の失脚、佐藤優と並び東郷和彦氏の更迭)により頓挫した。これは、国内世論の形成に失敗したことを意味するとのこと。

 氏からは、交渉が順調に推移していれば、今頃北方領土問題はかなり前進(2島返還)していたのではないかという悔しさが感じられた。最近、再びこのイルクーツク会談にもどる言説も出てきている。

 講演で氏は、靖国参拝、従軍慰安婦、対韓国、中国、台湾に対する歴史問題、原爆投下、東京裁判などイデオロギーの対立している問題について、「左右の主張を読んでほしい。」ということを協調していた。左翼の言説の例としては、丸山真男、家永三郎などを挙げている。

 その理由としては、左右の対立にエネルギーを費やしているうちに、中国、インドが台頭し、この国は国際的に取り残され、地盤沈下が目立つ、そしてこの国はこれからどこへ行くのかという危機感を持っている。歴史問題のコンセンサスが必要である。

 前の大戦に対する氏は、対米戦争は、帝国主義国間の戦争として侵略を免れるために止む無し。なお、氏の祖父は、開戦及び終戦時外務大臣東郷茂徳。しかし、中国をはじめとするアジアとの戦争で行なった日本軍の残虐行為は看過できないという認識である。(参考:「本 読書人の雑誌」2009.1講談社P55~57 東郷和彦「均衡のとれた歴史認識のために」)

 このことから、氏は、過去の歴史を全肯定する田母神俊雄空将の論文「日本は侵略国家であったのか」を批判する。また、現在の自衛隊の中で、この田母神論文を支持する隊員が多いことに警鐘を鳴らす。

 講演を聞いて、東郷氏は外交官としてバランス感覚のいい比較的リベラルな思想の持ち主なのだと感じた。外交という仕事は、国家という看板を背負い、国家利益と国際平和を追求することなのでそれ自体を否定するつもりはない。

ただ、機会があれば聞いて見たいと思ったのは、国家という境界の無い世界、私の世界に対する究極のイメージ、国家の廃絶についてどう捉えているかである。

 今後の参考に、ネット上「フォーラム神保町」で検索。文献「歴史と外交―靖国・アジア・東京裁判」(東郷和彦著 講談社現代新書 2008年刊)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『老いの超え方』

2009-03-22 17:13:39 | Weblog
 3日間の走り込み(距離はまだまだ短いが・・)で、少し身体がランニングモードになる。しかし、これから歓送迎会シーズン到来。谷口浩美が言っている「マラソンを走る秘訣は規則正しい生活」を実践しよう。



 『老いの超え方』(吉本隆明著 朝日新聞社 2006年刊)

 近くの図書館で借りて一気読み。途中で前にも借りたかも知れないと思う。否、吉本の類書だったかも知れない。近年の吉本は、身体の衰えとともに、自分で執筆することは稀になり、対談形式の著作が多くなっているため、どこかでその話しを読んだような気になったのかも。

 吉本隆明、1924年生まれ、85歳、肉体的な衰えが目立つようになったのは、1996年72歳の時に海水浴場で溺れてからではないだろうか。しかし、脳髄のほうは、今でも冴え渡っていることは、この対談からもわかる。

 本書で吉本は、身体、社会、思想、死について、縦横無尽に語る。それも、常識という壁を超えて。前人未到の思想を構築した人ならではの発想なのであろう普通の話題でも哲学してしまうのだ。

 珠玉は、巻頭にあるカラー版「日々の体操と道具」であろう。独自の理論から、日々の自分の感覚を衰えないような体操を編み出し毎日実践しているそうだ。

 私たちは、手持ちの力でやりくりしながら生きるしかないということが良くわかる書である。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復活! 吉田拓郎

2009-03-21 17:41:37 | Weblog
 いよいよ明日になりました。
 3月22日(日) 19:30~21:00 NHK衛星第2

 BSエンターテイメント『「大いなる明日へ~復活!吉田拓郎~」です。


 今週号の「週間ポスト」にNHKでの収録の模様が載っていますが、今回のコンサートのコンセプトは団塊の世代に向けて「もうがんばらなくてもいいんだよ」だそうです。

 4月に新しいアルバムも出るそうで、タイトルは「午前中に・・」となるそうで、意味深です。

 体調不良が続いていましたが、ようやく復活です。そんな心境が伝わるメッセージだと思います。

 本人も言っていますが、ツアー形式のコンサートは今年で最後にするそうです。寂しいですが、新しい曲をもっともっと作ってほしいです。

 最近のマイブーム(大変古い言葉ですが・・)は、You Tubeで吉田拓郎を検索、片っ端から懐かしの映像と音楽を鑑賞しています。

 You Tubeなるもの、著作権はどうなっているのでしょうかね、そんなの関係無いですが。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『北海道 化石としての時刻表』

2009-03-20 19:33:45 | Weblog
 『北海道 化石としての時刻表』(柾谷洋平著 亜璃西社 2009年刊)

 著者は、北大の大学院生、古い時刻表をめくって鉄道の面白さを描く。

 読者の年代によって異なるだろうが、私は同時代として体験したことの記憶が蘇る。

 今は無き、機関車を後部にも付けた狩勝峠越え、青函連絡船を乗り継いでの上京、道内最長の普通列車(鈍行)「からまつ」での帰釧・・

 本書では触れられていないが、連絡船では必ず「海峡ラーメン」を食べた記憶。今も、桑園駅で「海峡ラーメン」を再現している店があります。

 池田駅では、「バナナ饅頭」を食べました。いかにも人工的な香料の臭いがしますが、たまに食べたくなるお菓子です。

 未だ20歳台の若い著者であるが、文体がものすごく古風で、章毎にリズムの違う文章になっているのも本書の特徴である。☆☆☆☆☆お薦めの一冊です。

 亜璃西社は、地元札幌の出版社ですが、いい本を出しました。

 さて、偶然なのだろうか、「JR時刻表」が4月号で大正14年創刊から通巻999号、5月号で1,000号になるとのこと。

 時刻表は、旅行をしなくても読むだけでなんだか楽しくなる書物である。情報がぎっしり詰まっていて、おそらく買ってしまいそうな気がします。


 

 
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『子ども学序説』 その5

2009-03-15 17:06:08 | Weblog
 カフェ『ハイチ 』(アークシティデュオ1 5F 新札幌駅直結)のドライカレーです。4Fの丸善で本を買って、5Fで昼食という定番です。サラダが山盛りでした。



 第7章 学校は子どもたちの生活の場になりうるか
1 学校のまなざしと生活のまなざし
 「学校という場が生活の根を失っているとすれば、その学校のまなざしのもとでは、『人権』も『共生』も、だだの観念的な知識、あるいはただの歌い文句に終ってしまう。」

2 子どもたちを生活へと導き入れる学びを
 「人々の生きるかたちが子どもたちに見える場を用意すること、そこに参加する機会をあたえること、子どもたちが自分たちの本番を生きる場を確保すること。」が必要である。

 おわりに
 「現代においては、子どもたちの自然を包み、おおう『学校という制度世界』あるいは『市場という消費世界』が、その影響の範囲をどんどんと広げている。」


 最後に、本書における著者の、特に『発達障害』についての言及から

 近年、「不可解な事件が起こると、発達障害ではないかという話しが出て、精神鑑定で何らかの診断がついてしまう。」「事件の理解しがたい部分が『障害』で埋められて、それで何かわかった気になる」

 「障害は早期発見すれば、早期治療で治せるとか、あるいは少なくとも軽くできるとか思われていて、近頃はすっかり『発達障害』バブルである。」

 「幼少期の子どものことさら伸びの部分を取り出して、専門的な療育の成果だというのは、マッチ・ポンプだ」

 「問題は、個人の能力や特性の特異性ではなく、その人がどういう状況を生きているのか、あるいは生きさせられているのかということである。」

 「特別支援教育がはじまり、誰もがそれぞれの個性を尊重されてともに学び、生きることを目指すというインクルージョンが理念として掲げられているのだが、現実はそれまでと変わらない。」「専門性ということを盾にして、軽度の子どもたちですら普通学級から排除されているのが現状である。」

 「同質者を集めるのではなく、さまざまな違いをもつ者どうしがともにその場にいること(混在)が当たり前だと認めること」


 *教師という職業を聖職という党派がある。いっとき、教師は「労働者」か、「聖職」か、という論争が、教職員労働組合の内部であった。同時に、自治体職員は「労働者」か「全体の奉仕者」か、と言った議論もあった。

 *私などから見ると、福祉関係者や教師は、本来は弱者や子どもに対してやさしいまなざしを持てる素晴らしい職業と思える。しかし、浜田氏の指摘を待つまでも無いが、現実には人間の選別・排除の機能をはたしている。

 *どのような構造から現在の情況になっているか、どういう方向に変えていかなければならないか、ということは、本書において見えてきたと思う。
 問題は、具体的に何をどうするかの次元であり、実践的なモデルを示すことである。
 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『子ども学序説』 その4

2009-03-14 20:50:42 | Weblog
 KKR札幌地下の理容室で散髪、かっちり短くしてもらい気分はランナーに。さっぱり走っていませんが。

 狸小路3丁目ドン・キホーテ地下1階の中華料理店「東京五十番」で元気ラーメン。なぜ、元気ラーメンなのか。それは、炒めたにんにく片と卵がのっているからなのでしょう。まさか、コンサの中山元気が好きだからということではないでしょう。
 
 食べながら思ったのですが、この建物はYES,そうご電器、ずっと前は、確か「サンデパート」と言っていたような記憶が・・・



 第5章 「学べない」子どもたちー学びの危機
1 学ぶ生き物である人間が、学ぶ場としての学校で、学べない
 「『将来のためあらかじめ』という発想のなかには、観念でしかない『将来』を子どもたちに押しつけ、それによって子どもたちの『いま』を支配するという、時間的展望の倒錯がひそんでいる。これこそが、子どもたちの『学べない』状況の最も根本にある問題である。」

 「学ぶべきことを子どもの外で設定し、それを子どもに押しつけ、さらにそれでもって子どもの不安をかき立て、脅かす。この逆行的な発想が、学びという営みをその当の主体の外に押し出して、学校という制度のなかで閉じたものにしている。」

 *個々の能力を伸ばす、集団の力を実感するなど学校の持つ本来の機能が転倒し、子どもにとって学校は抑圧装置と化している。教育基本法の改悪、君が代、日の丸の強制で、さらに教育環境は悪化している。

 *では、かつての「大学解体論」のように学校を解体すれば解決するであろうか。

 第6章 いじめという回路
1 学校という場所
 「学校という場で年齢ごとに輪切りにされた子どもたちの大集団、そこに巻き起こる人間関係の渦に、ムカツキの感覚が深く浸透したとき、これまでとは違ったいじめの回路が、大小の渦をなして逆巻きはじめる。」

2 回路をなすいじめ
 「今日のいじめは標的を単に排除して終るのではなく、むしろ標的を補完物として集団のなかにかかえ込み、それによって回路をなして持続する。」

3 閉じた回路から開いた順路へ
 いじめの回路を断つためには、「教師やおとなたちが監視者としてではなく、まさに学校の共同生活者として子どもたちの周辺に居合わせる状況が、ごく日常的になければならない。」
 
 「子どもたちの集団が、同年齢で輪切りされることなく、そのなかに異年齢、異世代が自然に混じり込んでいること」「学校のなかに、おとなである教師と子どもたちとがお喋りできる関係を最大限持ち込む」

 「閉じた学びを外に開くためには、学校で学んでいることが自分たちの生きているいまの身近な生活につながっていることを、子どもたちが実感するのでなければならない。」

 *子どもたちは、いじめという現象が学校の中だけの問題でないことを知っている。毎日の報道そのものが「いじめ」以外のなにものであろうか。持ち上げたかと思うと、ささいな事をあげつらって叩き落とす、そんな構図を日常的に見せられている子どもたちが同じような事をするのも決して不思議なことではない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『子ども学序説』 その3

2009-03-13 22:22:01 | Weblog
 昨年11月15日、朝の風景です。これから来る冬に備え、木々の葉が落ちた頃です。寒い日が続いていたのに、その日は珍しく暖かで、霞が出ていました。

 あれから4ヶ月、冬を越え、ようやく春霞が見られる頃になりました。

 私は、その間にひとつ年を取り、また少し元気が無くなったような感じと、今は春が来る喜びで元気を振り絞っているような妙な気分です。



Ⅱ 学校という文化
 第4章 学校というまなざしとその錯覚
1 子どもはひたすら「守られる」存在ではない
 「人は守られつつ、同時に守る。守りつつ、同時に守られる。」「そのことは、人間の自然である。」

 今日、子どもはおとなによって<ひたすら守られるべき存在>にされてきた。しかし、「それはかえって子どもたちから、相手に役立ち、相手を喜ばせて喜ぶという人間の自然を奪うことになる。」

2 子どもはひたすら「力を身につける存在」ではない
 子どもは<将来生きていくのに必要な力をひとつひとつ身につけていく存在>とされてきたが、「身につけた力は、本来、たったいま生きている自らの生活世界のなかで使うものであって、将来のために貯めておくものではない。」

 子どもが学校において身につけた力は、「『将来』のためにと言いつつ、結局は子どもたちを制度の梯子に押し込み、空しい学びを強いるだけのものになって」いる。

3 発達の大原則と教育のまなざし
 「人は、<ここのいま>をこの身体にそなわった手持ちの力を使って、いまできないことは適当にやりくりしながら生きる。」

 発達の大原則とは、やりくりしているうちに、「その結果として次の新しい力が伸びてくる」こと。「伸びてこないことだってある。」「発達とは結果であって、目標ではない。」

 また、子どもは、「ともに生き、共有の生活世界を立ち上げる。」存在である。

 *マルクスは、人間を「類的存在」とした。私も「人」という漢字を習った時、その形は人と人が支えあっている形だと教わった。しかし、現在の情況は、「固体能力論」が跋扈し、個人が分断された中でその能力や価値が測られている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『聖家族』

2009-03-12 21:17:17 | Weblog
 「何もしないうちに、時がどんどん流れていく感じ。」と思う時があります。

 ごく限られた人を除いて、人はルーチンな日常を繰り返しています。何もしていないという意味は、「無為」ということではないと思います。人は、「ここの今」を生きるしかありません。

 例えば、ある地方議会議員が、俺は国会議員レベルの人間だ。こんなところでやってられないと思っても、今の彼には、地方議会で活動する以外に方策はありません。

 しかし、今を否定することは、未来へのエネルギーになる可能性を含んでいます。

 このようなブログをやっている人が随分といますが、私も含めて何か自分の「証し」を残したいと思っているのではないでしょうか。それで、何かをやっているような気分になっているのも事実です。



 『聖家族』(古川日出男著 集英社 2008年刊)

 年末の新聞で恒例となっている「今年のベスト3冊」で、各紙の書評子が絶賛していたので、正月休みに小説でも読もうと思って購入した。

 738ページ、上下2段組みの長編、2ヶ月半かかってようやく読破、よく途中で捨てなかったと自分に感心、ほとんど毎夜の寝床読書、10ページも読むと必ず睡魔に襲われる、睡眠薬が入っているような書物。

 繰り返しフレーズの多いクドイ文体、マッタリとしたストーリー、血も沸かず、肉も踊らず、読み手が悪いのかストーリーも印象に残らず、なぜあのように評価されているのか、全くわからない。

 最後まで読み通せた理由もわからず。一言で言うと駄本、詐欺本、お薦めしません。

 ある一家が東北の各地を転転とする。時代も現代から過去まで行ったり来たりする。一家に流れる「血」を描いているのか、はたまた東北の独特の「土地」なのか、読む力の無い私には、不明なことばかりであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コンサドーレ札幌 初戦黒星

2009-03-08 20:30:05 | Weblog
 サポーター席は、赤と黒の縦縞に、ゴール裏には大きな北海道と札幌の所に金の星が出現しました。

 2009年Jリーグディビジョン2第1戦コンサドーレ札幌対ベガルタ仙台、指折り待っていた開幕がついにやってきました。ワクワクドキドキで札幌ドームに。

 結果は、0対1で初戦は、敗れてしまいましたが、一言で面白いサッカーになりました。リスクを賭けてもサイドバックから前線への上がりが見られ、攻撃に厚みがあるサッカーにチェンジしました。

 三浦前監督のJ2戦術も合理的できっちり勝ち点を積み上げ1年で結果を出しましたが、守り重視の堅実サッカーでした。柳下前々監督の打ち合いサッカーは、ディフェンスがザルで脆かったのですが、さて石崎サッカーはどのように進化していくのか楽しみです。

 
 さて、今日の試合で感じたことをいくつか書きます。

 先ずは、キーパーの質の差が出ました。仙台の林は、札幌からのレンタルということを完全に忘れてしまったようで、今日は当たっていました。2点は、確実に止められてしまいました。

 一方の優也は、瞬間的には凄く上手いのですが、ゲームを通した安定感に今ひとつ欠けるところがあります。

 FWキリノは、あまり目立つ仕事をしていませんでした。そろそろ彼の持つ武器を見たいものです。ボランチのダニルソンもマークがきつく、前を向いた仕事ができませんでした。

 右サイドの石井、西は、未だ未だ荒さが目立ちます。特に、石井は、トラップからパスという流れが身に付いていません。トップしかできないのでしょうか。藤田が入ってからは、右からの攻撃がどんどんできるようになりました。藤田は、最初から使うべきです。

 宮沢、若いのだから積極的に打て!、次の試合はお休みですか。

 クライトン、岡本、上里、チョウ、西島・・みんな良く走るようになったと思います。これから、どんどん強いチームに変わっていくような予感のする初戦でした。全然、悲観的になる必要はありません。これからです。

 

 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お粥

2009-03-07 21:44:47 | Weblog
 昼食は、新札幌サンピアザ地下3階「台南キッチン」のお粥定食でした。

 午前中は、歯医者さんで「歯根治療」でした。前回、神経を取った奥歯ですが、1時間ほど痛みに耐えました。針のような器具を歯の中にねじ込まれましたが、痛くて、痛くて。やはり抜歯した方が良かったかな、なんて思いました。

 治療後も痛みが取れず鎮痛剤のお世話に。そのため昼は、柔らかく、温めの食べ物を探して、結局お粥になりました。

 歯科医に行った後のこの虚脱感、喪失感、何事にも集中力が出ません。全く気力がわきません。

 それで、帰宅後は、本日から始まった2009年Jリーグ、鹿島アントラーズVS浦和レッドダイヤモンズ戦をTV観戦。

 その後は、WBC日本対韓国戦、野球には、なぜ日本だけで開催するのだろうか。それも、東京ドームだけでと単純な疑問がわきました。韓国とか台湾で開催したらまた違う雰囲気になるだろうにと。

 サッカーの国際試合は、ホームアンドアウェイで公平を保ちます。

 家(ホーム)から出て、帰宅(ホーム)して1点というマイホーム主義の象徴みたいな野球より、相手陣地に蹴りこんで1点の戦闘的なサッカーの方があらためて面白いと思いました。

 さて、明日は、我らがコンサドーレ札幌の開幕戦、1年でJ1に復帰できるだろうか。年間51試合のうちの1試合だが、昇格のライバルになるベガルタ仙台との闘い、重要な1戦です。

 石崎新監督ばかり目立っているが、外国人補強も上手くいったようだし、あとは少し小粒な若手日本人選手がどれ位成長できるかにかかっているのではないか。

 J2全18チームの戦力にはかなり格差があるようなので、強いチームに勝つことより、弱いチームに取りこぼさないことが重要と考える。

 夏場までに5位くらいにいたら、監督の戦術に慣れるのと、途中効果的な補強を行なうことで、昇格圏内の戦いが可能と思う。


 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『子ども学序説』 その2

2009-03-06 20:30:27 | Weblog
 久々に夜の営業が無く、早く帰宅できました。外は、強い風雨です。一雨ごとに春が近づいています。

 「疎外された労働」を続けていると、内面に滓がたまってきます。それは、週単位で、季節単位で、年単位で、少しづつ違った形態で蓄積されていきます。

 時々、その浄化を試みます。汗をかいたり、旅をしたり、ひと様々でしょう。

 

 「PRIMO HITS」のナポリタン、シンプルですが、価格が安い割には美味しかったです。

 第2章 子どもの能力と無力

 1 能力と生活の織り合わせ
 「能力はそれを適用できる対象があってはじめてその力を発揮できる」「能力は固体内部で完結しない。能力はその対たる環世界とのかかわりにおいてはじめて意味をもつ。」

 「人は単独の固体としてその人生をはじめるのではなく、最初から他者の存在を予定したかたちで生まれ出、他者との振る舞いのやりとりのなかで育つ。」

 「能力がそれを使う生活とセットになって意味をなすというのは、マルクス的に言い換えれば、能力がその使用価値において働いているということである。」「ところが、何かと交換されるところに価値をもちはじめるという局面が、歴史上のある時点から現れる。」

 *物事の持つ2面性、使用価値と価値(交換価値)の分析は、マルクスに貫かれる弁証法的認識のコア、マルクス主義者浜田氏の真骨頂!

 2 人間の計画と個体能力論
 「人間が『明日』という観念をもち、明日にそなえることを考えはじめたとき、人間は自然の計画を越え、そこに、『人間の計画』を持ち込みはじめる。」

 産業革命後、「能力を用いて賃労働を提供することで貨幣を手に入れ、この貨幣を介して日々の生活の糧を得る。」

 同じく、「学校では、子どもが将来、貨幣を稼いで食うことのできる能力を育てることが目的となる。」

 *この一連の論理は、「疎外論」そのものである。資本主義社会では、人間の労働は、労働本来の喜びを無くし、労働力商品を売ることに目的が転化する。
 教育も、人間のもつ能力の全面的開花を目指すのではなく、資本にとって使い勝手の良い労働力になることを強いられる。現代の教育現場における矛盾、例えば、いじめ、詰め込み教育、体罰、校内暴力・・などの根本的な原因は、ここにある。

 第3章 「神のうち」から「ひとの世」へ
 「子どもたちは、ベクトルを外へ外へ広げ、次第に大きな世界を描いていく一方で、同じくベクトルが今度は内へ内へ向かって、そこで世界のうちに閉ざされてある小さな自己の存在にたどりつく。それは、自己意識の誕生。」

 1 内の世界が生まれるまでの前史
 「6歳にはじまる学校の基本的要請は、将来役立つと見込まれた知識・能力を得ること。」

 2 子どもたちの行方
 「人間は人の世界のなかで生きていると同時に、自然との物質代謝に支えられて生きている。」

 「子どもたちは自らの将来の労働力商品予備軍として育っていく。」

 *せつなさ、やるせなさ、青春の心の疼きは、この社会の矛盾を反映している。「ひとり」であることに自覚は、他者への意識、「ふたり」を意識するがゆえである。



 
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『子ども学序説』 その1

2009-03-01 17:37:48 | Weblog
 『子ども学序説 変わる子ども、変わらぬ子ども』(浜田寿美男著 岩波書店2009年刊)

 *4年前に浜田寿美男氏の講演を初めて聞き、その後、著作を何冊か読み、私は氏の考え方を既存の学問に対する「革命」と評価している。このブログで、これまで何回か感想を述べてきているが、このたび新著が出版されたので、読書ノオトを掲載する。

序章 

 「子どもは、その『子どもである』という条件を内側から生きる」のであって、「外から『子ども』をどれだけ精密に見つめても、見えてこない」と従来の発達心理学の限界を指摘する。

 「子どもがその渦中から生きる世界について、その構図を描き、「子どもである」という条件を生きることの意味を考える。」、そのための「子ども学」を提唱する。

 「渦中の視点」にこだわると、「年齢という概念はなくなる。」

 「子育てとは、子どもの自然とおとなの文化の出会うところである。」
 「文化はいわば自然の周囲をくるむようにして形成されてきた。」
 「育児の自然を、育児の文化がくるんでいる。それが人間の育児である。」

 かつては、「育児文化が共同体のなかで引き継がれ、共有されてきた」が、「文化が肥大した先で、」「自然とすれ違い、これを裏切る事態が生まれてくる。」

 「教育は家庭や地域の子育ての延長としてではなく、制度として社会の一つのシステムをなし、それ独自の論理で動きはじめる。かくして教育は、こどもが享受する当然の権利である一方で、それだけの権力性を帯びて、子どもの世界をおおうようになった。そこでは教育が子どもたちの暮らしをひどく侵害する脅威にもなりうる。」

 Ⅰ こどもという自然

 第1章「わたし」の生まれるところ

 子ども学を展開するための基点:「子どもが<わたし>として生きはじめるその基本の構図」として押さえておかなければならないこと。

 1 身体という場―<わたし>の発生する場所
 フォン・エクスキュルの環世界論:「生き物はみな<ここのいま>にこうしてたずさえている身体を中心に、ごく限られた周辺世界を、その内側から、ちょうどしゃぼん玉のようにはりめぐらせているにすぎない。」
 
 2 この世で互いに身体をつきあわせて
 「人は、互いの身体を境界にして、どうしようもなく一人で、どうしようもなく自己中心的である。」「他方、その同じ身体を通して、人はどうしようもなく他者と共在せざるをえず、感心し合わざるをえないようにできている。」

 *なんという見事な2面性認識

 「<わたし>という現象には、私の<わたし>に加えて、自分の外の他者のなかに<わたし>を感じてしまう」

 「<わたし>の発生の土俵は、自他の身体が能動―受動のやりとりするこの場にある。」

 3 ふたたびしゃぼん玉にもどって
 「他者と通じ合うことは、他者と侵しあうこと。そこにまた<わたし>を成り立たせるもうひとつの必須条件がある」

 「適度に強固で、適度に透明な皮膜のうちに閉じつつ、そこにしっかり他者が根を下ろす。ときにその他者が脅かされ、しかし同時にそれに支えられもする。この悩ましい条件が、子どもが<わたし>としてその生をはじめる条件であり、その後もいわば人間の条件であるつづける。」

 子どもは身体をもってこの世に生まれ、別の身体をもった「周囲の他者たちと、互いに能動―受動のやりとりを重ね、そのなかで<わたし>がこの<世界>を生きるという心的構図をかたちづくる。」

 「人間という自然にあたえられた個別性―共同性の両義は、私たちの『共同』性へと展開する方向と、『一人』性の側に傾いて、これを浮き立たせてしまう方向の二つに分かれる。」

 *吉本隆明がETV特集で語っていた。言語は自己表出と指示表出に区分できる。言語の幹と根は自己表出である。それは自分と自分とのコミュニケーションであり、その本質は「沈黙」である。
指示表出である他人とのコミュニケーションは言語の枝葉の部分である。

 *ここまでの浜田氏による、自分と他者、能動と受動の認識は、吉本隆明の言っていることと本質が同じであると思う。これらから、コミュニケーション不全いわゆる「自閉」をことさら障害としてとりあげる近年の傾向に異を唱えざるを得ない。

 *問題は、左翼にありがちな「自分だけが正しい!」とするような、内面における自省の無い生き方の方ではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする