晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

友人の個展

2013-11-29 21:26:49 | Weblog

 慌しい日々に追われ、ものを考えることもなく、時間に追われていました。この間の収穫は、運転免許の更新で何年か振りに、ゴールド!になったこと位かな。30分講習も短くて良かった。でも気を付けないと。

 

 2013.10.6「芸術の秋」で私は、私なりの絵画の見方、感じ方を考えてみた。

 先日、友人が開いた個展に行った。彼の作品は、大きく2種類に分かれる。ひとつは、一枚のキャンパスに彼の子どもと思われる子の幼き頃の様子や身近な動物、部屋の一隅などの風景など、夢の中を描き出したようないくつかのモチーフが不規則に配置された幻想的な画風、これは彼独特の独自の世界と言って良いだろう。

 もうひとつは、身近な風景や自然や海外で訪問した場所を写実的に描いた作品である。あるギャラリーで別の方の作品を見に来た方が、友人の展示場所に寄られて、作品を見ながらつぶやいた言葉が「あら、写真のようね」。かねてから、私が感じていたことは、巧いが伝わってくるものが少ない、ということであった。私は、友人に聞いた。「海外に行った時は、そこでデッサンをしてくるの?」と。「いや、写真をたくさん撮ってきて、それを元に描いているんだ」

 どこの場所でも、その場所の臭い、風、湿度、気温、騒音か静寂、眩しかった、今にも雨が降りそうだった、自分の気持ちは高揚していた、あるいは何となく落ち込んでいた、などのエピソードがあるはずである。それを写真という手段に落とし込むのは難しいと思う。そこなのだろうなあ。

 友人の今後は、彼の幻想的なオリジナリティーのある画風をもっともっと磨きをかけるといいなあ、するとインパクトのある世界がますます拡がっていくぞと感じた。

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『日本の本当の黒幕』

2013-11-21 17:50:10 | Weblog

 今日は会社を休んで運転免許の更新。何年間ぶりでゴールドに。気を引き締めて運転するぞ!

 ランニングの最盛期には、自動車の年間走行距離とランニング距離がほぼ同じ位だったという信じられない状態の時もあった。よう走ったものだ。

 昨夜は、10数年前会社で同じセクションに属していた仲間と飲み会。退職された元上司も参加してくれていつものように和気藹々だった。でも、退職直後というのはなぜか大病のリスクが高いと言うことを再認識。

 今日は、知人の画家の個展に。この方も会社を退職直後病気を発見。現在はその病気と戦っているということだが、年末にはイタリアに行くと話しており、すこぶる元気な様子だった。

 

 『日本の本当の黒幕 (上) 龍馬暗殺と明治維新の闇』『日本の本当の黒幕 (下) 帝国の秘密とテロルの嵐』(鬼塚英昭著 成甲書房 2013年刊)

 この10日間ほど面白くて夢中になって読んだ。幕末から第2次世界大戦に突入するまでを宮内大臣田中光顕という一人の黒幕がこの国の歴史を操っていたという歴史ものである。私は、あえて「フィクション(創作)」といいたい。

 通説とは全く異なるトンデモな推理が続く。「えっ!それって本当なの?」だらけだが、ただグイグイと読ませるものがある。でも、「うそ、でしょう」という所に落ち着く。

 本書の内容を少し紹介すると、坂本龍馬暗殺の実行犯は何と土佐藩士。伊藤博文をハルピンで暗殺したのは安重根単独ではなく伊藤によって宮内大臣を罷免された田中光顕の復讐説。明治天皇の父、孝明天皇は暗殺されている。そして、明治天皇は孝明天皇の皇子睦仁親王ではなく、睦仁親王も暗殺されていて、大室寅之祐という長州出身者にすりかえられていた。昭和天皇は大正天皇の子どもでは無く大正天皇の皇太后が別の男との間にできた子ども・・・・などなど。

 ストーリーとしては興味を引くが、果たして・・眉毛に唾だ。

 最後に触れておきたいのは、出版したのは成甲出版という1979年に朴甲東という人が創業した出版社であるということだ。

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疲労回復法

2013-11-18 20:37:23 | Weblog

 

 何かを書こうと思っても筆が進まない日がある。休んでいるようで休んでいないような倦怠感。そんな日にダラダラと本を読んでも集中できないで逆に苛立ちを感じてしまう。密度濃く働いた日は、ヘトヘトになる位の疲れがあっても充実感が残る。しかし、最近よくあるのだが拘束時間だけが長く、何も出来ないで終わろうとしている土日が続くと、何とも言えない疲労感が澱のように身体に溜まる。

 吉本隆明は、人の心の見取り図を身体性と関係性の二つに軸で表した。関係性の方は、自己幻想、対幻想、共同幻想の三層構造でありここでは触れない。

 身体性から心を捉えると、人の心は植物の心と動物の心から成り立つ。植物の心、すなわち心臓を中心とした臓器系、循環器系から発する心、それを内臓幻想という。夢やイメージ、概念や心意を表す心である。一方、動物の心、脳を中心とした運動系、神経系、感覚器系から発する心、それを体壁幻想という。

 私の感じている上記の倦怠感は、おそらく脳(体壁幻想)と心臓(内臓幻想)からくる複合的な疲れではないか。そんな時の私の疲労回復法は、ランニングである。身体を適度に疲れさせ心臓(内臓幻想)も疲れを感じるまで身体を使うことである。一度、身体を疲れのピークまで追い込むと、後は身体に備わっている自律的な回復機能を感じながら、同時に脳(精神的)の疲れも一緒に取れてくるのを実感するのである。

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中国(習近平体制)は長くないぞ

2013-11-10 14:37:01 | Weblog

 昨日は営業、さあ今日こそは走ろうと思っていたが朝から暴風雨、そして明朝にかけては雪ということで、雨が止んだ暇にタイヤ交換。

 

 私は、もともと、現在の中国はもはや共産党が政権を執っている必然性が失われた国。脳だけが共産主義で、身体(心)は資本主義というバラバラな状態は、長く続くはずはないと捉えている。

 今日の北海道新聞朝刊に、「中国で収賄罪などに問われ無期懲役が確定した薄熙来・元重慶市共産党委員会書記の支持者が、同元書記を「終身主席」とした政党の設立を宣言」と「中国共産党が経済政策を討議する第18期中央委員会第3回総会(3中総会)が北京で開幕」、また「中国共産党中央宣伝部が、3中総会に合わせ、習近平指導部の評価や、改革政策を否定的に報じないよう求める内部通知を出した」ことが伝えられている。

 天安門前の車両突入事件、山西省での連続爆破と中国社会の地下で眠っていたマグマの噴出が始まっている。中国共産党によれば、天安門の事件については、ウイグル独立派組織「東トルキスタン・イスラム運動(ETIM)」によるものとしているが・・・。

 加々美光行「周近平体制の行方」(「情況」2013.8,9月合併号)によれば、3月の全人代の後、劉雲来中央政治局常任委員によって整党運動が提起されたという。8,340万人の党員の70%、5,810万人を査問し、汚職や腐敗にまみれた党員400万人(5%)を除名するというもので、今後党内において権力闘争が起きるのは必至である。

 一方、薄熙来元重慶市書記は、「唱紅打黒」(毛沢東を賛美し腐敗を打つ)を掲げ、党内のみならず大衆からの支持が根強いと分析している。

 私は、少数民族の独立運動、国内貧困問題、党内権力闘争が地下で連動しているとみていいのではないかと考える。

  

 政治の話題を思いつくままにもう2つ。

 昼のニュースを観ていて一瞬耳を疑ったのだが、甘利経済再生相が、職場のニーズにあった多様な働き方の正社員への登用は有意義なことだと語ったのに対して、古賀連合会長が、限定正社員の制度を国が法律で定めるべきではない。雇用条件については、企業内の労使で決めるべきこと、と発言したことだ。詳しい文脈はわからないが、古賀の発言は経営者の発言そのもの。札幌市の上田市長が公契約条例を定めて労働条件の引き上げをしようとしていることと真っ向から反対していることにならないか。

 私は、国民国家が黄昏を迎えている現在、国家のあらゆる分野への介入には反対だが、まさか古賀氏がアナキストとは思わなかった。

 

 脱原発の旗手山本太郎は天皇主義者(天皇制を肯定し、さらに政治を期待している)だったということが明らかになった。この一件からも脱原発に群がる者たちの中にはかなりうさんくさい輩が混じっていることが明らかになった。

 私は、脱原発の思想は、米国の核の傘からの離脱の覚悟まで持っているかどうかが試金石と考える。原発と核兵器は表裏一体であり、原発を無くすことは、核を捨てること、東アジアの中で米国の庇護を振り払ったこの国の行き方を提示するしなければならないということと考える。さらに、脱原発と北朝鮮、韓国、中国の脅威を言い募ることは両立しないと考える。

 

 

 

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朴念仁様へ

2013-11-04 17:14:59 | Weblog

 土日は営業だったので、丸一日の休みは久しぶり。朝から天気も良く20kmの長距離ラン。気温も走り始めの3℃から昼ごろには11℃に。紅葉真っ盛りで冬に近づいた気分にはなるが、今は5月のゴールデンウィークと変わらない気温。

 今日は、身体と心と脳の関係を考えながら走った。実感から判断すると身体と心はかなり一体的である。心と脳は対立的になる事が多いというものだ。

 脳は合理的存在で今日20km走ろうと計画したら時間、強度、スタミナを計算しペースの指示を出してくる。一歩の心は、走り始めで身体が走りに馴染んでいない場合、どうしてこんなつらい事を今日しなければならないのかと私を消極的にさせる。しばらくして身体の調子が上がってくると、心も爽快になり周りの風景を感じる余裕すら出てくる。しかし、段々と疲労がたまって足の運びを意図的にしないとならなくなってくる頃から、心も止まりたい、休みたい、やめたいとささやき始める。今日の目標を掲げる脳と心の闘いが始まる。

 「健全な体には健全な精神が宿る」というのは、差別的な言辞で到底組することはできないが、身体の状態が心へ影響をもたらしたり、反対に心の持ちようが身体に影響したり、両者には密接な相関関係があると考える。

 

 朴念仁様、本ブログで書いた勢古浩爾著『最後の吉本隆明』(2011.4.21)に対するコメントありがとうございました。朴さんのコメントから考えました。

 「人の思想=人の生き様」という等式は必ずしも成り立たないと思う。一般的には生き様と思想が一致しているのは稀有のことだと思う。ただ吉本にとっては氏の書いたものや語ったことからも、朴さんが言われるように敗戦を契機として吉本に思想的な格闘が始まったと言える。吉本の原点は、敗戦から見えた様々な人間のふるまい、氏にとって許すことのできない人々との闘いが原点だと思う。

 その後、結婚に至る過程の修羅場、60年安保などを経験しながら、国家のこと、権力のこと、人間のこと、こころのありようと吉本思想は拡がっていった。

 勢古氏の『最後の吉本隆明』は、書名から吉本の『最後の親鸞』を想像するが、吉本が親鸞を信仰者でありながらその拠り所とする宗教を解体する寸前のところまで考え実践した宗教家として描いている。一方、吉本が思想が信仰に化している全ての主義者を排し、自分でもマルクスの思想をギリギリの所まで追い込んだが、最後のところで自分はマルクス者としてマルクスを否定しきれず踏みとどまった。その事を勢古氏は描ききってはいないと考える。しかし、もう一度読んでみる必要がある。

 最後に、私は、いつもつらいことをやっているなとは思っている。しかし、同時に走ることのできる喜び、読むことのできる喜びをいつも感じている。

 

 小泉純一郎氏が脱原発発言で注目されているが、氏は郵政民営化をはじめある種米国の意向を代弁してきている政治家である。日共、社民が見事に絡めとられている姿は哀れとしかいいようがない。私は、にわかに脱原発の主張をする者を信用しない。福島の事故が起きたからこそその克服のために原発、放射能に人間は立ち向かう時と考える。いつやるの、今でしょ!

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