晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

戦後左翼史 その10 1961年③ 離党と除名 新日本文学会粛清

2016-02-27 09:41:50 | Weblog

 

 今週末は真冬日が続きそうで外ランは無理かな。

 

 以前、野党は外交に活路を見出すべきと書いたが、全く無策だ。アへ対米従属・国内強権路線に対抗軸を見出すためには、米国、アジアにおけるアへに対する警戒感を掴むべきである。ドメスティックでは、今のところ自民党内でもアへに対抗できる勢力はいない。民主党と維新の合流も大きな影響力を持たないだろうし、新党大地も自滅路線だと思う。日共は、志位が民主連合政府を唐突にぶち上げたが自然消滅の一人相撲。

 

 戦後左翼史 その10 1961年③ 離党と除名 新日本文学会粛清

 *(*は僕の考え)7月第八回党大会に向けて春日(庄次郎)ら構造改革派に対する粛清が続く。

1961.7.4アカハタ 「反共政策の一つの視点 米最高裁判所の裁定」佐々木武一アカハタ国際部長

★1961.7.9道新(夕刊) 「共産党の春日(庄次郎)統制監査委員会議長 新綱領で対立、離党を表明」、春日(庄次郎)は、反主流派(国際派)で主流派の野坂参三、徳田球一と対立、1950年除名、1955年復党していた。

1961.7.10アカハタ 「春日庄次郎の反党的裏切り行為について」野坂代表が談話発表

1961.7.10道新 高まる中ソ“不和節”対米評価で再燃? 裏付ける西側“七つの不思議な対立”

1961.7.11アカハタ 「1961.7.10日共中央統制委員会春日庄次郎の反党的反階級的規律違反行為についての声明」

1961.7.11アカハタ 主張「党破壊者の理論と実践」

1961.7.14アカハタ 「春日庄次郎の党破壊の策動について」日共中央委員会書記局、桜井治夫元自治体部員、遊上孝一元農民部員が同席

1961.7.14アカハタ 主張「党破壊者にたいする闘争と団結」

1961.7.14アカハタ 「知識人、学生党員の任務について 第7回都党会議(6.26)での春日正一都委員長の報告(要旨)」

(参考)・春日正一:1965年から2期参議院議員

1961.7.14アカハタ 「知識人党員として 第7回都党会議(6.26)での発言、樋口一郎千代田地区大学教職員細胞」

1961.7.15アカハタ 「日本共産党の三十九年の闘争と第八回党大会」袴田里見中央幹部会員、プラウダ紙掲載論文

★1961.7.17道新 波乱呼ぶ日共大会 新綱領草案の決定をめぐり両派(主流派、反主流派)激突は必至、反主流派(春日、亀山、紺野与次郎、山田、内藤、波多然)の大会延期のアピールに日共幹部会が非難、春日氏ら7名を除名(春日、山田、西川、亀山、内藤、内野、原金吾)

(参考)・波多然:1963年脱党

*離党と除名について。自らの意思で党組織から離れることを離党という。当該党員の意思にかかわらず党の決まりに照らして党員としての資格をはく奪することを除名といい処分になる。僕は、なぜ離党の意思ある者に除名という追い打ちをかけるのかという疑問を持っている。まるでヤクザの「指をつめろ」と同じではないか。さらに日共に特徴的なことは、除名の理由に党活動上の反党的な行為に加えて、必ずと言ってもいいくらい異性問題や金銭問題など日常生活上の問題を上乗せして、人格攻撃を加えるところにある。何度も繰り返すが、党の体質は、その党が政権に関与した場合、国民に対しても同様なことを行う可能性を持っているということだ。

1961.7.17アカハタ 「党破壊分子の新たな挑発行動について」日共中委幹部会、春日ほか6名、以前の脱落者としては、佐藤昇、力石定一(ペンネーム杉田正夫)、桜井、遊上、安東仁兵衛

1961.7.20アカハタ 「反党分子粉砕を決議」広島県委総会、松江澄県委員を機関から罷免

(参考)・松江澄:1959年日共初めての広島県議、通算五期。1961年内藤知周らと社会主義革新運動を結成。その後労働者党建設。1948年から1961年の党員の間、3度の党内闘争で2度除名、機関罷免処分1度。

1961.7.21日本読書新聞 「真理と革命のために党再建の第一歩をふみだそう」声明、新日本文学会(党員メンバー)ついに踏み切る、“誠実にして理性ある党員各位”にアッピール、共産党問題で派閥支配を弾劾、21名:安部公房、泉大八、大西巨人、岡本潤、旦原純夫、黒田喜夫、栗原幸夫、小林祥一郎、小林勝、菅原克己、武井昭夫、竹内実、玉井五一、中野秀人、野間宏、花田清輝、浜田知章、針生一郎、広末保、桧山久雄、柾木泰介

(参考)・安部公房:1961年に、綱領を決定した第8回党大会に批判的な意見書を公表したため党規律違反で除名。

・泉大八:1962年2月、前年の第8回大会にかんして、安部公房らと共に党中央を批判する文書を公表したため除名。

・大西巨人:1950年代前半、新日本文学会の事務局に勤務、会再編の方法と野間宏『真空地帯』を論じた「俗情との結託」での作品評価をめぐって宮本顕治と論争。(党員かどうかは不明)

・岡本潤:戦後は民主主義文学運動に参加、アナキズムからコミュニズムに転換し入党するが、1960年除名

・栗原幸夫:もと日本読書新聞編集長。ベ平連,アジア・アフリカ作家会議で活動、共産党系を排除したあとの新日本文学会で中心的に活躍

・小林祥一郎:新日本文学会事務局から平凡社に入社。『世界大百科事典』『日本残酷物語』などの編集部をへて、『太陽』編集長、取締役編集局長。この間、平凡社に在籍のまま、『新日本文学』編集長

・小林勝:1948年入党、50年代党の分裂時期には、所感派(徳田球一)で火炎瓶闘争に加わって逮捕。1961年、第8回党大会を批判する共同声明に参加、党規律違反で除名

・菅原克己:1947年入党、1961年、第8回党大会を批判する共同声明に参加、党規律違反で除名、その後は、新日本文学会の中心メンバーとして活動

・中野秀人:戦後、新日本文学会などに参加、入党するが1961年脱退。

・野間宏:戦後入党。1964年、ソ連に追随したとして除名

・花田清輝:1949年入党、1961年、第8回大会にあたり、新日本文学会の党員グループによる運営を批判する声明を公表、党規律違反で除名

・針生一郎:1961年、60年安保闘争時の党の指導方針を批判して除名

*「新日本文学会」の党員作家.評論家グループ14名は、これに先立ち7.19に「中央は綱領草案の民主的討議を妨げたから、党大会を延期せよ」とする意見書を中央委員会に提出していた。結果的には、党は新日本文学会内の党員文化人を多数排除した。僕は、これは党にとって大きな損失と捉える。政治方針は、議論の後、一定の方向を定めなければならないと思うが、文化に多様性が保障されなければ社会から余裕が失われ、息が詰まるような重苦しさが漂う社会になってしまう。この結果、その後の党の文化基盤は、大衆の感性から遠く隔たった幅が狭く薄っぺらなものになり、宮本顕治に象徴されるように妙に道徳的で官許的なものになった。見よ!今の日共幹部のボキャ貧ぶりを。雪崩を打つ人材流出!

★1961.7.22アカハタ 「春日庄次郎、山田六左衛門ら(7名)の除名処分について」1961.7.21中委書記局

1961.7.22アカハタ 党出版物紹介『前衛』8月増大号「第八回党大会のための特集」に除名前の内藤知周、内野壮児論文が掲載されてしまう。

1961.7.23アカハタ 「新たな挑発・分派策動を粉砕」東京千代田区委決議、盛田勇之進、栗原幸夫、津田道夫、池山重雄、深沢了、田川敬吾、相原俊徳(合同出版)らを党員権停止、中央勤務員細胞の遊上、桜井を除名

(参考)・津田道夫:「現代のトロツキズム」出版。「現状分析」を主宰、1961年除名

1961.7.24アカハタ 佐藤昇、大橋周治、前野良らを除名

(参考)・佐藤昇:戦後入党、1959年井汲卓一らと「現代の理論」創刊。1961年除名。構造改革理論で社会党江田派をリード

1961.7.26アカハタ 「野田弥三郎ら5名に対する除名処分にかんする決議」山本正美、西尾昇一、増田格之助、芝寛、武井昭夫、「安東仁兵衛ら3名に対する除名処分にかんする決議」小川太郎、棚橋泰助、第14回東京都委員会総会(7.24)

(参考)・野田弥三郎:大正・昭和期の共産党活動家、除名

・山本正美:戦前に中央委員長を経験、戦後「湯本正夫」の名で評論活動、1961年除名、統一労働者党の結成に参加

1961.7.30アカハタ 党千葉県委員会 山本正美を除名 野田弥三郎らとともに反党活動

1961.7.31日本読書新聞 「党生活40年及び離党の感想」春日庄次郎

1961.8.3道新 日共中央委総会 幹部会員の九氏全員を再選 議長野坂、書記長宮本、志賀義雄、袴田里見、蔵原惟人、春日正一、聴涛克己、鈴木市蔵、松島治重

新日本文学会の野間宏、安部公房、花田清輝とは、話し合い

1961.8.3全学連再建準備ニュース 全学連17回大会ついに流会、中執派、統一の要求ふみにじる

1961.8.28、29、30アカハタ 「事実をねじまげる反党分子の策動」井上林中央委員会党宣伝放送文化部員

 

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岸政彦 『断片的なものの社会学』

2016-02-21 17:14:26 | Weblog

 17日から19日、あの魔の発作(不安定狭心症)から半年が経過したので、術後再検査をした。結果、3か所入れたステントは異常なし。食事など気を付けながら適度な運動をしなさいという指導を受けた。適度と過度の境界がわからないので、自分なりに意識しながらプラス気温になった週末リハビリラン。

 

 『断片的なものの社会学』(岸政彦著 朝日出版社 2015年刊)

 紀伊國屋書店に「紀伊國屋じんぶん(人文)大賞2016」コーナーがあり、本年の大賞を受賞したのが本書ということで、書名はあまり興味を引くもので無かったが購入。読み始めるとそこにはこれまで誰もが感じていたことだと思うがこれほどまで適格な言葉で表現された世界があった。

 また、読ませる理由のひとつとして、様々な人びとからの聞き取りという手法は社会学で普通に使う方法なのだろうが、著者はそこに自分自身を向き合わせ、自分の生活や体験、心の内を明かし、葛藤しながら考え抜かれたた言葉が書かれているからだと思う。本書は社会学者の著作というより、新しい文学ではないか。否、現代の民俗学と言った方がいいだろうか。

 このブログ(2016.2.11)で映画『恋人たち』を絶賛した。そこに、「視聴後もずっと心の中に残る余韻。今この国で生きている人びとの間に漂う見えない無力感や重苦しい空気をこの作品は観る者に可視化して迫ってくる。」と書いた。ある意味、この映画を文章化したのが本書、本書を映像化したのがあの映画。テーマは共通している。僕たちが生きているとはどのようなことなのか。これを問うている人が多く存在しているということだ。

 生身の人間の生活を起点とした考え方が始まっている。国家などを前提とするのではなく、生活世界の展望を考えている人びとが確実に増えている。今は国民国家の黄昏と捉えている僕にとっても、考えの突破口になるような示唆が本書には満載なのだ。

 本書は、多くの方に読んでいただきたいと思う。★★★★★!

 本書から印象深かったフレーズ(僕にとっては愛おしいような言葉)をノオトする。(本書を読もうと思った方は以下を読まないでください。)

・人生は断片的なものが集まってできている

・無意味さしかない出来事、断片が集まってこの世界ができあがっている

・「すべてのもの」が石ころのような「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの意味のなさ

・かけがいのないものとは、何も起きていない現実

・誰の目にも隠されていないが、誰の目にも触れないこと

・「語り」は自らを語ること

・たくさんの物語を集めて自己をつくっている世界そのものを理解している

・外の世界に向かって開いている出口、私たちはここでないどこかをめざしている

・出ていくことと帰ること、そして居場所

・私たちは人生の中でどうしても折り合いのつかないことを、笑ってやりすごすことができる

・時間が流れることは苦痛である

・生きるということは何かの感覚を感じ続けることである

・普通であることへの意志、しかし、普通というものはどこにも存在しない、人びとはそれぞれに特別な存在である

・多数者、一般市民とは、大きな構造の中で、その存在を指し示せない、指し示されないような存在

・何も経験せず、何も考えなくてもよい人びとが普通の人びとなのである

・誰も誰からも指をさされない、穏やかで平和な世界、自分が誰であるかを完全に忘却したまま、自由に表現できる世界、それは私たちの社会が見る夢である

・私たちは警察や軍隊のような外部の強制力がないと、モラルや秩序は崩壊してしまうと思いこんでいる

・「社会」というものは、たくさん「良くないもの」を含みながらもそれで成り立って「しまう」ものだ

・私たちマジョリティは、「国家」をはじめとした様々な防壁によって守られているため、壁について考える必要がない

・壁によって守られ、「個人」として生きることが可能になっている私たちの心は、壁の外の世界の他者に対するいわれのない恐怖によって支配されている。この不安や恐怖や怯えは、きわめてたやすく他者の対する攻撃へと変わる

 「紀伊國屋じんぶん(人文)大賞2016」読者と選ぶ人文書ベスト30に入っていた著作で、読んでいたのは、5位『生きて帰ってきた男―ある日本兵の戦争と戦後』(小熊英二著 岩波新書)、8位『戦後入門』(加藤典洋著 ちくま新書)、10位『民主主義ってなんだ?』(高橋源一郎×SEALDs 河出書房新社)、25位『私の1960年代』(山本義隆著 金曜日)、26位『日本精神史(上・下巻)(長谷川宏著 講談社)の5冊

 

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戦後左翼史 その9 1961年② 大量離党・除名 構造改革派の追放

2016-02-13 16:43:52 | Weblog

 寒い日には旭川ラーメン「よし乃」、サツエキにあります。

 久々の暖気(5℃)、気持ちよくリハビリラン、途中10人ほどで走っている集団とすれ違う。彼らも身体が疼いて外に飛び出してしまったのだろう。

 道5区衆議院補欠選挙で共産党が自党の条件を呑むなら候補を降ろしても良いなどと駆け引きをやっているつもりになっているが、池田陣営(民主党を中心とした野党)は、そんなものはほおっておけばいいと思う。ここまでひとり相撲をとって今更候補を出したら世間から袋叩きにあうのが落ちだ。

 

 戦後左翼史 その9 1961年② 大量離党・除名 構造改革派の追放

*(*は、僕の考え)7月の第8回党大会で新綱領が採択されるのだが、それまでに至る過程での宮本顕治による異論排除の手口、党内民主主義は欠片ほどもないことがわかる。万一、日共が政権に関与した場合は、それが国民に対して行われないとは言い切れない。

1961.4.10アカハタ 「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反にかんする決定の発表にあたって」中央委員会書記局、雑誌『現代詩』8月号に「樺美智子の死に思う」を発表した関根弘は除名、「さしあたって、これだけは」発起人の武井昭夫は党員権1年間制限。また、1957.3月号『中央公論臨時増刊』座談会「若き共産党員の悩み」での発言を問題にされた。

(参考)・関根弘:戦後入党、詩運動のリーダーとして活動

・武井昭夫:1946年入党、1958年の第7回党大会での綱領論議のころから、指導部と対立、’60年安保闘争で党に反対する声明「さしあたって、これだけは」を谷川雁らと発表し、この後に規律違反として除名

1961.4.11アカハタ 主張「安保反対国民会議(4.4、6開催)の活動とわが党の任務について」

1961.4.16、17アカハタ 「構造改革論と運動の現実 構造改革論批判」小林良夫世界労連日本出版協会事務局員)

1961.4.17アカハタ 主張「党の思想と原則の擁護のために 武井昭夫同志批判」「新日本文学会」に属する小林勝・柾木・岡本・大西・小林祥らを規律違反の処分

1961.4.30道新 「日共綱領草案を発表」7.25党大会まで3か月、人民民主主義革命路線対構造改革論

*以下、僕は宮顕式統制手法をれんだいこ氏のHPから学んだ。

3.1~13と3.25~28の「第16中総」に「綱領草案」が提出された。

①反対と保留の中央委員は、自らの意見を下部の機関や組織で述べてはいけない。意見があれば400字詰原稿用紙25枚以内にまとめ提出すること。希望によって党報に発表することが出来る。しかし、後になってこのルールは反故にされた。

②府県から地区の党会議や委員会総会は、すべて草案を踏み絵となり党員を点検の場と化した。大会代議員の選出は、選考委員会によって推薦名簿の段階で厳重にふるいにかけられ、批判意見を持つ代議員候補者は、ほとんど意図的に落とされた。

4.29中央委員会、「日共綱領草案を発表」。7月上旬までに全国からの大会代議員の選出では、綱領反対派又は反中央分子は、完全に排除されていた。

③★5.27アカハタ主張「統一と団結を強める第八回党大会を準備しよう」で、中央委員会はじめ各級機関や細胞指導部がこれらの議案を下部組織やグループに説明するときの、機関として統一された公の態度は、当然議案の立場(賛成)から説明するという立場に立たなければならない」と。

④5.28アカハタは、無署名論文「大会準備に現れた一つの偏向」で、「もともと全国的な問題についての討論は、党中央の提案に基づき、党中央の指示に従って行われなければならない」と。

⑤6.9~10「第17中総」で中央反対派の意見発表中止を決定

⑥6.12アカハタで、「大会での討議は議案への賛否をあらわすことではなくて、議案の正しい理解によって各自の誤りをただすことである」と。

1961.4.30アカハタ 論壇時評(下)「『構造改革』論に対するいくつかの批判」石田精一アカハタ編集委員

(参考)・石田精一:1997年9月第21回党大会で顧問に再任

1961.5.2アカハタ 主張「綱領(草案)の発表の意義」

1961.5.3アカハタ 「総評運動方針案要約の問題点」春闘の底に安保の確信、経済闘争と政治闘争の正しい結合、太田議長、岩井事務局長

1961.5.7、8アカハタ 「党北大阪地区トロツキストを摘発、処分」党大阪府委員会声明、大阪中電細胞、前田裕昭、青木正義、伊藤修身を除名

(参考)・前田裕晤:前全労協副議長、『労働情報』発行人

・青木正義:草案は民族解放民主革命、いわゆる二段階革命の立場、前田と青木正義(立命館大学)が「平和共存論反対」を提起

・伊藤修身:元大阪中電労働者、4トロ?

1961.5.8アカハタ 主張「安保反対全国共闘の進化のために」

1961.5.8日本読書新聞 見取図「流動する理論戦線 日共綱領草案の発表を機に」、日共本部の構造改革派に対する異常なまでの高姿勢

1958年第7回党大会で党章草案の採択が持ちこされた。少数意見:春日庄次郎、鈴木市蔵、山田六左衛門、原全吾、内野壮児、内藤知周、西川彦義、亀山幸三、保留:中野重治

以下、構造改革論を主張したのは、

○佐藤昇『現代帝国主義と構造改革』は、強い説得力はあるが、政治体制論の展開が不足。

○『講座 現代マルクス主義』(大月書店)には、井汲卓一、長洲一二、上田耕一郎、杉田正夫(力石定一)が執筆

○雑誌『現代の理論』は、安東仁兵衛(笹田繁)(共産党東京都委員)を編集者に刊行

○経済分析調査会(代表者:今井則義)、小野義彦、勝部元、内田譲吉

○イタリア共産党を紹介、石堂清倫、代久三、前野良

○その他、大橋周治(社会主義政治経済研究所)、棚橋泰助、浜川浩、中田真司、三沢純、中林賢二郎

○農業:山崎春成、一柳茂次

○平和運動:富田和男、林茂

○『講座 現代のイデオロギー』(全六巻、三一書房)には、梅本克己、竹内良知、榎並公雄、中岡哲郎、沖浦和光、犬丸義一が執筆

○社会党内には、加藤宣幸、森永栄悦、高沢寅雄、中津研二、赤堀邦雄、松下圭一、田口冨久治、増島宏らがいる。

○その他、丸山真男、篠原一、坂本義和、藤田省三、日高六郎、香内三郎、稲葉三千男、荒瀬豊

構造改革論ではないが、

○トロキズム:黒田寛一、対馬忠行、清水幾太郎、浅田光輝、三浦つとむ、香山健一、盛田実(『週刊労働』編集責任差)、橋川文三、山田宗睦、吉本隆明、谷川雁、武井昭夫

(参考)・春日庄次郎:1957年7月第7回党大会で「構造改革・社会主義革命」論を主張、宮本顕治に代表される「反帝・反独占の民主主義革命」論と論争。この大会で中央統制委員会議長に選出。★1961.7.8第8回党大会前に、綱領草案に反対し離党声明を発表。7.15山田六左衛門ら反主流派6中央委員は、綱領草案討議における「少数意見抑圧」に反対し声明、★7.20春日、山田ら6名は反党活動を理由6人に除名

・鈴木市蔵:1962年参院選全国区で当選。1964年党に反して部分的核実験停止条約批准に賛成。このため、5.15の衆院本会議で賛成し権利停止処分を受けた志賀義雄衆議と共に、5.21第8回中央委員会総会で除名処分(翌5.22発表)。5.25参議院で部分的核実験停止条約批准に賛成。志賀・神山茂夫・中野重治らと「日本のこえ」を結成。

・山田六左衛門:1958年党大会で中央委員。1961年党大会で綱領批判、春日庄次郎らと離党、社会主義革新運動準備会(社革)に参加、1962年統一社会主義同盟を結成

・原全吾:1958年党大会で中央委員候補、1961年の綱領論争では、綱領草案に反対する春日庄次郎氏ら7人の中央委員、同候補とともに離党。

・内野壮児:戦後入党、「アカハタ」編集部、1961年除名、1969年労働運動研究所を設立

・内藤知周:1946年入党、1958年党中央委員、1961年第8回党大会前に春日庄次郎と共に、日本における革命は社会主義革命であるという一段階革命論を主張、脱党、除名。1961.10社会主義革新運動準備会を結成。統一社会主義同盟(フロント(社会主義同盟)の前身)を結成。1967年に「前衛党」建設問題で分裂。いいだももらと共産主義労働者党を結党。

・亀山幸三:戦後入党、第6回全国協議会後自治体対策部長、1961年綱領、選挙問題で除名。

・中野重治:1958年中央委員、1964年部分核停条約の批准で、志賀義雄・神山茂夫・鈴木市蔵らとともに「日本のこえ」派を旗揚げ、1964年除名。

・長洲一二:1959年安東仁兵衛らと雑誌『現代の理論』創刊に参加(同年廃刊、離党。

・上田耕一郎:1946年入党。1956年『戦後革命論争史』、構造改革派と見なされてきたが、第8回党大会で確定した反帝反独占の民主主義革命(現綱領)の立場に立ち、『戦後革命論争史』を「自己批判」、以後党の中心的担い手として活動。

・安東仁兵衛:1948入党、1959.5長洲一二らと雑誌『現代の理論』創刊(同年9月終刊)。1961年に構造改革路線を打ち出し、路線対立から離党、統一社会主義同盟に参加

1961.5.24、25アカハタ 「党の組織原則への侵害―大井正氏の「民主戦線における言論の自由について」―」橋本貢中央委員会宣伝教育部員、大井正(東京唯物論研究会、新日本文学会員、論文は『新日本文学』5月号)

(参考)・大井正:常任幹部会員、元明大教授

★1961.5.25アカハタ 主張「統一と団結を強める第八回党大会を準備しよう」

1961.6.15~21アカハタ (1)~ (6)「修正主義の反党的宣伝を粉砕しようージャーナリズムにあらわれた党と二つの草案にたいする中傷への批判―」岡本博之

(参考)・岡本博之:常任幹部会委員、1997年第21回党大会で名誉幹部会委員

1961.6.30アカハタ 主張「実践的討議のために、思想的統一のために」

1961.6.30アカハタ 「規約の改正点について」

*日共から見ればトロツキスト、彼らを排除したあとは綱領をめぐって構造改革派の追放が続き多くの人材が党外に流出した。しかし、その後の党史を振り返るとまだまだ追放劇が続く。

 

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橋口亮輔 『恋人たち』

2016-02-11 16:01:27 | Weblog

 今日は紀元節、最高気温0.0℃でようやく真冬日を脱出。除雪のあと1か月ぶりの屋外リハビリラン、身体は重く感じたが、寒さは苦にならず。何より気持ちがリフレッシュできたのが収穫。さあ、ここから戻すぞ!

 

 『恋人たち』(橋口亮輔原作・脚本・監督 松竹ブロードキャスティング 2015年)

 2.6シアターキノにて。題名から勝手に想像していたのは甘酸っぱい青春ストーリー、しかし冒頭から裏切られる。しかし、これは傑作、★★★★★だ。

 視聴後もずっと心の中に残る余韻。今この国で生きている人びとの間に漂う見えない無力感や重苦しい空気をこの作品は観る者に可視化して迫ってくる。そう、テレビのワイドショーでは皆がはちきれんばかりの笑顔を作るが、僕たちが日常出会っている人びとの表情はそこまでは輝いてはいない。この映画に登場する人物たちは一様に内面から虚無感が滲むような顔をしている。

 主人公を演じる三人の俳優陣はいずれも新人で個性的な面々だ。妻を通り魔に殺され、その傷心から立ち上がることのできない男を演じたのは篠原篤。この男の抱えるどこにもぶつけどころのないやりきれなさを、普段僕たちの周りにどこにでもいるような感じの若者として演じている。この監督は労働の現場や社会の実情を本当に良く捉えており、男が最後にすがろうとする弁護士や行政窓口の理不尽な対応についてもリアルだ。

 姑との折り合いが悪く、夫との会話もあまりないパートをしている主婦を成嶋瞳子が演じている。平凡でつまらない日々に、第三者から見るとそれほど魅力があるとは思えないような男と出会い、今とは別の人生が開けるかも知れないと心がときめき家を出る。しかしそんなわけはないのである。

 もう一人は弁護士。住んでいる世界が別のような華やかに見える役を池田良が演じる。しかし彼も同性愛という自分ではどうしようもなく、また他人からは誤解されがちな彼にとっての闇を抱えている。

 何とも言えぬ閉塞感の中でただ生きていくよりしょうがない僕ら、どこにでもいるような、どこにでもあるような日常を描いている。出口の無い、光の見えない日常を。

 あえて批判的にみるとすれば、ストーリーがてんこ盛り過ぎ。妻を殺された男の同僚が過去に皇居を狙ったロケット弾の失敗で片腕を失ったなんていう経歴は、僕らみたいな人種に媚びているようにしか思えなく不要。

 もう一つは、いつも下ばかり見ていた男が、ラストシーンで青空の方へ視線を上げ、それまでカーテンが閉めっぱなしの部屋にあった妻の遺骨を陽の当たるところに移し、明るい色の花を手向けたシーンは、余計だったと思う。可能性も希望も見出せないまま、行き場の無いやりきれなさとともにこの映画を終えても良かったのではないかと思う。

 

 

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戦後左翼史 その8 1961年① 安保が終って・・

2016-02-07 13:41:03 | Weblog

 朝から、北朝鮮の「事実上の弾道ミサイル」報道が続いている。まるで示し合わせたような段取りで。妙な空気がこの国を覆っている。マイクを突き付けられた時、言ってはいけないことが予め決まっているかのような。昨日観た映画「恋人たち」は、この見えない空気を見せてくれた。狸小路「新倉屋」のぜんざい。

 

 戦後左翼史 その8 1961年① 安保が終って・・

1961年(僕6歳、4月小学校入学)に国内外であったこと。

中ソ論争公然化、ジョン.F.ケネディ第35代大統領就任、駐日大使にライシャワー氏、韓国で軍事クーデター

1961.1.8アカハタ 「1961年の世界経済と日本」‘ドル危機’複雑な影響、池田内閣―海外進出の野望、ケネディ新大統領

1961.1.21道新 騒乱事件後のハンガリー 芸術にも大きな空白 モスクワにて 園部三郎(音楽評論家)

1961.21、22アカハタ 「施政方針演説と日本人民の闘争の方向」志賀義雄中央委員会幹部会員、党国会議員団長)、池田首相、小坂外相を批判

1961.1.22、23アカハタ 「ソ連は平和勢力でないという社会党の評価について」井伊弥四郎中央委員、1960.12.18付け社会新報は、主張「社会党は右傾化したかー日本共産党の非難に答えるー」で、社会党はソ連を冷戦の一方の当事者であると捉えているが、これに対して、共産党は冷戦ではなくて、戦争勢力と平和勢力の対立という認識だと社会党を批判した。

 *(*は、僕の考え)資本主義勢力(米国)は悪で、社会主義勢力(ソ連)は正しいという思考停止の認識。これが、後の部分核停止条約に対する評価につながり、日共は社会主義勢力は平和勢力なのだから、それらの核実験も「きれいな核」を使うのだから反対はしないという主張に繋がる。これは、日共がいかにソ連、中国共産党の影響下にあり、自前の世界観を持っていないかを示すものである。今になって日共が主張する、大国の覇権主義に反対する自主独立路線などというのは全く事実に反する。

 1961.1.23アカハタ 共産党都道府県委幹部中央学習会終わる 宮本顕治、松島治重、袴田、土岐強、井伊弥四郎

(参考)・松島治重:日本共産党名誉幹部会委員

・井伊弥四郎:全官公庁共闘会議議長、1958年(昭和33年)に日本共産党中央委員に選出、党本部で労組対策を担当、第11回党大会で解任。

1961.1.29アカハタ 「国民会議の活動再開にあたっての問題点」

1961.1.29アカハタ 主張「十四中総決議の討議と実践におけるいくつかの問題」

1961.1.29アカハタ 「81か国共産党・労働者党声明を読んでー教育学者としてー」五十嵐顕東大助教授(教育学)

(参考)・五十嵐顕:東大教授、教育財政学、マルクス主義教育学、ソビエト教育学を研究

1961.1.29アカハタ 「日教組、日高教合同教研全国集会に望む 世界史の動向を読んでー集団主義的人間づくりの土台を」矢川徳光(教育学者)

(参考)・矢川徳光:公職追放、ソヴィエト教育学研究会会長、日本共産党員

*子どもたちに対する「集団主義的人間づくり」というのは、どの様な教育なのか。日共の組織原理は民主集中制であるが、これに類する教育方法を現場へ適応するというものであればとても乱暴な議論だと思う。僕は、『滝山コミューン1974』(原武史著)(このブログ2013.3.31)において、当時当事者だった著者がそこにいた子どもたちにとって、そこで実践された教育は地獄だったと述べていることを思い出した。また、それが現在とは無縁なことではないと思う。現在の教育現場で叫ばれている「絆」や(事実上強制されている)ボランティアなどに対しても見えない権力が働いていて、子どもたちにとっては危険な側面を持っていると考える。

1961.1.29アカハタ 「原理的な前進と成功を」高林二郎(現場教師)

1961.1.30道新 「社会党の構造改革論 主張と批判」「大衆の幸福を通じ社会主義実現図る」江田三郎日本社会党書記長、「改良主義の危険、運動理論など三つの疑問」清水慎三経済長期政策委員会事務局長、「直接行動に力点、社共統一の方向に進む」和田耕作民主社会主義研究会事務局長

1961.2.2アカハタ 「社会党の構造改革論について」アカハタ評論員、二つの敵論

1961.2.5アカハタ 「81か国共産党・労働者党声明と「よびかけ」(1960.11)学習の正しい態度」袴田里見幹部会員

1961.2.6道新 社会党の新運動方針第一次草案まとまる 組織、行動力を強める、生活と権利を守る国民運動を積み上げ、地方自治体改革の戦い

1961.2.12アカハタ 「モスクワ声明を学ぶ正しい態度 一、二、三の基本的な誤りについて」石田精一アカハタ編集委員

(参考)・石田精一:第21回大会で顧問

1961.2.15アカハタ 「十四中総決議と八十一か国党声明を正しく学ぶために、「前衛」三月号を読んで」橋本

1961.2.16、17、18アカハタ 「第25回の真相はゆがめられているー小野義彦氏に答えるー」豊田四郎、「エコノミスト」(1960.12.23)「東洋学者会議からの報告」を批判。東洋学者会議とは、1960モスクワにて開催されたソ連科学アカデミー主催国際東洋学者会

1961.2.22アカハタ 「日本社会党の1961年の運動方針案について」3月定期大会、党員47,000人、反独占国民連合。日共は民族民主統一戦線

1961.2.24、25アカハタ 論壇時評(上)「社会党の「構造改革論」をめぐって」石田精一アカハタ編集委員、(下)「国際情勢を評価する二つの立場」岩田英一

(参考)・岩田英一:宮本路線を批判、日本共産党第8回大会前離党、子に経済学者岩田昌征。

1961.2.28戦旗 「共産主義者同盟、階級闘争とプロレタリア党の論理、自らの革命的止揚と革命的マルクス主義者の原則的統一のために」青山到、1960.7同盟(ブント)解体、革命的共産主義者同盟全国委員会との原則的統一を部分的保留をのぞいて決意し決定

(参考)・青山到(守田典彦、福岡ブント結成)

1961.3.6アカハタ 主張「浅沼精神にかえって前進をー社会党大会によせてー」

1961.3.9アカハタ 社党大会終わる、米帝、構造改革、共産党関係などで原案に批判集中、 河上丈太郎委員長、江田三郎書記長

1961.3.10アカハタ 第六回東京都党会議終わる、団結の基礎固まる、弱点を克服し党大会めざして前進

1961.3.14、15アカハタ 「三・一五(1928年)、四・一六(1929年) 党勢拡大に応じて入党した新しい同志へ」志賀義雄幹部会員

1961.3.17アカハタ 「知識人党員の若干の問題について 都党会議での文書発言」宮本和彦千代田地区代議員、三上富夫文教地区代議員、研究者である前に党員である自覚をと主張。

*「研究者である前に党員である自覚を」は問題発言である。真理を追求するためには学問の自由が保障されなければならないという原理は普遍性を持つと思う。研究よりも党の見解を上に置くというのは言語道断。この党員たちの認識は、教会が天動説を唱えれば、いかに科学的な証拠があったとしても地動説を主張できないという、コペルニクス的転回以前のレベルであると考える。

1961.3.17アカハタ 「ILO87号条約批准と関係国内法の改正問題」組合弾圧の布石、難航する政府、自民党の意見調整

1961.3.18図書新聞 「中小企業の資本と労働」渡辺睦明大講師(中小企業論専攻)、旧理論からの脱却~要望される共同研究、拡大した企業規模~労使問題も複雑化

1961.3.25アカハタ 論壇時評(下)「構造的改革か民主的改革か 注目すべき社会党四氏(黒田寿男、田中稔男、松本七郎、岡田春夫)の訪中報告」石田精一アカハタ編集委員

1961.3.30アカハタ 「東京都千代田地区党会議 自由主義的傾向を克服して前進 新地区委員会のもとに十四中総決議の実践へ」

1961.4.2アカハタ 解説「昨年4月の南朝鮮人民統合の歴史的意義について」竹本、1960.4.19人民抗争

1961.4.3アカハタ 「『学習の友』4月号「構造改革特集号」の反労働者的内容について」阿部泰中央委員会労働組合部員、中山隆(架空人物か?)、編集部に残念

(参考)・阿部泰:1997年第21回党大会で名誉幹部会委員、2000年第22回党大会で名誉役員

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‘70年代していました

2016-02-04 20:49:54 | Weblog

 ‘70年代していました

 10年に一度するかしないか、全面的に部屋の整理をしていると思いがけないものが出てくる。1970年代をしていた学生時代。行った、観たチケット。なぜこれらだけが残っていたかはわからない。

 まず、なんといってもしつこく追跡をしている1976年5月10日が出てきたのだ。(このブログ2015.8.30ほか)「勇気を甦らす 作家講演会 埴谷雄高『死霊』完結を機に」 講師 秋山駿 小川国男 吉本隆明 5月10日(月)午後6時(会場5時半) 北大クラーク会館講堂 とある。

 次に、2015.12.23に『ほっかいどう映画館グラフィティー』で「名前も場所を覚えていないが、美香保の方だったと思うが、ある小さな喫茶店で定期的な自主上映活動があり・・・何回か足を運んだ。」と書いたが、なんとその鑑賞券が出てきたのだ。

 その場所は、北18条西4丁目喫茶「タマキ」、1976年11~12月の毎週木曜日、16時からと18時30分から、「よりあい所帯」というイベント名だった。この喫茶店、現存しているかは不明、地下鉄駅を出てどのあたりだったかも覚えていない。

 以下は、今回出てきたチケット。交友関係や活動範囲があらためて思い出した。東京で学生をやっていたらまた違っていただろうと思う。年度不明ばかり。

 【絵画】(当時、僕が主体的に絵を観に行ったとは思えない。)

・第50回記念「道展」 北海道美術協会 札幌今井大通新館9F、札幌市民会館2F 1975.11.20~25

・第51回「道展」 北海道美術協会 札幌今井一条本館8F 1976.11.18~23

 

 【音楽】(拓郎を除いて僕の趣味とは思えない。)

・全日本合唱連盟創立30周年記念「第30回札幌市民合唱祭」 札幌合唱連盟 札幌市民会館 1977.6.29、7.6

・昭和53年度札幌市民芸術祭「市民合唱祭」 札幌市民芸術祭実行委員会 札幌市民会館 1978.10.20

・ジョイント・コンサート」 京都大学音楽部交響楽団 

・拓郎の歌が島を占拠した!!!「ISLAND CONCERT IN SINOJIMA LIVE FILM」WESS 道新ホール 1979.12.26

 

 【映画】(懐かしの大谷会館ホール。自主上映的な作品はよく観たと思う。)

・松本清張傑作選Ⅱ「波の塔」「風の視線」「球形の荒野」 松竹遊楽館 1977.6.4~17

・長編記録映画「土呂久 咽び唄のさと」、ドキュメンタリー「塩」 映像集団エラン・ヴィタル 大谷会館ホール 11.26

・東油由多加監督、秋田明大主演「ピーターソンの鳥」、「アメリカン・ロックの旗手たち」 夢の企画社 道新ホール 2.7

・シネマキャラバンINサッポロ 柳町光男「ゴッド・スピード・ユー!ブラックエンペラー」、大森一樹「暗くなるまで待てない」、大林宣彦「伝説の午後・エモーション いつか見たドラキュラ」他 大谷会館ホール 9.26

・大島渚監督「青春残酷物語」、小津安二郎監督「お早よう」 札幌映画サークル 道新ホール 7.18

・藤田敏八監督「八月の濡れた砂」、鈴木清順監督「刺青一代」 札幌映画サークル 道新ホール 9.9

・実験映画展映写技師を射て「寺山修司/ジャン・ジュネ」 人力飛行機舎 大谷会館ホール 7.5~6

・寺山修司「トマトケチャップ皇帝」「ジャンケン戦争」 INTERNATIONAL BLACK FILM DANGO 北海道自治会館 2.5

 

 【写真】(理科系だったから公害問題には問題意識があったと思う。)

・不知火の怒涛が聞こえる W・ユージン・スミス、アイリーン・スミス写真展「水俣」 写真展「水俣」を見る会・札幌 今井一条本館8F 3.8~13 

・人間とはなにか?「第3回世界写真展」 毎日新聞社 大通新館9階催事場 1.8~13

 

 【展示会】(どんなものが展示されていたか、全く記憶がない。)

・中華人民共和国展覧會 中国国際貿易促進委員会 北海道立産業共進会場 7.17~8.7

・オリエント文明の十字路「古代シリア展」 シリア文化省他 札幌東急百貨店9階特設会場 9.1~19

 

 【芝居】(演劇にのめりこんでいた。)

・つかこうへい作「ヒモのはなし」 NHK札幌放送劇団 北海道文化芸術センター 1980.4.21

・六八/七一黒色テント①「ブランキ殺し上海の春」 中島公園 7.5~7

・黒色テント68/71「喜劇昭和の世界」列島縦断興行「キネマと怪人」 中島公園 7.23~25

 

 

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