参議選の予想が出ている。自公は勢力を伸ばし、民進は半減、日共が倍増か。日共は改憲阻止を掲げているが、戦略としては自公勢力を食うのではなく、民進を侵食し自党が伸びれば総括として良しとしているのではないか。日共がヘイトスピーチ対策法案に賛成した。アへにとっては、日共の言説がヘイトに映っていることを感じないのであろうか。アへにパージされる日も遠くないと感じるが。
戦後左翼史 その26 1965年② ベトナム反戦
以下、■はインドネシア関係、★印は中ソ対立関係、▼はベトナム戦争関係である。
*(れんだいこ氏HPに学ぶ)2.7米、ベトナム北爆開始。3月、ジョンソン大統領が、南ベトナムに沖縄駐留の第3海兵師団を筆頭に地上部隊投入、韓国、カナダ、オーストラリアなども参戦。4月、ワシントンで1万人の反戦デモ。4.24ベ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)が初のデモ行進。
*(*は僕の考え)『甦るヴェイユ』(吉本隆明著 洋泉社MC新書 2006年刊)新書版のためのあとがき(P212から要約引用)で吉本は、「マルクスやロシアのマルクス主義の指導者たちの〈戦争〉についての考え方は、①マルクスは、民衆の正義感を基に自国と敵対する国が〈戦争〉をはじめた場合、民衆は弱小な国家を支援すべきだとした。②レーニン、トロッキーら指導者は、当事国の民衆は自国が敗北するように戦うべきだとした。③スターリンは、民衆の〈大祖国〉であるソ連を守るように戦うべきだとした。」と述べる。さて、当時のベトナム反戦運動の思想はどうだったのだろうか。「わが内なるベトナム」、「自らの加害者性」などという言葉が使われたという記憶があるが、米国の後方支援国家としての自国を批判するスタンスは、運動の持つヒューマニズム的な心情としては①を含み、しかし変革の展望を持たぬ闘いとしては②では無かったと考える。また、上記の①から③のスタンスを考えることは、現在および近未来に、万一この国が〈戦争〉を始めた場合に、僕ら民衆が自らに問いかけなければならない重い問いになると思う。
▼1965.4.2道新 中ソ対立とベトナム戦争 責任なすりあう 「北」への援助にも支障? ホ大統領の態度に注目
▼1965.4.6道新夕刊 社党・総評 米の戦争拡大に抗議 安保並みの運動展開
▼1965.4.12道新 北ベトナム論評 米和平提案は偽善 解決の道は“撤退”
▼1965.4.12道新夕刊 人民日報社説 ウ・タント総長の訪中拒否 国連に発言権なし 米国への奉仕は許さず 米機の海南島侵入も非難 明白な侵略行為
▼1965.4.12道新夕刊 北ベトナム機関紙強調 最後まで断固戦う 監視委へ抗議 コンコ島など未攻撃
▼1965.4.13道新 ホー・チミン大統領演説 米の武力に永遠に屈服せず ジュネーブ協定の尊重 直ちに停戦・撤退を 経済援助はみせかけの善意
■1965.4.13道新 近づくAA会議10周年記念式典(4.17~25、ジャカルタ) 中国が浸透工作 喫緊の東南アジア情勢を反映
■1965.4.18道新 AA会議とスカルノの指導力 強い民族主義背景 新興国一本化に夢かける
▼1965.4.19道新 ソ連・北ベトナムが共同声明 必要なら義勇兵派遣 米は侵略中止せよ 解放戦線の勝利確信
▼1965.4.20道新 ベトナム 米の一部当局者の見方 中ソの義勇兵派遣 約束実行は不可避
▼1965.4.24道新夕刊 シアヌーク元首相語る ベトナム問題 提出されるならカンボジア会議に出席しない
▼1965.4.26道新 ラスク長官発表 カンボジア国際会議(ハリマン代表) 米は参加する用意
▼1965.4.27道新夕刊 カンボジア会議 ソ連・中国とも否定的 ソ連 米北爆強行で硬化 中国などの反応待ち 中国 米の撤退が前提
▼1965.4.28道新 困難なマレーシア紛争調停 へたな妥協できぬ スカルノ大統領 北京から強い圧力も
▼1965.4.29道新 ベトナム平和交渉 ようやく第2ラウンド入り “模索”の時期を脱却 微妙な北ベトナムの動き
▼1965.4.30道新夕刊 仏ソ共同声明 カンボジア会議で一致 ジュネーブ協定受け
▼1965.4.30道新夕刊 周首相 カンボジア会議で協調 「南」の代表はベトコン
▼1965.5.1道新 ベトナム戦局 危険な方向に動く 南北一体化、抗戦か 米軍増強 北爆で急迫
▼1965.5.2道新 中立化会議 カンボジア政府声明 開催に3条件主張
▼1965.5.4道新 カンボジア会議と中国の反対 米の裏工作を拒否 焦点はベトコン処遇に
★1965.5.9道新 ブレジネフソ連第1書記 対独戦勝記念で演説 平和共存を堅持
1965.5.10道新夕刊 ソ連政府 全世界に呼びかけ 核兵器非使用宣言
▼1965.5.25道新 北ベトナム ソ連軍援助望まず あくまで自力で
1965.5.25道新夕刊 中国解放軍 階級制度を廃止 一層の革命化を促進
1965.5.26道新 ソ連で選挙制度改正の動き 自由に候補者選出 法律専門誌、新聞で発議
1965.5.27道新 中国解放軍 階級制度を廃止 西側消息筋の見方 「北」へ義勇軍の含み
★1965.5.28道新 人民日報が非難 ソ連とインド 反中国同盟を結成
★1965.5.28道新夕刊 プラウダ 中国に協力呼びかけ ベトナム危機などで
1965.5.30道新 中国解放軍 階級制度を廃止の背景 延安精神にもどれ 遠大な国づくりの一環
★1965.5.31道新 モスクワ 毛主席が重病説 中国筋は否定
▼1965.6.6道新 米、カンボジア会議に期待 ソ連の乗り出し待つ シアヌーク書簡を好意
▼1965.6.6道新 人民日報 ベトナム戦局を論評 主導権は解放軍側に
▼1965.6.11道新 北ベトナム国防省布告 直接、抗米救国のため全国民、軍隊支援を
▼1965.6.12道新 プラウダ紙が警告 米軍投入 戦争拡大の危険
▼1965.6.12道新 険悪化するベトナム戦争 激しい“雨季反抗” 米、政府軍の損害増える
1965.6.23道新 日韓交渉妥結が意味するもの (韓国常備軍60万人)
1965.6.28道新 解説 AA会議延期 再開になお疑問 諸国の対立激化か
▼1965.6.30道新 ソ連首相 ベトナムで演説 米を激しく非難 “北”援助強化の用意 中国の“人種団結”も批判
▼1965.6.30道新 タス通信 ベトナム新局面に 米“顧問”の仮面ぬぐ
▼1965.7.2道新夕刊 ソ連、ユーゴ共同声明 ベトナムで米非難
1965.7.4道新 大きく変わったソ連農政 経済法則の活用へ 新政策、副業も大いに奨励
1965.7.4道新 社の党内論争 参議院選挙後に再開 構造改革論争再燃も
1965.7.9道新 新華社 チトー大統領訪ソで論評 侵略的な“共同声明”
1965.7.9道新 解決長引くEECの危機 仏と他加盟国話し合い当分は凍結 食い違う基本姿勢
▼1965.7.10道新 総評 全ソ労組 中央評議員声明 ベトナム人民支援で国際連帯を強化
1965.7.15道新 ソ連 政策転換検討中か 内政、外交面で 姿見せぬ重要人物数人
1965.7.15道新 エアハルト西独首相 就任以来最大の苦境に 打開策ないEEC 総選挙を2か月後に控え
▼1965.7.20道新 ルーマニア党大会開幕 チャウシェスク第1書記演説 兄弟関係発展の義務 中ソ和解に努力 ベトナム、米軍の撤退を要求
1965.7.21道新 李泉仁氏(元国防副総裁) 16年の米国亡命から北京に帰る 国府に精神的打撃
▼1965.7.21道新夕刊 鄧小平総書記演説 米帝一掃の日までできる限り援助
1965.7.27道新社説 広島の願いを心として統一を 3つに分裂した原水禁運動
1965.7.27、31道新 平和と動乱の青春 戦後20年 ⑤ソ連 育つ“新しい人間像” 偏狭さ捨て視野広げる ⑥中国 育つ“赤い後継者” 米帝妥当こそ平和への道