晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

戦後左翼史 その26 1965年② ベトナム反戦

2016-06-25 17:26:52 | Weblog

参議選の予想が出ている。自公は勢力を伸ばし、民進は半減、日共が倍増か。日共は改憲阻止を掲げているが、戦略としては自公勢力を食うのではなく、民進を侵食し自党が伸びれば総括として良しとしているのではないか。日共がヘイトスピーチ対策法案に賛成した。アへにとっては、日共の言説がヘイトに映っていることを感じないのであろうか。アへにパージされる日も遠くないと感じるが。

 

戦後左翼史 その26 1965年② ベトナム反戦

以下、■はインドネシア関係、★印は中ソ対立関係、▼はベトナム戦争関係である。

*(れんだいこ氏HPに学ぶ)2.7米、ベトナム北爆開始。3月、ジョンソン大統領が、南ベトナムに沖縄駐留の第3海兵師団を筆頭に地上部隊投入、韓国、カナダ、オーストラリアなども参戦。4月、ワシントンで1万人の反戦デモ。4.24ベ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)が初のデモ行進。

*(*は僕の考え)『甦るヴェイユ』(吉本隆明著 洋泉社MC新書 2006年刊)新書版のためのあとがき(P212から要約引用)で吉本は、「マルクスやロシアのマルクス主義の指導者たちの〈戦争〉についての考え方は、①マルクスは、民衆の正義感を基に自国と敵対する国が〈戦争〉をはじめた場合、民衆は弱小な国家を支援すべきだとした。②レーニン、トロッキーら指導者は、当事国の民衆は自国が敗北するように戦うべきだとした。③スターリンは、民衆の〈大祖国〉であるソ連を守るように戦うべきだとした。」と述べる。さて、当時のベトナム反戦運動の思想はどうだったのだろうか。「わが内なるベトナム」、「自らの加害者性」などという言葉が使われたという記憶があるが、米国の後方支援国家としての自国を批判するスタンスは、運動の持つヒューマニズム的な心情としては①を含み、しかし変革の展望を持たぬ闘いとしては②では無かったと考える。また、上記の①から③のスタンスを考えることは、現在および近未来に、万一この国が〈戦争〉を始めた場合に、僕ら民衆が自らに問いかけなければならない重い問いになると思う。

▼1965.4.2道新 中ソ対立とベトナム戦争 責任なすりあう 「北」への援助にも支障? ホ大統領の態度に注目

▼1965.4.6道新夕刊 社党・総評 米の戦争拡大に抗議 安保並みの運動展開

▼1965.4.12道新 北ベトナム論評 米和平提案は偽善 解決の道は“撤退”

▼1965.4.12道新夕刊 人民日報社説 ウ・タント総長の訪中拒否 国連に発言権なし 米国への奉仕は許さず 米機の海南島侵入も非難 明白な侵略行為

▼1965.4.12道新夕刊 北ベトナム機関紙強調 最後まで断固戦う 監視委へ抗議 コンコ島など未攻撃

▼1965.4.13道新 ホー・チミン大統領演説 米の武力に永遠に屈服せず ジュネーブ協定の尊重 直ちに停戦・撤退を 経済援助はみせかけの善意

■1965.4.13道新 近づくAA会議10周年記念式典(4.17~25、ジャカルタ) 中国が浸透工作 喫緊の東南アジア情勢を反映 

■1965.4.18道新 AA会議とスカルノの指導力 強い民族主義背景 新興国一本化に夢かける

▼1965.4.19道新 ソ連・北ベトナムが共同声明 必要なら義勇兵派遣 米は侵略中止せよ 解放戦線の勝利確信

▼1965.4.20道新 ベトナム 米の一部当局者の見方 中ソの義勇兵派遣 約束実行は不可避

▼1965.4.24道新夕刊 シアヌーク元首相語る ベトナム問題 提出されるならカンボジア会議に出席しない

▼1965.4.26道新 ラスク長官発表 カンボジア国際会議(ハリマン代表) 米は参加する用意 

▼1965.4.27道新夕刊 カンボジア会議 ソ連・中国とも否定的 ソ連 米北爆強行で硬化 中国などの反応待ち 中国 米の撤退が前提

▼1965.4.28道新 困難なマレーシア紛争調停 へたな妥協できぬ スカルノ大統領 北京から強い圧力も

▼1965.4.29道新 ベトナム平和交渉 ようやく第2ラウンド入り “模索”の時期を脱却 微妙な北ベトナムの動き

▼1965.4.30道新夕刊 仏ソ共同声明 カンボジア会議で一致 ジュネーブ協定受け 

▼1965.4.30道新夕刊 周首相 カンボジア会議で協調 「南」の代表はベトコン

▼1965.5.1道新 ベトナム戦局 危険な方向に動く 南北一体化、抗戦か 米軍増強 北爆で急迫

▼1965.5.2道新 中立化会議 カンボジア政府声明 開催に3条件主張 

▼1965.5.4道新 カンボジア会議と中国の反対 米の裏工作を拒否 焦点はベトコン処遇に

★1965.5.9道新 ブレジネフソ連第1書記 対独戦勝記念で演説 平和共存を堅持 

1965.5.10道新夕刊 ソ連政府 全世界に呼びかけ 核兵器非使用宣言 

▼1965.5.25道新 北ベトナム ソ連軍援助望まず あくまで自力で

1965.5.25道新夕刊 中国解放軍 階級制度を廃止 一層の革命化を促進

1965.5.26道新 ソ連で選挙制度改正の動き 自由に候補者選出 法律専門誌、新聞で発議

1965.5.27道新 中国解放軍 階級制度を廃止 西側消息筋の見方 「北」へ義勇軍の含み

★1965.5.28道新 人民日報が非難 ソ連とインド 反中国同盟を結成

★1965.5.28道新夕刊 プラウダ 中国に協力呼びかけ ベトナム危機などで

1965.5.30道新 中国解放軍 階級制度を廃止の背景 延安精神にもどれ 遠大な国づくりの一環

★1965.5.31道新 モスクワ 毛主席が重病説 中国筋は否定

▼1965.6.6道新 米、カンボジア会議に期待 ソ連の乗り出し待つ シアヌーク書簡を好意 

▼1965.6.6道新 人民日報 ベトナム戦局を論評 主導権は解放軍側に

▼1965.6.11道新 北ベトナム国防省布告 直接、抗米救国のため全国民、軍隊支援を

▼1965.6.12道新 プラウダ紙が警告 米軍投入 戦争拡大の危険 

▼1965.6.12道新 険悪化するベトナム戦争 激しい“雨季反抗” 米、政府軍の損害増える

1965.6.23道新 日韓交渉妥結が意味するもの (韓国常備軍60万人)

1965.6.28道新 解説 AA会議延期 再開になお疑問 諸国の対立激化か 

▼1965.6.30道新 ソ連首相 ベトナムで演説 米を激しく非難 “北”援助強化の用意 中国の“人種団結”も批判 

▼1965.6.30道新 タス通信 ベトナム新局面に 米“顧問”の仮面ぬぐ

▼1965.7.2道新夕刊 ソ連、ユーゴ共同声明 ベトナムで米非難

1965.7.4道新 大きく変わったソ連農政 経済法則の活用へ 新政策、副業も大いに奨励

1965.7.4道新 社の党内論争 参議院選挙後に再開 構造改革論争再燃も 

1965.7.9道新 新華社 チトー大統領訪ソで論評 侵略的な“共同声明”

1965.7.9道新 解決長引くEECの危機 仏と他加盟国話し合い当分は凍結 食い違う基本姿勢

▼1965.7.10道新 総評 全ソ労組 中央評議員声明 ベトナム人民支援で国際連帯を強化

1965.7.15道新 ソ連 政策転換検討中か 内政、外交面で 姿見せぬ重要人物数人

1965.7.15道新 エアハルト西独首相 就任以来最大の苦境に 打開策ないEEC 総選挙を2か月後に控え

▼1965.7.20道新 ルーマニア党大会開幕 チャウシェスク第1書記演説 兄弟関係発展の義務 中ソ和解に努力 ベトナム、米軍の撤退を要求

1965.7.21道新 李泉仁氏(元国防副総裁) 16年の米国亡命から北京に帰る 国府に精神的打撃

▼1965.7.21道新夕刊 鄧小平総書記演説 米帝一掃の日までできる限り援助

1965.7.27道新社説 広島の願いを心として統一を 3つに分裂した原水禁運動

1965.7.27、31道新 平和と動乱の青春 戦後20年 ⑤ソ連 育つ“新しい人間像” 偏狭さ捨て視野広げる ⑥中国 育つ“赤い後継者” 米帝妥当こそ平和への道

 

 

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北海道コンサドーレ札幌専用サッカースタジアム構想

2016-06-19 11:01:26 | Weblog

 建設中の石屋製菓新工場と隣接する旧ダウ加工用地です。白石サイクリングロード、エルフィンロードを行くと、JR北広島駅に着きます。昨日、現地調査に行ってきました。

 

 北海道コンサドーレ札幌専用サッカースタジアム構想

 ここまでの2016シーズンはJ1昇格に十分期待を持たせるものになっています。今日も、これからギラバンツ北九州との戦いに行ってきます。

 コンサは、野々村社長になってから発信力が高まっています。新しいアイデアが次から次と実行に移され、ビッグクラブに少しずつ近づこうという姿勢が見られます。

 社長がかねてから言っていることのひとつに2万人くらいの規模の専用スタジアムを持ちたいということがあります。今、話題は北海道日本ハムファイターズも同様に専用球場を検討しているという方に行っていますが、札幌ドームの使用料が経営のネックになっているようです。

 そんな折、昨日の道新の経済面に北広島で新工場を建設中の石屋製菓が、その隣接地4.5haを取得したと出ていました。当面は工場の従業員の駐車場として使うと。(もったいない!)

 サッカー専用のカシマスタジアムは4.2haと聞いたことがあります。4.5haは、専用スタジアムには十分の広さと思えます。札幌駅と新千歳空港駅の丁度中間にあるJR北広島駅からは徒歩2分、道道江別恵庭線に面しています。アウェイサポーターも本当に来やすく立地条件は抜群です。

 試算してみました。札幌ドームの使用料は1試合800万円(入場者2万人未満の場合)、年間20試合で1億6千万円かかっています。仮に、3月、4月初め、11月の寒い時期は札幌ドームを使うとしても年間15試合分の1憶2千円が不要になります。20年間で24億円のお金が工面できることになります。(建設費総体はわかりませんが)

 僕は、超現実的な話だと期待しています。

 

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東京三菱UFJ銀行の叛旗

2016-06-15 16:54:05 | Weblog

 この時期、アコムがスポンサーの「さっぽろまつりマラソン」があった。真駒内と東橋の間を2往復するフルマラソン。初めてフルを感想したのはこの大会だった。同じ橋の下を4回もくぐる単調なコースで精神力が鍛えられたのだと思う。

 

 東京三菱UFJ銀行の叛旗

 このブログ、2011.10.12「『<資本論>入門』その2」で、「現在の通貨は、糸の切れた凧状態である。」と書いた。それに対して、御二方からコメントをいただいたので、再録する。

 ○ご質問 (tommy skywalker)2016-04-17

 突然メールしてすみません。現在のドルが糸の切れた凧みたいなものだとおっしゃっていましたが,金の裏付けのないドルが今日では一般的等価物のようなものになっているとは考えられないでしょうか?ただ相手が決済通貨としてドルを受け取ると「信用」してドルを支払うのでしょうか?ご教示下さい。

 ●紙幣は幻想だ! (晴走雨読)2016-05-15

 tommy skywaiker様、コメントをいただきましてありがとうございます。返事が遅れてしまったことをお許し願います。

 最近の関心領域が経済から遠ざかってしまっていることを感じました。僕は、理系出身の経済学のど素人ですが、僕なりの考えを述べたいと思います。

 ドルもマルクも円も元も紙幣は幻想の上に成立していると思います。極端に言うと、紙幣は火をつければ燃えてしまうただの紙くずです。各国の通貨はドルと交換できるので成立していますが、現在のドルは価値物である金や銀と交換できません。これを糸の切れた凧と表現しました。

 今は、敢えて国際通貨の秩序を壊す必要がないという幻想の上で通貨が流通していると思います。

 ドルは、一般的等価物としての役割を果たしているといえばいえますが、それ自体価値を持たないので、一般的等価物としての要件は欠いていると思います。

 「信用」を幻想と言い換えてもいいのではないでしょうか。

 ○コメントへの感想 (天邪鬼)2016-05-24

 ① 紙幣に価値があるのはなぜだろうか。それは紙幣の価値を国家(政府)が担保しているからか。そうではありません。晴走さんが言われる如く紙幣は元々紙の印刷物にすぎないと思う。そのような印刷物に価値があるとすれば、私たち一人ひとりがそう思っているからこそ、価値が生ずるのでしょう。

 つまり、紙幣は価値のあるものだという思い込み(幻想、観念)が印刷された紙ぺらです。

 ② 話は脱線しますが昔日、雑誌にあったこんな文章を引く。「フランスの銀行は国営なのに老人が死ぬとそのタンスからナポレオン銀貨がザクザク出てくる話があるそうだ。この国には相続税はないから税金逃れという訳ではないらしい。 ところで日本の銀行は株式会社だから倒産する心配があるけれど、かの国の銀行は国営であってそんな危険はない。にも拘らず国営銀行を信用しないのはどうしたことか。 国家だって平気でウソをついたり、ごまかしたりするのは歴史上から明らかだ。いつ、なんどき、国家権力を握った強欲な輩が強権を発動してせっかくの虎の子の金子を召し上げてしまうかもしれない。信用などできるものか。そんな事情がタンス預金にはあるようだ。」

 してみると、国家だってあやふやな信用のもとで成り立っている幻想(観念)だし、紙幣も然り一どうやら、そんな結論になりそうです。

 以下、天邪鬼からのコメントに対する僕の見解です。

 ●東京三菱UFJ銀行の叛乱(晴走雨読)

 アへノミクスの切り札とされる日銀のマイナス金利政策、預金をすると金利がマイナスになる、マイナスの利子が付くということの意味を考えていた。単純に考えると、銀行に預けるよりもタンス預金の方が良いということになる。

 僕がこれはビッグニュースだと思ったことがある。この国の中央銀行である日本銀行についに叛旗を翻した銀行が出現した。「東京三菱UFJ銀行は、国債の入札に特別な条件で参加できる“日本版プライマリー・ディーラー”の資格を返上する検討に入った」ことが伝えられた。日銀から国債を引き受けることが特権からリスクを含んだ義務に変わり、株主や預金者の利益にならないという判断だ。要するに、ナンバーワン銀行が日銀にノーを突き付けたということだ。

 さらに、「東京三菱UFJ銀行は、独自の仮想通貨(MUFGコイン)を発行する」ことも明らかになった。この通貨は、国家の信用ではなく東京三菱UFJ銀行自身の信用に基づき発行することになる。国家よりも一民間資本の方が信用力で上回るということだ。

 今の僕らの観念では、国家はとてつもなく強固な存在に見えるが、資本が国家を見限る時が近づいている。歴史を遡るとつい最近まで国家なんて無かった時代があったことがわかる。東京三菱UFJ銀行の踏み切ろうとしていることは、かなりラジカルであり、革命党には想像すらできない国家の幻想性を暴く革命的な実践なのではないだろうか。

 

 

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戦後左翼史 その25 1965年① ベトナム戦争 インドネシア共産党

2016-06-12 17:15:25 | Weblog

悪相の舛添が、政治資金の私的流用、倫理レベルのことで総攻撃を受けているのを、独りほくそ笑む人がいる。道路公団という公益性の強い団体に口利きをして、甘い利益供与を受けていた誠実そうな顔の甘利である。先日、不起訴になって睡眠障害も完治したのだったら、TPPでこの国を決して売っていないと語るべきであろう。

 

戦後左翼史 その25 1965年① ベトナム戦争 インドネシア共産党

1960年代後半に入る。1965年(僕10歳、小学校5年生、北教組反主流派の教師(後に日共の地方議会議員になった。)が担任になったおかげで、政治的な話題に対しても一丁前の意見を持つようになった。)に国内外であったこと。米国によるベトナム北爆開始と南ベトナムへの地上部隊投入 日韓基本条約調印、インドネシア共産党壊滅

以下、■はインドネシア関係、★印は中ソ対立関係、▼はベトナム戦争関係である。

1965.1.4道新 カストロ首相演説 キューバ革命6周年 対米会談興味なし

1965.1.5道新夕刊 中国人民代表大会の意味 指導体制は不変 経済ようやく軌道に 

1965.1.5道新夕刊 社党 月末から国民運動を展開 原潜、物価、護憲など柱に 民社や公明と共闘

■1965.1.7道新 人民日報が社説 インドネシア国連脱退支持 米国がマレーシアを国連安保理の非常任理事国にすえたことに抗議

1965.1.12道新 中国人民代表の構成から女性の進出が目立つ 大幅交代の四川、新疆省

■1965.1.15道新夕刊 外敵侵入を防ぐためインドネシア・アイジット共産党中央委議長(650万人)とスカルノ大統領が会談 アイジットは農民、労働者の武装を進言、スカルノは国防軍が強いので大衆武装は拒否

*(*は僕の考え)中国共産党の武装蜂起方針を受け入れていたインドネシア共産党が、ここから1年もしないうちに弾圧、虐殺され壊滅するとは当時の誰にもわからないことである。当事者にとって、未来をある程度見通すことはできるが、確定的なことを予測することは不可能である。それは今の僕らも同じ、明日何が起きるか誰にもわからない。

*(れんだいこHPに学ぶ)1.18~3.7宮本書記長が中国に病気療養名目で滞在。1964.2.15~5.18に続く長期滞在。妻子同伴のみならず侍医、看護婦、家政婦、護衛、秘書など総勢10名近くの大名旅行

*中ソが対立している中、党内からソ連派を除名、中国共産党との関係は正に蜜月状態。医療が進んでいるとも言えない中国に2年連続で長期滞在とは、どんな厚遇を受けていたのだろうか。しかし、中共からの武装蜂起方針を拒否し、決裂する時がそこまで来ていた。もし1960年代後半に日共が蜂起していたら、どうなっていただろうか。

1965.1.21、22道新 中国 ①土法から洋法へ 消えた大躍進運動 農業の低い生産性も響く ②ユートピアのゆくえ 初めて食える生活 手直しされ育つ人民公社

■1965.1.29道新 中国・インドネシアが共同声明 国連改組の必要強調 帝国主義と共存ありえぬ

1965.1.29道新 ソ連共産党 世界党会議で再確認 開催の方針変えぬ

1965.1.29道新 総評拡大評議員会で決定 原水協(原水爆禁止日本協議会)を正式に脱退 2.1発足の原水爆禁止日本国民会議に加盟

1965.1.29道新夕刊 モスクワ放送 国連の擁護を強調

1965.1.30道新夕刊 チェコ政府 商工企業に振興策 個人責任を拡大 労働賃金も成果を考慮

▼1965.1.31道新夕刊 ソ連首相ら近く北ベトナムへ 保障、行動で示す 米国の動きを牽制

★1965.2.2道新 中国 ソ連の動きを警戒しつつ注視

▼1965.2.2道新 ソ連首相の北ベトナム訪問 米、深い関心寄せる 影響力拡大図る 紛争解決への説得も期待

1965.2.2道新 周首相が言明 たとえ認められても国連に加盟しない

1965.2.4道新 チェコ 画期的な経済政策を発表 企業活動、利潤が軸 価格決定も需給関係で

★1965.2.4道新夕刊 ソ連の出方待つ中国 希望があれば会談

▼1965.2.9道新 米の(北)ベトナム爆撃(2.7北爆開始) ソ連声明:防衛強化に新措置 兄弟国の義務遂行 中国声明:実際行動で支援、意識的挑発は明らか

*(れんだいこHP)南ベトナムに沖縄駐留の第3海兵師団を筆頭に陸上戦闘部隊を続々と送る。韓国、カナダ、オーストラリアなどの米国同盟諸国も参戦。

▼1965.2.9道新夕刊 ソ連首相演説 米軍の撤退を要求 社会主義国の連帯強化

▼1965.2.10道新 米の報復爆撃(2.7北ベトナム空爆再開) 中ソはどう出る 中国:直接介入避けよう ソ連:ミサイル供与 1964トンキン湾事件

1965.2.12道新社説 「三矢研究」事件の究明を望む 1963.6統幕会議 2.20衆議院予算委 岡田春夫 北朝鮮と中国を仮想敵国

▼1965.2.11道新 ソ連、北ベトナム共同声明の内容 防衛強化で定期協議

★1965.2.13道新夕刊 コスイギン首相 平壌でソ・中・朝の結束強調

★1965.2.14道新 動き出したコスイギン外交 北ベトナム、中国、北朝鮮訪問 フ路線と一線画す 世界的な統一戦線推進 

★1965.2.14道新夕刊 中ソ友好同盟条約調印15周年 両国が祝電を交換 団結強調

▼1965.2.15道新夕刊 ソ連、北朝鮮が共同声明 平和共存認める 北ベトナムを援助

★1965.2.15道新 人民日報 微妙な中国のソ連接近 和解を積み上げ、まず部分的協力回復へ 団結して米と対決

★1965.2.16道新 ソ連首相(ハノイ、北京、平壌)訪問の成果 共存路線に微妙な変化 なお深い中ソ対立の傷跡 きずなはある程度回復

★1965.2.16道新夕刊 同盟条約15周年記念会議 陳毅外相が強調 中ソ団結を強化

▼1965.2.19道新 米の暴走 北ベトナム爆撃 朝鮮戦争との比較 弱い国際的圧力 西側でさえ批判的だが・・

▼1965.2.21道新 ベトナム問題とソ連の立場 安易な妥協排す 平和的解決こそ唯一の道 国際世論で米に圧力

▼1965.2.24道新 ベトナム情勢と中国の立場 「北進」(米が17度線を超えること)には断固対決 ベトコンの戦いを支援 米の世論調査結果 8割は爆撃支持 対中国戦へ拡大恐れる

▼1965.2.24道新夕刊 ソ連マリノフスキー国防相 再び対米警告 世界戦争の恐れ

▼1965.2.27道新 国連筋語る ウ・タント国連事務総長提案の和平交渉 北ベトナムが提案 受け入れの用意 米:南ベトナムの相次ぐ政権交代に失望 援助効果阻害 共産関係国:北ベトナムへ武器空輸を開始か

▼1965.2.27道新 ソ連首相 三国訪問の報告演説 反帝闘争の強化で一致 まず米の侵略停止 インドシナ正常化に

▼1965.2.28道新 ソ連首相の演説 北ベトナムすでに援助開始 中ソ対立の深さ認める

1965.2.28道新 共産党世界会議準備会議あす開幕 イデオロギー問題除外 “統一”一本にしぼる 複雑怪奇な性格

1965.2.28道新 英紙が報道 中国、水爆工場を建設 2年以内に開発か

1965.3.1道新 世界共産党の協議会議 モスクワできょう開幕 19党代表が参加 党準備会議の名称変更 日共は参加せず

★1965.3.1道新 中国 ソ連外交を非難 北ベトナム防衛を看板に米との妥協図る

▼1965.3.4道新 世界共産党協議会が声明発表 ベトナムに介入の米国 軍事攻撃やめず

★1965.3.4道新夕刊 モスクワ会議で一致か 中ソ対立 固定化急がぬように

★1965.3.4道新夕刊 人民日報 ソ連修正主義非難 絶滅するまで論戦

▼1965.3.5道新夕刊 北ベトナム爆撃 中国、ソ連が非難声明 中国:米軍は撤退せよ 万全の備えあり ソ連:米ソ関係に悪影響 計画的侵略行為やめよ

▼1965.3.6道新 ソ連国防省機関紙 米に警告 北ベトナム防衛を履行

★1965.3.6道新 中国 公開論争再開のねらい ベトナム和平工作へ ソ連の主導権打破

1965.3.6道新夕刊 共産党19か国協議会議終わる 団結の回復で結論か

★1965.3.13道新夕刊 モスクワデモ 3.4米大使館前反米デモで中国人留学生がソ連警官の暴行を受けたとの中国政府の抗議は根拠がない ソ連が陳謝要求を拒否 “事実曲げる中国”

★1965.3.14道新 モスクワのデモ事件 いらだつ中国 ソ連和解案へ冷水 対立これで振り出しへ

■1965.3.14道新 マレーシア・タイと新国境協定 共産ゲリラ掃討へ

★1965.3.15道新 デモで負傷の中国学生帰国 ソ連の病院が迫害

▼1965.3.15道新 南ベトナム人民革命委 統一と民族自決を

1965.3.15道新 フ首相が姿現す 地方選挙に投票 失脚いらい初めて

★1965.3.16道新 人民日報 モスクワ事件 ソ連を非難 米国の言いなり 

★1965.3.16道新 英共産党要望 中ソ両党会議開け

▼1965.3.18道新夕刊 ソ連グロムイコ外相 英首相に示唆 ベトナム、米が侵略やめねば国際会議考えぬ

★1965.3.21道新 中国 対ソ批判を本格化 観念的団結は有害 親中国派の結束を強める

1965.3.21道新 ソ連 対ルーマニア友好団結へ ゲオルギュアジ国家評議会代表の死去

1965.3.23道新 太田議長にレーニン賞(1957~) 国際レーニン平和委員会より 1951大山巌 1956関鑑子(あきこ) 1957安井郁 1949.12.20スターリンの第70回誕生日を記念(スターリン章)

★1965.3.23道新 中国 モスクワ会議を論評 ソ連新指導部非難

★1965.3.23道新 中共論文 ソ連、ベトナム政策攻撃

★1965.3.24道新 ソ連新指導部に見切りつけた中国 対米弱腰に不信感 ベトナム介入を示唆

▼1965.3.24道新 ブレジネフ第1書記 ベトナム問題で演説 社会主義国の義務連行

1965.3.26道新夕刊 ソ連中央委 ブレジネフ書記提案 農業に710億ルーブル投資

★1965.3.27道新 ベトナム問題 中ソ合同戦線は疑問 ソ連に疑いの目 孤立防感ぬぐいきれぬ中国

1965.3.27道新 ルーマニアの反ソ感情 シベリア移住で再燃 ベッサラビア ソ連領の中に“同胞”

 

 

 

 

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戦後左翼史 その24 1964年⑥ 不破哲三、上田耕一郎兄弟の抜擢

2016-06-06 20:09:39 | Weblog

週末、ザ・ニュースペーパー札幌公演2016を観ました。時事ネタは新鮮だが、演出は偉大なるマンネリで、伝統芸の域に達している。ジャスト2時間笑わせっぱなしというのは凄い。フライングが1箇所、どんなに怪しくても素人を素材にしてはいけない、七飯町のお父さんを揶揄した所はまずいと感じました。

 

戦後左翼史 その24 1964年⑥ 不破哲三、上田耕一郎兄弟の抜擢

以下、★印は中ソ対立関係、 ◎日共関係、▽フルシチョフ解任関係である。

1964.11.1道新 ポーランド・モンゴル共同声明 イデオロギーの対立 国家関係に移す

★1964.11.1道新 プラウダ社説で協調 平和共存政策を推進 集団指導のもとで

◎1964.11.3道新夕刊 志賀氏(除名) 明日ソ連へ 訪ソを終え帰国するや、志賀.鈴木.神山.中野らで声明を発表し、日本共産党(日本の声)を組織

★1964.11.3道新夕刊 新華社 間接的に影響 インドネシア・日本両共産党の論評通じ中ソ対立依然継続?

(れんだいこHPに学ぶ)12.14~12.29インドネシア共産党代表団が来日。野坂、宮顕書記長らと懇談。 

★1964.11.5道新 ソ連革命記念祝典(111.7) 中国 代表団を派遣 団長には周首相

★1964.11.5道新 注目される周首相の訪ソ 中ソ関係打開の動き 話し合いの一歩 中国、和解に積極的

★1964.11.7道新 ブソ連第1書記 革命前夜祭で演説 国際共産主義の団結を強調 新しい党会議必要 平和共存路線は不変 兄弟党の自主性尊重 ゾルゲにソ連邦英雄の称号 1941逮捕 1944処刑 尾崎秀美

▽1964.11.7道新夕刊 人民日報 米帝への共闘強調 フ氏解任を歓迎

1964.11.8道新夕刊 アルバニア機関紙が社説 スターリンに戻れ アルバニアのソ連革命記念日 スターリン像飾る

◎1964.11.12道新夕刊 共産党また文化人除名 野間、出氏ら10人 朝倉、佐田、野間、出、国分、佐藤、丸木夫妻、山田、渡部 今後査問で処分は本郷、宮島

★1964.11.14道新夕刊 中ソ会談一応終わる 周恩来首相ら帰国 世界党準備会議 開催延期で合意か

1964.11.15道新 プラウダ ベロウリフ論文を掲載 利潤方式を重工業に

▽1964.11.17道新 予定されるソ連中央委 フルシチョフ時代を清算 注目される人事 機構も重要課題に

▽1964.11.17道新夕刊 ソ連中央委 フ体制を手直し 農・工業を再結成 幹部会員 シェレスト、シュレーピン両氏が昇格

1964.11.19、20道新 転換期迎えたソ連経済 ①意外に低い生産性―進歩はばんだ官僚主義 ②指標に利潤導入―リーベルマン提案 3年ぶりに脚光

★1964.11.22道新 「紅旗」社説 ソ連党路線への挑戦 和解のきざし無し 攻撃、新指導陣にも及ぶ

1964.11.22道新 社党理論委報告 議会民主制足場に平和革命に徹す 構造改革論争に終止符 “甘さ”消化しきれずに残る

◎1964.11.24道新夕刊 共産党第9回大会開く(11.24~11.30) 統一と躍進が目的

*(れんだいこ氏HPに学ぶ)党員数15万人、民主連合政府構想を発表、ソ連共産党を批判。自主独立論を中共路線上に名目的に確立する。議長野坂(84才).書記長宮本を再選。幹部会員に野坂.宮顕.袴田.松島.岡正芳(東大卒、徳球の秘書を経て前衛編集長)、蔵原.春日.米原.河田の9人、同候補に紺野.西沢.大淵生気.藤原隆三、書記局員に宮顕.袴田.岡ら16人。中央委員候補に上田耕一郎(37才)(政策委員)、不破哲三(34才)(中央機関紙編集委員)、工藤晃を抜擢

(参考)・上田耕一郎:1946入党、1951東京大学経済学部卒業、1956『戦後革命論争史』(構造改革派)、宮本顕治を中心とした綱領論争を経て、同書を絶版「自己批判」、1973「民主連合政府綱領」提案、党内では他党との関係を模索する立場をうかがわせた。中央機関紙『しんぶん赤旗』編集長、宣伝局長、政策委員長、副委員長を歴任。2006まで党副委員長。

・不破哲三(本名上田健二郎):1947入党、1953東京大学理学部物理学科卒業、鉄鋼労連(現・基幹労連)書記、1970書記局長、1982幹部会委員長、1987中央委員会副議長、1989幹部会委員長再任、2000中央委員会議長、2006議長退任、現在は中央委員会付属社会科学研究所所長。

*(*は僕の考え)上田兄弟は日共が生んだスターだ。上田耕一郎については、このブログ2008.11.1「追悼 上田耕一郎さん」、2009.12.30「『戦後革命運動論争史』」、2014.5.3「第4次『現代の理論』デジタル版の創刊」などで何度も思う所を述べてきた。不破は好きになれない。不破の口調と言葉遣いが、大衆をバカにしたように感じるので嫌いだ。不破以降の幹部たちも不破を口真似したような話し方をする。上田は、何度も宮本顕治から怒られているのだろうが、懐が深く大衆政治家の匂いがするので好感を持っていた。しかし、党内では重要ポストに付けなかった。そこにこの党の限界があると思う。

◎1964.11.25道新 共産党大会 志賀氏ら4氏(鈴木、神山、中野)除名 満場一致で承認 

1964.11.25、26、27、28道新 新中国を見て ①7億総学習の一翼 けなげな少年先鋒隊 ②全員の政治学習 幹部の労働参加 目をみはらせる熱心さ ③豊富になった食糧 絶対量が不足の衣料品 ④はなやかな招待外交 後進諸国ひっさげ強い自信

1964.11.25道新夕刊 コンゴ 米人宣教師は死亡 ベルギー降下部隊スタンレービル占領

◎1964.11.26道新 共産党除名4氏が態度表明 批判勢力の結集図る

◎1964.11.27道新 日共大会3日目 聴涛克己幹部会員が4.17問題で自己批判 宮本、袴田外遊中の責任者

◎1964.11.29道新夕刊 日共大会5日目 満場一致で“結語”を採決

1964.11.29道新夕刊 毛主席 コンゴ支援で表明 米国は全世界の敵

1964.12.1道新 中国 人民代表選挙終わる 修正主義分子を追放 (当選)毛沢東主席 劉少奇国家主席 林彪国防部長 小平中共中央総書記 陳雲副主席 (落選)彭徳塊、黄克誠、譚政、張聞天

1964.12.4道新夕刊 ブソ連第1書記が演説 北ベトナム援助用意 コンゴを擁護 

1964.12.4道新夕刊 20日に中国人民代表会議 注目される新5か年計画 新たなる躍進体制へ

1964.12.6道新夕刊 プラウダ社説 プロレタリア独裁の段階を終えて全人民国家の段階へ 企業の独立など強調

1964.12.9道新 きょうからソ連最高会議

1964.12.10道新 軍事予算削減 米ソが同意 ソ連最高会議開く 明年度まず5億ルーブル コスイギン首相発表

★1964.12.12道新 ソ連 親西側政策を予算に反映 経済体制を改革 中国の批判しりぞける 

★1964.12.13道新 プラウダ発表 世界共産党の準備会議 来年(1965年)3月に開催決定 新指導部が“背水の陣” ソ連が中国説得工作 3月まで北京で会談再開か

▽1964.12.19、20道新 フ首相失脚後の東欧情勢 ①自由化テンポ早まる 在任中以上の速度 スターリン復活ありえぬ ②曲がり角に来た計画経済 目立つ無責任ムダ かんばしくない過去の実績

★1964.12.20道新 世界党会議の準備会議 近く公式声明 中国の不参加は決定的 中ソ分裂招くだけ 従来の立場固執か

1964.12.22道新 中国人民代表大会開く 周首相が活動報告 香港情報 毛主席近く辞任?

1964.12.26道新夕刊 老いた毛中共主席 江青夫人と静養の日々 革命情勢にいぜん若さ 

1964.12.26道新夕刊 ソ連 重工業にも“利潤” 来年から実験的に適用

1964.12.29道新 ソ連の“利潤導入”実験 重工業、鉱業1月1日から開始

1964.12.30道新 モスクワ放送が呼びかけ 友好と理解深めよう

 

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戦後左翼史 その23 1964年⑤ 文化人除名 フルシチョフ首相解任

2016-06-02 21:05:16 | Weblog

 会社でも人事から様々な意味が読み取ることができる。では、今春の日共人事をどう読んだら良いのだろうか。2014.1第26回党大会で書記長になった山下芳生が2016.4の5中総で慢性の腎臓病を理由に退任した。実権のない副委員長にはなったが。僕は、安保法制成立後の党の迷走に対し、詰め腹を切らされたと読む。独りよがりで非現実的な民主連合政権構想の提唱、1人区での選挙協力の失敗、結果的には候補を取り下げざるを得なくなった。全ては、志位の責任だが、委員長の交替は対外的な影響が大きすぎるので、山下ということになったのではないか。いずれも、主観的な情況認識の病が原因と考える。

 

戦後左翼史 その23 1964年⑤ 文化人除名 フルシチョフ首相解任

以下、★印は中ソ対立関係、 ◎日共関係、▽フルシチョフ解任関係である。

★1964.10.1道新 試練の秋を迎えるフルシチョフ首相 世界共産党会議の準備会議 中共制裁に手心が 東欧団の動向無視できず

★1964.10.2道新 モスクワ放送強調 中国と友好望む 成果大きい経済援助 フ首相 米案を拒否 中国の核開発阻止のため米ソ協力

◎1964.10.2道新夕刊 志賀氏ら(鈴木、中野、神山:日本の声同志会)4氏が共同声明 不当な除名認めず党員の責任果たす 

◎1964.10.4道新社説 日共の内紛と党内民主主義

◎1964.10.5道新 日共 新たな国際会議提案 世界党会議に反対

◎1964.10.6道新 日共 中央委の報告を発表 憲法擁護を強調 国際的には自主性堅持 

★1964.10.6道新 中国 懸案解決に意気込む 「調整」から「大躍進」へ 共産圏の主導権めざす

★1964.10.6道新 非同盟会議(第2回、カイロ)開く 焦点は「平和」と「開発」 期待される成果 参加は2倍に 「平和共存」の具体化図る

★1964.10.6道新 ユーゴ 世界党会議を支持せず ソ連の努力に一撃 各国の自主傾向強まるか

1964.10.7、8道新 苦悶するソ連経済 ①再燃した利潤論争 病状悪化 迫られる早急解決 レラベーズニコフ ②強い政治的抵抗 利潤導入 価格体系修正も必要 リーベルマン

★1964.10.8道新 ルーマニア代表団 周恩来首相らと会談 中ソの調停工作か

★1964.10.15道新 仏共産党声明 世界党会議に賛成 中共除名反対が条件

◎1964.10.15道新 除名覚悟の文化人12氏 日共指導部を批判 佐田稲子、野間宏、朝倉摂、丸木位里、俊子、出隆、国分一太郎、佐藤忠良、本郷新、宮島義勇、山田勝太郎、渡部義通

*(れんだいこ氏HPに学ぶ)ここに至るまでには、6.11に今回と同じ党員文化人が、志賀問題に関し「要請」文書を党中央委員・同候補・中央統制委員全員に郵送。内容は、「我々は二人の行動に同調する立場にはないが」、「第8中総」が党の根本問題から目をそらし、志賀問題を形式上の規律問題にすり替えたことに不正常さを認めざるをえない、とするものであった。6.14には、12名で「声明」を報道機関等に送付。党中央は、これは党規約第2条の(9)に定めている党員義務違反(「党の内部問題は、党内で解決し、党外にもちだしてはならない」)とした。

(参考)

・佐多稲子:小説家、『キャラメル工場から』、『夏の栞』など

・野間宏:小説家・評論家・詩人、『真空地帯』、『青年の環』など

・朝倉摂:舞台美術家・画家

・丸木位里、俊子:日本画家、『原爆の図』など

・出隆:元東大教授、哲学、アリストテレス研究

・国分一太郎:児童文学者、国語教育、作文(つづり方)教育の実践家・理論家

・佐藤忠良:彫刻家、『夏の像』釧路市幣舞橋

・本郷新:札幌市生まれ、彫刻家、『氷雪の門』、『わだつみのこえ』、『冬の像』釧路市幣舞橋

・宮島義勇:撮影監督、『人間の條件』、『怒りをうたえ』

・渡部義通:日本史学者、社会運動家、衆院議員、1967春日庄次郎らと共労党を結成

*(*は僕の考え)各分野での活躍している12名、作家、画家、彫刻家、学者などの人材が党から流出したことは、必然的に党公認の文化がその後ますます貧しく細った要因と考える。逆に言うと、党の束縛を解かれたからこそそれぞれが創造的な仕事ができるようになったと考えた方が良いのだろう。

▽1964.10.16道新 英紙報道 ソ連政府部内で大異動 フ首相にも影響? 赤い広場に肖像見えず 党本部で重要会議 イズべスチア紙休刊

▽1964.10.16道新夕刊 フルシチョフ首相解任 最高幹部会が公式声明 老齢、健康悪化を考慮 後任コスイギン氏 第1書記ブレジネフ氏 追放説が有力 新連合政権は“つなぎ”か

*(れんだいこ氏HPに学ぶ)10.14ソ共中委総でフルシチョフは第一書記、首相を解任された。ブレジネフ党中央第一書記、コスイギン首相、ポドゴルヌイ党中央委書記によるトロイカ体制に。政権末期でソ連経済は危機に、各級党委員会を工業委と農業委に分割するなどしたが、党指導と行政を混乱に陥れ、中ソ対立やキューバ危機などもフルシチョフ株を下落させた。思いつき方針と同僚無視のやり方に不満が高まり失脚。

*フルシチョフの人となりはわからないが、最大の功績はスターリン批判を行ったことと、中共とは対立したが、平和共存路線を打ち出し米国との核戦争を回避したことであると考える。

▽1964.10.16道新夕刊 フルシチョフ解任の背景と今後の国際政局 解任の真相 中ソ問題でツメ腹切らされる 多数派工作に失敗 中ソ論争、中国軟化しよう 共産圏、新たな統一の道歩む

1964.10.17道新 中国 最初の核実験に成功 本国の西部地区できのう(10.16)の午後3時(日本時間4時) 新疆の砂漠地帯か 中国政府正式提案 核兵器の全面禁止で首脳会議を招集せよ

1964.10.17道新夕刊 ソ連新指導者の意向 世界党大会は開く

1964.10.18道新社説 中国の核実験に抗議する

▽1964.10.18道新 フルシチョフ失脚の内幕 極秘に中央委招集 スースロフ氏が検事役で非難 党内での戦術に敗れる

★1964.10.18道新 核実験の完全停止 ソ連呼びかけ 米、英、仏と友好、協力

▽1964.10.19道新夕刊 伊共産党ロンゴ書記長 フ前首相解任 やり方に不満

★1964.10.20道新 ブレジネフソ連第1書記が演説 平和共存が改革の基礎 モスクワ宣言を土台に世界党会議を推進 西欧の安全保障を

▽1964.10.20道新 フルシチョフ解任の真相 専横な行動に反感 寝耳に水“解任動議”必要の反論もむなし 中ソ論争批判させず

▽1964.10.20道新 フ前首相解任は強制された 国防政策で軍首脳と対立 突然発表が証拠

▽1964.10.22道新 デンマーク共産党機関紙報道 ソ連の新指導部 各国共産党の批判でフ前首相非難を中止 インドネシア外相語る 軍縮促進に役立つが中国核実験は不賛成

▽1964.10.22道新 アイク(アイゼンハワー)特別会見記 フ首相解任は残念 ソ連、核戦争の意思はない

▽1964.10.23、24、25道新 フルシチョフの功罪 ①歴史をつくった強烈な個性―軍事バランス回復 反感を招いた個人崇拝 ②毛沢東との衝突―反感買った大国意識 自己過信 何より権威尊重 ③官僚群との戦いに自滅―性急だった機構改革 尊大、独善が怒り買う

▽1964.10.24道新 各国共産党代表近く訪ソ フ前首相解任問題で

▽1964.10.24道新 フ氏失脚の真相 農業問題が決め手

1964.10.24道新夕刊 アラブ連合 ソ連の動きに警戒 中国にも新しい対応

1964.10.27道新 スースロフ氏病気療養中(肺結核)

1964.10.29道新 ソ・仏両党会談終わる スースロフ氏も出席

1964.10.29道新夕刊 ソ連 党第1書記と首相 今後永久に分離

1964.10.30道新 社党使節団(成田) 中国と共同声明 核全面禁止で一致 浅沼精神(米帝は日中人民共同の敵)発展に努力

▽1964.10.30道新夕刊 ソ連 党機関に文書配布 細かく罪状列挙

★1964.10.31道新 ソ連党機関 中ソ和解もねらう 改革の失敗を個人に転嫁 周首相語る ソ連政変 中国核保有で中ソ好転期待できる

 

 

 

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