晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

情況論ノート 第15回

2007-09-30 16:45:40 | Weblog


 午前中、千歳でお客さんの集まりに参加(営業)、その帰りに、「ドレモ ルタオ」を覘いて来ました。パン屋さんとお菓子屋さんと喫茶店に分かれていて、他店では無いような物があり、なかなか腕のいい職人さんがいるのだなと思いました。写真は、プリンです。



情況論ノート第15回

 生活情報化とは、情報技術の普及と浸透が日常的な生活シーンに及んできていること。
 その推移を見ると、
 ①1960年代 テレビの普及による「マス・コミ化」現象
 ②1970年代 電話の普及
 ③1980年代 CATV キャプテンシステム パソコン通信などニューメディアブーム
 ④1990年代 PC インターネットの普及
 ⑤2000年代 携帯電話 ブロードバンド(高速通信回線)



 情報技術の進化の推移からは、
 ①大量計数情報処理技術としての情報技術段階(1960年代半ば~1970年代半ば)

 第3次大型汎用コンピュータによる大規模集中オンライン情報処理システム、例としては、国鉄みどりの窓口、交通公社旅行予約システム、航空会社座席予約システム、銀行の第1次オンラインシステムなどで、これらにより、マスとしての大衆が、きめ細やかなサービスを受けられるようになった。「顔の見える大衆社会」

 ②生産技術としての情報技術段階(1970年代半ば~1980年代半ば)

 マイクロエレクトロニクスの発展により、ME化が進み、システムは分散処理システムへ進化した。例としては、CAD(コンピュータ支援設計製造)、CNC工作機械(コンピュータ数値制御工作機械)などで、これらにより、多品種少量生産が可能になった。人々は、ものの所有・消費によって、自己主張、自己表現、自己規定が可能になった。サービス消費の拡大により、精神的な充足感も得られるようになった。「消費の高度化」

 ③システム間接続技術としての情報技術段階(1980年代半ば~1990年代半ば)

 ネットワーク化が進んだ。例としては、POS(販売顧客情報管理)、VAN(付加価値通信網)などで、これらにより、市民・生活者のニーズをタイムリーに、かつ適切に捕捉し、生産や流通の柔軟性を増強した。「顧客満足」

 ④コミュニケーション技術としての情報技術段階(1990年代半ば~)

 インターネットの普及が進んだ。例としては、SOHO、e―コマース、総合行政ネットワーク(LGWAN)、メール、電子会議、IP電話、ブログなどで、これらにより、市民・生活者は、意味充実と問題解決のための技術を手にした。人々は、発意と主導において、自らの困難やシステムの合理性から来るひずみに対抗できる力を得た。



 物事を歴史的に見ることは重要と考える。これまでの推移を分析すると、そこに現在の課題が見え、その解決によって先の展望がつかめる。
 
 情報技術の進歩は、ここで振り返ったとおり日進月歩、この半世紀で飛躍的に変わっている。私達の生活様式も劇的に変わった。

 しかし、それを、社会そのものの変質と捉えるか、社会構造そのものの本質は変わっていないと捉えたらいいのか。私は、しかるに資本主義的な生産体制自体は変わっていないため、後者と考える。

 「生活情報化の社会的コンテクスト」(試論)福田豊より
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情況論ノート 第14回

2007-09-29 19:00:38 | Weblog
 久々に少し長い距離をゆっくりと走る。寒くなったものです。往路は、札幌~北広島間を2時間かけてラン、復路は、JR快速エアポートで16分、感慨深いものがあります。



情況論ノート 第14回

 E-Japan戦略は、この国に「ばら色の未来」がもたらすのか。

 E-Japan戦略とは、誰でも低額な料金で簡単に様々な情報にアクセスでき、役所などの手続きや商品の購入などが自宅や職場にいながらにして行なえるようになる社会をつくるという、政府が2001年に発表した国家戦略である。

 1971年8月のニクソン・ショックからパックス・アメリカーナの衰退が始まり、1980年代アメリカは「世界最大の債務国」に転落した。
 しかし、1990年代、冷戦が終結し、軍事費の削減によりアメリカ経済は好調な伸びを見せた。とりわけ、情報分野では国家が軍事技術を民間に開放し、情報化が急速に進んだのである。(これを「平和の配当」という。)

 1993年に発足したクリントン政権は、ゴア副大統領による「情報スーパーハイウェイ構想」を打ち出し、世界の人々が自由に情報にアクセスできる環境を整えようとした。これにより、アメリカは情報で世界経済に対して有利な立場を確保するとともに、アメリカの経済安全保障として機能した。

 日本は、1990年代不況の中で、アメリカのIT化に比べて、大きく遅れていた。ようやく2000年以降上記のIT政策が動き出した。

 これを、別の側面から見ると、アメリカから日本に対して、1993年以降毎年示している「年次改革要望書」の中で、国民が自由に必要な情報にアクセスできることを要求し、それに日本政府は、e-Japan戦略で応えた。

 アメリカのソフトウェアを使用して、日本国民が自由に必要な情報にアクセスできるということは、アメリカも日本の情報にアクセスでき、日本政府による改革の進捗状況も瞬時に把握できることを意味する。

 ここから、e-Japan戦略は、この国の情報政策という側面とともに、パックス・アメリカーナを延命するためにとられた、アメリカの経済安全保障戦略の一環なのである。



 実際に会社における職場の変容を思い出すと、1985年位にワープロが登場、1997年頃からパソコンが入り、職場LANが2001年頃につながり、今ではメールのやり取り無しには仕事ができない状況になった。

 個人の生活でも、私の場合は遅いが、ケータイがここ数年であっという間に普及し、カードなどのキャッシュレスが普及し、急速に生活が様変わりしている。

 この情況の激変が全て米国の国家戦略によるものとするのは、少し無理があるのでは。ただ、この国で普及しているソフト技術は、ほとんど米国製であり、欧州で開発されたフリーソフトの普及は進んでいないことから、対米従属的な側面も否定できない。

 「アメリカの経済安全保障としてのe-Japan戦略」 土肥 誠による
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『昭和天皇と鰻茶漬』

2007-09-28 20:52:06 | Weblog
 『昭和天皇と鰻茶漬 陛下一代の料理番』(谷部金次郎著 河出書房新社 2001年刊)

 著者は、昭和天皇の料理番として毎日の料理、儀式、行事の料理を作ってきた方。

 さる高貴なご一家は、日常的に一体何を食っているのだろうか、という覗き見的な動機で図書館から借りた。

 8:30朝食は洋食でオートミール又はパンを食す。12:00昼食、18:00夕食は、和食と洋食を違えて食す。おやつは無く、量は腹八分目。毎週水曜日の夕食は、会食で東宮、常陸宮殿下夫妻と一緒。11月23日の新嘗祭の夜だけは夜食を食す。

 焼き芋が好物で、お酒は一切飲めない。かぼちゃ、さんま、いわし、あじ、たたみいわし、鰻の蒲焼、うどん、そばが好物。庶民と全く変わらず、贅沢はせず、健康的な食事。

 著者の生き方を一言で表現すれば、「忠」。誠心誠意人に仕える、細心の注意を払いながら仕事に打ち込む姿に、素晴らしさと尊敬を感じた。



 天皇制の頂点に立つヒロヒトではなく、ひとりの人間として昭和天皇の姿は、映画「太陽」における臆病で神経質な天皇、この本での、贅沢を排し、質素な生活を心がけていた天皇なのであろう。

 さて、その後の平成天皇は、次の浩宮は、どんな人なのだろうか。

 

 
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『変わる保育園』

2007-09-24 09:32:04 | Weblog
 

 PCトラブルで途中で文章が途中で中断してしまいました。(9月24日)

 25,26日は、夜も営業でした。本日(27日)、続きを書きます。



昨夜(23日)、22:00~23:00 NHK教育テレビ ETV特集「ごたごた荘の人々」を観ました。東京都内の認可外共同保育所をテーマにしたドキュメンタリーでした。

 そんなこともあり、『変わる保育園 量から質の時代へ』(普光院亜紀著 岩波ブックレットNo.709 2007年刊)を早速読みました。

 保育園の役割が、共働きなどで保育に欠ける子どもの生活の場のみならず、家庭で子育てをしている親子のためであったり、幼稚園との垣根も低くなり、教育的な機能も求められているなど、大きく変わってきています。

 また、保育園を取り巻く状況も、定員や保育士の雇用形態の規制緩和、公立保育園に対する国の負担金廃止と一般財源化、民営化、認定こども園制度の創設など変化の真っ只中にあります。



 共同保育所「ごたごた荘」は、認可保育園に比べて、施設もボロボロのプレハブ、敷地も狭く、運営財源も認可保育所に比べ少なく、保育環境は劣悪。

 しかし、その中で、保育者たちが情熱を持って保育を実践していました。

 ある日、保育園のこども達の間で小さな出来事が起こったのです。年長のこども達が、一人の年下のこどもに向かって「デブッチョ」と言う様になったのです。

 その事が、保護者からの連絡帳に書いてあり、それを巡って保護者、保育者の真剣な、徹底的な話し合いが持たれます。どうしてそのような事態になったのか。こどもたちには、悪意は無い。こども達のことに大人が介入すべきか。介入するとしたらどのタイミングで、どんな方法で。

 結果的には、ある保育者が指人形をこども達に見せて、その中に「ヤセッポチ」を登場させると、こども達の間から、「ヤセッポチ」と言ったらいけないよね、それなら「デブッチョ」もいけないよね、といった自然の気付きが生じたのです。



 一見、天下国家の行方には全く関係ないような議論ですが、保護者、保育者が何日も徹底的な議論を尽くすその姿に、私は、忘れていた「直接民主主義」の理想を感じました。(方針は、全員で納得するまでの徹底的な議論を経て決めよう。)

 というのは、その日、福田新総裁が選出され、別のチャンネルでは、政治家や評論家たちがまさに天下国家を論じていて、その言葉の空虚さを普段以上に感じていたからであろうか。
 

 
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『受命』

2007-09-23 19:32:01 | Weblog

 9日に北海道マラソンで惨敗した以降、昨日初めて5km、本日は、午前中の営業の後、午後から13kmのラン、後遺症なのかな、体の中から力が湧いてこない感じ、風邪のせいなら仕方がないのだけれど。



 福田康夫氏が自民党総裁に選出された。着実、安定感、ソツのない応対・・手ごわそうです。彼は、アジテーション型ではなく、ネゴシエーター型(調整、協調)と思われ、対立軸を作りにくい政治家に見えます。政策に根っこの張っていない民主党は取り込まれる可能性があります。



 太田昌国「暴力批判論」の書評が、本日の北海道新聞の朝刊に掲載されています。この著書の中で、推薦されていた『受命』(帚木蓬生著 2006年 角川書店刊 ははきぎ ほうせい )を読みました。

 小説の舞台は北朝鮮で、そこに別々に潜入した3組が、ある天の命令(ここでは、暗殺です。)を聞きます。その天命を聞く事を「受命」といいます。

 現在の北朝鮮の情況が良く書き込まれています。おっと思うエピソードも盛り込まれています。金日正が突然死亡したのは、息子金正日が後継に指名されない状況を打開するために殺したと書かれています。

 北朝鮮は、同じ民族に核兵器を使うことはありえない。もし、韓国を核で攻撃すれば、金正日は末代まで同胞殺しの汚名を着ることになるからである。核攻撃の想定は、日本しかないとも書かれています。

 589ページの長い小説ですが、実際に事件が動き出すのが最後の30ページ位で、非常にまどろっこしい展開です。結論もあっけなく、事件後の状況については、全く書かれていません。

 従って、楽しく読み進めていけますが、ストーリーの展開を考えると、星3つ半位です。

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澁澤龍彦幻想美術館

2007-09-22 10:38:50 | Weblog
 今週は、夜の営業が続いていました。本が読めないと、何か喪失感が大きく、昨夜は虚脱状態でした。

 一夜明けて、少し風邪気味ということがわかったのですが、福田総理候補をどう表現したら良いかと考えました。あの他人を小バカにしたようなペシャリから、名付けて「心のこもらない福田総理」とすることとしました。

 不二家のチラシが入りました。1200円以上を買った人にペコちゃん人形をプレゼントだそうです。アップルパイが丁度1200円で紹介されています。台風で落下林檎が発生したのが少し前にありました。何か、関係があるのでしょうか。

 「いじめ」報道で欠落しているのは、どうしたらいじめを防止できるかを語らないことではないでしょうか。学校とか教育委員会はきれい事で済ませようとしています。そこには、暴力による反撃とか、復讐とかという考え方はありません。人には渾身の一撃の力が備わっていることを教えるべきでしょう。



 札幌芸術の森美術館で開催中の『澁澤龍彦幻想美術館』の行きました。

 澁澤と関わりのあった、澁澤が影響を受けたであろう芸術家の作品を年代別の並べられていました。

 約2時間、その世界にのめり込んで見入りました。一番充実していたのは、1960年代で、この国のサブカルを代表とするほとんどの人たちが、澁澤と何らかの関係を持つことがわかります。

 暗黒舞踏派の土方巽、そのポスターを手がけた横尾忠則、横尾のポスターには劇団情況劇場の「腰巻お仙」もあり、細江英公の写真には、もちろん唐十郎や李礼仙も登場します。

 四谷シモンの天使の人形も見とれてしまいました。サド侯爵の手紙、ダリの版画、伊藤晴雨、金子国義、加山又造の絵画、篠山紀信による澁澤邸の内部の写真も興味深いものでした。



 自分は、あの時代に育ったのだなあと改めて感じ、少なからず影響を受けていることを感じました。土方の舞踏の影響は、小樽海猫屋を拠点としていた鈴蘭党という舞踏団につながり、知人がそこに所属していたり、芝居が好きだったので、仲間と唐をやったり・・・

 


 
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参議選大敗と安倍首相

2007-09-17 16:02:47 | Weblog
 釧路の幣舞橋のたもと(橋詰)に小さなお餅屋さんがあります。昔は、回りの店も背が低かったのですが、今は、隣に大きなホテルが建ったりで、ビルの谷間に取り残されています。

 小学生の頃から、ここの「すあま」が大好きです。帰省したら必ず買わなかればならないものです。菓子職人のおじさんや店で売っているおばさん達も随分年を取りました。 



 安倍首相が辞意に至った原因は、7月の参院選での大敗であろう。

 ところで、あの参院選とは一体何だったのだろう。安倍は、就任当初から戦後レジームの転換を謳い、教育基本法改悪、国民投票法制定と着々と実績を積み重ね、参院選では憲法改定の是非を国民に問う段取りであったはずである。

 しかし、大臣らの事務所費用や年金など、天下国家の問題に比べ瑣末で事務的なミスの責任を被り、それを選挙の争点にされてしまった。こういう事態を巧くかわせないところが政治家として未熟な所なのである。ここは、同情したい。

 それでは、参院選の結果は、国民が、憲法改定などの動きにノーという答えを出したと受け取っていいのだろうか。否、今回の選挙からは、いかなる答えも導き出せないのであろう。

 小沢民主党は、あえて憲法を争点化せず、年金制度の再構築や農家への直接補償など国民の生活保守主義を巧く取り込んで選挙に勝利した。これらは、従来からの自民党の手法そのものであり、民主党はバラマキ政党化した。しかし今後万一民主党が政権に近づいた際に、財源問題などで民主党攻撃に使われる政策と考える。逆に、今は自民党の方が原理政党に見えてしまう。

 憲法に国民の関心が向かなかったのは、憲法の危機を叫んだ、社民、日共が議席を減らしたことからもわかる。(この両党の賞味期限切れの情況も大変由々しい事態である。)

 参議院で民主党が多数を得たことから、憲法改定がしばらく遠ざかったという見解を聞くが、憲法改定に対する国民の判断は、今回の参議選では留保されたととるべきであろう。

 民主党の中には、憲法改訂派がかなりいる。福田が総理になって柔軟路線をとり、参議院で多数の民主党も「抵抗より責任を」ということになれば、自民、民主の談合政治の情況が作られ、明文改憲ではなく解釈改憲が広く行なわれる可能性が大きいと考える。

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首相 安倍晋三死す            

2007-09-16 20:06:19 | Weblog
 ツールド北海道の選手達が駆け抜けて行きました。時速60kmだそうです。

 水曜日は社員の親の通夜、木・金曜日は夜も営業、土曜日は午前中営業、本日のみ完全休業、祝日の明日は午前中営業と、儲かってもいない会社なのに忙しさだけは世間並み、政局を考える時間がなかった。



 そうこうしているうちに、安倍ちゃんが10日に相変わらず大きな声の出ない所信表明演説、11日は風邪で早退、そして12日の小さな声で辞意を表明、13日に入院してしまった。

 メディアは、蜂の巣を突いたように大騒ぎだったが、この事態をどう評価したらよいのだろうかと考えた。



 まず、この時期に辞意を口にした直接の原因は、①健康問題:2月に立花隆が指摘していたように潰瘍性大腸炎(厚生労働省指定難病)の悪化なのか、②スキャンダル:「週刊現代」による相続税の脱税報道の動きなのか。



 お坊ちゃん、人を使えない、経験不足、世論を読めない、政治家としてのカンが無い・・辞めると言った途端に、堰を切ったように安倍の資質に対する批判が噴出しているが、私はもっと続けてほしかった。

 途中で投げ出さず、ボロボロになっても、自民党がぶっ壊れても、続けるべきだった。自衛官に対する海外への派遣命令、戦争のできる国家体制の構築とそのことの国民への心構え、すなわち、他者に対して、死を強制してきたことへの落とし前として、自分だけお腹が痛くなったので入院するというのは納得できない。勇ましくテロとの戦いを叫んでいたのは何だったのだろうか。その前に、国会での戦いに敗れてしまった。



 安倍の政治生命は絶たれた同然であるが、国のため命を捧げることの尊さを賛美するなど、日頃の言動の延長上からは、言行一致として、肉体的な生命も自ら絶って見せるべきではないのか。「生き恥を晒すな、安倍晋三。」



 参議院選挙で、何がどう判断され、安倍政権にノーという審判が下ったのかは、別項で考えてみたい。
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北海道マラソン 後日談

2007-09-11 20:02:39 | Weblog
 マラソンを走り終えてからの数日は、お腹が空いて空いてたまりません。食欲お化けになります。

 釧路の老舗ラーメン店の「銀水」です。昔風の細めんで、だしは魚系の味、醤油味が一番おいしい、ラーメンです。近年は、釧路ラーメンと称して、「河むら」とかいう店が札幌に進出していますが、昔ながらの釧路人は、「銀水」です。もう一店をあげれば、今は無いかも知れませんが、「ばってん」ですね。



 激動の一日から一夜明け、妻に聞きました。

 「昨日、心配で無かった?、もしかして、死んでしまうなんて思わなかった?」

 「口が元気だったから未だ大丈夫と思っていたよ、意識が飛んだら救急車かなとは思っていたよ」

 私の妻は、いたって、冷静な方なのだなと改めて思いました。



 「札幌の人は温かいね、何人の人が声を掛けてくれたのだろうか」

 「JRで席を譲りますといってくれた女性、札幌駅の8番ホームで声を掛けてくれた駅員さんが2人、お医者さんらしき方、大丸の前の通路で、JRタワーの担当女性、通りがかりの医学生らしき方、中島公園に向かうタクシーの運転手さん、帰りの大丸デパート地下食品売り場の入り口で、3人」

 あくまで、冷静に事態を掌握していました。脱帽!



 
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2007 北海道マラソン感想

2007-09-10 20:23:19 | Weblog
 

 毎年、翌日は会社の仲間に聞かれます。「昨日はどうだった?」と。朝、家を出る前におよそのストーリーを作ります。多少、笑いを取るポイントも入れて。
 
 レースは、20km関門を通過した所で棄権しました。北海道新聞には記録は載っていません。気温はさほど高く感じなかったのですが、湿度が高かったのでしょう。それと、日差しがきつくかなり体感温度が上がりました。水分補給をまめにしたのですが、直ぐ汗になってしまったようです。自分では予想もしない何と早くも15km位からかなりきつくなり、その後無理をしていたのでしょう。(これが後の出来事につながります。)



 妻がゼリーのエネルギー補給をしてくれることになっていたので、何としてもJR新川駅(23km地点)まで行かなければなりません。ゼッケンを外してからも歩道上を3km位走りました。(これも後の出来事につながります。)

 何とか、ヨレヨレでたどり着き、とりあえず濡れたランシャツ、ランパンを着替え。ここで、思わぬ失敗を発見。予め用意した中にパンツを入れておくことを忘れていたのです。仕方なく、Tシャツとジャージの下を直接はきました。(これも、後の出来事に響きました。)

 新川駅前では、へばった体を騙し騙し、復路の最後の選手を応援した後、JRで札幌駅に向かいました。



 事件は、これからです。
 ふらつきと視界が暗くなって容易に歩けません。JR車内では、床に座ったまま全く動けなくなりました。保冷剤で頭を冷やしたり、水分の補給をしましたが効果がありません。女性が席を譲りますと言ってくれましたが、動けません。

 札幌駅に着いて、何とかホームに出ましたが、エスカレーターで下まで降りられません。ホームの駅員さんが、心配してくれて担架を持ってきますか、とか、医務室に連絡しますかと言ってくれました。一瞬、パンツを履いていない事を思い出しました。医務室に行ったら、苦しいのでしたら、ジャージを少し緩めましょうか。否、それはまずいです。

 しばらくすると、肘の下から腕がしびれてきて痙攣でペットボトルが握れません。足も付け根から下がしびれ、痙攣と硬直が来ます。今まで、体験したことの無いような不気味な不快感です。
 しばらく、30分位でしょうか、少し動けそうなので、エスカレーターでホームを下り、地下鉄を目指しました。何としても、中島公園まで行かなければ、出発前に預けた荷物をもらわなければなりません。

 しかし、JRタワーの大丸デパートとステラプレイスの間の広い通路の真ん中で再びダウンです。吐きました。水分しか採っていませんが、しこたま吐きました。胃液も全部吐きました。最後にはコーヒー色の液体が出てきました。

 どこかで、見ているのでしょう。JRタワーの女性が吹っ飛んで来ました。「大丈夫ですか。」「大丈夫でありません。」「メディカルセンターに行きましょう。」パンツを履いていません。「ありがとうございます。でも、中島公園に行かなければなりません。」

 「車椅子をお持ちしましょうか」「何とか大丈夫です」「袋の中の物(吐しゃ物)は、処理しますからそのままにしておいて下さい。」「ごめんなさい。ありがとう」お医者さんなのかな、通行人の方も、「頭は痛くないですか」「大丈夫です」心配してくれました。

 典型的な熱中症だと思います。コース上だったら間違いなく救急車でした。その後、何とかタクシーで、冷房を満開にしてもらって中島公園につきました。氷で首筋の頚動脈の部分を冷やして回復しました。

ひどいもので、何も食べていないので、夕食時には嘘のように食欲満点でした。

 札幌の街も捨てたものじゃありません。本当に心配した多くの方に声をかけていただきました。また、迷惑をかけてしまいました。



 これは、もう肉体からの危険信号です。練習不足といった言い訳ではなく、夏の暑い中のレースには耐えることが出来なくなっているのでしょう。予め感じてはいましたが、最後のレースになってしまいました。(後で、熱中症を調べたのですが、結構危ない状態だったと思います。)
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北海道マラソン 2007

2007-09-08 17:52:04 | Weblog
 3週間前に走った「がんばろう夕張マラソンフェスティバル」の会場にあった雪だるま君です。



 明日はいよいよ北海道マラソンです。今年で、21回目の大会になりますが、私は、1993年の第7回大会から出場しています。思えば随分長い間走ってきたなと思います。コースも何回も変わりました。いつも沿道で応援してくださる方もいます。

 台風が通過して、暖かい空気を運んできました。例年より2週間遅い開催ですが、8月最終日曜日とそれほどコンディションは変わらないと思います。

 昼に、パークホテルでゼッケンをもらって来ました。到着が遅れることが予想される本州からの参加者に対して配慮して、受付時間を延長していました。

 昼食は、炭水化物中心ということで、スパゲティでした。明朝は、いつものとおり餅にします。数日前からカーボローディングという食事療法を採り入れています。

 制限時間のきついフルマラソンに出場するのはおそらく最後になると思いますので、今もっている力を出し切って、しっかりと(大きな声の出せない安倍総理の口癖)走ろうと思います。

 「目指せ、ゴールは中島公園」、「ガッツポーズでゴール」のイメージを持って。

 参加される方、お互いがんばりましょう。応援していただける方、ありがとうございます。公道を交通規制して本当に迷惑をかけてしまいます。

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「暴力批判論」 その3

2007-09-07 21:55:17 | Weblog
 釧路市北大通「本のデパート山下書店」、戦争直後、兄弟で無店舗の配達だけの本屋を始めた。その後、それぞれが店を開き、今の場所とは別のもうひとつの店舗は、店の形から「三角山下」と呼ばれていた。

 この規模で、市内で一番大きな書店であったため、本のデパートなどという名前を付けたのだろう。私の通っていた中学校はガラが悪かったため、この本屋に行くと、万引き警戒のためマンマークが付いた。

 帰省のおり、必ず立ち寄るが、いつもお客さんがほとんどいないのが寂しい。昔は、あんなに賑わっていたのに。



 『暴力批判論』(太田昌国著 太田出版 2007年刊) その3

 反グローバリゼーションについて

 著者は、「グローバリゼーションの過程を『暴力』と呼ぶのは、それが不平等な出発点を固定化したまま弱肉強食を原理とした経済秩序を世界全体に押し付けるからである。『原因』を作り出しているグローバリゼーションを不問にしたまま、その『結果』としての暴発や爆発だけ(9.11など)を取り上げて、これを取り締まりの対象とするだけでは済まない。」と述べる。
 
 著者の南アメリカへの思い入れと反グローバリゼーションの可能性は、ひとつは1959年革命以来のキューバ、存命カストロの実践にある。

 例えば、戦争に血道を上げる米国と、米国の巨大医薬資本に抗しHIV治療薬を開発し、低価格で隣人諸国に連帯の手を差し延べ、「エイズ」と戦う小国キューバにオルタナティブを見出す。

 そして、1994年メキシコのサパティスタ蜂起、2005年12月ボリビア大統領に、先住民族アイラマイを出自とする社会主義に向かう運動MASのエボ・モラレスが当選などの動きを評価する。



 著者の思い入れとは距離を置いて、私には、これらの情況に、かつてのチェ・ゲバラのような時代としての輝きを感じない。

 それは、著者が「マスメディア報道においては、明らかに暴論は排除されて、ひとつの流れに沿う考え、意見に独占されている。現代人の精神形成に大きな影響力を行使していると思われるテレビの場合、その傾向が著しい」と言うように、私もその影響を受けているためだろうか。

 まもなく、もうひとつの9.11がやって来る。1970年史上初めて、選挙で社会主義政権を誕生させた、チリで、1973.9.11アジェンデ政権が米国CIAの工作などにより崩壊した。サンチャゴに雨が降る。

 2001.9.11には、その時の怨念が込められている。

 
 
 
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「暴力批判論」 その2

2007-09-04 19:44:58 | Weblog
 釧路駅前の和商市場です。以前は、木造の汚い長屋のような建物でしたが、10数年前に新築されてからは、すっかり観光客向けの近代的な市場に変身しました。

 昔の面影を残していたのは、道路を挟んだ向かい側の「駅前市場」でしたが、数年前に姿を消しました。



 『暴力批判論』(太田昌国著 太田出版 2007年刊) その2

 著者の現在の到達点は以下のようである。(要約した。)

 「民衆の対抗暴力」は、「国家の暴力」がある以上は当然のこと、とする段階に思考の水準を留めず、その先を展開したい。



 私の暴力のイメージは、拳、銃、刃物、爆弾・・と自分の肉体を使うものに限定したい。マスコミ、告訴・・など間接的なものは想定しない。
 私も、むやみな暴力の行使には反対であるが、圧倒的な力による抑圧に対しては、最後の、渾身の、一撃としての暴力行使は留保したい。

 生徒と教師、「信頼関係が構築されていれば体罰も肯定される」などという教師側(権力側)からのおごりある言葉には、最後の手段として、生徒が牢獄の看守のような教師を殴ることを留保したい。

 会社で、度重なる理不尽な上司(権力側)の命令に耐え切れなくなった時は、首を覚悟で横っ面を殴ればいい。

 被差別、非抑圧されて出口のない迷路に入り込んでいる存在の、権力に対する最終手段の行使を留保したい。



 著者の到達点にもどる。

①「敵の先制攻勢がある以上、これに武力で対抗することは不可避で、必然的だ。」に留まってはいけない。それは、「なぜ」「いかにして」「いつまで」という問いを封じ込め、「その選択は暴力の応酬の、無限の連鎖」であるから。

②著者の場合、解放軍、ゲリラ軍、人民軍など第3世界へのロマンティシズムを付与して捉える傾向が強かった。しかし、本来的には、軍の廃絶、兵士のいない社会、戦争のない社会を、未来から展望するという視点を手放さないことが重要。

 これらに到る著者の情況認識としては、ベトナム、中国における革命後の幹部の汚職・不正、ニカラグア革命後の疲れきった民衆の姿、ソ連崩壊後の諦念、この国の民衆の意欲の消失などに、追い詰められているためであろうか。

 かすかな希望は、著者が紹介している考古学者佐原真の、「人類がチンパンジーから分かれた600万年の人類史の中で、推定される最古の戦争は、1万4千年以降のことであり、ヒトの歴史を6mとすると、戦争の歴史は1センチ強にすぎず、「戦うことが人間の本性」とする戦争不可避論は誤り」という言葉だ。


 

 

 

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「暴力批判論」 その1

2007-09-02 16:35:18 | Weblog
 JR札幌駅前の広場のステージを通りかかった時、小気味良いリズムのロックグループが演奏していました。

 「オイルマン」という3人グループですが、ドラムが上手で心地よいリズムを刻んでいました。いい感じのバンドで、元気をもらってしまいました。



 北海道マラソンまで、1週間になりました。数年前までは、この時期になると気持ちが高揚して、普段なら考えられない思わぬトラブル(ケンカのようなもの)が発生していましたが、近年は平常心以下の状態が続いています。 逆に言えば、加齢でそれほど気合が入らなくなったということでしょう。



 本日は、世界陸上女子マラソンで土佐選手の最後の追い込みに感動して、午前中ハーフほど走りました。



 『暴力批判論』(太田昌国著 太田出版 2007年刊) その1

 著者の太田氏は、私と同郷で釧路市出身、南北問題の専門家で、ペルーやボリビアなど南アメリカの情況に詳しい。釧路出身では、長倉洋海氏がいて、彼もアフガニスタンや中東の戦火の中の民衆の表情をテーマにしている。他には、使った手段は肯定できないが、現在は獄中にいる大道寺将司(東アジア反日武装戦線のメンバーで三菱重工業ビルを爆破した死刑囚)も第3世界に視点を置いている点で共通している。

 これらの共通点と、この国の辺境の地、北海道釧路に生まれ育ったことと何か関係があるのだろうか。



 まず、東アジア情勢について、著者の太田氏の見解をまとめる。

 2002.9.17日朝首脳会談について、著者の定めた自分のスタンスは、原則として、感情的、情緒的な反応をしない。「国家」としてではなく、「社会」人として対峙しようというものである。



 2006.10.25北朝鮮の核実験については、反対と抗議を明らかにし、北朝鮮の先軍政治(軍事優先政治体制)を否定している。さらに、北朝鮮に対しては、核の放棄、6カ国協議への復帰を要請する。

 米国には、過去の世界中での軍事介入の教訓を批判的に振り返るべき、休戦協定状態から平和協定に転換することを要請する。

 日本には、在日米軍が北朝鮮に照準を合わせてトマホークを配備している現実を見る、制裁や臨検など米国に加担しないなどを要請する。



 以上の太田氏の見解には、概ね賛同するが、日常的に日米韓軍事共同体制が北朝鮮を包囲しており、共同軍事演習も挑発的に実施されているなど、北朝鮮の異常な体制や行動もそれらの恐怖感から来ていると推測されるので、両者の対峙している構造を早急に解体すべきと考える。
 

 

 
コメント (2)
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