晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

ジェイムス・スーズマン 『「本当の豊かさ」はブッシュマンが知っている』 その2 タランボ SDGs 食レポ    

2022-11-30 15:31:24 | Weblog

右鎖骨骨折のその後④ ケガから3ヶ月が経過した。リハビリ―を初めて半月、肩の可動域は日に日に拡大しているが、ここにきて我流ストレッチが壁に当たっているようだ。少しハードにすると、翌日はかなり痛い。マッサージをして、ストレッチを繰り返しているのだが。整骨院にでも行ってみようかな。

 

『「本当の豊かさ」はブッシュマンが知っている』(ジェイムス・スーズマン著 NHK出版局 2019年刊) その2 タランボ SDGs 食レポ    

ブッシュマンの自然観、すなわち彼らは自然をどのように捉えているのだろうか。彼らは「無理な見返りを要求せずに、環境が自分たちの望むものすべてを与えてくれることに満足している」(P58)。「狩猟採集民の考えでは、環境は自発的に生産する力がある。それは狩猟採集民がいてもいなくても関係ない」(P158)という。狩猟採集民は、自然が持つ復元力以上に自然を収奪しないという原則を持っている。非常に抑制的といっていいだろう。

上記の自然観が継承されていると思われる慣習が身近にもある。この強欲溢れる社会にあって、稀有な例だろう。僕の楽しみのひとつに春の山菜取りがある。タラの芽(タランボ)を採るに際しての暗黙のルールがある。それは「芽を全部採ってはいけない」ということだ。次の年のために芽を残しておかないと木が枯れてしまうからだ。一時の欲に溺れると、その幸せは長続きしないということだ。

まさに持続可能な社会を目指すためだ。SDGsをスローガンにマスコミはキャンペーンを張る。資源を絶やさないために節度をもって活用するべきと、節電術などが説かれる。だが、その同じテレビでは朝から深夜まで一日中グルメ番組が垂れ流されている。タレントや局アナが総動員されて彼らは何を食っても「美味しい」という言葉しか発することができない。さらに、一口か二口しか食べないで後は残している様子なのだ。食品ロスを減らそうと言っている同じ口で。言葉の貧しさを感じる。彼らもきっと本意ではないのだろう。目的は視聴者の脳髄を刺激して、需要を無理やり喚起することにあるのだろうから。

「本当の豊かさ」とはどういうものなのだろうか。

 

 

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ジェイムス・スーズマン 『「本当の豊かさ」はブッシュマンが知っている』 その1 

2022-11-26 13:58:16 | Weblog

2022.11 今日この頃。国家なき社会を追い求めている僕にとって、国のフラッグを掲げて戦うワールドカップやオリンピックには、いつもながら熱くなれない。反対に醒めてしまう。多様な出身地の選手で構成される地域のクラブチームは、コンサドーレをはじめとして応援し甲斐がある。国技とされている大相撲も、国のためなどではなく力士たちが稽古を積んでぶつかり合う姿に見入ってしまう。

 

『「本当の豊かさ」はブッシュマンが知っている』(ジェイムス・スーズマン著 NHK出版局 2019年刊) その1 晴走雨読 欲望の資本主義 電通       

「本当の豊かさ」とはどういうものなのだろうか。自分に引き合わせて考えてみれば、一言でいうと「時間」だ。労働や家事、雑事など義務的に費消する時間が極力少なく、「晴れた日には、ランニング、雨が降れば読書」と、気ままに使える時間が多いことが僕の考える「豊かさ」だ。

少し観点が異なるが本書で著者は、「労働が私たちの生活の形を作って意義を与え、“私たちは何者か”を定義する」と述べ、働くことが私たちの存在を意味づけるのだという。労働することの重要性、おそらく労働のやりがい、労働を通じて生きがいを感じているかなどがポイントと述べる。だが、現代においては「人々が仕事に取りつかれており」(P376)と、労働のあり方が異常で、労働に対する考え方が本来的なところからズレてしまっていることを指摘する。

このような問題意識を持って人類学者である著者は、ブッシュマンたちが今なお持ち続けている思想に学ぼうというのである。もちろん、ブッシュマンとて現代の文明社会の中で生活をしているのであるから、昔からの狩猟採集生活だけをしているわけではなく、「彼らは現代国家の一国民であると同時に国家への完全な参加から除外され古代の狩猟採集民の技と精神をもらって、近代化にかかわらなくてはならないのだ」(P41)と述べ、彼らの現実的な生活とは別の、彼らの精神の中にあり続けているものの考え方、物事の捉え方について学ぶことができるという。

では、彼らの考え方を見る。「狩猟採集民はすでに手にしているものより多くを望まないというシンプルな方法によって満足している」(P31)。また、「叶うはずがない願望に支配されない」(P32)と、節度を持つことを基本におく。これは、個人では使いきれないほどお金があってももっとほしい、儲けるために儲ける、欲望が欲望をよぶ「欲望の資本主義」に対する警句だ。「足るを知る」という言葉が彼らの考え方を表す言葉としてふさわしいと思う。

「本当の豊かさ」とはどういうものなのだろうか。巷で話題になっている東京五輪汚職事件。逮捕された元電通の高橋某など、80歳にならんとしているのになぜあそこまで金を欲しがるのか。個人で使う限度を超えていても、金をせしめるために次から次と口利き、談合、中抜きを重ねて私腹を肥やした。歯止めのかからぬマネーゲーム。ブッシュマンの考えからは一番遠い所にあるのだろう。

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右鎖骨骨折のその後③  リハビリ― 祈り 菜園 感謝

2022-11-15 15:52:41 | Weblog

大臣の辞任が続いていて内閣支持率も下降。マスコミの論調もキシダはもう終わりだと言わんばかり。僕はキシダでいいと思う。力が無くて何もできないところが彼のいい所なのだ。当然、憲法を変える力など持っていない。そこだけが救いだ。想像してほしい。キシダを降ろした後に出てくるのは誰か?河野、萩生田、茂木、西村、高市、稲田、林、小泉、福田、そして菅・・ロクなのがいないだろう。

 

右鎖骨骨折のその後③   リハビリ― 祈り 菜園 感謝  

11月9日(水)、整形外科でレントゲンのあと受診。骨は繋がったので通院は今日で終了。硬くなった関節の可動域をストレッチで戻すようにと言われた。いわゆるリハビリ―。ここまでケガから10週かかった。現状は駐車場で駐車券を取ることができないレベル。伸ばすと痛いし時間はまだ少しかかりそうだ。でも今年の初雪は未だなので、雪が降る前にランニングを再開するぞという目標に何とか間に合いそうだ。

この間、医師の指示どおり処方されたツムラの漢方薬「治打撲一方」を飲んで、湿布と固定帯を装着。さらにカルシウムを摂る、その吸収を良くするためビタミンDを摂取して、極力日光に当たる。あとは痛みに耐え、じっと右腕を動かさない時間が続いた。

だが、痛みが取れなかったり、治りが遅く感じたりした。なかなか自分の思いどおりにならない、自分の力ではどうすることもできないことに直面したとき、人は何かにすがろうとし、何ものかに対して祈り願うのだということをあらためて感じた。無信教者の僕には、釈迦も、キリストも、マホメットも不在だが、何か頼りたいもの、頼らざるを得ない何かの存在が自分の中に出現した。それが神というものか何なのかはわからない。

僕はこう考える。宗教そして信仰は、超能力を持った何者かが悟りを開いて作り上げた教義を信じるところから出発するのではなく、もっと何の因果か運の巡り合わせか、自分及び自分たちが出来事に対して、空を仰いだり、地面に跪いたりしながら、願いがかなえるために何ものかを見出し、その何ものかに祈ることしかできないところから始まったのではないか考える。

もう一つ、ケガをしたため秋にできなかったことがある。例年、ミニトマト、シシトウ、インゲン、ズッキーニ、ネギを実らせてくれた畑への感謝の気持ちを持って、収穫が終った菜園を耕し直して、土に栄養を摂ってもらうために腐葉土と肥料を撒き寒くて長い冬に備えてもらっていた。これは僕の中では、収奪し尽した畑に対するお礼と、来年も美味しい野菜がたくさん収穫できるようにとの願いを込めた祈りのような儀式なのだ。だが、今年は鍬もスコップも使えないので、表面に撒いただけで終わらせた。来年の出来、不出来は畑が答えを出してくれる。

 

 

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右鎖骨骨折のその後②  釧路南大通商店街 

2022-11-03 11:48:06 | Weblog

国際競技連盟(IF)などが2030札幌五輪・パラ会場変更を求めている。スピードスケートもフィギュアも札幌で開催できない可能性が生じた。(道新10.30)市民の税金を投入する意義がますます見えなくなった。疑問がある。札幌市議会民主市民連合(立民系)が秋元与党として今に至っても自公と共に招致活動に賛同していることだ。市民感覚とずれていて、来春の市議選で有権者から見放されること必至!

 

右鎖骨骨折のその後②  釧路南大通商店街  

僕の骨折も突然のことだったが、クロは小学校3年生のお正月明けに我が家に突然やって来た。生後10日位に見えたので誕生日をクリスマスイブの12月24日にした。

さて、何を食べさせたらいいか、我が家は大騒ぎ。上品過ぎたのかパンに牛乳を浸したのは全然食べない。それで、残っていたご飯に味噌汁、魚の骨を加えたらポリポリと美味そう。すでに母犬と同じ犬まんまを食べていたのだろう。以後、我が家の生ごみ処理を任せることになった。

父の話では、兄弟(姉妹)犬は数匹ほどいたが、その中で一番「きかんぼ」を選んだと。道理で母犬に怒られてかじられたのか片耳の上の部分が欠けていた。その後、家族の一員として順調に育ったが、やはり四つ目ワンコはきかない。近所の犬とケンカしても無敵だった。

クロが生まれたのは南大通の商店街。祖父母は呉服屋を営んでいたが、隣は楽器屋さんで、近所には、果物、お餅、帽子屋さん、ハイヤー会社、サイダー工場、お蕎麦屋さん、日用品ストアー、映画館、・・が並んでいた。母犬と一緒にリヤカーを曳いて来てくれるおばちゃん魚屋さん。

隣近所でお互いが買い物をし合う関係があった。付き合いで買いこともあったとだろう。子どもたちは店と店の間のわずかな空間で、ビー玉やパッチで遊んだ。小さな共同体が成り立っていた昭和の良き時代だ。その後、店主たちは高齢化し、後を継ぐ者も減り、また郊外に大型スーパーが進出してくるにつれ、櫛の歯が欠けるように閉店が続きかつての街は消えてしまった。

自営業を営んでいた人たちが減少し、勤め人化していったのは全国的な傾向だ。地域のコミュニティが壊れてしまい、人と人のつながりが希薄になり、困った時に頼るサービスにはお金が必要になってしまった。

 

 

 

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