晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

滝口悠生 『高架線』 西武池袋線 アパート

2022-12-28 15:32:53 | Weblog

在野の近代史研究者である渡辺京二氏が92歳、老衰で亡くなった。近著『小さきものの近代Ⅰ』(弦書房 2022年7月刊)では続巻への意欲もみせていたのにとても残念だ。僕にとっては『逝きし世の面影』から受けたインパクトが強く、江戸時代の封建的で遅れた社会というイメージが、文化や芸術、技術が発達し人々が幸せに暮らしていたという認識に一新された。ある面、これはそれまでの蒙昧だった文明が明治年間で進歩、発展してこの国の基礎が築かれたという司馬遼太郎史観批判なのだ。

 

『高架線』(滝口悠生著 講談社 2017年刊) 西武池袋線 アパート 

僕は小説をほとんど読まないのだが、滝口悠生氏の『水平線』が書評で評価されているので近くの図書館へ。案の定、人気があって貸し出し中だった。代わりに、同氏の『高架線』を借りる。

読み始めるとなぜか一気に読ませてしまう妙な勢いを感じさせる小説だ。数ページごとに登場人物が変わり、その語りの出だしは必ず「ヒロシです・・・」のような感じで、その人の想いを語り始める。会話文なのにカッコ(「 」)を使わず、行変えもしないでリズムよく一気に怒涛のごとく言葉を発する。

さて、この奇妙な物語の仕掛けは、古いアパートの一室と少し変わった大屋さんが作ったルールがポイントなのだ。それは、借りている人がその部屋を出る際には必ずその人が次の入居者を見つけなければならないというものだ。それによって、この物語の特徴である人と人のつながりが生まれてくる。チェーンメールのように友人から友人へ、その仲間から仲間へ、その知人から知人へと、人と人が繋がってそこでは因果がつながりつづけるのだ。

著者が設定した時代は平成なのだろうが、何故か昭和の匂いを感じた。場所が西武池袋線沿いというのも、40数年前に友人が住んでいたので土地の風景を思い出させてくれる。大型ビルのような高層の建物がなく2階建てのアパートが平らな土地にどこまでも並ぶ。池袋、東長崎、椎名町、大泉学園・・懐かしい駅名の響きだ。

本書を読みながら僕は既視感を覚えた。同じ場面をそれぞれの登場人物が各自の記憶から表現し直すと違った光景になる。芥川龍之介の『羅生門』のように。

もし作者の文章リズムが僕に乗り移ったとしたらこんな感じになる。

「○○ヒロシです。そうだ。トワイライトエクスプレスに乗って関西行こうと思いたち職場に休暇届を出したのに、当日の朝のニュースで大雨のため土砂崩れが発生し羽越線が不通になったと知った。じゃ仕事に行こうかな、いや休んじゃお。その日の夜は丁度豊平川の花火大会があるので夕方まで映画でも観ようと決めた。題名の方はすっかり記憶から消えてしまったが、その映画は人と人とが繋がっていて、『羅生門』のように同じ場面を登場人物それぞれの視点から映像化していた。

この小説は、人間の生態を描いている。人はそれぞれ相互に他者との関係を築きながら、時間と空間の中を生きている。誰かと出会い、誰かと別れ、その誰かがまた誰かと因果で繋がっている。『水平線』を読みたくなった。

 

 

 

 

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『吉本隆明 廃墟からの出立』没後10年特別展 北海道立文学館 クラーク会館 アテネ書房 

2022-12-22 16:24:03 | Weblog

いつ頃からなのか、マスコミ各社が発表する毎月の世論調査に一喜一憂するようになったのは。大衆は問われれば、受益が多く負担が少ない選択肢を答えるに決まっている。それが積もり積もって1,000兆円を超える国債残高になってしまった。国家は打ち出の小槌ではない。「負担を次世代に先送りしない」ではなく「現世代の責任において」解決すべきだ。

 

『吉本隆明 廃墟からの出立』没後10年特別展 北海道立文学館 クラーク会館 アテネ書房  

没後10年 特別展 『吉本隆明 廃墟からの出立』が、北海道立文学館特別展示室で2022年10月29日から2023年1月9日まで開催されており足を運んだ。

氏の生涯を年譜に沿って写真、原稿、ノオト、著作などが展示されている。出生から戦中、戦後、特に敗戦直後の廃墟にあって氏が直面した精神の危機、そこからの出立までを重点としたことがわかる。そのため、後の代表的な3部作『言語にとって美とは何か』、『共同幻想論』、『心的現象異論』を発刊した頃のことは、次回があるかどうかはわからないが次回でということになるのだろう。

僕はこの企画が東京をはじめ全国のどこでもなく唯一この北海道で開催されたということに意義があると思う。どうしてなのか。それは、非常によくできた図録で明らかになる。図録に載せられた文章から北海道には氏と縁のある方が随分おられることがわかった。実際に行われた吉本氏の講演は札幌と滝川での2回だけにもかかわらずだ。

図録に、谷口孝男氏と盛昭史氏が1976年5月10日北海道大学クラーク会館における講演について書いている。そして僕もその場にいたのだ。また盛氏はアテネ書房の店主からチケットを勧められたとしているが、僕はどうして手にいれたのを覚えていない。一緒に行った友人が持っていたのかも知れない。50年近く前の極私的体験を共有できる人がいたことを嬉しく感じる。

吉本の思想は、対象とする範囲が幅広くまた考察も誰もなしえていない孤高さと奥深さを持っているので、とてつもなく難解なところもあり、それぞれが受けた影響も各自各様だと思う。ただ、この北海道に今現在も強烈なインパクトを残していることは確かなのだ。

(参考)なお、1976年5月10日のことは、これまでも何回かこのブログに書いた。(①2015.8.30、②2015.5.16、③2014.12.24、④2012.2.12ほか)

 

 

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ジェイムス・スーズマン 『「本当の豊かさ」はブッシュマンが知っている』 その3 

2022-12-14 15:25:33 | Weblog

2022年はどんな年だったかと総括すると、「矛盾と不条理」の一年だったとなるのではないか。人々が戦いで死んでいくのに止めさせることができない。ウィルスという見えない敵と闘い続けて3年。政治に権力が集中していながら哲学を感じる政治家が不在。まだまだたくさんある。そんな中であえて「夢や希望」は求めようとは思わないが「本当の真実」を追及したい。

 

『「本当の豊かさ」はブッシュマンが知っている』(ジェイムス・スーズマン著 NHK出版局 2019年刊)その3 

「本当の豊かさ」とはどういうものなのだろうか。

ブッシュマンは、支配―被支配の関係や権力が発生する原因を極力抑制しようとする。これは、僕らが今生きている社会とは正反対の価値観を示している。僕はここから得るものがあると考える。

以下は、そのための作法だ。「成功を収めた狩人は、獲物を差し出すときにあくまでも謙虚に申し訳なさそうな態度を示すことが求められ、決して手柄を自慢しない」(P261)。「贈与は個人の絆を再確認する行為でつねに返礼を期待されるが、その場ですぐにというわけにはいかない。すぐ行われれば物の直接交換(取引)になるためだ。贈与という行為に喜びを感じている。富や権力の誇示ではない」(P275)。

農耕社会、すなわち穀物栽培が始まると、「余剰は権力と支配の源になる」(P263)。「私有財産を不必要に増やしたり、生産と分配を支配したりしたいという欲望こそが問題なのだ」(P275)。そして嫉妬する気持ち(アイツばかりがという)が積極的な意味を持つ。「嫉妬という「見えざる手」(スミス)が不平等を軽減させた」(P272)。「自己利益がつねにその影の部分や嫉妬によって規制され、嫉妬によって確実に公平な分け前を全員が受け取れるようになっている」(P270)。

著者は、現代が「人々が仕事に取りつかれて」(P376)いる異常な事態と述べる。では、ブッシュマンの労働観はどうだろうか。「彼らが際限のない食料探しに夢中にならず、いちばん厳しい月であっても必要以上の労力を費やさずに、短期的に最低限のニーズを満たすという暮らしを受け入れている」(P169)。これが自然の中で生きていく術になっている。「狩猟採集民は低リスクのやり方で暮らしを立てている。多くの異なる食料源に頼ることでリスクを分散して入り、そのため定期的な干ばつや洪水などに対応して絶えず変化する環境を活用できる」(P304)。

最後に、訳者はあとがきでこう述べる。「ブッシュマンは、南部アフリカでいにしえの時代から近年まで、狩猟採集で「よい暮らし」を送ってきた。彼らは、自然の摂理を信頼し、生きとし生けるものが共存する大地で育まれるものを利用して、衣食住をまかなっている。暮らしに必要なものはすべて周囲の自然環境から得られるため、長時間労働したり、過剰な狩りや採集をしたり、将来のため備蓄したりすることなく、必要なとくに必要なものを必要なだけ利用する生活に満足していた。争いごとを避け、平等で対等な人間関係を大切にしてきた」(P376)。

 

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『高等科 國史』(復刻版) NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』 小栗旬 皇国史観 承久の変 

2022-12-04 10:31:40 | Weblog

「安倍元総理のご遺志」という言葉が勝手に解釈されながら独り歩きしている。これはアベ亡きあと力を持った政治家が不在であることの表れなのだろう。水戸黄門の印籠でもあるまいし。そのうちに統一教会の創立者文鮮明の「お言葉集」のような『安倍晋三語録』が刊行せれるのではないか?

 

『高等科 國史』(復刻版 三浦小太郎解説 ハート出版 2021年刊) NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』 小栗旬 皇国史観 承久の変    

今年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も終盤になってきた。今回の脚本を手掛けた三谷幸喜のシナリオも楽しい。特に、今の言葉を使っての会話場面は新鮮だ。

戦前の教科書『高等科 國史』を読んだ。本書は、日本の歴史が万世一系の天皇を中心として展開されてきたと考える歴史観、いわゆる皇国史観の視点から書かれている。放送中のドラマのストーリーとは随分違うことに驚く。

関係部分を以下に引用する。元々は漢字カタカナ交じり文、旧字、旧仮名遣いだが、復刻にあたって漢字ひらがな交じり文、新字、新仮名遣いに改められている。それでも言い回しや漢字が難しく随分と読みにくい。戦前の中学1,2年生はレベルの高い教育を受けていたのだと思った。以下、(*)印は僕の補足。

 

「第六 京かまくら ニ 承久前後」(P88~P93)

㊀後鳥羽上皇(*尾上松也)

頼朝(*大泉洋)薨(こう)じて、長子頼家(*金子大地)が後を継いだが、まだ年少であったため、母政子(*小池栄子)と外祖父時政(*坂東彌十郎)が政治を輔(たす)けた。この間、朝廷は、鎌倉の形勢を憂えさせられ、幕府が頼家に対する将軍宣下を奏請した際にも、容易にこれを聴許あらせられなかった。(*朝廷=天皇家の方が上位にあることを示している。)

やがて頼家は廃せられて、弟実朝(*柿澤勇人)がこれに代り、次いで、頼家が時政に弑(しい)せられた頃から、幕府の実権は、全く北条氏に移った。時政は、執権として幕府の機務を統べ、その没後、子の義時(*小栗旬)が執権職を継いだ。義時は、更に和田義盛(*横田栄司)を滅して、侍所の別当を兼ね、兵馬の権をも掌中に収めた。やがて、頼家の子公暁(*寛一郎)が、実朝を父の仇と思い謝り、承久元年(一八七九)(*年代は皇紀で表されている。)、これを鶴岡八幡宮の境内に弑(しい)するに及び、源氏は、鎌倉の主たること僅かに三代二十八年で亡びた。(*最近放映された箇所だ!)

源氏の正統が絶えたにもかかわらず、北条氏は、なお武家政治の継続を策し、僭上の沙汰に及んだ。義時は、幕府存続の根拠を得るため、使節を上洛せしめ、後鳥羽上皇(*尾上松也)の皇子を将軍に奉戴しようとしたが、朝廷では、もとより聴許あらせられなかった。かくて義時は、窮余の策として、頼朝の遠縁に当る年僅か二歳の九条頼経を迎え、上を軽んじ奉り世をあざむいて、武家政治の全権を握るに至った。

かかる情勢の推移を痛憤し給うたのは、後鳥羽上皇であらせられる。(*北条氏が朝廷を重んじていないことを批判、評価が非常に低いことがわかる。)

 

㊁承久の変

上皇は、鎌倉の不信をみそなわし、頼経に対する将軍宣下を差し控え給うたが、なおも義時の専横が募るに及んで、順徳天皇と御共に、いよいよ朝権回復の御素志の実現を図らせられ、断乎倒幕の御計画に出でさせ給うた。順徳天皇が、俄に仲恭天皇に御位を譲り給うたのも、倒幕に専念あらせられるためであった。かくて、承久三年(一八八一)五月、流鏑馬揃えに託して諸国の兵を徴され、先ず京都の守護を攻めてこれを誅し、次いで、義時追放の院宣を下し給うた。(*朝廷VS幕府=北条氏)

この計画が鎌倉に伝わると、義時は政子と共に、直ちに家人を集めて去就を促し、泰時らをして、大軍を率い西上せしめた。かくて賊軍京都に入るや、泰時は、勤皇の公卿を捕らえ、鎌倉へ護送すると称して、途上にこれを殺した。又、幕府恩顧の家人で、官軍に馳せ参じた武士を、弓馬の道にもとる者とし、これを京都の山中で斬った。(*朝廷に逆らう北条泰時は賊軍、非道の人物として記述される。)

しかも北条氏は、恐れ多くも後鳥羽上皇・順徳天皇の遷幸を奏請し、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ御幸あらせられた。土御門上皇は、倒幕の御事に御関係なく、幕府も何ら奏請しなかったが、御孝心厚くまします上皇は、独り都に留るに忍びずとて、御心のまにまに土佐に御幸あらせられ、やがて阿波に遷らせ給うた。三上皇遷御の御事は、実に史上空前の異変で、北条氏の僭上無道は、憎みてなお余りある。

三上皇のその後の御生活は、申すのも恐れ多いことながら、土御門上皇は十一年、後鳥羽上皇は十九年、順徳上皇は二十二年、天さかなる鄙、煙波遥かな孤島に憂き歳月を過し給い、還御の御望みも空しく、遂にその地に崩御あらせられたのである。(*三上皇を島流しにした北条氏は朝廷に憎まれ、恨みを持たれる。)

変後、北条氏は、更に勤皇の朝臣・武士の所領三千余箇所を没収して、これを論功行賞の具に供し、賊軍に参加した家人を、新たに地頭として配置した。かくて、地頭の力は著しく拡大され、武家政治の基礎は、一段と強化された。又、京都に六波羅探題を設け、京都の警備を命ずるとともに、三河以西の政務を掌らしめた。(*承久の変の勝者北条氏の独断的な政治を批判する。)

幕府の開設に参画した三善康信(小林隆)・北条義時・大江広元(栗原英雄)・政子らは、変後数年の間に、相次いで没した。しかし、既に家人の懐柔に成功した幕府は、いささかの動揺をも示さなかった。泰時がやがて執権になると、貞永式目を制定して(一八九二)、武家の統制をいよいよ強固ならしめ、次いで執権時頼は、幕府の威厳を増すため、摂家将軍を廃して、親王将軍を迎える先例を開いた(一九一二)。しかも、その後、歴代執権の親王に対し奉る態度は、とかく不遜に亘ったのである。(*北条氏の執権政治は朝廷にとっては不遜そのもの。)

 

(参考)『高等科国史』について。

1941(昭和16年)3月の国民学校令の施行により、尋常小学校・高等小学校は国民学校初等科・高等科に改組され、1944(昭和19年)4月から義務教育が高等科(今の中学1,2年に相当)まで延長されることとなった。国史については、『初等科国史』を平易な物語調の文体とした。『高等科国史』では、文語体が混用された高度な文章となった。

しかし、戦況の悪化により高等科の義務教育かは延期となり、1944(昭和19)年4月から高等科生徒の勤労動員が本格化した。1945(昭和20)年4月には高等科の授業も停止された。そのため、『高等科国史』上巻はほとんど授業で使用されず、下巻は発行されないままだった。本書は、この幻の教科書の復刻版である。

 

 

 

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